※ポスター原稿⇒印刷用PDF
⇒房日新聞
◎維持協力金(入館料)
一般200円・小中高100円
◆千葉県立東葛飾高校美術部展in青木繁「海の幸」記念館・小谷家住宅
*毎年、研修旅行で来訪する同校美術部員が、館山の自然や文化遺産を描いた作品です。
【期間】2017年9月30日(土)〜11月5日(日)
※「海の幸」「わだつみのいろこの宮」安房自然村にて、同寸大の模写作品を展示中!
◆菊花を愛でて抹茶を味わう会
*丹精こめて育てられた美しい菊を愛でながら、秋の潮風と抹茶を楽しみましょう。
【期間】11月3日〜5日
【お茶代】一服300円
館山市布良1256番地 問合:090-3434-3622
開館日:毎週土日曜日
※平日は10名以上の予約で見学可
維持協力金(入館料)200円・小中高100円
*JRバス「安房自然村」停留所から海側へ徒歩2分
*自家用車はバス停周辺の空地か布良崎神社へ駐車可
【主催】青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会/NPO法人安房文化遺産フォーラム
小谷家で作品展・東葛飾高校の美術部
(房日新聞2017.9.29付)‥⇒印刷用PDF
館山市布良の小谷家住宅「青木繁『海の幸』記念館」で、同市に毎年学習旅行に訪れている東葛飾高校美術部の作品展が開催されている。市内でスケッチした文化遺産の絵画が並べられている。10月末まで。
同高校の学習旅行は2012年から。1泊2日の日程で、安房文化遺産フォーラムの案内で市内の文化遺産を巡っている。
美術部メンバーはスケッチもしていて、今回は昨年訪れた部員5人が、小谷家をはじめ、波左間にある特攻艇「震洋」基地跡、掩体壕(えんたいごう)といった戦跡、布良崎神社などを描いた水彩画を中心とした作品を展示している。
宿泊場所でもある近くの安房自然村のホテルロビーには、美術部員の合同作品である青木繁の「海の幸」「わだつみのいろこの宮」の同寸大の模写作品も展示している。
海の幸記念館は土、日曜日開館で、維持協力金が一般200円、小、中、高100円。
【写真説明】展示された東葛高美術部員の作品=館山市「青木繁『海の幸』記念館」で
⇒※イベントの詳細はこちら。
ウガンダ平和へ支援を
活動車両購入資金募る
(千葉日報2017.9.23付)‥⇒印刷用PDF
館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は、アフリカのウガンダで子どもたちの支援活動に使う車両の買い替え資金をクラウドファンディングで募っている。10月末までに、120万円を目標に集めたい考え。愛沢代表は「実際に取り組むことによって世界の平和を学んでもらいたい」と協力を呼び掛けている。
ウガンダは政情の混乱や内戦の痕跡が残り、現在も貧困が続く。市内では1994年当時、旧県立安房南高校教諭だった愛沢代表が平和教育の一環で同国の現状を紹介したのを機に、生徒がバザーや募金活動で支援に乗り出した。これらの成果で2001年には現地に洋裁学校が建てられ、同校のミシンを活用し職業訓練が行われている。
支援活動は市内の県立安房高校、私立安房西高校のJRC(青少年赤十字)部へと引き継がれ、23年にわたり続く。同法人も募金活動を担い毎年、文房具や生活用品を送る。
車両の買い換えが必要になったのは、現地の窓口として活動している団体「ウガンダ意識向上協会」のセンパラさんが、遠い学校への子どもの送迎や食料・生活用品・資材を運搬していた車両が故障したため。通常の活動では資金が集まる見込みがなく、初めてネット上で幅広く小口資金を寄せてもらうことにした。
寄付はサイト「Ready for」から3千から15万円の範囲で受け付ける。お礼としてウガンダの子どもからのメッセージカードなどを贈る。1万円以上の寄付者は購入車両に名前を掲載できる。
愛沢代表は「一緒に生きるための交流として関わりを持ち、平和を次世代に引き継ぐ意識を持って」と話している。
画家と周囲の思いひとつに
闘病の大山晃一さん 地元で初の個展
ウガンダ支援へ協力し 慈善でギャラリー葉葉
(房日新聞2017.9.20付)‥⇒印刷用PDF
油絵の気鋭画家として活動、温暖な館山市に移住し、さらなる創作の意欲に燃えていた矢先、持病の悪化で入退院を余儀なくされた画家の個展が、同市北条のギャラリー葉葉で開かれている。画家本人はがんにかかり、館山では絵筆を握れない状態。それでもNPO法人のウガンダ支援に共鳴し、これまで描いてきた作品をチャリティで出展。画家との思いと周囲の思いがひとつになって、「画心一途 八十翁(おきな)」の異例の展示が始まった。
新潟県生まれの大山晃一さん(80)。幼年期に千葉県習志野に住み、千葉東高から日大芸術学部へ。独自で絵画を学び、太陽美術会展やフランスの公募展などに出展。パリへの短期留学もし、デッサンに励んだ。
1990年ごろから、個展中心とした活動に。県内外で個展を開催し、新塊樹社展会員に。千葉県展会員にもなり、精力的に創作活動に取り組んだ。
温暖な館山を創作活動の拠点にしようと、2008年に移住。その2年後に、糖尿病の悪化と脳血管障害で入退院を余儀なくされる。2016年にはがんが判明。現在はショートステイを利用しながら、自宅と施設でのんびり過ごす。
創作の場を求めての移住だったが、結果として館山での作画はできなかった。館山での個展もかなわず、せっかく求めた移住先で、館山の一部しか知らないまま過ごしていた。
偶然知り合った文化活動に詳しい仲野さんが橋渡しし、仲野さんが知人である岩村姫美代さんがオーナーを務めるギャラリー葉葉での個展を開くことに。NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が、ウガンダ支援の活動を続けていることにも共鳴し、絵を通常価格の8〜9割引きという異例の値段で売却し、それをそのままウガンダ支援に役立ててもらおうと決めた。
作品は全部で60点ほど。静物や花、女性を描いた油絵で、独自のタッチが見る者の心をつかむ。価格もF8号で2万円前後と破格だ。
個展はその作品群から「バラと女と、」と命名された。10月3日まで(水曜休館)の午前11時から午後5時まで。
恵美夫人(75)は「館山の一部しか知らなかったが、こうして、初めての個展を開くことができて、幸せ。売れるかどうか分からないが、一枚でも売れてウガンダ支援の役に立ちたい。仲野さんや岩村さんに出会えたこともうれしい。和やかなギャラリーで、作品と一緒に本人(晃一さん)がここにいるような感じを受けると感慨無量だ。
問い合わせはギャラリー葉葉(0470-22-6842)へ。
日曜美術館
魂こがして、青木繁〜海を越えた「海の幸」と石橋凌との対話
「日曜美術館」公式サイト
『NHKステラ』‥⇒印刷用PDF
何ものにもとらわれない魂の絵—
画家・青木繁の作品世界に俳優・石橋凌が迫る
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天才と称されながら、波乱の生涯を歩み、28歳という若さで亡くなった画家、青木繁(1882〜1911年)。福岡・久留米の没落士族の家に生まれた青木は、幼少期から芸実に強い興味を持っていた。東京美術学校に入学すると、その才能が花開き、日本の神話に着想を得た作品「黄泉比良坂(よもつひらさか)」で華やかな画壇デビューを飾る。卒業後は、千葉の房総半島にある布良(めら)に滞在。そこで制作したのが、代表作「海の幸」だ。荒い筆致と繊細な描写を織り交ぜて描かれた、獲物を担いで歩く男たちの姿には、生命に対する賛美があふれている。
そんな青木の絵に深い思い入れを持つのが、俳優でミュージシャンの石橋凌だ。青木と同じ、福岡・久留米出身の石橋は、子どものころ、緞帳(どんちょう)に刺繍(ししゅう)された「海の幸」に強い衝撃を受けた。それから50年余り、還暦を過ぎた今、再び青木の作品に心を動かされているという。石橋は、彼が絵に込めた思いを感じるため、故郷の久留米や、現在青木の展覧会が行われているフランス・パリのオランジュリー美術館を訪問。その作品世界と激動の人生を見つめる。
戦争遺跡・戦後72年の今
戦の記憶つなぐ空間〜陸軍病院南風原壕群・公開10年学びの深化模索
(沖縄タイムス2017.6.18付)‥⇒印刷用PDF
ひんやりと少し湿り気のある壕内に懐中電灯の明かりがともる。南風原町の沖縄陸軍病院南風原壕群20号。沖縄戦当時、2段ベッドでは身動きの取れない負傷兵が大小便を垂れ流し、うみや汗の混じった悪臭が充満。戦況の悪化で、おにぎりの大きさはピンポン球程度になった。5月25日の撤去時には、情報漏洩を恐れた旧日本軍が青酸カリ入りの牛乳を配り、移動できない兵士を「処置」した現場だ。
壕に入る前は冗談を言っていた小学生も真剣な顔つきに変わった。「手術で手足を切るときに麻酔がないと大変」と話す男児。南風原平和ガイドの会の大城逸子会長(58)は「きれいで清潔なはずの病院が戦時下では暗くて狭くて不衛生だった。実物があるから一瞬で追体験できる。戦争遺跡という本物が持つ力は大きい」と語る。
20号は18日、公開10周年を迎えた。年間約1万人が訪れる戦争遺跡は開壕当時、「何年間、もつのだろうか」と懸念された。安全性の問題で壕内から内部をのぞくだけの見学法が検討されていたほどだ。しかし、一度に10人以内の入場制限、鉄筋を入れて崩落を防ぐ、ウレタンで保護しつつ土の壁を再現する手法などが保存につながっている。
それでも火炎放射器で真っ黒く焼けた壁は少しずつはがれ、杭木の劣化も進む。壕を管理する同町教育委員会は2016年10月、保存と活用法を町文化財保護委員会に諮問。戦争遺跡として利用されている平和学習の拠点だが、さらなる活用策の検討を始めた。
文化財保護委は、活用が20号と博物館「南風原文化センター」という二つの点を結ぶ線にとどまっている—と指摘。学びの場の「点」、点と点を結ぶ「線」、線が重なり合う「面」をつくって学習を深めたいという構想を持つ。
公開中の20号近くにあり、艦砲砲弾が壕口を直撃して死者が出た24号との比較で、場所によって異なる戦争体験を提示する。壕のある黄金(こがね)森には町内生物の4〜5割が生息することから、戦争という視点と併せて幅広く南風原を学べるのでは—との考え方だ。
町がモデルとする千葉県館山市の「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(65)は「全体像をつかむことで新たな発見が生まれ、さまざまな事象が結び付く。戦争遺跡も含めて学びの深みが増す」と指摘。平和ガイド活動といった地域住民を巻き込むことも、次の世代に地域文化を伝える継承につながると強調した。
◇ ◇
戦後72年が過ぎて戦争体験者が減る中、「戦争遺跡」に戦場の真実を学ぼうとの動きが広がる。学びの深化を模索する現場もあれば、遺跡自体の劣化による閉鎖、文化財指定後も活用の進まない例もある。現場を訪ねた。
(南部報道部・又吉健次)
戦跡 新たな「語り部」
吉浜忍・沖国大教授に聞く
文化財指定の道開く
沖縄戦の実相を「戦争遺跡」に語ってもらうには、どうすればいいのか。県内外で長年遺跡を調査する吉浜忍・沖縄国際大学教授に聞いた。
(聞き手=南部報道部・又吉健次)
戦争遺跡の意義とは
「県民にとって沖縄戦の記憶は忘れてはいけないもの。体験を語ることのできる世代が減ってきているため継承の形を考える必要がある。沖縄戦の記憶を持つモノに触れる、対面することは有効な方法だ。書籍では得られないものを感じることができる。
戦争遺跡の現状は
「県立埋蔵文化財センターは以前の調査で979件としたが、数千件はあるだろう。戦争遺跡をだれが、なぜ造ったのか、戦闘にどう機能したのかを考えることは重要だ」「戦争遺跡を文化財指定することで自治体が管理責任を持ち、整備するときにも原形に近い形で保存できる。安全対策も重要だが、コンクリートで通路を造るなど原形を変えることで当時の状況が分からなくなる懸念もある。その意味でも文化財指定は必要」
「ガマや壕などには地主がおり、見学で事故が起きた場合は責任をとる必要が出てくる。そのため平和学習に活用してもらいたくても、利用できない場所もある。自治体が文化財指定をして、その懸念を拭う必要がある」「(那覇市首里の)32軍司令部壕の内部は崩落して入れない状態だ。活用が可能な場所、必要な場所に限って指定し利用する方法もある。首里城が正の遺産なら司令部壕は負の遺産。両面を知ることで、沖縄の歴史を深く学ぶことができる」
住民はどう関わるべきか。
「すべての地域に戦争遺跡はある。市民はそこを訪ね、触れて考える。情報がなかったら調べ、活用の道を探る。ガイドの会をつくり案内する方法もある。戦争遺跡の大切さを考える時期が来ている」
県内150カ所を紹介
吉浜教授が30年余りかけて調査した成果をまとめた著作「沖縄の戦争遺跡」が21日、発売される。約150件と厳選した遺跡の歴史、証言といった情報の集大成だという。吉浜教授は「戦争遺跡は自ら語ることはできない。この本を読み現場を訪ねて、沖縄戦について考えてほしい」と話している。約280ページ、2400円(税別)。吉川弘文館発行。
【ウガンダ支援チャリティ企画】
大山晃一油彩展「バラと女と、」
協賛=NPO法人安房文化遺産フォーラム
*日時=2017年9月14日(木)〜10月3日(火)11:00〜17:00 水曜休廊
*会場=ギャラリー葉葉(館山市北条1648-3・TEL0470-22-6842)
◇プロフィール◇
*1937=新潟県新潟市生まれ。幼少時に千葉県習志野のキリスト教系四街道コロニーに移り住む。
*1955=千葉県立千葉東高校卒業。日本大学芸術学部に進む。学生時代から舞台芸術関連の仕事の手伝いなどをしながら独自に絵画を学ぶ。
*1975=この頃から、太陽美術協会展や仏・ルサロンなど国内外の公募展を主体に活動。二重作龍夫(故人・元太陽美術会長)らに誘われ、パリ画壇をかけ巡る短期遊学。パリ下町のアパートの一室に籠り、デッサンに励む。
*1990=公募展から離れ、個展中心に活動形態を変える。毎年、東京・市川・船橋・千葉など各地で作品発表。
*1997=新槐樹社展出品。以後、会員となり、気鋭作家のひとりとして意欲的に活動。千葉県展(会員)、同市展などにも参加しながら個展にも力を注ぐ。
*2008=千葉市から南房総・館山市に移住。
*2010=糖尿病の悪化と脳血管障害で入退院を余儀なくされる。
*2016=癌に冒され手術するも重病に臥し、制作活動を断念。
*2017=NPO法人安房文化遺産フォーラムのウガンダ支援に共鳴し、チャリティとして館山市内での初個展を開催(ギャラリー葉葉)。
漂うマツシロ③〜史跡化、国の対応待つ長野
南風原・館山は独自に指定
(信濃毎日新聞2017.8.14付)‥⇒印刷用PDF
※連載(関連記事)は最下段の添付ファイル参照
地下壕(ごう)を懐中電灯を手に進む。かつて米軍の火炎放射器に焼かれた壁は所々黒ずんでいる。
ひめゆり学徒隊で知られる沖縄県南風原(はえばる)町の南風原陸軍病院壕。7月16日、近くで沖縄戦の資料を展示する南風原文化センターの学芸員保久盛陽(ほくもり あきる)さん(27)は「戦争を追体験するのに遺跡は有効です」と話した。
壕は、長野市の松代大本営地下壕の一般公開が始まった直後の1990年、戦争遺跡として全国に先駆けて町史跡に指定された。
95年に文化財保護法が改正され、戦争遺跡が国史跡の対象となる前のことだ。多くの住民が犠牲となった沖縄戦の歴史を学んだ高校生や住民の「平和の道しるべにしようという思い」に町が応えて、「独自の動きにつながった」。
文化庁が国の史跡指定に向けた「詳細調査」の対象とした全国51の遺跡にも、松代と一緒に選ばれた。現在、年間約1万人が見学に訪れる。
戦争遺跡に詳しい沖縄国際大学(沖縄県宜野湾市)教授の吉浜忍さん(67)は「90年代、保存運動で全国的に先駆けていたのは松代と南風原だった」と振り返る。市民団体同士が交流し、南風原町も壕の活用について松代から多くを学んだという。
一方で松代は史跡指定の動きは宙に浮いている。吉浜教授はもどかしい。「今後国へ働き掛けても変わらないでしょう。突破口を見つけてほしい」
「戦時下の国のプロジェクトであり、造った国の責任で評価するべきもの」。7月5日、長野市役所。市教委の松本孝生教育次長が、松代大本営地下壕の保存・活用に取り組む市内のNPO法人「松代大本営平和祈念館」の6人に説明した。市の史跡指定を先行しては—との質問に、国が実施した詳細調査の報告書を待つという従来の姿勢を強調した。
市側は文化財保護を担当する市教委、地下壕を管理する商工観光部の幹部らが並んだ。樋口博副市長は「国際的な大局観に立った判断が必要な案件。国の考え方を尊重したい」と補った。
同NPOの久保田雅文さん(67)は「国を待っていたら、永遠にどうにもならない感じがする」とつぶやいた。
95年に国が戦争遺跡の保全に積極的に動き出して以降、長野市は「国の対応待ち」の姿勢を貫く。「歴史認識を巡る対立に巻き込まれる恐れがある」(13年、文化庁への説明)と理由を挙げている。
地下壕を巡っては、日本とアジアの関係が影を落としてきた。地元にあった「慰安所」の実情などで、関係団体や住民の意見が分かれた。14年には、市が、入り口の説明版に記された朝鮮人労働者らの動員について「強制的に」の部分を伏せて問題化、「さまざまな見解がある」と書き換えた。
房総半島最南端の千葉県館山市。海軍が築いた館山海軍航空隊赤山地下壕が網目状に広がる。市は05年に史跡に指定。全長1.6キロのうち250メートルが公開されており、市内のNPO法人安房文化遺産フォーラムなどが平和学習の拠点に利用している。松代や南風原と違い、国が選んだ21の調査対象に入っていない。
「当初、市は(地下壕を)あまり評価していなかった」。NPO代表の愛沢伸雄さん(65)が話す。世界史の高校教員だった愛沢さんは89年に教材として戦争遺跡に着目。公民館で講座も開き、徐々に市民運動へと発展した。
館山の基地は中国への爆撃や真珠湾攻撃などの加害の一端を担い、歴史的評価も一様ではなかった。「花と海の観光地に戦争遺跡はイメージダウン」といった声が、観光業者から出たこともある。愛沢さんは「戦争遺跡だけを前面に出すのは難しい」と捉え、中世の城跡をはじめ身近な歴史文化の流れの中に位置付ける工夫をしてきた。
愛沢さんによると、史跡指定の際、館山市の企画担当課長が理解を示し、よく話を聞いてくれた。「長野市にもそんな職員がいるはず」と語った。
■南風原陸軍病院壕
沖縄陸軍病院が入った地下壕。1944(昭和19)年10月の空襲で病院が那覇から移転すると、空襲に備えて黄金森と呼ばれる丘の斜面に約30本の壕が掘られた。45年3月下旬から空襲や艦砲射撃で壕内に移動。軍医や看護婦、衛生兵ら300人余とひめゆり学徒隊222人が動員され、負傷兵を治療した。米軍が迫った5月下旬に撤去する際、重症患者に青酸カリを飲ませたとされる。公開している第20号壕では当時の壕内の臭いを再現し、希望者はかぐことができる。近くには関係資料を展示する南風原文化センターがある。
■館山海軍航空隊赤山地下壕
千葉県館山市の砂岩などでできた標高60メートルの赤山に、海軍の専門部隊が築いたとされる総延長1.6キロの地下壕。大部分は素掘りで、つるはしの痕跡が残る。記録や証言が少なく、造られた正確な時期は分かっていない。内部の形状などから、1930(昭和5)年に誕生した館山海軍航空隊の基地の司令部や、戦闘指揮所、兵舎、病院、発電所、航空機部品格納庫、兵器や燃料の貯蔵庫といった施設があったとみられる。戦後は一時、キノコ栽培に利用されたという。
(写真)
地層がはっきり分かる千葉県館山市の史跡に指定されている赤山地下壕。ガイドは松代大本営と比較して説明する=7月25日、同市
南房総の「エコミュージアム」
地域市民、誇り持ち活動
愛沢伸雄=NPO法人安房文化遺産フォーラム代表
千葉日報2017.9.4付「ちばオピニオン」‥ ⇒印刷用PDF
地域全体を博物館と見立てて、魅力的な自然遺産や文化遺産を再発見するとともに、市民の主体的な学習・研究・展示・保全などの活動を通じて活性化を図るまちづくり手法を「エコミュージアム」という。もっとも重要なことは、住民が自ら地域課題をよく理解し、暮らしやすい地域の将来像を描くことだといわれる。
地図を逆さに見ると、房総半島南部の安房地域は、弧を描いた日本列島の頂点に位置している。地政学上、重要な軍事拠点であるとともに、広く海洋世界と交流し共生した地であった。繰り返し起きる地震津波や遭難、戦乱などを乗り越え、助け合い、支え合って生きてきた先人たちの姿を学ぶことができる。
世界史教師であった私は、足もとの地域教材を活かして、地域と自己を見つめなおし、世界を俯瞰するグローバルな視野を育む教育を試みてきた。生徒が主役の授業づくりは、やがて市民が主役の生涯学習まちづくりに発展した。
人びとの記憶から消された歴史は多いが、30年にわたる市民の保存運動により、戦争遺跡群や里見氏城跡群、青木繁「海の幸」誕生の小谷家住宅をはじめ小高記念館や小原家住宅などの建物を、国や市の指定・登録文化財とすることに成果を上げてきた。
「館山まるごと博物館」活動を通じて、市民らは自分たちが暮らす地域への誇りを蘇らせ、まちづくりへのエネルギーを呼び起こしている。
NPO活動の主たる事業は、スタディーツアーガイドである。赤山地下壕跡の入壕者は、東日本大震災の影響により一時激減したが、「戦後70年」の取り組みがメディアに広く紹介されたことを機に、年間3万人を超えるようになった。
NPO設立当初は、平和学習ツアーが大半であったが、昨今はエコミュージアムまちづくり視察の来訪者が、国内外から増えている。「館山まるごと博物館」の事例は、行政主導ではなく、市民の主体的活動であることが注目されているという。
また、全国の美術家などとネットワークを図って、小谷家住宅の修復基金を創出し、青木繁「海の幸」記念館を昨春開館した。細々とした民間運営のため、開館日は土日のみ(平日は団体予約可)であるが、来館者は年間3000人を超えた。
この活動では、ノーベル賞の大村智先生が理事長であるNPO法人青木繁「海の幸」会、青木繁の故郷・福岡県久留米市の青木繁旧居保存会、作品を所蔵する石橋財団をはじめ、多くの団体やゆかりの自治体との連携による成果が評価され、千葉県知事より「ちばコラボ大賞」が授与された。
洋画で最初の重要文化財となった青木繁「海の幸」は、現在パリで展覧会が開かれ、国際的な評価が高まっている。東京八重洲のブリヂストン美術館は、海外からの誘客を図るため、東京オリンピック前にリニューアルオープンの予定で建て直しを進めている。
かつて千葉県は「NPO立県」を標榜していた2004年に、我々も法人を設立して13年になる。多様な公益活動の成果を上げているものの、現実には人件費も困難な状況が続き、ソーシャル・ビジネスの展開を模索している。
地元の若者が残るような魅力的な地域づくりを進め、高齢者の年金プラス5万円の収入につながっていく仕事づくりのためにも、県や市をはじめ多様な主体との協働をさらに図り、次のステップに進んでいきたいと願っている。
ウガンダの子どものため活動車両を買い替えたい
河辺智美・金子麻美・小谷美紀
(房日新聞寄稿2017.8.24〜25付)‥⇒印刷用PDF
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ウガンダ支援のはじまり
私たちはNPO法人安房文化遺産フォーラムの中で活動している、安房南高校の卒業生を中心としたウガンダ支援「ひかりの」というグループです。
皆さんは安房の高校生が取り組んできたアフリカ・ウガンダへの支援活動と、その後の経過をご存知ですか。
ウガンダへの支援活動は1994年、安房南高校の生徒たちによって、内戦やエイズの蔓延(まんえん)で両親を亡くしたたくさんの孤児たちからの〝学びたい〟という呼びかけに応えて、数人の有志から始まった活動です。
きっかけは館山市内の「かにた婦人の村」の深津文雄牧師からウガンダのセンパラさんを紹介されたからです。最初はささやかな活動でしたが、学校全体に呼びかけられ、生徒会活動となって、そのための組織であるボランティア委員会がつくられました。
先生や保護者、同窓会の方々をはじめ地域の方など皆様の温かいご支援ご協力をいただきながら、安房南高校統廃合の2008年まで続きました。その後は、統合された安房高校のなかの有志に引き継がれ、とくにJRC部の皆さんが取組んできました。そして現在は、安房西高校のJRC部の皆さんにバトンタッチされ、安房地域の高校生の皆さんによって23年にわたって続けられてきた国際交流活動です。
その間、当時の安房南高校社会科教諭でボランティア委員会顧問であった愛沢伸雄氏が、ウガンダとの窓口を担っていただき、高校生による支援活動を23年間サポートし続けてきました。今は教員を退職され、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表とし10数年安房地域の歴史や文化を活かしたまちづくり活動に関わり、とくに市民活動の立場から高校生によるウガンダ支援活動を応援してきました。(安房文化遺産フォーラムのHP参照)
ウガンダにつくられた安房南洋裁学校
当初より現地の孤児支援の窓口は、子どもたちの教育・生活支援をするウガンダ意識向上協会(CUFI)のセンパラさんでした。アジア学院で農業指導者の研修生として来日されたときに、かにた村に来たことが縁となり、安房南高に2回来校し、直接、生徒たちの前で孤児たちの支援を訴えられました。目に見える形で交流と支援が続きましたので、センパラさんの名前を懐かしく思われる卒業生は地域に3千名近くいらっしゃると思います。
安房南高校生をはじめ安房高や安房西高JRC部による毎年のウガンダバザーでの収益金、チャリティ募金、安房文化遺産フォーラムに寄せられた寄付などから10〜20万円の支援金や中古衣料、文房具等を送ってきました。
その中で象徴的なことは、建物の正面に安房南高校章が付けられた「安房南洋裁学校」という職業訓練所が設立されたことです。安房南高家政科で使用されたミシンを送り、ウガンダの孤児たちの職業自立のための学校として大変喜ばれています。しかし、現在まで運営の資金が不足がちでセンパラさんもご苦労されています。
子どもたちの笑顔があふれて
支援金を送るたびにお礼の手紙や活動内容、現地の子どもたちに資金がどう使われているかの報告があり、その時に写真や、子どもたちの絵などを送ってくれます。写真の子どもたちは皆、笑顔で私たちの支援に対しての感謝と喜びにあふれています。絵には子どもたちの生活が向上し、日本から送ったボールや長縄等で遊ぶ様子を描いたカラフルなものがたくさんあります。
支援当初に届いたモノクロの絵を見ると、血なまぐさい戦場の姿であり、戦闘機からの攻撃や兵士が戦っている絵でしたが、この23年間という時の流れのなかで、地道な支援が少しずつ実って生きてきたようにも感じられます。
安房地域でもウガンダ支援の輪が広がり、とくに安房・平和のための美術展実行委員会の皆さんが12年前から子どもたちの絵の展示やチャリティ収益金から支援金をいただきました。子どもの絵も美術展開催の案内はがきやポスターに採用してくれたことは忘れることができません。今年も安房・平和のための美術展は27日まで南房総市の枇杷倶楽部ギャラリーにて開催されますが、子どもたちが描いた絵なども展示しますので、ぜひご来場ください。
支援の輪が広がって
安房南高校の生徒たちから始まったウガンダ支援活動は、今年で23年目となったものの、その間に安房南高校が統廃合になり、安房高校や安房西高校のJRC部に引き継がれていく経緯にはとても困難な状況がたびたびありました。しかし、強い思いをもって地道に継続してきました。
ウガンダとの20年を記念してNPO安房文化遺産フォーラムでは、安房南高校で美術教師であった船田正廣氏が製作したブロンズ彫刻「安房南高校生徒像」を、友情の証としてウガンダへ贈りました。
長年支援・交流を続けてこられたのは、各校の先生や保護者の方々をはじめ、かにた婦人の村、安房・平和のための美術展実行委員会、同窓芳誼会(安房南高校同窓会)、館山ロータリークラブ、スーパーおどやイオン、館山病院、館山信用金庫など、数多くの市民団体や企業が高校生の活動を支えていただくとともに、今日まで見守ってきてくださったからでした。
ウガンダでの緊急事態
ウガンダ現地の活動も順調の様に思えた矢先、センパラ氏より一通のメールが届きました。それは、現在の活動拠点で子どもたちの送迎用などに使用している自動車が故障してしまいとても困っているという緊急の内容でした。
ウガンダ国内での活動には、どうしても自動車が必要であり、中古車の購入資金をサポートして貰えないかというお願いでした。その資金額は120万円という大金です。私たちにとっても、例年支援バザーに力を入れていますが、今の活動ではあまりにも高額であり、すぐに準備することは当然にも無理です。私たちはこの間に、センパラさんとやり取りをし、現地の支援活動を見て緊急事態と判断しました。
そこでこの紙上をお借りしてのお願いとなったのです。私たち「ひかりの」のウガンダ支援活動に対して資金面でご支援ご協力をお願いできないでしょうか。一人ひとりの力を束ねて大きな力にしセンパラさんに自動車購入資金を届けたいと思っています。
購入資金をクラウドファンティングで
そこで21日より約2か月間にわたって「Ready for」という団体のクラウドファンディングの力をお借りして、インターネットやフェイスブック上で呼びかけて、全国の皆さんから資金を募っていく活動を実施することにしました。とくに安房地域の皆さんのお力をお借りしたいと願っています。
ウガンダの孤児たちに学びの場をつくる活動しているセンパラさんたちの熱い思いを地球市民の一人としてサポートしていきたいと思っています。何よりも国境を越えて子どもたちの学びを支えていくことで、私たちも国際平和に貢献するのではないでしょうか。
私たちの思いと一歩を踏み出す活動
私たちは、ウガンダの子どもたちの支援と交流をこれからもずっと続けていきたいと考えています。当然、資金面や活動面での術がとても重要ですので、皆さんのお力をお借りして、この支援の輪を広げていきたいと思っています。
また、ウガンダ支援グループ「ひかりの」では、現役の高校生や卒業生、そして地域の若者たちの核になるためにも、息の長い国際支援・交流活動を進めていく話し合いやボランティアの場をつくっていきたいと願っています。
決して〝私には何も出来ない〟のではなく、一人ひとりが願っていること、そのことの一歩を踏み出すかどうかにあると思います。そような機会が身近にあれば出来るはずです。皆さんのご理解とご協力を願うとともに、参加される皆さんのご連絡をお待ちしております。
Eメールは、ugandahikarino@gmail.com
(NPO安房文化遺産フォーム・ウガンダ支援グループ「ひかりの」共同代表)