メディア報道

【白浜民報】060820=白浜の艦砲射撃

「白浜民報」第984号-2006年8月20日発行

記録し伝えたい白浜での戦争

白浜民報ではこれまで、多くの方々のご協力を得て、白浜での戦争の記録をしてきました。このたび、白浜への米軍艦砲射撃の貴重な体験記を黒須さんから提供していただきましたのでお読みください。

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白浜の艦砲射撃
鴨川市 黒須禮子

 

●20年7月18日深夜

昭和20年7月18日の真夜中、私たちの村(白浜町)は艦砲射撃を浴び、23名の死傷者を出した。 その夜、ものすごい轟音と家がなぎ倒されるような衝撃に跳ね起き、裏の防空壕にとび込んだ。 とたん、防空壕の壁土がバラバラと崩れ落ちてきた。

駄目だ。

反射的に土手をかけあがり、「凄いよっ」と叫ぶ弟のあとから、横に張り出している梅の木の枝にとび乗った。 なぜかあたり一帯が明るく、野島崎灯台の左方向の水平線上にくっきりと黒い船が2隻並び、その周囲をまるで花火が炸裂する時のようにバチバチと火花が散り、ドカーン、ズズーン、ドカーン、ズズーンと体中に響く衝撃がきた。 父母、弟妹、隣の家の人もいたが、誰も声も出さない。 と、次の瞬間、忽然と船は水平線の向こうに消えていってしまった。 その間、長い長い時間に思えたが実際には数分間のできごとだった。

 

●島崎で死人が

翌朝、夜明けと共に村内は慌ただしくなり、大人達が走り回っていた。
「城山が禿げてるようっ」
「田がアナだらけだようっ」
「島崎で死人がでたってようっ」、

私達子どもも大人の合間を縫って駆け出した。屹立した城山の壁に砲弾が当たったらしく、山肌が茶色くむき出しになってしまっていた。 すぐ隣の山麓が私達の集落である。手元が1㍉狂えばこっちに来たところだ。田圃への道も灯台への道も既に縄が張られ、警防団の人達が警戒に当たっていた。張られた縄の遠くから覗くと、砲弾の穴は田圃一枚の大きさですり鉢型をしている。厚い鉈を何枚か重ねたような、両側が鋭くギザギザになった鉄板も積んである。城山から五、六百㍍離れた私の家でさえあの衝撃だったのだ。田圃のすぐそばのこの家の人達はどんなだったのか。

●潜水艦だというけど

砲撃が終わってすぐに勤めている農業組合に出かけた父が、お昼に帰ってきた。
「役場では潜水艦だというけど、潜水艦にそんな装備はないから巡洋艦か駆逐艦だろう」
と母に言っていた。
海軍に行っていた父は他の人より詳しかった。
「今の話しと城山の電波探知機のことは人に言うなよ」
と私達に言った。

城山の昔の間道といわれている鬱蒼と木の繁る急坂を、砲台や計器板を多勢でずり上げている兵隊さん達に、子どもたちみんなで芋井戸の水を汲んでいってあげたことがあったので、念を押したのだ。 当時は、軍のことなど知っていても言わないことが鉄則だった。

夜になると、また艦砲射撃があるのではと落ち着いて眠ることができない。

「島崎の人は山を越えて滝山(山の向こうの地区)へ逃げるってよ」という話が伝わってきた。うちでも山二つを越えた木背負田という山の北側の斜面に山小屋を作って、子どもを避難させることになった。

●山小屋で

「『興国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ』について説明せよ」という女学校の国語の入試問題。試験の最中に空襲警報が発令され、待避する場面もありながらのこの四月に女学校に入学したばかり。このまま山小屋に行ってしまうと学校はどうなるのか。

「母ちゃん、学校はどうする?」

「こんな時学校なんか行ってられないんだよ。米軍が攻めてくるかも知れないんだから」

兄も姉も船橋の日本建鐵へ動員中。弟と妹たちの中で私が一番上。鍋、釜や身の回りのものをまとめて背負い、山へ登った。 若い時、大工の修行をしたことのある父は、古い鶏小屋のトタンを運び、立木を使って床の高い快適な小屋を作ってくれた。私と弟は谷川まで降りていって水を汲み・薪を集めておかゆ(高梁やムギを混ぜて)を作り、味噌汁を作るのが仕事だった。勿論、新聞もラジオもない、夜になっても灯火もない。昼間、空高くB29が飛んでいくほかは蝉とひぐらしの声だけである。

 

●安房中3年の生徒が

日中は里の畑に行っている母が、

「亡くなった人の中に安房中の生徒がいたってよ」

との情報を持ってきた。M君という三年生の男子生徒だった。蔵の二階で勉強していて直撃をされたとのこと。他に直撃された天井の梁に肉片が張り付いていたとも聞いた。あの砲弾の破片からも、当たれば人間の首も吹き飛ぶと思った。中学校も女学校も、四年生以上は工場に動員され三年生が最上級生。後ろに太い煙突をつけ、薪を燃やして走る故障の多い木炭バスが白浜から館山迄の唯一の交通機関。もう自転車も手に入りにくい時代。

M君たち三年生の男子五、六人が自転車通学。力がなくてあえぎながら頂上のトンネル迄の坂を登るバスは、自転車よりも遅かった。自転車通の男子生徒達は、時々そんなバスの窓に手をかけて一緒に走り、中の友達と歓談したりした。M君もその中の一人で、笑顔の明るい、前途有望な少年だったのだ。

●事実が陽の目を

それから1ヶ月もたたないうちに終戦。軍の機密だったせいか、昭和50年後半になっても「白浜の町史には載っていない」ということだった。

平成になって、安房南高の先生が米軍調査報告書の中からこの事実の記録を探し出し、初めて証拠のある事実として陽の目を見た。だが、今生存している民間人の中で、これを実際に見たものは私と弟の二人だけではないだろうか。

 

●白浜艦砲射撃の歴史的背景

愛沢伸雄先生が米軍の報告書によって明らかにされた事実。

射撃したのは潜水艦ではなく、アメリカ第3艦隊所属第38機動部隊内の巡洋艦4隻と駆逐艦9隻。16キロ沖合から夜間レーダーによって6インチ砲弾240発を、18日23時52分から同57分までの5分間、城山のレーダー基地めがけて発射した。レーダー基地には当たらず島崎村に37発が落ち、6人が死亡17人が負傷した。

●7月18日という日

7月16日:アメリカ、原子爆弾実験に成功。

7月17日:米・英・ソ3国首脳によるポツダム会談〜8月2日。

7月26日:米・英・ソ・中、ポツダム宣言発表、日本に無条件降伏か壊滅かの選択を迫る。

 

白浜を砲撃した艦隊は、14日には釜石、15日には北海道室蘭、17日には日立・水戸を砲撃し、多数の市民をも殺傷していた。空母15隻など95隻からなる第3艦隊は全土を空襲してまわった。目的は、日本の軍事力を破壊し国民の戦意を失わせ、ソ連の参戦以前にアメリカ軍による本土制圧を実現することにあった。白浜への艦砲射撃は、アメリカの単独占領⇒日米安保条約による日本の基地化とアジアでの緊張の存続という、現在につながる出来事であったと言えよう。

【房日:展望台】060815*戦後生まれが語り継ぐ

◎戦後生まれが語り継ぐ

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もう13年も前になるだろうか。当時、高校教諭だった愛沢伸雄さんと知り合い、南房総いったいの戦跡の案内を受けた。「震洋特攻基地」の穴、草むした「特攻桜花」のカタパルト発射台、掩体壕やあ香山地下壕などでも、息を呑んだ。一日案内してもらい、房州の戦跡の多さに驚いたものだ。突然の訪問に近所の人からも不審がられもした。

愛沢さんはその後もずっと、戦跡調査を続け、埋もれていた〝負の遺産〟を世に知らしめた。最初はたった一人の地道な活動だった。私財を投げ打ち、個の時間を費やしてまで、没頭した。世界史が専門で、子どもたちに平和教育をするには、こうした調査が必要だった。学徒出陣50年、戦後50年などの節目を経て、愛沢さんの調査は拍車がかかる。やがて池田恵美子さんという賛同者も現れ、一昨年にはNPOも立ち上がる。現在、赤山地下壕は平和教育の拠点として、大勢の人を受け入れていて、館山市指定文化財にもなった。平和のために、ひたすら歩んだ愛沢さんの動きは、けっして蟷螂(とうろう)の斧ではなかったのである。

点滴穿石。当初は行政サイドにも煙たがられたが、やがてNPOの存在が地元にとって必要不可欠となる。戦跡ガイドも30人になった。この地域の活性化を考えるとき、このNPOのパワーはけっして小さくない。

池田さんはもちろん、愛沢さんも戦後生まれである。戦争を知らぬ世代が、戦跡を調査し、その保存を訴える。失礼ながら違和感はないかと、問うてみた。2人は一笑に付した。愛沢さんは言う。「確かに最初はコンクリートの施設跡や残骸の調査だった。当時のことを知る世代の方が詳しいに決まっている。だがわれわれは、地元の人がこの戦跡とどう関わったかを織り交ぜながら語り継いでいる。体験の有無の問題ではない」。体験者でなければ語れないのなら、この世には伝えられないことが山ほどある。すでに戦後生まれが日本人の4分の3を占めている現在、戦後生まれが動かなければ、平和への道は開けまい。

愛沢さんと池田さんは口をそろえる。「地元の人がどう戦争に関わり、どう平和に導いたか。地元文化を含めてそれを伝えていきたい」。NPOの名は「南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム」という。名称からして遠い将来を見据えている。愛沢さんはNPOの後継者として、自身の長女(25)を1年かけて説き伏せた。

きょう8月15日は終戦の日で、平和への思いを刻む日。戦跡調査は孤軍奮闘から、千軍万馬の輪となった。房州の未来はけっして暗くない。

【東京】060624*ハングル「四面石塔」

1624年、館山の寺にハングルの石塔建立

朝鮮出兵で連行偉大な石工刻む?

(東京新聞 2006.06.23)

ハングル石塔が立つ大巌院の境内

千葉県館山市の古寺「浄土宗仏法山大巌院(だいがんいん)」に珍しい石塔がある。建立は江戸初期の一六二四(元和十)年で、四つの面を刻んでいるのは、日本の漢字、インドの梵字(ぼんじ)、中国の篆字(てんじ)、朝鮮半島のハングル。それぞれ「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と名号(仏の名、尊号)を記しているが、韓国でこの時期に建てられた石塔や碑に、ハングルを刻んだ例はないというのだ。房総半島の突端の町に残る「ハングルの謎」とは…。

 

■韓国にも例ない

「寺を訪れた韓国の大学の先生に『これは国宝に値する』と言われたことがあります。私は詳しい歴史はよく知らないのですが」。石川龍雄住職の妻順子さんは笑う。

JR館山駅から南東に約1.8キロ。古くからの住宅や水田に囲まれた大巌院の境内にある「四面石塔」は、玄武岩質で一辺約50センチ、高さ約2.2メートルの重厚な姿だ。周囲には、水を張っておく石造りの「水向け」が四つある。石塔の南面は漢字、北面は梵字、西面は篆字、東面はハングルが刻まれている。

特定非営利活動法人(NPO法人)南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム理事長で元県立高校教諭の愛沢伸雄さん(54)によると、こうした石塔は日本全国でも例はなく、これを模したとみられる石碑が同県富津市の松翁院に一つあるだけだ。

朝鮮半島では、石碑などには漢字を使う場合がほとんど。主に女性や子どもに使われた歴史のあるハングルを刻むことがあっても、「碑に触れるな」などの注意書きに限られるという。

国内外のどちらにしてもユニークな存在の石塔は、北面に漢字も添え書きされている。読み取れるのは「山村茂兵が生前供養の儀式をし、水向けを寄進した。元和十年三月十四日雄誉」との内容だ。

「水向けを寄進」とは石塔全体と解釈されており、「雄誉」は浄土宗の総本山・知恩院(京都)のトップに上り詰めた雄誉霊巌(おうよれいがん)上人(1554-1641年)を指す。大巌院も1603(慶長8)年に霊巌が創建した。石塔については、漢字の筆跡の特徴や添え書きの花押から、「山村茂兵」のために霊巌が筆を執ったとみて間違いなさそうだ。

では、石塔のハングルは何に由来するのか。そして、「山村茂兵」とはいったい何者-。

「石塔のハングルは、今とは違っています。『東国正韻』式という十五世紀半ばの表記にのっとっていて、中でも『仏説阿弥陀経諺解』という仏教本の書体に似ているのです」。『千葉のなかの朝鮮』(明石書店、千葉県日本韓国・朝鮮関係史研究会編著)の編集にかかわった県立千葉女子高教諭の石和田秀幸さん(49)が説明する。

豊臣秀吉の二度にわたる朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592-93年、1597-98年)は、朝鮮半島から連行された陶工や儒学者、印刷技術者らが、後の江戸文化の開花に大きな役割を果たしたとされる。石塔が建てられた1624年には、こうした人材も日本に溶け込んでいただろう。石和田さんは「日本に持ち込まれたハングルの仏教本を、石塔の見本にしたのかもしれない」という見方を示す。

また、「山村茂兵」についても、半島から連れてこられた石工だったというのが愛沢さんの考えだ。

石塔は「伊豆石」と呼ばれる貴重な石材で、江戸城の築城や江戸幕府が許可した建築事業以外には使用されなかった。2メートルを超える高さと水向けを持つこと、高僧の霊巌から生前供養の儀式を受けたことなども併せて考えると、山村茂兵が高い技術を日本に伝えた石工として尊敬されていたと推理できるという。「山村茂兵が日本人であれば、あえてハングルを刻む必要はないのではないか」と愛沢さんは話す。

館山市立博物館に残る「霊巌和尚伝記」には、朝鮮通信使が日光参詣の後、大巌院を訪れたとの記述はあっても、石塔や山村茂兵に触れた部分はなく、石塔の謎を解明するのは難しい。

1970年、韓国の大学院生が大巌院を訪れ、石塔のそばに現代ハングルで「南無阿弥陀仏」と記した碑を建てた。朝鮮出兵や終戦までの植民地支配など、日本と朝鮮半島は断絶の歴史を持つが、今では石塔のハングルが日韓両国の交流のシンボルになっている。

@(文と写真・出来田敬司)

【房日】060304*病気療養しながら〜愛沢綾子絵画展inカフェ・ド・ヴォン

病気療養しながら風景画など描く

愛沢綾子さんの絵画展始まる

〜千倉のカフェ・ド・ヴォンで

(房日新聞2006.3.4付)

館山市に住む愛沢綾子さんの絵画展が、千倉町大川にあるギャラリー&カフェ「カフェ・ド・ヴォン」で始まった。自画像や風景画などの水彩画、パステル画15点を展示している。月曜日、第4土曜日を除き、31日まで催している。無料。

愛沢さんは館山市に生まれ育ち、安房高卒業後、日本女子大学に進学するが、病気療養のため退学。2年前に帰郷し、自宅療養をしながら絵画制作に励んでいる。

小さいころ絵を習っており、昨年、千倉町と富浦町を会場に開催された安房・平和のための美術展に出展した際、カフェ・ド・ヴォンのオーナーである青木裕子さんと知り合い、絵の具やスケッチブックをプレゼントされたのを機に、絵を描くことを再開。これまで自宅に引きこもりがちだったが、「自分の絵を見てくれる人がいるなら、ぜひ個展を開いてみたい」と、青木さんの勧めで初めての絵画展「こころもよう」を開くことになった。

作品は「BANANABANANA]「月光」「繚乱」「ざわめき」「千倉の海」「心もよう」などのタイトルが付けられた自画像、抽象画、風景画など15点。またポストカードもあり、それぞれ販売もしている。筆を使わず、手のひらや指先で描いた作品で、自身の思いが作品からも伝わる。

感性あふれる作品に、訪れた人たちは「これすばらしい作品ですね」と関心し、1点ずつ見入っていた。「指の感触が楽しく、絵を描くと心が落ち着きます。自分の心模様を見てもらえればうれしいです」と綾子さん。

綾子さんの良きアドバイザーで、運転手役も務める姉の彰子さんは「絵が妹の生きるきっかけになっています。自分ができることで社会とのつながりが持てるようになりました。病気でもこうして元気に生きていることを、多くの人に知ってもらえれば幸いです」と話していた。

展示に関してはカフェ・ド・ヴォンの青木さん(090-9369-6152)、問い合わせは愛沢彰子さん(0470-27-6350)へ。