お知らせ

【房日】100321*里見ウォーク

 

館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は3月28日、城山公園で同日に開催される「里見桜まつり」に合わせ、城山周辺を散策する「里見ウォーキング—『八犬伝』のふるさと〜里見の城山—」を開催する。

同公園駐車場横に集合し、午前10時にスタート。4キロを約2時間かけてゆっくりと歩く。館山城跡と戦争遺跡、千畳敷、八遺臣供養塔、慈恩院、鹿島堀などをめぐるコースで、「里見ガイド」の説明付き。

参加費200円。同フォーラムでは「戦争中に城山は削られてしまったが、まだまだ築城当時の城跡遺構が残っている。ガイドと歩いて、在りし日の城の雰囲気を味わって」と話している。

(房日新聞2010.3.21付)

【房日】100320*地域医療協議会で看護師確保熱く語る

安房地域の医療のあり方について、関係機関のトップが話し合う「安房地域保健医療協議会」が18日、安房合同庁舎を会場にあった。看護師不足が進む中、亀田クリニック院長が看護大学の設立構想、安房保健所長が看護師確保対策などについて語った。

平成24年に看護系の大学「亀田医療大学(仮称)」の開学を目指している亀田クリニックの亀田省吾院長は、医師は足りているが看護師がいない地域の問題点を指摘し、「我々は全国行脚して集めているが、都会から田舎にナースは流れてこない。この地域を守るには、地域の優秀な子たちに看護師になってもらい、地域に根付いてもらうしかない」と大学の必要性を訴えた。

開学にあたっては資金面や教授などの人材確保に苦慮しながらも、公的資金の投入や寄付の募集など県、市町はじめ各方面に支援を呼びかけている現状を報告し、委員らにも協力を求めた。

今年度から看護師確保対策に乗り出している保健所の久保秀一所長は、高校への進路ガイダンスや意識調査の結果を報告。高校2年生の段階では、看護師を含めた医療職を目指す生徒が多くおり、そうした生徒らを看護師に養成し、地域で働いてもらえるよう、ニーズの高い奨学金制度、託児所などを設ける重要性を訴えた。

協議会には、医師会長や館山、鴨川市長など15人の委員が出席。冒頭には、昨年から導入された全県供用型医療連携パス、香取・海匝地域などで実施される地域医療再生プログラムの概要について県の担当者から説明もあった。

【那古小PTA広報】100315*家庭教育学級〜安房国再発見

第三回家庭教育学級〜安房の国を再発見

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2月4日、図書館にて、第三回家庭教育学級が行われました。皆さんは地元館山の歴史についてどの位知っていますか?NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子先生を講師にお迎えして知られざる安房のお話を伺いました。

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安房に残る数々の戦争遺跡にはこの10年間で6千人、いまも年間にして200団体もの人々が国内外から訪れています。大房の砲台跡や赤山地下壕などが有名ですが、たくさんの遺跡があるということはそれだけ戦争の拠点として重要な場所だったことです。もしかしたら沖縄のような地上戦が、この館山で起こっていたかもしれないのです。1945年には米占領軍3500名が上陸し、日本本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれ、館山の街を占領支配しました。ほか、人間魚雷「回天」の格納壕・数々の砲台跡・基地跡など、一時間の講演ではとても足りない戦争の傷跡に驚くばかりでした。

ほとんどの親やよは戦争体験のない世代。遺跡を見ただけでは想像することすらできません。よくわからないから子供にも見せない、敬遠してしまう、という人も多いと思います。安房文化遺産フォーラムの方々は、放置され朽ちかけていたこうした遺跡を、戦争の事実とともに保存しようと調査・研究を続けながら遺跡巡りのガイドもしてくれます。宮城の赤山地下壕は600万年前の地層や、掘削した当時のツルハシの跡も見られるそうです。ぜひわが子にも見せたい、と思いました。そして見塚な遺跡をめぐり、先人たちが築いた知恵や歴史を語り継ぐことの大切さを感じました。

館山海岸通りにある小高記念館という白い建物に、NPO法人安房文化遺産フォーラムはあります。一度足を運んではいかがでしょうか。

(那古小学校PTA広報2010.3.15号)

100314五井九条の会*小河原昇さま

去る3月14日、五井九条の会による館山の戦跡めぐりが行なわれ、一行33名中の一人として参加しました。

地元ボランティアの方々のガイドで赤山地下壕から見学しましたが、中には御真影を安置する奉安殿まで造られていました。

「128高地」の地下壕では、砂岩の壕壁に岩肌を削って扁額を造り、上級指揮官の揮毫と思われる達筆で「戦闘指揮所」「作戦室」などの文字が彫られていました。戦後65年が過ぎても、はっきりと読み取れることに驚きました。圧巻だったのは、戦闘指揮所の天井に、見事な龍が彫られていたことです。兵士の中に彫刻に巧みな人物がいたのでしょう。壕の竣工は昭和19年12月とあり、全国から招集された兵士を昼夜兼行で掘削させたのだと思います。しかし本土決戦が叫ばれる中、いつ戦場と化すかわからぬ状況下で、彼らはどのような気持ちで扁額の文字や龍を彫っていたのだろう。

128高地の眼下には海上自衛隊館山航空基地があり、そこから飛び立ったヘリコプターの騒音が、私たちにはかなり気になりました。このことからも、普天間の米軍基地に対する沖縄県民の怒りが万分の一ほどは理解できたように思います。

この後、戦闘機の掩体壕や従軍慰安婦の碑を見学して戦跡めぐりを終え、最後に一面のポピー畑でポピー摘み放題をおこない帰路に。戦時中は花の栽培も禁じたというが、こうした花摘みができるのも、平和であってこそという事をつくづく感じ取った一日でした。最後に、貴重な戦跡を守り、わたしたちを案内して下さったNPOの方々に、心から感謝申し上げます。

【房日】100314*安房歴史文化研〜明治・大正期の館山紹介

安房歴史文化研〜「明治・大正期の館山」紹介

20日に公開講座

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安房歴史文化研究会(天野努会長)の第4回公開講座が3月20日、館山市コミュニティセンターで開かれる。今回はNPO法人・安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表が、「館山に住んでいた明治・大正期の知識人らの文化交流の一端」について、事例を交えながら研究発表する。

同会によると、明治期の館山は東京と汽船で結ばれ、保養地・避暑地として発展。彫刻家の長沼守敬、建築家の辰野金吾らが住居・別送を構えた。また、水産伝習所や安房中学校を通し、多くの知識人が来訪。水産業で財をなした企業人が多く出たことなどもあり、これらインテリ層の文化交流が起こり、地域社会にも影響を与えた。

愛沢氏は、これまでの調査で得られた知識人文化交流の一端を紹介。また、宮内庁の侍従職を辞して房州に移住した伯爵・万里小路通房の人的ネットワークについて語る。同フォーラムで取り組む「地域まるごと博物館」構想についても報告する。

講座は午後2時から4時まで。定員は当日先着50人で、参加費は200円(資料代)。

100314東京南ブロック9条連*大和田良次さま

南房総に戦争の傷跡をみて、9条の大切さを再確認!

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東京3ブロック9条連合同の平和研修を、3月14日、15日両日千葉県の館山で開催しました。

南ブロック9条連は、これまで「9の日行動」で早朝駅頭ビラ配布及び国会前アピール行動を中心に活動してきました。連日のマスコミ報道では、沖縄の米軍普天間飛行場の移転問題や、核持込に関する密約問題が焦点となっていますが、沖縄の米軍基地を県外・国外と主張してきた鳩山首相は沖縄県内での調整をうかがわせるなど、沖縄県民の期待を大きく裏切る方向へと舵を切っています。

私たち南ブロック9条連は、「9条を守り広める運動」をともに行なっている仲間との交流と、平和について再度捉え返す場として、NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田事務局長から事前学習をしていただき、赤山地下壕、「噫従軍慰安婦」石碑、128高地地下壕などを現地学習し、安房地区9条連の鈴木さんから詳しく説明をいただきました。

広大な赤山地下壕は、「捨石」とされた沖縄戦と松代地下壕とのトライアングルをなし、本土決戦の重要地点であったことや、米占領軍の本土初上陸地であり、4日間ではあっても「直接軍政」が敷かれ、戦後の占領政策がスタートした地であることが話されました。

その後、安房地区9条連の「まちかど博物館」を訪問して、林さんの出迎えをうけ、交流を深めました。

当日は、民宿「六治郎」に宿泊し、3ブロック9条連・安房地区9条連の仲間の今後の活動を更に広めていくための意見交換と親交を深め、明日への飛躍を誓い合いました。

(世界へ未来へ9条連ニュース№185-2010.5.20付掲載)

【日経】100314*「海の幸」会のこと〜入江観

(日本経済新聞2010.3.14付)

「海の幸」会のこと

入江観

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山国育ちの私は、今、四十年を超えて海辺の街で暮らしていることを幸せに思っている。

朝寝坊の私は同行しないが、妻は早朝の海岸歩きを習慣にしている。時折、地曳網に出合うことがあり、鯵や時には平目などを分けてもらってくることがある。「魚が減った」という漁師の嘆きも聞こえてはくるが、そんな時、海の恵みと直につながっているという実感はある。

今日の話は、そのことではない。青木繁の描いた「海の幸」についてである。

この作品は、近代日本の洋画としては最も早い時期に国の重要文化財に指定され、美術の教科書にも載っており、現在は作者の郷里でもある久留米市の石橋美術館にあるが、長年にわたって東京・京橋のブリヂストン美術館に陳列されていたので多くの日本人の眼に触れ、記憶に残っているはずである。

十人の全裸の男たちが、銛に貫かれた、人の背を超える大きな三尾の鮫を、担いで波打ち際を歩いていく。若者の群像は、各々が持つ銛が作り出す横V字の形で鎖のようにつながれている。同時に右から左へ向かって隊列の進行を促してもいる。空も、海も、砂地も荒々しいタッチで、その部分だけ見れば完成にはほど遠い。塗り残しの部分も多い。しかし、青木繁の作品の多くにはそれこそが彼の魅力といえる「仕上げ」という辻褄合わせがない。

当時、地方の高校生であった私は、開館して間もないブリヂストン美術館の一室で、この絵の前に立って戦くような感動を覚えたことを忘れない。そのような言葉の用意もなかったが、絵というものが、始原的な生命の発露であることを、つまり絵の力を初めて教えられたのかもしれない。

「海の幸」が描かれたのは明治三十七年(一九〇四年)。東京美術学校を卒業した二十二歳の青木が、その夏、森田恒友、坂本繁二郎、恋人であった福田たね等を伴って、房州・布良の海岸に滞在した折のことであり、青木繁一行の滞在した小谷家は代々網元であって、今も当代の小谷栄夫妻によって大切に住み継がれている家屋の一室であった。

もう十年以上前から、女子美術大学の吉武研司さんは、毎年、学生を引率して布良海岸に写生旅行を続けているうちに、その小谷家をしばしば訪れるようになったと言う。訪問を重ねる度に、彼は、青木繁の残香を探し求めるようになり、浜の古老から小谷家の仙台のおばあさんが子供のころ、障子に穴をあけて部屋を覗くと、青木繁が、裸の福田たねを描いているのが見えて驚いたというような話を聞きだしたりもしている。

彼は「海の幸」が生まれたその部屋を残せないかという強い思いを抱くようになったという。そういう思いを温めているときに、青木繁と故郷を同じくする久留米出身の元編集者でもあった画家、吉岡友次郎さんと出会い、「海の幸」への思いを共有し、九州や栃木など青木ゆかりの地の紀行を重ねつつ、その部屋を残すことを真剣に考え始めたということである。

二人だけではいかんとも難しく、多くの人に協力を求めたところで、私にも話があった。

もともと、こうした文化遺産を残すということの意味を充分理解しても、それはやりだしたらキリのない話であり、消えるものは消えるにまかせるのが自然の理ではなないかという考えが一方にはあることも承知している。同時に、こうした事業はつまるところ資金集めということであり、そういうことに自分に適正があるのかと自問もしてみた。

二人の男の無料の熱意にほだされたということもあるが、私にNOと言わせなかったのは、若き日に「海の幸」を前にして受けた感動、その一点につきると言うほかなかった。

二人が、小谷家の当主の御理解を得て動き始めたのは当然のことであり、館山市の教育委員会にも相談に出向き、強い関心を示してくれたが、ご多分にもれず予算は無いとのことで、すでに地元にある保存会との連係を探りながら、自分たちが率先して動き出すべきだと活動を開始する。

画家はもとより、評論家、美術館関係者に発起人としての参加を促し、昨年六月、地元関係者を招いて、上野の東京文化会館で設立総会を開催した。

この会の事業目的として「海の幸」が描かれた小谷家の復元、保存を行い、これを広く一般に公開し、同時に南房総地域の環境保存に貢献すること、また、これに関連する調査研究と情報交換などを行うことを確認した。

総会の議を経て、事務局所在地の神奈川県に申請していたNPO法人(特定非営利法人)の認可も、この一月に下りた。

理事長には、北里研究所名誉理事長、女子美術大学理事長でもある大村智先生にお願いしたが、大村先生は依頼と同時に、即座に布良の小谷家を訪問し、実見した上で承諾してくれた行動の人手ある。理事長には錚々たる顔ぶれが揃ったが、その一人であった平山郁夫先生が急逝されてしまったことは残念の極みであった。

NPO法人の認可を受けて、二月末に総会、理事会を経て、いよいよ活動が開始されることになった。

現下の社会、経済状況の下での募金活動が容易ではないことは想像がつくことである。しかし、こういう状況だからこそ、日本の文化が試されているのではないだろうか。

日本全体に広く呼びかけながら、ひとり、ひとりの感動の拠を守ろうという人が、どれだけ居るかが問われているのだと思う。

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○いりえ かん

洋画家、女子美術大学名誉教授。1935年栃木県生まれ。東京芸大卒。62年フランスに留学。帰国後、春陽会会員に。71年に昭和会優秀賞、96年に宮本三郎記念賞。

【房日】100313*エコウォーク〜青木繁ゆかりの地

青木繁ゆかりの地歩く〜27日にエコウォーク

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「海の幸」を描いた画家の青木繁が亡くなってから、来年で100年の節目を迎えるにあたり、たてやまエコツーリズム協議会(三瓶雅延会長)が27日、館山市富崎地区のゆかりの場所を歩くエコウォークを開催する。

青木繁が滞在した小谷家住宅(市指定文化財)や、没後50年に建立された海の幸記念碑などを地元のガイドとともにめぐり、画家の愛した風景と漁村文化を体感してもらう。

同地区は、かつてはマグロ延縄漁で活気づいた小さな漁村。明治時代には、青木繁がここに滞在し、代表作となる「海の幸」が誕生した。現在も、当時の暮らしの面影を色濃く残す漁村風景が多く残っている。

今回のエコウォークは、地域の歴史的環境保全に努めている同協議会のNPO法人安房文化遺産フォーラムが中心となって担当。眼前に広がる大海原を眺めながら、同フォーラムのガイドで地元の人たちとも交流する。昼食には、地元漁港で水揚げされた新鮮な魚介類を使った浜焼きが提供される。

ウォーキングは午前10時30分〜午後3時ごろまで予定。安房自然村=海の幸記念碑=小谷家住宅=布良崎神社=安房節記念碑のコースを歩く。参加費は5000円。

申し込み、問い合わせは、南総JAM事務局の井坂さん(080-6530-4553)か、いこいの村たてやまの工藤さん(0470-28-2211)まで。

【房日寄稿】100313*高橋銑十郎=映画「いのちの山河」を観て

【寄稿】高橋銑十郎(館山白百合幼稚園長)

映画「いのちの山河」を観て

対話と実行 遅れていないか〜恵まれすぎた自然をどう生かすか

(房日寄稿200.3.13付)

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母の生まれ故郷は新潟県六日町(旧南魚沼郡五十沢村)、八海山の麓である。近年、雪の量は少なくなったというが、この冬は雪も多く、連日の雲天で太陽の暖かさから見離された毎日であるとの便りである。

映画「いのちの山河」を観て、敗戦直後、中国東北地方(旧満州)通化から引き揚げ、五十沢村立小学校に通った頃を思い出した。夏は素足で、冬は藁靴での通学であった。11月末から3月いっぱい雪に覆われて雪かき、雪降ろしに追われ、仕事らしいことは何も出来ない。藁草履を編むぐらいである。まさに熊の冬眠生活と同じ様なものである。

それに比べると真冬に水仙、菜の花が咲き、四季を通じ野の幸、海の幸に恵まれた南房州地方の平均寿命が高いのもむべなるかなである。

花木、菜花、しいたけ、ブルーベリーなど年間を通して南房州の産物として生産販売の気力さえあれば眠っている宝庫はまだある。

沿岸水産資源についても同様なのではないか。東京という大消費地を近くに有する有利さもある。

2月末に自らの不注意から風邪をこじらせ肺炎になり安房地域医療センターに1週間ほどお世話になった。ちょうど房日新聞では「看護・・・守ろう地域医療II」が連載されており、考えさせられることが多かった。

医療制度は各国の歴史・文化に影響されており、国家間の比較は困難であるが、北欧を含むヨーロッパ、アメリカに比べ、国民皆保険制度のもとでの日本の医療制度水準は決して低いものではないと思う。経済的に恵まれていなかった45年前の学生時代に肺結核の手術をし、また12年前にC型肝炎にかかったが、いずれも十分な治療を受けることができ幸せである。

昭和20年代の食料不足、栄養失調、絶対的窮乏化の傾向は現在は払拭されている。不足しているのは、対話を通して老若男女の豊富な経験と若き気力を結びつける実行力である。それこそが「豪雪、貧困、多病」の「いのちの山河」沢内村を生まれ変わらせたものである。

2009年のOECD(経済協力開発機構)の統計によると、アメリカの総医療費はGDPの16%と飛び抜けて高くなっているが、これは一部の富裕層に高度の医療が偏っているとしか思われない。OECDの平均は9%であり、日本は8%と平均以下である。それにもかかわらずアメリカの年間受診回数は3・8回、日本は15・8回、在院日数はアメリカ7・8日、日本33・8日である。

これらの数字から医療内容が直ちに比較考量されるわけではないが、一つの判断指標である。アメリカの医療制度は歴史的にカーネギー財団、ロックフェラー財団の影響が強く、現在でも病院、保険会社、製薬会社、医療材料会社など資本市場の利益団体の手中にあるといわれている。国家が医療に深くかかわっている日本を含めた他の国との大きな違いである。

現在、オバマ大統領が苦境に立って医療制度改革が後退しつつあるものも既得権益を守ろうとする保険会社、製薬会社等の抵抗にあったのではないかと思われる。

教育と医療は社会的共通資本として、社会にとって最も重要なものだ。市場の論理、一部の私的利益集団によって制度・内容が左右されてはならない。私たちの生活が平和的に発展持続する基盤となるのが教育と医療である。

南房州はあまりにも自然環境に恵まれている。批判を恐れずに極言すれば、為政者が無為無策であっても最低限の生活が確保されるといえなくもない。

豪雪、山間僻地等の劣悪な自然環境にありながら、住民と偽政者が対話の下に制度改善を推進している地域がある。

しかし、南房州はそれらの地域に比べると、遅れをとってきているのが現状かもしれない。それが準看護学校、看護専門学校の相次いでの閉校という現実となって表われてきている。

 

=房日新聞2010.3.13付=