お知らせ

山岡部隊の遺族が来訪されました。

山岡部隊(呉鎮守府第101特別陸戦隊)は、

1944(昭和44)年に館山砲術学校に集められた

選りすぐりのエリート猛者で編成された特殊部隊です。

潜水艦を使っての隠密任務だったため「S特」とも呼ばれ、

大房岬の100mの断崖絶壁を登る過酷な訓練をしていました。


2009年4月11日、山岡部隊の遺族が神戸市から来訪されました。

出撃之日に記した辞世の句など、拝見した資料は、

ブログに紹介していますので、ご参照ください。

【房日】090409*赤山地下壕入壕者15,389人!

房日新聞2009.4.9付に掲載されました。

【観光スポットに人気高く】

館山市が、平和学習・観光交流の拠点として一般公開している
戦争遺跡の赤山地下壕 の平成20年度入壕実績がまとまった。
総入壕者数は1万5389人と前年度比8%のマイナスとなったが、
1日平均では50人弱と相変わらず高い人気を維持しており、
同市の観光スポットとして定着してきたようだ。

同地下壕は、米軍の空襲が激しくなった太平洋戦争末期、
当時の館山海軍航空隊の防空壕として使われた。
総延長1・6㌔と全国的にも大きな地下壕で、市を代表する戦争遺跡のひとつ。
一般公開翌年の平成17年1月には、市の指定史跡にも指定されている。

入壕状況によると、入壕者の内訳は個人客が8165人で全体の53.1%と半数を超え、
学習旅行などの高校生は18.9%にとどまり、大人が81.1%を占め、
戦前・戦中世代の人たちに関心が高い。

県外からの来訪者も8,345人で54.2%と過半数を数える。
月別では、10月が1,675人と最も多く、次いで8月の1,652人、5月の1,597人、
11月の1,589人の順で続き、10月の1日平均入壕者は57.8人にのぼった。

同市は現在、戦争遺跡への修学・学習旅行 の誘致に力を入れているが、
市教委では大人を対象としたPR活動に一段と力を入れ、
歴史遺産を後世に伝えていきたいとしている。

【房日】090409*赤山地下壕、総入壕者は1万5389人

◎赤山地下壕、総入壕者は1万5389人
…観光スポットに人気高く

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館山市が、平和学習・観光交流の拠点として一般公開している戦争遺跡の赤山地下壕の平成20年度入壕者数がまとまった。総入壕者数は1万5389人と前年度比8%のマイナスとなったが、1日平均では50人弱と相変わらず高い人気を維持しており、同市の観光スポットとして定着してきたようだ。

同地下壕は、米軍の空襲がはげしくなった太平洋戦争末期、当時の館山海軍航空隊の防空壕として使われた。総延長1.6キロと全国的にも大きな地下壕で、市を代表する戦争遺跡のひとつ。一般公開翌年の平成17年1月には、市の指定史跡にも指定されている。

入壕状況によると、入壕者の内訳は個人客が8165人で全体の53.11%と半数を超え、学習旅行などの高校生は18.9%にとどまり、大人が81.1%を占め、戦前・戦中世代の人たちに関心が高い。県外からの来訪者も8345人で54.2%と過半数を数える。月別では、10月が1675人と最も多く、次いで8月の1652人、5月の1597人、11月の1589人の順で続き、10月の1日平均入壕者は57.8人にのぼった。

同市は現在、戦争遺跡への修学・学習旅行の誘致に力を入れているが、市教委では大人を対象としたPR活動に一段と力を入れ、歴史遺産を後世に伝えていきたいとしている。

【赤旗】090430*戦争遺跡 住民の力で後世に〜志位委員長が視察

●戦争遺跡、住民の力で後世に
…千葉・館山、志位委員長が視察

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日本共産党の志位和夫委員長は29日、千葉県館山市での演説会に先立って、同市内にある旧海軍の軍事施設「赤山地下壕」を、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さんの案内で視察しました。

房総半島の先端に位置する南房総・安房地域は、古代から支配権力の戦略拠点とされました。第二次世界大戦では、東京湾の入り口にあって首都・東京を守る軍事上の大きな役割を担い、数多くの戦争遺跡が残っています。

赤山地下壕は、海上自衛隊館山基地のすぐ南側に位置する通称「赤山」と呼ばれる小高い山に掘られたもの。総延長は二キロメートルにも及びます。防空砲台群の戦闘指揮所や野戦病院などがあったとみられ、全国的にも珍しい航空要塞機能をもった地下壕です。

こうした説明を受けながら、志位氏は懐中電灯で照らしながら、真剣に戦跡を見て回ります。戦後、キノコ研究家が住んでいた形跡も見られました。

視察を終えた志位氏は「このような戦争遺跡を住民の力で後世に残してゆく努力は大切なことです」と、愛沢さんに語りかけ、「素晴らしい自然のあるところに戦争の拠点をつくるなどとは、本当におろかしいことですね」と話しました。

視察には、はたの君枝、加藤英雄両衆院南関東比例予定候補も同行しました。

・・・・・・・

しんぶん赤旗サイトはこちら。

【19】090428小沢義宣さん*房総発見伝〜わたしの年賀状

知恵袋講座はNPO会員が講師となり、それぞれの専門分野や人生経験をご講話いただく茶話会です。


【日時】2009年4月28日(火)13:30〜15:30

【会場】小高記念館

【講師】小沢義宣さん(釣師・キス名人)

【テーマ】房総発見伝〜わたしの年賀状

【参加費】200円(お茶・資料代)


在京時から30年通い続けた館山に、2000年に移住!

まったく新しい第二の人生は、毎日エンジョイしている小沢さん。

館山宣伝マンの小沢さんらしい年賀状から

満喫している館山ライフを紹介してくださいました。


※下記PDFで、当日ご紹介したパワーポイント映像をお楽しみください。

(参加者22名)

【いい旅いい仲間】090401*館山の戦跡を訪ねるピースツーリズム

●館山の戦跡を訪ねるピースツーリズム●……執筆:池田恵美子

・・*富士国際旅行社「いい旅いい仲間」39号(2009.4.1.)に掲載

東京湾要塞の館山

戦争中の南房総地域では、食糧供給のために花作りが禁止されていました。「花は心の食べ物」として種苗を守りぬいた農婦の勇気によって、現在の「花の房総」があるのです。一方、子どもたちが採取を命じられていたウミホタルは、乾燥粉末に水を加えると再び発光するという性質をもち、軍事利用の研究が進められていました。

太平洋に突き出て東京湾口部に位置する千葉県館山市は、東京湾要塞の軍都として重要な役割を担っていました。航空母艦のパイロット養成を担い、真珠湾攻撃や渡洋爆撃にも深く関わり、戦争末期には本土決戦に備えて七万の軍隊が投入され、陸海空の特攻基地や陣地が次々と作られました。敗戦直後にはアメリカ占領軍が上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれたこともすべて歴史から消され、語り継がれることはありませんでした。

近年、学校教育から始まった戦跡の調査研究は市民の保存運動へと広がり、その歴史的重要性が見直されてきました。2004年、館山海軍航空隊赤山地下壕は自治体によって整備・一般公開され、翌年には市史跡指定となりました。館山は、沖縄・長崎・広島・松代に並ぶ平和学習の地として知られるようになり、多くの人びとが訪れています。市民活動はNPO(特定非営利活動)法人となり、年間二百団体におよぶ平和学習のスタディツアーを迎え、ガイド事業をおこなっています。

赤山地下壕以外の戦跡は民有地や国有地に放置されたままですが、近代史を理解するうえで重要なものばかりです。特に館山の戦跡では、加害と被害の両面から戦争について学ぶことができます。この歴史的環境をすべて「地域まるごと博物館」として保存し、教育や地域づくりに活用していけることを願っています。

 

映画『赤い鯨と白い蛇』

館山の戦跡を舞台に映画が誕生しました。「赤い鯨」は夕日を浴びて館山湾で訓練した特殊潜航艇を意味し、「白い蛇」は家の守り神を象徴しています。戦時中の館山で育ったせんぼんよしこ監督により、香川京子さん・樹木希林さん・浅田美代子さんら女性だけが登場する映画です。

物語では、香川さん演じる老婦が少女時代に過ごした館山を六十年ぶりに訪れ、終戦直前に亡くなった青年将校の遺品を見つけます。そこには「ぼくを忘れないでほしい」「自分に正直に生きてほしい」というメッセージが託されていました。

このクライマックスシーンは、天井に龍のレリーフが彫られ、「戦闘指揮所」「作戦室」という額が残る実際の地下壕で撮影されました。これは本土決戦の抵抗拠点として戦争末期につくられたものですが、社会福祉法人の婦人保護施設内にあるため一般公開されていません。

 

「噫従軍慰安婦」石碑

戦後四十年のとき、ある一人の女性が従軍慰安婦だった体験を告白しました。婦人保護施設の暮らしのなかで心の安らぎを得た彼女は、戦地で亡くなった仲間たちを弔ってほしいと願い出たのです。声にならない苦しさを表す「噫」という文字に鎮魂をこめ、施設内の丘の上に石碑が建てられました。奇しくもそれは、龍の地下壕の真上にあたります。

この石碑は韓国のKBSでドキュメンタリーとして世界中に放映され、従軍慰安婦問題の発火点となりました。戦争ばかりでなく、社会的性差の問題は今なお大きな課題です。この石碑と地下壕は、NPOのガイドによる平和・人権研修のスタディツアーに限り、許可をいただいて見学のご案内をしています。

 

ハングル「四面石塔」

館山で平和を学ぶ旅は、戦争遺跡ばかりではありません。大厳院にある四面石塔には、東西南北の各面に、朝鮮ハングル・印度梵字・中国篆字・和風漢字で「南無阿弥陀仏」と刻まれており、アジア諸国からも注目されています。古くから海路を通じてさまざまな民族が交流していた証といえるかもしれません。

これは江戸初期の建立ですが、秀吉の朝鮮侵略と家康の朝鮮通信使修交という時代背景のなか、戦没者の慰霊と平和祈願をこめて建てられたのではないかと推察されています。館山はその地理的条件から、あるときは軍事拠点とされ、あるときは異国民でも受け入れて助け合い、〝平和・交流・共生〟の精神を培ってきた地です。

足もとの地域から世界を見ると、現代社会で私たちが忘れかけているものを教えてくれるヒントがたくさんあります。それこそが、新しい観光=光を観るピースツーリズムといえるのではないでしょうか。

090320立教大学立花隆ゼミ

総勢6名の参加で3月20日に行われた戦争遺跡見学での私の感想を報告します。

感想は人それぞれと思いますので、これはあくまで私の感想です。

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1.米占領軍本体初上陸地点

現地には看板も何もない。砂浜というよりもコンクリートで固められている。普通との違いは近くの陸地には自衛隊の施設があること。施設があって近寄れない部分もある。そもそも上陸地点が館山の海岸だったことは確かだが、さらに細かく指定しようとすると、推定が入ってくるようである。

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2.赤山地下壕

常時一般公開されている。見学者が入れる部分は、天井も高く、幅も広い。地下壕の立派さ(幅、高さ、掘り具合など)で、今まで見学した、松代、松本(里山辺)、浅川、の地下壕に対比すると、松代大本営予定地下壕に似ている。軍の機密性の高いものの格納基地、戦闘指揮所、野戦病院のような医療施設として実際に使われていたと推定されているが、この大きさならそれもありうることと納得させられる。今まで見た地下壕と違って、軍事施設の隣にある地下壕という特色が出ている。

壕の表面にはツルハシの跡がきれいに残っている。それも一部の部分ではなく、全面的に。ツルハシで地下壕を掘り進んだとすると、膨大な人手を要しただろうと推定される。しかしどのように作ったのか、期間を含めてほとんど分かっていない。

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3.戦闘機用掩体壕

敵の爆撃から戦闘機を守るため、斜面に造られた格納庫。屋根部分(コンクリート)には土が盛られ、草が生えているので、上空から見つけられにくい。住宅と畑が混ざったところに、一つだけ残されている。立ち入れないように周りに紐が貼ってあるだけで、看板等は一切出ていない。

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4.本土決戦抵抗地点128高地。戦闘指揮所、作戦室、地下壕

敵上陸を阻止することを目的に作られた設備。館山の海岸、基地を見下ろす、小高い山の中腹にある。遠くには三浦半島も見える。本土決戦を想定したときの最前線。

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5.「噫(ああ) 従軍慰安婦」の石碑。

なぜここにこのような石碑が立っているのかは複雑になるので省略。従軍慰安婦のことが世の中に明らかになり、考えられるようになった、そのトリガーになったものである。戦争の一つの重大な側面を考えるトリガーになる場所である。

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6.戦争遺跡見学をどのように生かすか。

今までの遺跡見学では、保存活動をやっている方の説明を聞きながらの見学だったが、今回は「自分たちだけで見に行く、だから事前に調べられることは調べていこう」とい言う設定だった。

私は時間軸に注目してみた。「占領軍本土初上陸」では、ポツダム宣言発表、同受諾、降伏文書調印、占領軍上陸、という流れに注目。その中に原爆投下が入ってくる。

館山海軍航空隊の設置から敗戦までの15年間という視点での歴史も意識される。丁度15年戦争と重なっている。このように時間軸を考えながら戦争遺跡を見学することも、学びの深化につながることだと感じた。

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7.戦争遺跡の説明活動をやってくださる方々の存在価値

今回はひょんなことから、見学の途中から館山の戦争遺跡の保存活動をやられている方の説明をいただくことができるようになり(その経緯は省略)、そのような説明を受けることのありがたさを実感した。前項で示したようなことも必要だが、それだけでは学べないことは沢山ある。可能な限り、専門家に説明いただくことが大事とつくづく思う。

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そのほか感じたことはたくさんありますが、とりあえずこれで終わりにします。

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立教・立花隆ゼミ「現代史のなかの自分史」blogより

※参考=立教立花組戦争遺跡研究班

090319千葉退職教職員の会*安藤弘さま【青木繁《海の幸》】

この間はありがとうございました。

お礼状も差し上げずにいましたら、急に

次のお願いをする羽目になってしまい、メールいたします。


館山から帰りまして、頭の中は布良、相の浜のことでいっぱい。

会う人ごとにお話しておりましたら、6月にツアーをやりたいが、

紹介してもらえないか・・と言われてしまいました。

私の親しい友人で 仕事仲間です。

直接、連絡させますので、よろしくお願いいたします。

090319千葉退職教職員の会*今村隆文さま【青木繁《海の幸》】

●安房館山再見の旅

第4回千退教交流旅行が3月18・19日、館山で行われた。参加者は19名。

宿泊とバスは、いこいの村たてやまでお世話になった。

安房文化遺産フォーラム(前南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム)とのお付き合いは古い。2004年1月フォーラム設立。

2005年2月16・17日全退教関東ブロック代表者会議を館山で開催。戦跡を案内してもらう。2005年1月27・28日全退教関東ブロック学習交流集会を館山で開催。参加者は200名余。戦跡、かにた婦人の村、花の谷クリニックなどを案内していただいた。


●高崎地区相浜、布良で大歓待

館山市立富崎小学校。学年末の忙しい中、先日卒業させた3名の卒業生も呼んで、17名の児童卒業生と校長先生はじめ10数名の先生方で「房州安房節(元唄)」を披露してくださった。外部には初めて、しかも学年末の忙しい最中の授業中に。それも「千葉退職教職員の会」だったからではないかといわれると、子どもたちの懸命な演奏に、ジーンときてしまう。

相浜神社。3月27,28日の祭礼間近なので、1週間ほど前に組み立てた「船神輿」を見せてくださる。「波除丸寶庫」から氏子総代はじめ氏子の皆さんが引き出して、しっかり見せて説明をしてくださったのである。フォーラム代表の愛沢さんも初めて見たとのこと。私たちの舞い上がり様をご想像ください。

小谷家に行く途中で、中村つね「海辺の村(白壁の家)」、多々羅義雄「房州布良を写す」の複製画を提示しながら説明をしてくれる横で、花を植えていた80歳ほどの女性が「ここには戦後越してきたけれど、この通りだった」と話に加わり、いろいろ話してくださる。なんともいえません。うれしい旅。

最後に青木繁《海の幸》記念碑のところでは、自家製のところてんが振る舞われました。お腹がすき、のどが渇いていたことと感激で、数杯も頂いてしまった。


フォーラムから愛沢さん、池田さん、豊崎さん(『鬼が瀬物語』の主人公「満吉」さんの孫で船大工だった)、ガイドの小沢さん、鈴木さんなど6名。富崎小では30名ほどの児童と校長先生はじめ教職員。相浜神社では氏子総代はじめ7〜8名。相浜漁協、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会から10名ほどの方々。

20名にならない見学者に、60名以上の方々が、いろいろとおもてなしをしてくださった。本当に、お礼の申し上げようがない。11月12月のナマダ(ウツボ)の開き干しの最盛期に友人知人とともに訪れ、買い求め、賞味すること。自分たちの街の宝物を構成に引き継ごうとする富崎地区の方々のことを友人知人に話すことで、今回の大歓待に応えようと思う。

それと、自分の住む街で、自分たちの街づくりに精一杯尽くすことで応えたいとも思った。日本中にそんな、それぞれの街づくりが広がれば、限界集落、過疎などということがなくなるのではないかと思うのだ。