メディア報道

【朝日】950226=戦後50年、平和を考える集い

「第二の沖縄になる可能性もあった」

・首都防衛、要塞の郷土史を証言

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第二次大戦中、首都防衛の要塞地帯だった郷土の歴史に光を当てる「戦後五十年、平和を考える集い」実行委員会の第一回講座が25日、館山市コミュニティセンターで開かれた。国民に知らされなかった戦争を、若い世代に伝えようという試みで、調査や研究の成果が報告され、参加者から多くの証言があった。

報告をしたのは、安房郡市の高校教諭を中心に組織された実行委で、事務局を務める県立安房南高の愛沢伸雄教諭と同高の石崎和夫教諭。

愛沢教諭は、1月23日の安房郡市の戦跡調査を踏まえ、日本側の本土決戦と米国側の佐久宣を両国の資料を示して説明。1945年7月18日夜の、米巡洋艦による白浜町レーダー基地艦砲射撃もその一環だったと報告。

「郷土は、知らぬ間に第二の沖縄になる可能性があった」と語った。

石崎教諭のテーマは「安房高女(現南高)の校史から見た勤労動員」。15歳から16歳の少女が、船橋市の工場で1ヵ年から2ヵ年も兵器作りをしたと説明。44年から45年にかけ、安房郡の女学校だけでも3千人を超える女生徒が動員された、と報告した。

その後の交流会では、白浜の艦砲射撃の証言が目立った。館山市長須賀の写真家で戦艦・長門に乗りミッドウェー海戦にも出撃した樋沢正男さん(73)は「当日は自分の結婚式。朝から空襲警報が鳴り、夜は非常呼集でえらい目にあった」。レーダー基地のそばに実家がある鴨川市大里の黒須礼子さん(62)は「木に登って、発砲するアメリカの軍艦を見た。軍の発表は潜水艦だった」。館山市那古の伊藤餘一郎さん(87)は「陸軍参謀総長、杉山元・元帥が市内の旅館に泊まっており、艦砲射撃で防空壕に避難してもらった」と語った。

他に「貴重な戦跡を後世に残すよう、市に働きかけたい」という意見も出た。

【赤旗】950127=朝の風、50年後のフィールドワーク

(千葉県)内陸部の安房郡三芳村には特攻兵器「桜花」の基地があった。「桜花」といえば、大型攻撃機の腹に抱きかかえられ、目標近くで切り放される人間爆弾である。大戦末期には南房総の山中からカタパルト(射出機)で射ち出して、ロケット噴射で山を越え沖合の艦船に人間もろとも突入させようとしたのである。

【房日】950113=戦後50年、埋もれた戦史調査

戦後50年、埋もれた戦史調査
高校教諭らが実行委員会
8月に平和を考える集い開催へ
(房日新聞1995.1.13)

第二次世界大戦の終戦から五十年をきっかけに、安房地域の戦史を掘り起こし平和の意味を後世に語り継ごうと、高校の教諭らによってこのほど「戦後五十年・平和を考える集い」実行委員会(会長・加藤俊夫安房高教諭)が組織された。

房総半島は、首都・東京を守る戦略拠点として重要な位置にあり、戦争末期には米軍上陸も想定されていたという。このため、安房地域には戦時中の施設や、悲話も多い。こうしたことから思想、信条を超えて賛同者を募り、戦時中における安房地域の役割、埋もれた戦争遺跡を調査研究して、戦争の悲惨さを確認しようというもの。実行委員会では八月に、資料を展示した「戦後五十年・平和を考える集い」を開催する計画。活動の第一段階として、今月二十二日に、戦争遺跡を訪ねるフィールドワークを予定している。

実行委員会組織のきっかけは、平成五年十月下旬、館山市で開かれた「学徒出陣五十周年学徒兵と関係者が語る『館砲』『洲ノ空』展」。この展示会に関わり、調査を行った安房南高教諭の愛沢伸雄さんが、同展示会が大きな反響を呼んだことなどから、さらに戦後五十年をきっかけに、調査研究を進め、風化していく中で、正確な史実をは握して後世に残そうと、賛同者を募った。呼びかけに対し、これまでに高校教諭、一般市民ら八十二人が加わった。

実行委員会では、今後、小、中学校教諭にも呼びかけて賛同を増やし、市民の情報を得ながら調査を進めていく予定で、最終的には、郷土史研究や、学校教材に役立つ本にまとめたい考え。

今月二十二日に行われるフィールドワークでは、バスで、館山市宮城の旧海軍航空隊赤山地下壕要塞群、三芳村下滝田にあるロケット特攻機「桜花」発射基地跡などを視察する。

定員五十名で費用は二千円。当日、午前九時三十分までに市コミュニティセンター駐車場前集合。

申し込み、問い合わせは愛沢さん(夜間のみ電話27-6350)へ。