講演会「里見忠義の終焉の地をたずねて」
報告書『今よみがえる里見忠義の足跡』発行
里見ウォーキング
元気なまちづくり市民講座〜持続可能な地域社会を目ざして
・市民が支え合うコミュニティづくり〜マイナスをプラスに考える逆転の発想法
・高野医師とともに語る地域医療懇談会
知恵袋講座
・第16回「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」設立まで
・第17回田中房江さん「リン鉱産のパラオの島と戦争」
里見八犬伝ワールド〜第2回戦国コスプレ大会
報告=青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会設立
■詳細は、下段のPDFファイルをご参照ください。
【日時】2008年10月29日(火)13:30〜15:30
【会場】小高記念館
【講師】
【テーマ】青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会
松代大本営地下壕の活用策探る 長野でシンポジウム
長野市の松代大本営地下壕(ごう)の保存に取り組む市民団体「松代大本営の保存をすすめる会」とNPO法人「松代大本営平和祈念館」は23日、地下壕をまちづくりにどう結び付けるかを考えるシンポジウムを市内で開いた。年間12万人以上の見学者が訪れている壕を地域の資源として位置付ける狙いで初めて開催。市内外から約40人が参加し、活用策を探った。
戦争遺跡保存全国ネットワーク代表を務める十菱(じゅうびし)駿武(しゅんぶ)・山梨学院大教授(考古学)は「開発や構造物の劣化により、各地で戦争遺跡がどんどん壊されている。半面、戦争の悲惨さや無益さを子どもたちに実感してもらうために活用する運動も盛り上がってきた」と説明。住民と行政が連携し、松代大本営地下壕を含め、古代から近現代に至る地域の文化遺産について語り継いでいく「エコミュージアム構想」を提案した。
千葉県館山市で海軍航空隊跡地などの保存に取り組むNPO法人「安房文化遺産フォーラム」代表の愛沢伸雄さんは「住民が自分たちの地域をきちんと認識することが重要。観光業に平和や教育の視点を組み込む必要がある」と指摘した。
すすめる会幹事の宮沢彰一さん(70)=長野市上松=は「松代大本営は松代町にとどまらず、日本にとって重要な遺跡。日本全体を見据えて活用法を探る必要がある」と話していた。
(信濃毎日新聞2008.9.24)
先日は、お忙しい中、私たち杉田ゼミナールの館山平和学習合宿のためにお時間をいただき、
まことにありがとうございました。
私は、今回の合宿で初めて館山を訪れました。
当日はなんとか天候にも恵まれ、海と山、館山の豊かな自然を楽しむことができました。
しかし、館山という地は、豊かな自然だけでなく、私たちに普段の生活からは実感することの難しい、
「戦争」の跡を見せつけてくれました。館山の戦争遺跡は、戦後63年経った存在、
住民の生活の中に埋もれてしまっているように感じましたが、それら遺跡の存在感は今なお健在で、
赤山地下壕や射撃場跡地では戦争の跡を生々しく肌で感じることができました。
また、池田さんや愛沢さんのお話を聞き、伝えることの大切さも強く感じました。
これをきっかけに今の自分に何ができるのか考えてみようと思いました。
また、ゼミとしての今後の活動にも良い刺激にしていきたいと思います。
私たち杉田ゼミナールも後期日程が始まり、今回の館山合宿で感じ、学んだ多くのことを
これっきりにすることなく、今後の学習に繋げていきたいと思っています。
秋冷、日増しに加わります。お体に気をつけてお過ごしください。
*学校HPの記録はこちら。
【日時】2008年9月30日(火)13:30〜15:30
【会場】小高記念館
【講師】保坂明さん(NPO会員)
【テーマ】
・昭和20年2月16日館空から出撃した一式陸攻の最期と50年後
・「元順号」と岩槻-千倉の交流の原点
【参加費】200円(お茶・資料代)
◎戦跡巡りに役立てて
….館山のガイドマップつくる
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館山市に残る太平洋戦争の戦跡などを紹介した「安房ガイドマップ 海軍のまち館山」が完成した。NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄理事長)が、市民や行楽客が戦跡を巡る際に役立ててもらおうというもので、26日から1部300円で販売する。
同フォーラムでは館山市内を中心に戦跡や、戦国武将里見氏などの調査・掘り起こしを行い、こうした成果をまちづくり活動として市民や、行楽客に情報発信している。ガイドマップもこの活動のひとつとして、編集委員会を組織してつくった。
マップは、女性のハンドバッグにも収まるようにと、折りたたんだB5サイズで、広げるとタテ51㌢、ヨコ72㌢の大きさ。片面に、市内に残る洲ノ埼海軍航空隊、館山海軍航空隊関連の戦跡、城山砲台の跡、赤山地下壕跡などを写真や図を使って解説。北下台(ぼっけだい)に残る近代水産業の先駆者、関澤明清の石碑なども盛り込んだ。
もう一方の面には、昭和初期、戦前の館山のイメージイラストが描かれている。イラストを担当したのは、フォーラムメンバーの中屋勝義さん(66)。古い記録や、現地を歩くなどして色鉛筆で、当時の館山湾沿いを中心に、街並みや戦跡の場所などを描いた。
26日から宮沢書店、BOOKS松田屋で販売する。詳しい問い合わせは同フォーラムの事務所(0470—22—8271)へ。
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※房日サイトはこちら。
◎千葉の観光資源、新視点で発掘
…観光モデル形成目指し、各地で試行錯誤
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「戦跡ツアー」「房州石の彫刻」など、千葉県内各地で特定非営利活動法人(NPO法人)や企業が観光産業の確立の一環として観光資源の発掘や見直しを始めている。都心から比較的近いという強みを持つ一方で、目玉となる観光施設や歴史遺産が少ない千葉県。堂本暁子知事の肝いりで、3月には観光条例を施行し、今秋にも昨年に続き観光キャンペーンの開催を予定している。これを追い風に、各地で新たな観光モデル形成を目指し、試行錯誤が続く。(千葉・三崎柚香)
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【旧海軍の航空基地】
戦跡めぐりを観光の目玉に—。
NPO法人の安房文化遺産フォーラム(館山市)は館山市の戦争遺跡保存を目的にツアーを実施している。第二次大戦中に旧日本海軍の航空基地があった館山市だが、その戦跡は暗くて危険という理由で取り壊しの危機にあった。「遺跡としてなんとか守れないか」と高校教師だった愛沢伸雄代表が、戦跡めぐりツアーを始めた。
現在では県内外から年間10校以上が平和学習を目的として訪れ、04年に一般公開された旧日本軍の赤山壕(ごう)には約6000人が訪れた。大手旅行会社も日帰りパックの旅行先に選定するなど、業界での認知も浸透してきている。
ただ、「単に物見遊山の観光では、はやり廃りがあり、遺跡保存にはつながらない」(愛沢代表)というジレンマを抱える。求めるのは「テーマを持つ旅行」だが、遺跡に眠るストーリーを語れるガイドの高齢化という問題がある。さらに「宿泊施設や商店など地域全体で情報や意欲を共有しないと難しい」(同)と指摘する。発掘した観光資源を観光ビジネスに昇華させるには、地元企業や行政の協力が不可欠だ。
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【体感・体験】
かつて千葉県は「黙っていても海水浴客が来る観光地」(水澤千秋千葉県商工労働部次長)だった。それが娯楽の多様化や海外リゾートの人気で衰退。07年度の海水浴客の入り込み数は、71年度の5分の1にまで落ち込んでいる。観光復興に力を入れる県は、「体感・体験型」観光を打ち出している。07年にJR東日本とタイアップした『ちばデスティネーションキャンペーン(ちばDC)』では、料理教室、農業体験などを多数組み込んだ。
新たな観光ビジネスの構築を—。富洋観光開発(富津市)は富津市金谷地区でレストラン、土産店を営む。都心から60キロメートル圏内にあって自然が豊かに残るという地理的な強みを生かし、「心がリセットできる場所」(鈴木裕士社長)づくりを始めた。
今春、房州石を使った彫刻を街中に展示。美術館やアトリエも建設予定で、「石と芸術」をテーマに、異空間を提供する観光事業を進める。「観光をビジネスにするため、新たな仕組みが必要」として観光とビジネスの収益性のバランスを重視する。「体験ツアーだけでは手間と人手がかかってしまいがちで、収益が見込みにくい」という。
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【面の広がりがカギ】
「”気軽な旅行なら千葉”というイメージは定着している」と、ちばぎん総合研究所(千葉市稲毛区)の小松孝之研究員は分析する。「単なる体験だけではなくて、楽しみ方を提案できる周辺でのメニューづくりが重要」として、遺跡や体験などの観光資源を生かした各地域での面の広がりを求める。永続性と収益性を両立させ、千葉ならではの観光を確立できるか。模索は始まったばかりだ。
◎特攻兵からの「遺言」⑥
…米軍上陸なら第2の沖縄
…本土唯一の直接軍政に
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房総半島南端の館山市およびその周辺は帝都・東京を守る重要な拠点だった。館山海軍航空隊があり、東京湾要塞地帯の一角として砲台や魚雷基地が設置されていた。
「館山周辺は、米軍が上陸すれば、第二の沖縄として戦闘が行われた可能性が高かった」。戦争遺跡保存活動を行なっているNPO安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄理事長(56)は語る。
敗戦が色濃くなった時期、南房総市(旧三芳村)にロケット特攻機「桜花」、鋸南町に「海竜」「回天」などの水中特攻艇の基地が置かれた。館山市の洲崎、波左間には「震洋」の基地も秘密裏に造られた。
震洋は6千隻以上が製造された。ベニヤ板のボートで、舳先に爆薬を装備、自動車のエンジンを積み海上を疾走した。小さな漁港にまぎれるように、格納壕や隊員の居住壕が掘られた。波左間漁港内には発進用のスロープ、洲崎には完成時期の記された格納壕が今も残る。
◇出発なく終戦
「死の棘」「魚雷艇学生」などの著書のある作家・島尾俊雄氏は、奄美諸島の加計呂麻島で震洋隊長だった。「出発は遂に訪れず」では、8月13日の特攻戦発動と15日の終戦の詔勅により揺れ動く心を描いている。
「第18突撃隊戦時日誌」によると、波左間に配属された真鍋康夫中尉を部隊長とする第59震洋隊の176人。首都を守るため予備学生や予科練など若い命が集められ、1945年7月14日に基地に入った。しかし震洋が配備されたのは8月13日で、出発はなく終戦を迎えた。
◇祖国安泰願い、散る
「ベニヤ板のモーターボートに爆薬を積んで敵艦艇に体当たり。今考えれば確かにお粗末な特攻兵器であるかもしれない。しかし若き隊員たちは祖国日本の安泰を願い戦場に散ったのである」(長崎県川棚基地で震洋訓練を行なっていた伊藤太兵衛氏の回想=千葉日報社「幻の本土決戦」より)。
終戦直後の9月3日、米占領軍が館山航空隊近くに上陸。残った日本軍人らの妨害を警戒した占領軍は、4日間ではあったが、館山に本土で唯一の直接軍政を敷いた。
(千葉日報・穐田政宏)
*blogアルバムはこちら。
前期のゼミでも告知した通り、8月12日火曜日に千葉県館山市に行ってきました。都合が合わずに来ることの出来なかったゼミ生もいましたが、このブログを読んでくれればと思います。
まず最初に、NPO法人安房文化遺産フォーラムの代表である愛沢伸雄さんと副代表である池田恵美子さんに会いました。池田さんがスライドを使いながら館山の歴史について話してくれました。愛沢さんは、かにた村にある「噫(あぁ)従軍慰安婦」の石碑を見て「このままではいけない。」と思ったそうです。貴重な話をたくさん聞くことが出来ました。ありがとうございました。
昼食後に「赤山地下壕跡」に行きました。
「赤山地下壕」とは、太平洋戦争の終わりの頃、この赤山地下壕の一部が館山海軍航空隊の防空壕として使われていた。いつ頃作られたかということは、赤山地下壕に関する資料がほとんどなく、はっきりしたことはわかっていない。合計した長さが1.6Kmあり、全国的にみても大きな壕である。終戦の日まで建設工事が行なわれていたという証言もあるため、未完成であることは確かです。(パンフレットを見て作成。)
夏休みということもあり、家族連れの人や、年配の団体の人がいました。ヘルメットを被って、いざ中へ・・・。中は思った以上に冷えていて、半袖では寒いくらいでした。外との温度差がすごかったです。見学ルートには電気が付いていますが、それ以外の場所は真っ暗です。間違えて入った場合は確実にまずい状況です。中は非常に入り組んでいます。未だに謎が多い壕であることは確かです。
次に向ったのは「かにた婦人の村」です。
「かにた婦人の村」とは、婦人保護長期収容施設です。池田さんの話によると、各都道府県に保護施設というものはあるそうで、その中でも重度の障害者の方が「かにた村」へ来るということです。1965年に設立し、国有地であった場所を約1億円で買い取ったそうですが、国はほとんどお金を出してくれなかった。世界中のクリスチャンから援助が募ったということです。
「かにた村」を訪れた理由は、この敷地内に「噫従軍慰安婦」の石碑があるためです。「かにた村」がある場所も高いですが、石碑がある場所もさらに小高い場所にあります。(「噫」とは、苦しくて声が出ないという意味だそうです。)
もう1つ、普段は見学できない場所である「128高地」の「戦争指揮所・作戦室」の地下壕にも行きました。先に行った「赤山地下壕跡」とはまた違い、少し状態が危ないようです。この壕は3層説があるようですが、入った場所が1階とすると、地下は水が溜まり、とても行ける状況ではないようです。(2階も行けません。)見学している際も、歩くと地面から水が出てくるような・・・危ないです。天井には龍が彫られていて、何のために彫られたのか謎だそうです。ガイドさんもしきりに「ここは、あんまり来たくないんだよなぁ・・・。」ということを言っていましたので、危険なのかもしれません。
次に向ったのは「洲ノ埼海軍航空隊 射撃場跡」です。この場所は、全国でただ1つの兵器整備練習航空隊で、操縦以外の航空機に関わる専門技術を学ぶ養成機関だったそうです。通称「洲ノ空」と呼ばれる施設。射撃の的(射撃場照準壕跡)を置いた場所も見ましたが、壁が崩れてきていました。ここも少し危ないそうです。戦争遺跡の保存は難しい問題であるようです。銃弾の跡も残っていました。
その次は「戦闘機用掩体(壕)」に行きました。どこにでもある野原の場所にトンネルのような形をしたものがありました。これは、戦争末期に空襲から戦闘機を守るために作られた「掩体壕」と呼ばれている格納庫だそうです。この壕の近くに真っ直ぐな平らな道がありましたが、昔はもっと横幅があり、滑走路だったようです。しかし、戦争末期にはガソリンも不足し、格納庫に入れる際は人の手で運んでいたとガイドさんが話していました。飛行機を人の手で運ぶなんて・・・現在の飛行機と比べれば小さいですが、それでも車よりは大きいわけで、大変な作業だったのではないかと思いました。
最後に向った場所は、「大巌院」というお寺にある「四面石塔」を見に行きました。これは1624年に建立された石塔で、インド・中国・朝鮮・日本の言葉で「南無阿弥陀仏」と刻まれています。特に朝鮮文字は初期ハングル語のもので、現在使用されていない文字があるそうです。
朝7時に川崎集合で最後に見学した「大巌院」で16時頃でした。1日を使って、かなりの戦争遺跡を見学することが出来たと思います。愛沢さん、池田さん、そしてガイドをしてくださった方に感謝です。お隣の県である、千葉にこんなにもあるとは想像もしていませんでした。そして企画をしてくださった院生の小薗先輩、運転を引き受けてくださった宮崎先輩、お忙しい中、本当にありがとうございました。感謝感謝です。そして今回参加できなかったゼミ生も、次の機会で参加してください。