お知らせ

NPOだより№11〜2006.8.28

小高記念館オープニングイベント

「近代水産業の発展に貢献した人びと〜関澤明清と小高熹郎の足跡をたずねて」

里見ウォーキング

戦跡フィールドワーク

赤山無料ガイド

城山無料ガイド

合唱組曲『ウミホタル〜コスモブルーは平和の色』&田中星児コンサート

報告=韓国・済州島大学校の趙誠倫教授が視察来訪

報告=第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム群馬大会

報告=まちかどミニ博物館第1号館〜鉄道グッズ展〜オープン

060827伊藤叡さま*クマゴロー一座(法政大学OB)

先日は本当に有り難うございました。参加者一同全然知らなかったことで,とても印象深かったようで喜んでいました。 戦争の遺跡をきちんと残し伝えていくことが、だんだんときな臭くなっていく今の世の中だからこそ、とても大切な事だと思いました。戦争の遺跡は沖縄だけでなくこんなに身近なところにもあった、よく見回してにればもっと身近にもあるかも知れないと、つくづく考えました。 夕食前には「海ホタル」を見せて頂き感激し、翌日は野島崎、千倉。マザー牧場を回って帰りました。

今後も貴重なみなさんの運動が、ますます発展することを祈っています。

有り難うございました

060823黒川和之さま*南房総市老人クラブ連合会和田支部

先日は戦跡めぐりのガイドをありがとうございました。

特に最初の座学でのお話が大好評でした。

和田町の「ネイチャースクール」も体験農業の講師に、

大勢の農民に登場していただき運営しています。

これも和田と都会との橋渡しをしている都会のNPO

の強い提案によるものです。

しかしながら人前でのお話は、ある程度の技術が必要です。

その点、池田さんは内容も声の大きさも大変適正との

参加者からの評価です。

高齢者の方々のほとんどは、地域への強い想いがあるのですが、

実際に行動をするのは、小沢さんのようによそから来られた方が

比較的に熱心なのも和田も同様です。

皆さんも大変多忙の毎日であろうと思いますが、

ますますのご活躍振りをお祈りいたします。

まずはお礼まで。

【白浜民報】060820=白浜の艦砲射撃

「白浜民報」第984号-2006年8月20日発行

記録し伝えたい白浜での戦争

白浜民報ではこれまで、多くの方々のご協力を得て、白浜での戦争の記録をしてきました。このたび、白浜への米軍艦砲射撃の貴重な体験記を黒須さんから提供していただきましたのでお読みください。

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白浜の艦砲射撃
鴨川市 黒須禮子

 

●20年7月18日深夜

昭和20年7月18日の真夜中、私たちの村(白浜町)は艦砲射撃を浴び、23名の死傷者を出した。 その夜、ものすごい轟音と家がなぎ倒されるような衝撃に跳ね起き、裏の防空壕にとび込んだ。 とたん、防空壕の壁土がバラバラと崩れ落ちてきた。

駄目だ。

反射的に土手をかけあがり、「凄いよっ」と叫ぶ弟のあとから、横に張り出している梅の木の枝にとび乗った。 なぜかあたり一帯が明るく、野島崎灯台の左方向の水平線上にくっきりと黒い船が2隻並び、その周囲をまるで花火が炸裂する時のようにバチバチと火花が散り、ドカーン、ズズーン、ドカーン、ズズーンと体中に響く衝撃がきた。 父母、弟妹、隣の家の人もいたが、誰も声も出さない。 と、次の瞬間、忽然と船は水平線の向こうに消えていってしまった。 その間、長い長い時間に思えたが実際には数分間のできごとだった。

 

●島崎で死人が

翌朝、夜明けと共に村内は慌ただしくなり、大人達が走り回っていた。
「城山が禿げてるようっ」
「田がアナだらけだようっ」
「島崎で死人がでたってようっ」、

私達子どもも大人の合間を縫って駆け出した。屹立した城山の壁に砲弾が当たったらしく、山肌が茶色くむき出しになってしまっていた。 すぐ隣の山麓が私達の集落である。手元が1㍉狂えばこっちに来たところだ。田圃への道も灯台への道も既に縄が張られ、警防団の人達が警戒に当たっていた。張られた縄の遠くから覗くと、砲弾の穴は田圃一枚の大きさですり鉢型をしている。厚い鉈を何枚か重ねたような、両側が鋭くギザギザになった鉄板も積んである。城山から五、六百㍍離れた私の家でさえあの衝撃だったのだ。田圃のすぐそばのこの家の人達はどんなだったのか。

●潜水艦だというけど

砲撃が終わってすぐに勤めている農業組合に出かけた父が、お昼に帰ってきた。
「役場では潜水艦だというけど、潜水艦にそんな装備はないから巡洋艦か駆逐艦だろう」
と母に言っていた。
海軍に行っていた父は他の人より詳しかった。
「今の話しと城山の電波探知機のことは人に言うなよ」
と私達に言った。

城山の昔の間道といわれている鬱蒼と木の繁る急坂を、砲台や計器板を多勢でずり上げている兵隊さん達に、子どもたちみんなで芋井戸の水を汲んでいってあげたことがあったので、念を押したのだ。 当時は、軍のことなど知っていても言わないことが鉄則だった。

夜になると、また艦砲射撃があるのではと落ち着いて眠ることができない。

「島崎の人は山を越えて滝山(山の向こうの地区)へ逃げるってよ」という話が伝わってきた。うちでも山二つを越えた木背負田という山の北側の斜面に山小屋を作って、子どもを避難させることになった。

●山小屋で

「『興国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』について説明せよ」という女学校の国語の入試問題。試験の最中に空襲警報が発令され、待避する場面もありながらのこの四月に女学校に入学したばかり。このまま山小屋に行ってしまうと学校はどうなるのか。

「母ちゃん、学校はどうする?」

「こんな時学校なんか行ってられないんだよ。米軍が攻めてくるかも知れないんだから」

兄も姉も船橋の日本建鐵へ動員中。弟と妹たちの中で私が一番上。鍋、釜や身の回りのものをまとめて背負い、山へ登った。 若い時、大工の修行をしたことのある父は、古い鶏小屋のトタンを運び、立木を使って床の高い快適な小屋を作ってくれた。私と弟は谷川まで降りていって水を汲み・薪を集めておかゆ(高梁やムギを混ぜて)を作り、味噌汁を作るのが仕事だった。勿論、新聞もラジオもない、夜になっても灯火もない。昼間、空高くB29が飛んでいくほかは蝉とひぐらしの声だけである。

 

●安房中3年の生徒が

日中は里の畑に行っている母が、

「亡くなった人の中に安房中の生徒がいたってよ」

との情報を持ってきた。M君という三年生の男子生徒だった。蔵の二階で勉強していて直撃をされたとのこと。他に直撃された天井の梁に肉片が張り付いていたとも聞いた。あの砲弾の破片からも、当たれば人間の首も吹き飛ぶと思った。中学校も女学校も、四年生以上は工場に動員され三年生が最上級生。後ろに太い煙突をつけ、薪を燃やして走る故障の多い木炭バスが白浜から館山迄の唯一の交通機関。もう自転車も手に入りにくい時代。

M君たち三年生の男子五、六人が自転車通学。力がなくてあえぎながら頂上のトンネル迄の坂を登るバスは、自転車よりも遅かった。自転車通の男子生徒達は、時々そんなバスの窓に手をかけて一緒に走り、中の友達と歓談したりした。M君もその中の一人で、笑顔の明るい、前途有望な少年だったのだ。

●事実が陽の目を

それから1ヶ月もたたないうちに終戦。軍の機密だったせいか、昭和50年後半になっても「白浜の町史には載っていない」ということだった。

平成になって、安房南高の先生が米軍調査報告書の中からこの事実の記録を探し出し、初めて証拠のある事実として陽の目を見た。だが、今生存している民間人の中で、これを実際に見たものは私と弟の二人だけではないだろうか。

 

●白浜艦砲射撃の歴史的背景

愛沢伸雄先生が米軍の報告書によって明らかにされた事実。

射撃したのは潜水艦ではなく、アメリカ第3艦隊所属第38機動部隊内の巡洋艦4隻と駆逐艦9隻。16キロ沖合から夜間レーダーによって6インチ砲弾240発を、18日23時52分から同57分までの5分間、城山のレーダー基地めがけて発射した。レーダー基地には当たらず島崎村に37発が落ち、6人が死亡17人が負傷した。

●7月18日という日

7月16日:アメリカ、原子爆弾実験に成功。

7月17日:米・英・ソ3国首脳によるポツダム会談〜8月2日。

7月26日:米・英・ソ・中、ポツダム宣言発表、日本に無条件降伏か壊滅かの選択を迫る。

 

白浜を砲撃した艦隊は、14日には釜石、15日には北海道室蘭、17日には日立・水戸を砲撃し、多数の市民をも殺傷していた。空母15隻など95隻からなる第3艦隊は全土を空襲してまわった。目的は、日本の軍事力を破壊し国民の戦意を失わせ、ソ連の参戦以前にアメリカ軍による本土制圧を実現することにあった。白浜への艦砲射撃は、アメリカの単独占領⇒日米安保条約による日本の基地化とアジアでの緊張の存続という、現在につながる出来事であったと言えよう。

【房日:展望台】060815*戦後生まれが語り継ぐ

◎戦後生まれが語り継ぐ

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もう13年も前になるだろうか。当時、高校教諭だった愛沢伸雄さんと知り合い、南房総いったいの戦跡の案内を受けた。「震洋特攻基地」の穴、草むした「特攻桜花」のカタパルト発射台、掩体壕やあ香山地下壕などでも、息を呑んだ。一日案内してもらい、房州の戦跡の多さに驚いたものだ。突然の訪問に近所の人からも不審がられもした。

愛沢さんはその後もずっと、戦跡調査を続け、埋もれていた〝負の遺産〟を世に知らしめた。最初はたった一人の地道な活動だった。私財を投げ打ち、個の時間を費やしてまで、没頭した。世界史が専門で、子どもたちに平和教育をするには、こうした調査が必要だった。学徒出陣50年、戦後50年などの節目を経て、愛沢さんの調査は拍車がかかる。やがて池田恵美子さんという賛同者も現れ、一昨年にはNPOも立ち上がる。現在、赤山地下壕は平和教育の拠点として、大勢の人を受け入れていて、館山市指定文化財にもなった。平和のために、ひたすら歩んだ愛沢さんの動きは、けっして蟷螂(とうろう)の斧ではなかったのである。

点滴穿石。当初は行政サイドにも煙たがられたが、やがてNPOの存在が地元にとって必要不可欠となる。戦跡ガイドも30人になった。この地域の活性化を考えるとき、このNPOのパワーはけっして小さくない。

池田さんはもちろん、愛沢さんも戦後生まれである。戦争を知らぬ世代が、戦跡を調査し、その保存を訴える。失礼ながら違和感はないかと、問うてみた。2人は一笑に付した。愛沢さんは言う。「確かに最初はコンクリートの施設跡や残骸の調査だった。当時のことを知る世代の方が詳しいに決まっている。だがわれわれは、地元の人がこの戦跡とどう関わったかを織り交ぜながら語り継いでいる。体験の有無の問題ではない」。体験者でなければ語れないのなら、この世には伝えられないことが山ほどある。すでに戦後生まれが日本人の4分の3を占めている現在、戦後生まれが動かなければ、平和への道は開けまい。

愛沢さんと池田さんは口をそろえる。「地元の人がどう戦争に関わり、どう平和に導いたか。地元文化を含めてそれを伝えていきたい」。NPOの名は「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」という。名称からして遠い将来を見据えている。愛沢さんはNPOの後継者として、自身の長女(25)を1年かけて説き伏せた。

きょう8月15日は終戦の日で、平和への思いを刻む日。戦跡調査は孤軍奮闘から、千軍万馬の輪となった。房州の未来はけっして暗くない。

060803山田岳人さま*東京情報大学(卒論「戦跡をめぐって知る郷土})

【卒業論文=東京情報大学伊東敏朗ゼミ】

情報大ステーション2006「戦跡をめぐって知る郷土」の制作


この作品は、東京情報大学の学生たちが、「NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」の案内で、房総半島に遺された戦争遺跡を訪ね、自分たちの郷土の歴史と文化を考えたものである。

「NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」は、地域の自然や歴史、文化遺産を活用して心豊かな地域社会を創造しようという目的のもとに活動している。

番組は、中国から東京情報大学に留学してきた趙理さんと、その仲間たちが、房総の大房岬を訪れる場面から始まる。美しい緑の公園の中を進むと、その一角にトンネルが出現する。真っ暗なトンネルの奥に進むと、そこは行き止まりになっている。戦争当時、ここには巨大なサーチライトが格納されていたといわれるが、大学生たちには、その姿が想像できない。

大学生はその夜、県立大房岬少年自然の家に宿泊し、勉強会を開く。戦争前から戦争中にかけて、房総半島には、帝都、すなわち東京を守るための重要な軍事施設が多数構築されていることがわかり、そのほかの戦争遺跡についても調査していくことになる。

翌日から、大学生たちは、「NPO南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」の佐藤さん夫妻をガイドにお願いして、房総の戦争遺跡を訪ねて歩く。まず、赤山といわれる小高い山に掘られた巨大な地下壕に入る。この地下壕は発電機室、倉庫や治療所などとして使われていたのではないかといわれている。壕の壁には60年前のツルハシの跡が鮮やかに残っている。大学生たちは冷えた地下壕の中で、戦争中の人々は何を考え、何をしていたのかに思いをはせる。

壕を出た大学生は、弾薬庫の跡や巨大な砲台跡を歩き、つぎに洲ノ崎海軍航空隊が作ったとされる地下壕へ向かう。地下壕の奥の部屋の天井にはコンクリートで制作された龍のレリーフが浮かび上がり、その力強い姿に、大学生たちは思わず息を呑む。この龍がどのような意図で制作されたのかは謎だという。

次に向かったのは洲崎海軍航空隊の射撃基地跡。標的となった壕の壁には、今でも弾丸の跡が遺されている。射撃場からほど近い場所には戦闘機を隠すための掩体壕(えんたいごう)と呼ばれる格納庫がある。かつて、この掩体壕にはゼロ戦が格納され、出撃に備えてエンジンが唸りをあげていたのであろう。

続いて向かったのは、震洋(しんよう)と呼ばれる特攻艇の発進用の滑り台の跡であった。震洋は250キロもの爆薬を積んで乗員もろとも敵艦に特攻するための高速のベニヤ製のボートであった。しかし、震洋の出撃態勢が整ったときは終戦を迎え、この場所から震洋が出撃したということはなかった。震洋の発進基地は、説明を聞かなければ古い船着き場のようにしか見えず、現代の風景に馴染んでいる様子が逆に印象にのこる。

次に、桜花(おうか)と呼ばれる特攻機のカタパルト(発射台)の跡を訪ねる。この施設の完成間近に戦争が終わり、ここから実際に発進した桜花はなかったという話を聞き、大学生はほっとする。

最後に、「NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」の事務局長、池田恵美子さんと、戦後の米軍の上陸地点である海岸に立って、同フォーラムの意義や活動についてお話しを聞き、大学生たちは戦争という時代の人々の営みに思いをめぐらし、現在の平和の意味について深く考えることとなる。

この番組を通じて、あまり知られていない房総の戦争遺跡というものについて、視聴者が関心を持ってくれればいいと思った。作品の評価としても、「一般公開されていない遺跡の映像を観ることができて良かった」、「NPOの方が、戦争遺跡を活用した地域文化活動に取り組んでいる様子に感銘を受けた」などの感想が多かった。戦争遺跡が千葉にあることを初めて知った人も少なからずいた。このような評価があったのは、第1に戦争遺跡そのものに映像的なインパクトがあったこと、第2に戦争を知らない大学生が、現地を取材してこのような番組を制作したことで、視聴者にとって新鮮な驚きや情報を与えたためではないかと思われる。反省点としては、限られた時間の中でたくさんの戦争遺跡を紹介したことで、やや詰め込みすぎの感のあることで、やはり14分間では説明しきれない部分が多かった。放送時間に限りのあるテレビ番組というものの難しさを痛感した。

番組の中での演出上の工夫として、戦争遺跡の現場に、特攻艇や特攻機の模型を置いて、レポーターと同じカットの中で撮影した”イメージ映像”を数カット挿入した。このような兵器のことを知らない若い視聴者にも具体的なイメージを抱いてもらうための配慮であったが、この手法の是非については、視聴者の評価が分かれるところであった。

この作品で伝えたかったことは、戦闘や空襲といった戦争体験だけが戦争だったのではなく、このような戦争のための施設が、房総半島に無数に設けられていった時代があり、多くの人々の営為があったということを、千葉に暮らす若者としても、しっかりと知ることの大切さである。このような遺跡の存在は、とりもなおさず、房総半島の地政学的重要性を示すものであり、長い歴史をふりかえってみれば、この土地での豊かな文化交流の足跡を見いだす`よすが’ともなるものなのである。そして、実はこのような歴史遺産は、どこの土地にも必ずあり、私たちに今もさまざまな問いかけを発しているのである。そのことに気がついたとき、私たちは郷土についてより深く考え、郷土を愛することができるようになるのだと思われる。


※本文中の「NPO法人南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」は「安房文化遺産フォーラム」に改称。

060727~29世田谷学園中学の皆様

先日は、館山での平和学習にご尽力をいただき本当にありがとうございました。

まだ、生徒達からアンケート等はとっておりませんが、

きっと満足度の高いものになったと思います。

これもひとえにNPOの皆様のご協力があってのことだと思っております。

本当にありがとうございました。

また、来年度もどうぞよろしくお願いいたします。

取り急ぎ、お礼まで。

(舘野信彦先生)

NPOだより№10〜2006.7.24

里見ガイドサークル〜館山市立博物館のガイド勉強会

銀座ふれあいまつり〜北条まちなか発見ウォーク

安房平和フェスティバル2006〜子どもたちに平和を手渡そう!

小高記念館オープニングイベント

NPO連絡懇談会

赤山地下壕無料ガイド

第10回戦争遺跡保存全国シンポジウム群馬大会