ノーベル賞の大村氏、小谷家保存にも貢献
ゆかりの館山からも喜びの声
(房日新聞2015.10.7付)‥⇒印刷用PDF
今年のノーベル医学・生理学賞に輝いた大村智氏は、美術を愛する科学者としても知られる。洋画家・青木繁が「海の幸」を描いた館山市布良の小谷家住宅の保存を目指す「NPO法人青木繁『海の幸』会」の理事長も務めており、ゆかりのある館山からも喜びの声があがった。
「賞の候補になっていることは知っていたが、テレビのニュース速報を見てびっくり。夫婦で『やったー』と喜びあった。小谷家保存の応援団長で、当家にとっても大変な名誉。本当にうれしい」。現小谷家当主の小谷福哲さん(64)は喜ぶ。
大村氏は、私財を投じて美術館を開設するなど美術への造詣が深く、美術関係者によって立ち上げられた同NPOの理事長に平成21年に就任、小谷家の保存にも力を尽くしている。
「温厚で思いやりがある方。小谷家住宅保存の旗振り役で、テレビで『人のためになることを』と紹介されていたが、まさにその通りの人物」とたたえる。
館山には数回訪れており、25年には保存に向け300万円を市にふるさと納税で寄付。昨年8月にはオマージュ展と修復が進む小谷家を視察している。
その際、小谷家を案内した地元保存会事務局の愛沢伸雄さん(63)は「『(保存に向けた)お金を集める呼び掛けはするので、地元で保存活動を頑張ってほしい』と声を掛けていただいた。地域の文化財を守り、活用する取り組みを応援してもらいうれしかった」。
「気さくでフランクな方。有名な先生とは知っていたが、ノーベル賞とは。驚きました。心から祝意を伝えたい」と祝福する。
小谷家は今年度末に修復を終え、来年4月に公開予定。「オープンの日は大村先生に館山に来てもらいたい」。実は愛沢さんは昨年夏の段階に大村氏に打診。予定が空いていた4月24日をオープン日に決め、大村氏の手帳に直接書き込んでもらっている。
「ノーベル賞受賞で忙しくなってしまうと思うが、ぜひ館山に来てもらい一緒にオープンを祝ってほしい」と期待していた。
【写真説明】昨年8月のオマージュ展に館山を訪れた大村氏=館山コミセン
ノーベル医学生理学賞を受賞しました!
日本で最初に重要文化財となった青木繁「海の幸」は、1904年館山市布良の小谷家滞在中に描かれました。布良は画壇の聖地と呼ばれ、大村智先生を筆頭に全国の美術家が、青木繁「海の幸」誕生の家・小谷家住宅の保存運動を展開しています。来春の公開に向けて、修復中です。館山市ふるさと納税の小谷家保存事業を指定した寄付にご協力頂けると幸いです。
http://www.city.tateyama.chiba.jp/kurashi/cate000115.html
日本民俗建築学会・公開シンポジウム
『房総半島から 太平洋岸に ひろがる分棟型民家の 分布を考える』
※詳細はこちら‥⇒印刷用PDF
1.日時:2015年10月17日(土) 10時15分〜16時
2.会場:千葉県立房総のむら 千葉県印旛郡栄町龍角寺1028 ☎0476-95-3333
3.テーマ:「房総半島から太平洋岸に広がる分棟型民家の分布を考える-カマドを分離した日本の民家-」
4.見学解説会
・房総のむらの分棟型再現民家「安房の農家」
・分棟型の遺構を残す重要文化財「旧御子神家住宅」等
5.シンポジウム〜旧学習院初等科正堂にて
・基調講演 「安房の分棟型民家」日塔和彦(元東京藝術大学客員教授・館山市文化財審議委員)
・報告①「九州の分棟型(別棟)民家と沖縄・南西諸島の民家」原田聰明(熊本大学非常勤講師)
・報告②「東海地区の分棟型釜屋建民家」中村利夫(静岡県文化財建造物監理士)
・パネルディスカッション
地域の歴史を掘り起こすことで国際交流を推進/NPO法人安房文化遺産フォーラム
無印良品サイト「ローカルニッポン」で
NPO法人安房文化遺産フォーラムの取組が紹介されました。
⇒‥http://localnippon.muji.com/news/1217/
文化歴史〜戦跡考⑥
赤山地下壕跡
ツルハシで掘削、目的不明
(読売新聞2015.9.30付)‥⇒印刷用PDF
地下壕の壁面や天井は、地層のしま模様が鮮やかだ。壕が掘られた丘陵は、かつて海底に堆積した砂岩や泥岩でできている。「もろい砂岩はダイナマイトを使うと崩れてしまう。だからツルハシで掘られました」。無数に残るツルハシの跡を懐中電灯で照らしでガイドの男性が説明すると、ガイドから感嘆の声が上がった。
千葉県館山市の館山海軍航空隊赤山地下壕跡は、2004年4月から一般公開され、毎月第一日曜日には、NPO法人「安房文化遺産フォーラム」の会員によるガイドが行われている。
確認されているだけで延長1.6キロに及ぶ壕が、いつ、何の目的で掘られたのか。確かなことは不明だ。資料がほとんど残っていないからだ。壕内には、発電施設や病室、電信室もあったとされ、戦争末期には、海軍航空隊の防空壕として使われていたとされる。
軍による大規模地下壕は、松代大本営(長野市)や日吉台地下壕(横浜市)のように、本土空襲の脅威が増してから掘られたものが知られている。だが、赤山地下壕は、1941年の真珠湾攻撃前から工事していた、という地元住民の証言がある。同法人の愛沢伸雄代表(63)は、「気密性が高い任務のため、開戦前から準備されていたのでは」とみる。
館山は軍都だった。東京湾の入り口にあり、館山海軍航空隊のほか、東京湾要塞の砲台、海軍砲術学校なども置かれた。今でも、市内の各所に砲台跡や飛行機の掩体(えんたい)壕などが残り、その名残を伝える。
戦後、赤山地下壕跡は放置され、キノコ栽培に使われた時期もあった。高校教師だった愛沢さんが、95年の戦後50年にちなんで地域の歴史を学ぶ教材を探す中で価値に気づき、保存を呼びかけ始めた。愛沢さんは壕とは別に、市内にある戦国大名の里見氏が居城とした稲村城跡の保存運動にもかかわってきた。「戦争遺跡も里見の城も、人類が生んだ文化財という意味では同じ。二つを同時に進めたからこそ価値を発信できた」と言う。壕は05年に市の史跡に、城跡は12年に国の史跡に指定された。
現在、市は「館山歴史公園都市」を掲げ、赤山地下壕跡や稲村城跡など市内の歴史遺産をネットワーク化し、観光資源にする取り組みを進める。壕の見学者数は昨年度、過去最高の2万4028人に達した。市の調査では、同市を訪れる観光客の目的はここ数年、かつてメインだった「海水浴」を「文化財見学」が上回り続けている。
「戦争遺跡は、ただ残すだけでは研究者や物好きしか来ない。地域が磨きをかけてこそ意味がある」と愛沢さん。日本中に残る「負の遺産」は、活用の仕方次第で地域の宝に代わる可能性を秘めている。
(清岡央)
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布良沖の惨劇、新事実報告、「赤山地下壕」でも新事実
戦争遺跡保存全国シンポジウム
(読売新聞2015.9.7付)‥⇒印刷用PDF
戦争遺跡保存全国シンポジウム特別分科会「米占領軍の館山上陸と直接軍政/証言者のつどい」が6日、館山市内で開かれた。同市布良沖で撃沈された潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇を巡り、惨劇の概要が新たに判明したことなどが報告された。
撃沈を証言したのは「民防空富崎監視哨」の哨員だった豊崎栄吉さん(86)(同市布良)。「撃沈から生還した士官の回想手記が最近見つかり、発生日が1945年5月29日で、船種は練習駆潜特務艇とわかった。救助には地元民が大勢かかわった。犠牲者を慰霊したい」と黙とうをささげた。
また、同市宮城の地下要塞「赤山地下壕(ごう)」建設で退去させられた青山学院水泳部合宿について、同学院高等部の佐藤隆一教諭が「軍からの退去勧告は41年9月」とする新資料を紹介、議論がある同地下壕の建設開始時期に一石を投じた。
同シンポは戦争遺跡保存全国ネットワークなどの主催で5日に全国から約350人が参加して閉幕。6日の特別分科会は館山シンポ独自の行事で、地元市民ら8人が証言した。
昭和の爆笑王 林家三平 いま明かされる戦争秘話』
BS朝日
2015年9月20日(日) 21時00分〜22時54分
初代林家三平は、本土決戦迫る九十九里で塹壕堀に従軍していたという。
房総半島の本土決戦体制はどういう状態だったのか、
NPO法人安房文化遺産フォーラムは取材に協力し、
館山の戦争遺跡や、証言者として、
動員され壕の掘削作業に従事した会員の西村榮雄さんを紹介した。
・番組詳細はこちら2015年9月20日(日) 21時00分〜22時54分
‥⇒http://www.bs-asahi.co.jp/sensou_hiwa/
館山病院で戦後70年企画展
米軍と館山市民の友好窓口
英会話教室の写真など紹介
(房日新聞2015.9.19付)‥⇒印刷用PDF
館山市館山の館山病院ギャラリーで、戦後70年の企画展示が始まった。終戦直後に本土で唯一の直接軍政が敷かれた館山で、医療活動の窓口となった同病院は、米軍と市民の有効に大きな役割を担ったとされ、院内を視察する米軍や英会話教室など市民との交流を示す貴重な資料が展示されている。10月3日まで。
主催するNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表によると、館山病院は軍政下で医療活動の中心となり、当時副院長で代表だった川名正義は市民代表として米軍との交渉役も務めた。
館山に上陸した米軍は、当初混乱も予想していたが、同病院での医療活動や川名氏との交流を通じて、館山は平穏で市民も友好的であると理解し、米軍と市民の良好な関係が築かれたという。
当初病院長だった穂坂与明氏の二男・俊明さん(89)=同市館山=は「終戦直後、家に兵隊がやってきたのを覚えている。父親は臆することなく、英語で対応していた。その後はたくさんの米兵が遊びに来た」と交流ぶりを語る。
昭和20年10月ごろには病院内に英会話学校も開設された。元館山市教育長で当時、西岬村東小学校の教員だった高橋博夫さん(87)=同市沼=は教室に通った一人。
「自宅の近くにいた米兵と会話がしたくて3回ほど通った。米軍と市民が交流するための教室で、米軍の通訳は日本語がうまく、とても友好的だったね」と振り返る。
展示会では、英会話教室に携わった米軍の通訳、将校を病院関係者が囲む記念写真や米軍兵士に病院内を案内する川名氏など当時の写真、資料約40点が展示されている。
愛沢代表は「館山病院を通じて米軍は、館山市民、日本人の友好ぶりを知った。その後の米軍占領政策にも大きな影響を与えたのでは。日本が戦後、平和なスタートを切るきっかけとなった病院が地域にあることを多くの人に知ってもらいたい」と話している。
戦後70年、特攻操縦ペア再会
旧日本軍兵器「海龍」
10か月訓練「夫婦より強い絆」
(読売新聞夕刊2015.6.27付)⇒印刷用PDF
太平洋戦争末期、旧海軍が特攻兵器として開発した2日とのりの特殊潜航艇「海龍※」でペアを組んでいた元搭乗員が今月、終戦以来の再会を果たした。特攻隊員として、死と隣り合わせの日々をともに過ごした2人は「70年間どうしているかと思い続けていた」と健在を喜び合った。
(清水健司)
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再開したのは、工藤英三さん(93)(長野県木島平村)と立川有(たもつ)さん(88)(新潟県弥彦村)。今月15日、足が不自由な立川さんを、工藤さんが訪ねた。再開の瞬間、2人は言葉にならない声を上げて抱き合い、「彼と一緒なら死んでもいいと思っていたから、うれしい」(工藤さん)、「一緒に訓練したのは10か月だが、夫婦よりも強い絆があった。当時の深い気持ちを再確認した」(立川さん)と語った。
工藤さんは1943年、予備学生3期として海軍に志願。立川さんも同年、飛行予科練習生(予科練)として海軍に入隊した。翌年、2人は広島県呉市にあった特殊潜航艇の秘密基地に配属され、ペアを組むことに。ハッチを閉じると立つこともできない狭い艇内で、操縦訓練を重ねた。
艇長の工藤さんが後部席で潜望鏡をのぞき、前で操縦かんを握る立川さんに指示する。操艇には、完璧な意思疎通が必要だった。
45年6月、2人は千葉県・房総半島にあった第一特攻戦隊第18突撃隊の勝山基地に配属され、中尉だった工藤さんは第11海龍隊の隊長となった。沖合約1キロにある小島を拠点に、東京湾に敵艦が侵入するとの想定で訓練を続けた。
訓練中の事故で死者も出た。8月には、係留中の海龍がハッチを開けたままの状態で沈み、艇内で作業中の整備兵ら2人が命を落とした。
終戦間際には「600キロの炸薬(さくやく)を積んで突破せよ」との命令が下る。工藤さんは「それで最大の戦果を上げるなら」と覚悟を決めたが、そのまま終戦を迎えた。その後、どうやって別れたのか、2人とも記憶がはっきりしない。
立川さんは故郷の弥彦村に戻り、半年ほどして結婚、婿入りして「石川」から姓が変わった。農業を経て、今は酒屋を営む。工藤さんは複数の大学で体育学の教授を歴任。スキー指導員の資格を持ち、今でも滑る。
記者が取材で工藤隊の名簿が書かれている本を入手し、連絡先を調べたところ、2人とも健在だった。それぞれの消息を伝えると、いずれも声を上げて驚いた。「会いたい」という気持ちを持っていることが分かり、70年ぶりの再会が決まった。2人は「あのとき、死ななくて良かった。相手を殺さなくて良かった」と、平和の尊さを口にした。
※海龍‥‥
全長17・28メートル、直径1・3メートルの小型潜水艇。短い両翼を備え、飛行機のように上下させて潜航や浮上をした。2本の魚雷を搭載できるが、終戦間際には艇の先端部分に爆薬を積んで体当たり攻撃をすることが計画された。終戦までに200隻以上建造されたが、本格的な作戦が行われる前に終戦となったため、幻の特攻兵器とも呼ばれる。