●館山の戦跡を訪ねるピースツーリズム●……執筆:池田恵美子
・・*富士国際旅行社「いい旅いい仲間」39号(2009.4.1.)に掲載
戦争中の南房総地域では、食糧供給のために花作りが禁止されていました。「花は心の食べ物」として種苗を守りぬいた農婦の勇気によって、現在の「花の房総」があるのです。一方、子どもたちが採取を命じられていたウミホタルは、乾燥粉末に水を加えると再び発光するという性質をもち、軍事利用の研究が進められていました。
太平洋に突き出て東京湾口部に位置する千葉県館山市は、東京湾要塞の軍都として重要な役割を担っていました。航空母艦のパイロット養成を担い、真珠湾攻撃や渡洋爆撃にも深く関わり、戦争末期には本土決戦に備えて七万の軍隊が投入され、陸海空の特攻基地や陣地が次々と作られました。敗戦直後にはアメリカ占領軍が上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれたこともすべて歴史から消され、語り継がれることはありませんでした。
近年、学校教育から始まった戦跡の調査研究は市民の保存運動へと広がり、その歴史的重要性が見直されてきました。2004年、館山海軍航空隊赤山地下壕は自治体によって整備・一般公開され、翌年には市史跡指定となりました。館山は、沖縄・長崎・広島・松代に並ぶ平和学習の地として知られるようになり、多くの人びとが訪れています。市民活動はNPO(特定非営利活動)法人となり、年間二百団体におよぶ平和学習のスタディツアーを迎え、ガイド事業をおこなっています。
赤山地下壕以外の戦跡は民有地や国有地に放置されたままですが、近代史を理解するうえで重要なものばかりです。特に館山の戦跡では、加害と被害の両面から戦争について学ぶことができます。この歴史的環境をすべて「地域まるごと博物館」として保存し、教育や地域づくりに活用していけることを願っています。
館山の戦跡を舞台に映画が誕生しました。「赤い鯨」は夕日を浴びて館山湾で訓練した特殊潜航艇を意味し、「白い蛇」は家の守り神を象徴しています。戦時中の館山で育ったせんぼんよしこ監督により、香川京子さん・樹木希林さん・浅田美代子さんら女性だけが登場する映画です。
物語では、香川さん演じる老婦が少女時代に過ごした館山を六十年ぶりに訪れ、終戦直前に亡くなった青年将校の遺品を見つけます。そこには「ぼくを忘れないでほしい」「自分に正直に生きてほしい」というメッセージが託されていました。
このクライマックスシーンは、天井に龍のレリーフが彫られ、「戦闘指揮所」「作戦室」という額が残る実際の地下壕で撮影されました。これは本土決戦の抵抗拠点として戦争末期につくられたものですが、社会福祉法人の婦人保護施設内にあるため一般公開されていません。
戦後四十年のとき、ある一人の女性が従軍慰安婦だった体験を告白しました。婦人保護施設の暮らしのなかで心の安らぎを得た彼女は、戦地で亡くなった仲間たちを弔ってほしいと願い出たのです。声にならない苦しさを表す「噫」という文字に鎮魂をこめ、施設内の丘の上に石碑が建てられました。奇しくもそれは、龍の地下壕の真上にあたります。
この石碑は韓国のKBSでドキュメンタリーとして世界中に放映され、従軍慰安婦問題の発火点となりました。戦争ばかりでなく、社会的性差の問題は今なお大きな課題です。この石碑と地下壕は、NPOのガイドによる平和・人権研修のスタディツアーに限り、許可をいただいて見学のご案内をしています。
館山で平和を学ぶ旅は、戦争遺跡ばかりではありません。大厳院にある四面石塔には、東西南北の各面に、朝鮮ハングル・印度梵字・中国篆字・和風漢字で「南無阿弥陀仏」と刻まれており、アジア諸国からも注目されています。古くから海路を通じてさまざまな民族が交流していた証といえるかもしれません。
これは江戸初期の建立ですが、秀吉の朝鮮侵略と家康の朝鮮通信使修交という時代背景のなか、戦没者の慰霊と平和祈願をこめて建てられたのではないかと推察されています。館山はその地理的条件から、あるときは軍事拠点とされ、あるときは異国民でも受け入れて助け合い、〝平和・交流・共生〟の精神を培ってきた地です。
足もとの地域から世界を見ると、現代社会で私たちが忘れかけているものを教えてくれるヒントがたくさんあります。それこそが、新しい観光=光を観るピースツーリズムといえるのではないでしょうか。
総勢6名の参加で3月20日に行われた戦争遺跡見学での私の感想を報告します。
感想は人それぞれと思いますので、これはあくまで私の感想です。
.
1.米占領軍本体初上陸地点
現地には看板も何もない。砂浜というよりもコンクリートで固められている。普通との違いは近くの陸地には自衛隊の施設があること。施設があって近寄れない部分もある。そもそも上陸地点が館山の海岸だったことは確かだが、さらに細かく指定しようとすると、推定が入ってくるようである。
.
2.赤山地下壕
常時一般公開されている。見学者が入れる部分は、天井も高く、幅も広い。地下壕の立派さ(幅、高さ、掘り具合など)で、今まで見学した、松代、松本(里山辺)、浅川、の地下壕に対比すると、松代大本営予定地下壕に似ている。軍の機密性の高いものの格納基地、戦闘指揮所、野戦病院のような医療施設として実際に使われていたと推定されているが、この大きさならそれもありうることと納得させられる。今まで見た地下壕と違って、軍事施設の隣にある地下壕という特色が出ている。
壕の表面にはツルハシの跡がきれいに残っている。それも一部の部分ではなく、全面的に。ツルハシで地下壕を掘り進んだとすると、膨大な人手を要しただろうと推定される。しかしどのように作ったのか、期間を含めてほとんど分かっていない。
.
3.戦闘機用掩体壕
敵の爆撃から戦闘機を守るため、斜面に造られた格納庫。屋根部分(コンクリート)には土が盛られ、草が生えているので、上空から見つけられにくい。住宅と畑が混ざったところに、一つだけ残されている。立ち入れないように周りに紐が貼ってあるだけで、看板等は一切出ていない。
.
4.本土決戦抵抗地点128高地。戦闘指揮所、作戦室、地下壕
敵上陸を阻止することを目的に作られた設備。館山の海岸、基地を見下ろす、小高い山の中腹にある。遠くには三浦半島も見える。本土決戦を想定したときの最前線。
.
5.「噫(ああ) 従軍慰安婦」の石碑。
なぜここにこのような石碑が立っているのかは複雑になるので省略。従軍慰安婦のことが世の中に明らかになり、考えられるようになった、そのトリガーになったものである。戦争の一つの重大な側面を考えるトリガーになる場所である。
.
6.戦争遺跡見学をどのように生かすか。
今までの遺跡見学では、保存活動をやっている方の説明を聞きながらの見学だったが、今回は「自分たちだけで見に行く、だから事前に調べられることは調べていこう」とい言う設定だった。
私は時間軸に注目してみた。「占領軍本土初上陸」では、ポツダム宣言発表、同受諾、降伏文書調印、占領軍上陸、という流れに注目。その中に原爆投下が入ってくる。
館山海軍航空隊の設置から敗戦までの15年間という視点での歴史も意識される。丁度15年戦争と重なっている。このように時間軸を考えながら戦争遺跡を見学することも、学びの深化につながることだと感じた。
.
7.戦争遺跡の説明活動をやってくださる方々の存在価値
今回はひょんなことから、見学の途中から館山の戦争遺跡の保存活動をやられている方の説明をいただくことができるようになり(その経緯は省略)、そのような説明を受けることのありがたさを実感した。前項で示したようなことも必要だが、それだけでは学べないことは沢山ある。可能な限り、専門家に説明いただくことが大事とつくづく思う。
.
そのほか感じたことはたくさんありますが、とりあえずこれで終わりにします。
.
※立教・立花隆ゼミ「現代史のなかの自分史」blogより
※参考=立教立花組戦争遺跡研究班
●安房館山再見の旅
第4回千退教交流旅行が3月18・19日、館山で行われた。参加者は19名。
宿泊とバスは、いこいの村たてやまでお世話になった。
安房文化遺産フォーラム(前南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム)とのお付き合いは古い。2004年1月フォーラム設立。
2005年2月16・17日全退教関東ブロック代表者会議を館山で開催。戦跡を案内してもらう。2005年1月27・28日全退教関東ブロック学習交流集会を館山で開催。参加者は200名余。戦跡、かにた婦人の村、花の谷クリニックなどを案内していただいた。
●高崎地区相浜、布良で大歓待
館山市立富崎小学校。学年末の忙しい中、先日卒業させた3名の卒業生も呼んで、17名の児童卒業生と校長先生はじめ10数名の先生方で「房州安房節(元唄)」を披露してくださった。外部には初めて、しかも学年末の忙しい最中の授業中に。それも「千葉退職教職員の会」だったからではないかといわれると、子どもたちの懸命な演奏に、ジーンときてしまう。
相浜神社。3月27,28日の祭礼間近なので、1週間ほど前に組み立てた「船神輿」を見せてくださる。「波除丸寶庫」から氏子総代はじめ氏子の皆さんが引き出して、しっかり見せて説明をしてくださったのである。フォーラム代表の愛沢さんも初めて見たとのこと。私たちの舞い上がり様をご想像ください。
小谷家に行く途中で、中村つね「海辺の村(白壁の家)」、多々羅義雄「房州布良を写す」の複製画を提示しながら説明をしてくれる横で、花を植えていた80歳ほどの女性が「ここには戦後越してきたけれど、この通りだった」と話に加わり、いろいろ話してくださる。なんともいえません。うれしい旅。
最後に青木繁《海の幸》記念碑のところでは、自家製のところてんが振る舞われました。お腹がすき、のどが渇いていたことと感激で、数杯も頂いてしまった。
フォーラムから愛沢さん、池田さん、豊崎さん(『鬼が瀬物語』の主人公「満吉」さんの孫で船大工だった)、ガイドの小沢さん、鈴木さんなど6名。富崎小では30名ほどの児童と校長先生はじめ教職員。相浜神社では氏子総代はじめ7〜8名。相浜漁協、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会から10名ほどの方々。
20名にならない見学者に、60名以上の方々が、いろいろとおもてなしをしてくださった。本当に、お礼の申し上げようがない。11月12月のナマダ(ウツボ)の開き干しの最盛期に友人知人とともに訪れ、買い求め、賞味すること。自分たちの街の宝物を構成に引き継ごうとする富崎地区の方々のことを友人知人に話すことで、今回の大歓待に応えようと思う。
それと、自分の住む街で、自分たちの街づくりに精一杯尽くすことで応えたいとも思った。日本中にそんな、それぞれの街づくりが広がれば、限界集落、過疎などということがなくなるのではないかと思うのだ。
◆とても充実した旅行でした。 **安藤 弘様◆
役員、係りの方々、安房文化遺産フォーラムの方々ありがとうございました。
(1)池田恵美子氏のレクチャーは玉手箱から万華鏡がとび出したようでした。地域の歴史と文化が織りなす輝きと縦横無尽なハイテンポのトークの快さに魅了されました。
(2)歴史を背負った船大工豊崎栄吉氏、小谷家当主小谷栄氏にお会いでき、お話ができて良かったです。
(3)この地の未来を担う富崎小学校児童全員と全職員に迎えられ、安房節の演奏を聴いて感動しました。
(4)館山海軍砲術学校跡のフィールドワークに参加でき、「本土決戦」でのこの地の役割について知りました。
(5)愛沢伸雄氏はじめ「安房文化遺産フォーラム」のスタッフの方々の地道な活動の積み上げが、地元の多彩な人たち、団体とのネットワークを作り出し、活動の広がりと深まりを生み出していることを実感しました。
(6)春たけなわの南房の息吹に触れる時間的ゆとりが余りなかったのが、少し残念です。
◆安房館山再発見の旅**今村 隆文様◆
千退教交流旅行(館山、多古、佐倉に続いて「県内から学ぶ」として始めて4回目。)が3月18、19日、館山で行われた。参加者は19名。
安房文化遺産フォーラム(前南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム)とのお付き合いは古い。2004年1月フォーラム設立。2月16、17日全退教関東ブロック代表者会議を館山で開催。戦跡を案内してもらう。2005年1月27、28日全退教関東ブロック学習交流集会を館山で開催。参加者は2百名余。戦跡、かにた婦人の村、花の谷クリニックなどを案内していただいた。
今回の旅行で、フォーラムとの関係は、より深まったのではないかと思う。
フォーラムから愛沢さん、池田さん、豊崎栄吉さん(『鬼が瀬物』語主人公船大工「満吉」さんの孫で船大工だった)ガイドの小沢さん鈴木さんなど6名。富崎小では学年末の忙しい中、児童卒業生、校長はじめ教職員あわせて30名ほどの方々が全校上げて、安房節を披露してくれた。相浜神社では氏子総代はじめ7〜8名、相浜漁協、保存する会から10名ほどの方々。20名にならない見学者に、60名以上の方々が、いろいろとおもてなしをしてくださった。本当に、お礼の申し上げようがない。11月12月のナマダ(ウツボ)の開き干しの最盛期に友人知人とともに訪れ、買い求め、賞味すること。自分たちの街の宝物を後世に引き継ごうと努力する富崎地区の方々のことを友人知人に話すことで、今回の大歓待に応えようとも思った。日本中にそんな、それぞれの街づくりが広がれば、限界集落、過疎などということがなくなるのではないかと思うのだ。
◆千退教・館山交流旅行に参加して**上田 敦子様◆
館山の文化遺産を訪ねるのは、2002年‘日韓歴史交流会in館山’のフィールドワークが初めてでした。それ以降も2〜3回訪れていますが、何度来ても新しい発見があります。
‘02年のときは、韓国の先生方(小、中、高)や高校生も来て、愛沢さんの案内で戦争遺跡を中心に従軍慰安婦の碑や四面石塔など日韓交流に関わる遺跡を訪れました。従軍慰安婦の碑を前にしたときの韓国の先生方の涙は、忘れることができません。それ以降、日本の遭難した漁船の乗組員を助けたという韓国・浦項を訪問したり、と次々交流の輪が広がっていることに驚いています。たまたまこの3月済州島を旅行した折、「ここでの海女漁の技術は日本の・・、館山、・・」と聞こえてきて、やっぱりそうなんだと確認できました。
現在の日本の地域文化は、その地で生まれ育った特性と長い歴史の中で他国からの伝播や他国との交流を通して育まれてきたものとを併せ持つことが多いのだと改めて思いました。戦乱の世をくぐりぬけて、人々の草の根の国際交流はずっと昔から綿々と続けられ、民衆はかくもたくましくしたたかに生き抜いてきたのだとも思いました。そして、これを断ち切ってしまうのが戦争であり、それをまた地道に根気強く回復させてきたのは民衆なのだと思いました。その意味で、歴史を発掘し地域のみんなの財産にしようと日々奮闘していらっしゃるフォーラムの皆さんは、‘平和の発信者だ’と思いました。これからも、館山から世界に向けて‘平和’を発信し続けてください。ありがとうございました。
◆「平和をつくっていく道すじ」の確認 大道 千秋様◆
2005年のときは都合により参加できませんでしたが、今回参加できてほんとうによかったと思います。
1.「平和教育より平和文化」と愛沢さんが話しましたが、コスタリカもほぼ同様の考え方で平和のことを取り組んでいるということです。それが“軍隊をすてたコスタリカ”の実現につながっているそうで、館山市内の戦跡をこのような視点でとらえていることにおどろき、共感を覚えました。
2.退職教員の全国大会も千葉でひきうけたらどうでしょう。世話人(役員)は大変なご苦労があると思いますが、この取り組みを多くの方に訴え、会員の拡大にもつながっていくと思います。
千葉の地から(観光ではなく)地味な地域の活動から学びながら、「平和をつくっていく道すじ」をみんなで確認できたらと思います。
係りの方々、ご苦労様でした。
◆今は静かな布良の海に重なる鬼が瀬物語の世界**鎌田 明子様◆
3月19日、館山を舞台にした明治時代の歴史小説、岡崎ひでたか著の『鬼が瀬物語』第4部をバックにいれ、列車に乗るや否や読み続けて館山に向かう。
歴史の事実をかなり調べて書いたと思われるストーリーの展開と、臨場感溢れる場面場面の表現に第1部からすっかり引き込まれ、第3部まで私の気持ちはこの物語の大波小波に翻弄されてきたが、最終の第4部まで読みきるには、残念!時間が足りなかった。各駅停車を選んだが、半分までで、館山に到着してしまった。
しかし、それでも会場で主人公満吉のモデルと言われる豊崎家の、満吉から数えて3代目に当たる豊崎栄吉さんにお会いしてお話しを伺った時、ただ単に館山の84歳の方を紹介されたのとは全く違う、熱い想いが湧くのを感じた。この想いは、あくる日地元フォーラムの方が案内・説明してくださった布良の海を見ても、「鮪延縄船 安房節発祥の地」の記念碑を見ても、フォーラムの方が前日に急遽実現の運びにもっていってくださったという富崎小学校の生徒職員による「安房節」演奏に於いても、同じであった。それらの傍らに当時の人々が力強く動き回っている声や姿が、感じられるような気がした。
愛沢さんはじめフォーラムの方々のご尽力ぶりはすばらしいものがあった。先に書いた富崎小の安房節演奏はもとより、特別に船の神輿を見せてくださったり、とびきり美味しい手作りところてんのご馳走にもあずかれた。愛沢さんたちフォーラムの方の姿勢は、地元の方がなるべく中心になって進めていく方向で取り組んでいた。
肩を寄せ合うように軒を並べている漁村の家々を繋ぐ坂道の途中で、明治時代「白壁の家」を描いた中村つねが描いた地点はここではないかというお話を聞いている最中に、話に入り込んできた道沿いの家のおばあちゃんと直ぐ話がはずんでしまった。今回はこの館山の歴史をしっかり受け止め繋いでいこうとしている子ども達とも出会え、愛沢さんたち地元の方の活動が、地味だが、着々と一歩一歩進んでいることを感じることができた。
帰宅して、『鬼が瀬物語』第4部の後半を一挙に読んだ。漁師達の命を救うために自分も命をかけて、船造りを研究し、独自のすばらしい漁船吉祥丸を作り、館山の大繁榮に貢献した満吉であったが、明治の後半、仲買人が入り込んできて、船を競争させ、必要以上の魚を獲らせることで、金儲けをするようになった。だんだん漁量も減り、漁船も変わっていかざるを得なくなった。満吉はこんな中で生涯を閉じる。傍らで、ずっと彼を支えてきた妻や、次の世代の若者達は確認しあう。「満吉の心が我々の中に生きていれば、満吉は生きているのだ」と。
今は静かな布良の海と、『鬼が瀬物語』の世界と、そして金儲けが優先する今の社会が重なりあって迫ってくる交流旅行だった。出会った多くの方々に感謝したい。
◆館山交流旅行に参加して**三登 美保子様◆
参加するに当たって『鬼が瀬物語』(岡崎ひでたか著)を読んでおくと良いよとの知らせがあったので図書館で借りて読みました。感動する本で引き込まれて家事もそこそこに1日で読んでしまいました。今回は、物語(江戸時代)の主人公船大工のモデルとなった子孫の人の話も聞けるというので楽しみにして出かけました。
1日目の講演では愛沢さんと池田さんの「安房文化遺産フォーラム」のNPOを立ち上げたということで熱弁を振るわれました。戦争遺跡(赤山地下壕、館山海軍航空隊では艦上攻撃のパイロット訓練、花作り禁止、米占領館山上陸4日間の直接軍政が敷かれた、など)安房の海に魅せられた画家や文人墨客たち(青木繁、中村つね、など)の話を掘り起こし、ガイドブックを作ったりガイドをしたりしていることを熱っぽく話してくれました。熱意がひしひしと伝わってきました。船大工の子孫の人の話は鬼が瀬の危険な海でいかに漁をしやすく安全な舟に仕上げるかを工夫した祖先たち、今も引き継いで作り続けているという、知られざる地道な話に胸を打たれました。
2日目、富崎小学校を尋ね、子どもたち17人による安房節を鑑賞しました。子どもたちの熱心な演奏に泪がこぼれるほど感動しました。この学校は廃校になるかも、という話が持ち上がっているそうです。何とか残したいものだと思いました。
青木繁の『海の幸』誕生の地、布良海岸を地元ボランティアの案内で見学しました。ボランティアの人たちによる寒天のご馳走の振る舞いにも感動しました。地元の人たちが遺跡を残していきたい、伝えたいという想いが温かく迎えてくれたのでしょう。
愛沢さんは今回のようにスタディツアーをする事が夢でしたと語っていました。私たちはツアーガイドに恵まれとても良い体験をしました。
◆千退教交流旅行**土橋 くに子様◆
天候に恵まれた今回の旅は、布良を中心にあたたかい人情を十分に感じさせてくれた交流旅行でした。
(1)富崎小学校は、全校児童が20名足らずの学校です。学校では6年間に①あじの開きづくり②青木繁の調べ学習③安房節が歌える、の目標をもって実践しているとのこと。今回私たちの為に「安房節」の特別演奏をしてくれた。直立不動で大きな声で、自信をもって歌ってくれた子ども達に涙がとまらず、大拍手でした。3つの目標がさすが“「布良」地区ならではのもの”。
(2)布良の神社(名前?)では、3月28日が「波除不動の命日」とかで祭礼であるので神輿を出すのですが、今回私達の為にわざわざ神輿を組み立てて見せてくれました。なんと、船の型をした神輿で、12人位の踊り手が神輿の屋根にのり踊るとの事。青年団がいないので、町の中への引き廻しは出来ないとの事です。長〜い船の組み立てはとても大変な作業なのです。
(3)青木繁の記念碑の場所で、思いもかけぬ「トコロ天」のサービスを受けました。数日かけて作ってくれた本場のトコロ天はたまらなくおいしく2杯もおかわりをしてしまった。
※ガイドさん達は、みな高齢者であったが、自分の足で現地を調べたとの事。女性のガイドさんは、今日が初仕事だったとの事。堂々としたガイドぶり、みなさん自信と誇りをもって仕事をしていました。
今回の旅行は行く先々で心のこもったおもてなしを受け、地元のあたたかい人情に感謝々々です。愛沢さんを中心にほんとうにありがとうございました。
◆すてきな学習旅行ありがとうございました。**花沢 武志様◆
まず天候に恵まれたことが素晴らしい雰囲気をつくりだしてくれたものと思いますが、それにしてもNPOの方々の努力には頭が下がります。
2度目の館山であったにもかかわらず新たなスポットを発見させてくれた見事さと地元の方々のあたたかい出迎えの姿勢にも感謝でした。もちろんそれも愛沢さんたちの努力の表れであろうことは十分わかります。おかげさまでいつになるか知れないが3度目の訪問も楽しみになってしまいました。
◆千退教交流旅行**林 奈都子様(浦安市郷土博物館主任学芸員)◆
このたびは、大変お世話になりました。
安藤弘先生から『鬼が瀬物語』を紹介していただき、読み始めましたらすっかりハマってしまいまして、ずうずうしくも旅行までくっついていってしまいました。
でも、ご無理をいってお連れいただいて、本当によかったと心から感謝の気持ちでいっぱいです。
感想なのですが、何から書いていいものやら、わからなくなってしまうぐらい私にとっては収穫いっぱいの二日間だったので、まだ頭のなかでも整理しきれていないのですが、三つにしぼって考えてみましたので、下記にまとめてみたいと思います。
(1)『鬼が瀬物語』ができるまでの作者の気持ちを追体験できたこと
『鬼が瀬物語』に夢中になってしまったのは、ストーリーのすばらしさはもちろんなのですが、「館山図書館の郷土資料コーナーにあったという明治時代の富崎村役場の記録を物語化したものだ」という作者の前書きに非常に魅かれました。
昔の文字記録文書から歴史を掘り起こすことを仕事にしていますので、作者の岡崎ひでたかさんが、「丹念に読みとるほどに、この村で起きた壮大なドラマが脳裏に浮かんできた」という気持ちが、とてもよくわかる気がして、「いったいどんな記録文書だったのだろう」という思いを抱きながら、物語を読み進めました。
物語に描かれたそれぞれの場面は、かつての猟師町時代の浦安の姿と重なりました。
船づくりに夢をかける船大工の思い、天候に左右される猟師の暮らし、村を全滅させてしまうほどの大火事と復興、近隣の村とのいさかい、マグロ延縄漁の海での描写、夫の遭難を心配する女性たちの気持ち、魚問屋の資本に巻き込まれ変貌していく村の姿、明治末期から普及しはじめる石油発動機とそれに伴う木造船の変化・・・などなど、一つ一つが、浦安の元猟師さんたちから聞く話に重なって、とても身近なことのように感じられるのです。
懇親会で、豊崎さんの隣に座らせていただいて、いろいろなお話を伺うことができたのですが、豊崎さんが「これが『鬼が瀬物語』のもとになったものですよ」とおっしゃって、その『鮪鱶延縄漁業調査報告書』と題された綴を出して見せてくださったときには、本当に感激してしまいました。
私が想像していたものよりも、ずっと厚い綴で、細かな字でビッシリと明治の村の出来事やいろいろな設計、図がまとめられていました。その場では、少し拾い読みさせていただいただけでしたが、この部分の記述が物語のあの場面になったのだな、ということがハッキリと確認することができて、ワクワクしました。
豊崎さんから、「今度コピーをお送りしますよ」というお言葉をいただけたときは、本当に嬉しかったです。
また、豊崎さんから「父親がこんなことを言っていた」と直接お話くださった内容も、とても興味深かったです。作者の岡崎さんも、こうして豊崎さんに聞き取りをしながら、物語を膨らませていったのだなぁ、と、岡崎さんを追体験するひとときを過ごすことができました。
今回の旅行で、豊崎さんとお目にかかることができると伺い楽しみにしていたのですが、こんな形で史料とともに直接お話できるとは思いも寄りませんでした!「感激その①」です。
(2)地域づくり、町づくりへの情熱をもつ方々に出逢えたこと
愛沢さん、池田さんをはじめNPO安房文化遺産フォーラムの皆さん、青木繁保存会の皆さん、富崎小学校の生徒の皆さん・・・、地域を心から愛していらっしゃる方々との交流は、私にとってはすばらしい体験でした。
地域をご自分自身の足で丹念に歩いて調べ、埋もれた歴史を掘り起こし、館山に暮らした人々の足跡を、日本また世界全体のなかできちんと位置付け、その価値を地元の人たちに伝え、地元の人たちと一緒にこれからの町づくりを行っていく、という仕事の意義を改めて深く大きく感じることができました。
ガイドしていただくなかで、愛沢さんがいかに地域の人たちの信頼を得て活動されているのかがよくわかりました。また、自分たちの町に誇りをもってもらえるようにしようと、地域の人たちに前に出てもらうようにその都度声をかけ、協力しようと出てきてくださったすべての人にスポットがあたるように、発言の場を与えていらっしゃる姿には、本当に頭がさがる思いがいたしました。
このスタディツアーに、いろいろな方の協力を引き出そうと、おそらくかなりの調整をされたのだろうと思います。「お客さんにこの地域の魅力を知ってもらい、さらに多くの人たちに伝えていってほしい」ということ以上に、このツアーを「地域の人たちに、もっともっと誇りを持ってもらって、活動意欲を高めてもらうためのきっかけにしたい」というお気持ちも、大きかったのではないかなと思いました。
地道な「調査研究」による成果を軸に、地元の人々を引っ張り出し、なおかつ、ガイドをするNPOメンバーをも育てる、という両輪で、地域を元気にするための町づくり活動をしていらっしゃる愛沢さんの姿を見て、私自身は本当に勇気づけられた思いがしています。
博物館の仕事も、すぐに成果が目に見えて現れるようなものではないですし、経済効率による評価にはどうしても応えようのない面が多々あって、日々いろいろな矛盾を抱えながらも、どうにかこうにか自分なりのバランスをとって、学芸員の仕事をしています。行政的な制約に悩むこともしばしばですし、かといって、「市民のための博物館」「市民が主役の博物館」とうたいながらも、本当に地域住民の立場にたった運営をしているのか?と問われれば、自信を持ってうなずくことができない自分もいます。
そんななかで、館山という地域への愛情あふれる愛沢さんたちの活動を見せていただいて、「まだまだ私にできることはたくさんあるな。」と、すごく元気をもらうことができました。
これからの博物館運営に、すぐにでもこの経験を活かしていくことができそうな気がしています。「感激その②」です。
(3)千退協の先生方に出逢えたこと
今回、無理無理お邪魔して、千葉県でずっと教員をされていらっしゃった先生方からいろいろなお話を伺うことができたことも、私にとってはとても意味の深い出来事です。
私は、今38歳で、おそらく先生方の子どもと同世代ではないかと思います。小学生の息子二人の子育てと仕事との両立に、これまた日々悩みながら、なんとか毎日をこなしている、という感じです。今が精一杯なものですから、なんとなく気持ちばかりが焦ってしまって、「早く大きくなってくれないものか」とイライラして、家族に当たってしまい、自己嫌悪に陥ることも少なくありません。
そんななか、人生の大先輩となる先生方とお知り合いになれて、皆さんがとても生き生きと退職後の人生を謳歌していらっしゃるご様子をみて、年を重ねる楽しみって本当にあるのだなぁ、と、また元気をもらうことができました。
仕事も力いっぱい努力してみたいと思いますし、子育ても十分楽しみたいと思っていますが、やっぱり、それ以外のことにも挑戦してみたいです。それが何なのかは今はまだハッキリとは見えてこないのですけれど、子どもがもう少し大きくなってきたら、本気で取り組んでみたいと思うようなことに自然にめぐり合えそうな気がしてきました。
先生たちと出逢えたことで、一生のなかでの「今の自分の立ち位置」を知ることができたことが、「感激その③」です!
◆千退教交流旅行の感想(安房館山)**中野 淑子様◆
「安房館山」再発見の熱い旅でした。
2005年1月、関東ブロック交流会で戦跡巡りをした時、痛ましい痕跡を懸命に保存している館山を発見し感動しましたが、再び今回の旅行で新たな側面を見学し、更に感動を熱くしました。地域の人々が心を一つにして郷土の文化・歴史を掘り起こし、守り育てようとしていることです。
その仕掛け人が愛沢・池田さんを中心とする安房文化遺産フォーラムの人々です。あの二人を突き動かしている情熱とエネルギーの源は一体何処から来ているのだろう。一日目の池田さんの迸るような安房の説明・二日目の愛沢さんのガイド振り。
私達20名のために、地域の老若男女を巻き込み、誇らしげに語り踊り、山車の船を曳き、ところてんをご馳走してくれる人々との濃密な付き合い方。額に汗をにじませながら、町の長老方に気を配り走り回る愛沢さん。「少人数でも千退教の皆さんは広めてくれるから嬉しい」と語る池田さん。
お二人の胸の底には、郷土・文化・平和への愛がマグマとなって渦巻いているのかもしれない。
全国に発信したい気持ちを抱いて帰途に着いたのでした。