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【房日講演抄録】130223*内村鑑三の進路を変えた布良の神田吉右衛門翁

【講演抄録】 (2013年2月23日 房日新聞)

内村鑑三の進路を変えた布良の神田吉右衛門翁

潜水器アワビ漁を村有に、卓越した漁村のリーダー

千葉の海と漁業を考える会代表 平本紀久雄氏

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無教会主義を唱えたキリスト教思想家、内村鑑三(1861-1930)は水産伝習所教師だった明治23年(1890)8月、漁業調査のため生徒を引き連れて布良(現・館山市)を訪れている。内村はその著作『予が聖書研究に従事するに至りし由来』で、布良で出会った神田吉右衛門という老人とさまざまな話をしたことが契機となって「本職として従事した実業をなげうった」と述べている。

内村は札幌農学校を卒業後、開拓使に勤務して水産を担当。渡米・帰国後の明治22年、水産伝習所の教師となったが、神田と出会った布良の出張を終えるとすぐに退職する。水産技師から宗教家・思想家の道に進む大きな転機だった。

この時内村は29歳、神田は56歳。神田は「いくらアワビの繁殖を図っても、いくら漁船を改良し、新奇な網道具を工夫しても、彼等漁夫たちを助けてやることはできない」「なによりも先に(刹那的に生活をする)漁師を改良しなければだめだ」と話したという。

私は昨年9月、内村の研究者で同郷・同窓の大山綱夫氏(元恵泉女学園短大学長)に「神田吉右衛門とはどんな人物だったのか知らないか」と尋ねられ、すぐに研究・調査を始めた。

富崎小正門脇に神田翁の顕彰碑がある。大正2年の建立。この碑ができた時には記念の絵はがきもつくられた。

天保5年(1834)生まれで25歳の時に神田家に婿養子に入り、すぐにリーダーとして頭角を現す。明治6年に磯根アワビ売買の私有を廃し、村の共有に改めさせたというからすごい。この時はアワビの収益から村民に義捐金を募り、学制発布で発足したばかりの小学校に学資援助を行っている。

同15年には自らの発意で潜水器によるアワビ漁業を起こし、これを村有とした。白浜や大原など他地域ではすべて私企業が経営していた。布良では道路や漁港、水道など公共事業費のすべてをアワビ漁の収益でまかない、その残った余りを329軒の村人に分配したという。

同18年には相浜から乙浜までの漁業組合頭取になり、マグロ漁の遭難救助積立金制度をつくって漁師の相互扶助の道をひらいた。

同26年には富崎村村長に推され、8年務めた。安房水難救助会も設立した。同29年にはマグロ船の船頭認定制度を設けて証書を交付している。やはり内村が影響を受けるほどの人物だったといえる。

明治29年から33年にかけ、3回にわたり布良で「水産談話会」という催しが行われた。議事録が残っている。これを見ると、神田村長の教育者としての働きのすごさが分かる。出席者は尊重以下区長、勧業委員、区議、はえ縄船主と船頭合わせ、29年の場合計100人。評議では▽水夫の雇い入れ契約の届け出徹底▽船頭の資格要件、給与額の確認▽賭博禁止と罰則-などが話し合われている。遭難防止対策、新しい漁業法の工夫についても、村長が積極的に発言している。

神田吉右衛門は明治35年(1906)に69歳で死去したが、葬儀の資料によると数百人が参列し、村の児童や隣村の卒業生も集まったという。

わずか5か月でこれだけのことがわかったが、富崎の歴史についてもっと知りたい。布良の人は地元に伝わる話をぜひ収集していただけないか。神田翁の働きを紙芝居や小学校の副読本にできればいい。

市立博物館には明治44年から昭和6年まで吉右衛門の親類である神田辰太郎が残した膨大な「日誌」が残っている。どなたかぜひ読み解いてくれれば。

 

(本稿は館山市の日本キリスト教南房教会で17日に行われた市民講座の内容を要約、再構成したものです)

【房日】140219*福原有信を語るつどいに200人が聞き入る

郷土の偉人の功績語る、資生堂創業者福原有信

つどいで市民ら200人が聞き入る

(房日新聞2014.2.19付)⇒印刷用

ふるさと松岡の偉人・福原有信を語る「ふるさと松岡の偉人・福原有信を語るつどい」が15日、南総文化ホールで開かれた。没後90年の記念行事として、地元の同市松岡区に発足した「福原有信を語り継ぐ会」が、NPO法人安房文化遺産フォーラムとの共催で開催。集まった市民ら200人が、郷土が生んだ偉人の功績に耳を傾けた。

つどいに先だって行われた午前の現地見学会には40人が参加。福原が鳥居を奉納した松岡八幡神社や菩提寺である小塚大師などゆかりの地をめぐった。

午後1時半から開会したつどいでは、資生堂企業資料館(静岡県掛川市)の佐藤朝美氏が「福原有信と資生堂〜人びとの幸福と健康のために」をテーマに記念講演。佐藤氏はこの中で、福原が里見氏の家系であることや、幼い頃から漢方医の祖父から薬草について学び、医薬分業の先駆者として資生堂薬舗を起こしたこと、帝国生命保険会社を設立経営したこと、長女が館山病院の初代院長川名博夫に嫁いだことなどを語った。

第二部の座談会では、福原家分家の福原勇さん、語り継ぐ会世話人の早川萬専さん、早川政義さん、吉田茂徳さん、安房歴史文化研究会長の天野努さん、安房文化遺産フォーラム代表の 愛沢伸雄さんが登壇。「福原家の敷地には30年くらい前まで薬草が残って生えていた」「海上安全祈願の金毘羅山には福原家と布良の人物名が刻まれた鳥居がある」「布良の海難対策として帝国生命保険が有益であった」「後に千葉銀行となる安房銀行を設立した」「館山病院の震災復旧に尽力した」ことなど、ふるさとへの貢献も大きかったという報告があった。

また、福原とともに日本薬局方の制定に尽力した日本を代表する法制学者、細川潤次郎が同市国分寺の万石騒動三義民200回忌記念碑の撰文者であり、小塚大師にある福原家の墓と大神宮七人様の犠牲者2人の墓が隣り合っていることから、「これらの農民一揆で先人が連帯感と犠牲者への補償を重視していたことを福原が知っていた可能性が高く、起業の精神につながっていたのではないか」という、これまでになかった仮説が愛沢氏から発表された。

地元松岡区では、資生堂が企業メセナとして推進している生物多様性保全の椿の森プロジェクトに賛同し、福原生誕の地に椿を植林するとともに顕彰碑を建てたいという発言もあった。

【東京】150704*親子でぶらり、赤山地下壕跡

親子でぶらり、赤山地下壕跡

戦時に想いはせ歩む250メートル

(東京新聞2013.7.4付)

こんもりと茂った赤山(標高61メートル)の麓にある入り口をくぐると、湿気を帯びた冷機に包まれた。

「夏場は22度。冬でも18度くらい。年間を通じてほとんど気温が変わりません」。案内してくれた館山市教文化財係長の杉江敬さんが話す。

壕が掘られた時期は定かではないが、館山に置かれた海軍航空隊の軍人ら3000人が避難、生活もできるように、昭和19年の秋ごろから工事が始まった、という説が有力だ。

幅10メートルほど、奥行き20メートル前後の「部屋」がいくつも、縦横に走る幅2メートルほどの通路で結ばれている。「部屋」の部分も含めて全長1・6キロだ。終戦まで堀られ続けていたといい、未完成のまま工事は中断したようだ。

「計画では掘られた壕の上に、さたに2層の壕を掘る予定だったとされます。上に向かって掘ろうとした痕跡も残っています」と杉江さん。「発電設備の跡がある、『地下壕で給料の計算をした』『服が大量に置かれていた』などの証言があります」という。

B-29による空爆はなかったが、艦載機による攻撃は受けた館山。戦局が厳しさを増す中で、壕にこもって業務をしていたことがしのばれる。

砂岩、凝灰岩が主体で風化しにくく、保存状態は全国でも有数だ。それでも崩落の危険があるため、現在公開されているのは250メートルだが、関東では最長だ。

「公開のための調査が入る前はマッシュルームが栽培されたり、子どもたちの格好の『秘密基地』になっていたようです。もうおくまでは入れなくなりましたが、貴重な歴史遺産を守っていきたいですね」と杉江さんは話している。(仁)

★ 赤山地下壕

千葉県館山市宮城192の2、JR館山駅からバス、みやぎ下車3分。入壕料一般200円、小中高生100円。午前9時半から午後4時まで。原則第3火曜と年末年始休壕。NPOによる有料ガイドあり。問い合わせは豊津ホール=電話0470・24・1911=へ。

ひとこと

国立歴史民俗博物館の林部均教授は、「戦争を考えるうえでいい場所だと思う。房総の海へ行ったらぜひ立ち寄りたいですね」と推薦。

● 足を伸ばせば

★ 洲埼灯台

館山市洲崎1043、JR館山駅からバス30分。洲埼灯台前下車5分。大正8年に点灯された高さ15メートルの灯台。東京湾に出入りする船舶の目印となっている。灯台は登ることはできない。近くに民間の有料駐車場あり。

★ 城山公園

館山市館山351の2、JR館山駅からバス、城山公園前下車5分。里見氏の居城だった館山城を整備した公園。眺望が開け、条件がよければ富士山も望める。芝生広場に土産処「里見茶屋」も。中腹には里見氏や安房の歴史を紹介する館山市立博物館がある。また、山頂の館山城では南総里見八犬伝に関する絵草紙、読本、錦絵などを展示、八犬伝博物館とも呼ばれる。共通観覧券は一般300円、小中高生150円。原則月曜休館。電話0470・23・5212.

【房日】140131*赤山地下壕を無料ガイド

赤山地下壕を無料ガイド

安房文化遺産フォーラム 毎月第1日曜日の午前中

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NPO法人安房文化遺産フォーラムによる、館山市指定史跡「赤山地下壕」の無料ガイドサービスが、観光客や市民らから好評だ。戦争遺跡として同市教委が2005年に史跡指定してからまもなく始めたもので、毎月第1日曜日の午前中、壕前に集まった人たちを案内している。

赤山地下壕跡は、全長1・6キロにも及ぶ全国的にも大きな防空壕。壕の建設に携わった旧海軍航空隊兵士の複数の証言から、敗戦色濃くなってきた1944年以降に建設工事が始まったことや、終戦の日(45年8月15日)まで工事が続けられ、未完成であることなどが明らかになっている。

同フォーラムによると、「館空」の機能を維持するための格納施設がつくられ、緊急の兵舎や医療施設として使用されていたという証言があり、地下壕内の形状から見て、基地の司令部・奉安殿・戦闘指揮所・兵舎・病院・発電所・航空機部品格納庫・兵器貯蔵庫・燃料貯蔵庫などの施設があったと考えられ、全国でも極めて珍しい航空要塞的な機能をもった地下壕であったと推察される。

この戦争遺跡を観光資源として活用しながら、多くの人に語り継いでいこう、と同フォーラムが、ガイドの練習も兼ねて少人数を対象に毎月第1日曜日に無料ガイドサービスをスタート。すでに10年近くを経過するが、ほとんど欠かさず継続。天候にもよるが、多い日には50人以上を案内することもあるという。2月2日が今度の無料ガイドの日で、「ぜひ利用してください」と同フォーラム。

予約不要で、豊津ホールで午前9時半から午前中いっぱい受け付けている。案内は無料だが、入壕料は、一般200円、高校生以下100円。

【房日】140211*福原有信の功績と精神を未来に

功績と精神を未来に

資生堂創業者区府原有信を語るつどい

(房日新聞2014/2/11付)

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館山市出身で資生堂創業者福原有信の歿後90年事業として、「ふるさと館山松岡の偉人、福原有信を語るつどい」が15日午後1時半から4時半まで、県南総文化ホールで開かれる。地元有志でつくる福原有信を語り継ぐ会、同市松岡区、NPO法人安房文化遺産フォーラムの3者が主催、房日新聞社など後援。福原の功績とその精神を地域の誇りとして、未来に語り継いでいこうという。無料。

当日は、資生堂企業文化部企業資料館の佐藤朝美氏が記念講演。安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長をコーディネーターに、福原勇さん(福原家の分家)、早川萬専さん(語り継ぐ会世話人、松岡区長)、早川政義さん(同世話人代表)、吉田茂徳さん(同世話人)、天野努さん(安房歴史文化研究会長)、愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)の6人が座談会形式で語る。

関連行事で、同日午前10時半から11時半に「福原有信のふるさと松岡を歩こう!」も開く。阿波特別支援学校前に10時20分までに集合し、松岡八幡神社、福原家跡、小塚大師(福原家之墓)を巡る。

福原有信は嘉永元年(1848)に松岡村(現館山市竜岡)の医者の家に生まれる。17歳で上京し西洋薬学を学び、海軍病院薬局長を経て、明治5年に日本初の調剤薬局「資生堂」を東京・銀座に開き、医薬分業の礎を築いた。房州白土を使った「福原衛生歯磨石鹸」を開発し、近代日本の公衆衛生に大きな足跡を残している。

また明治21年に帝国生命保険会社を設立し、水難事故の多かった漁村の救済にも貢献。同29年には安房銀行を設立し、ふるさとの経済振興にも大きな役割を果たしている。大正13年に76歳で他界した。

長女は館山病院の初代院長、川名博夫の妻となり、四女は日本資本主義の父といわれる渋沢栄一の次男に嫁いだ。館山病院は関東大震災で倒壊したが、福原の支援で療養型サナトリウムとして再建され、資生堂が窓口となって保養地館山の名を全国に広めた。

渋沢も虚弱児童の療養施設として館山養育院安房分院(現船形学園)を開いている。

問い合わせはイズミ野外学習サポート(0470-22-7586)へ。

【房日講演抄録】100128*天野努「考古資料からみた安房神社成立の基層」覚書

【講演抄録】「考古資料からみた安房神社成立の基層」覚書

古くから人の住んだ場所、海人集団首長の崇拝地か

安房歴史文化研究会会長 天野努

(房日2010.1.28)

安房神社の成立のもとはどういうことだったのかを考古資料から考えていく。

文献資料では忌部広成が書いたといわれる「古語拾遺」と、天皇の食膳を担当していた高橋氏による「高橋氏文」の2つの氏族伝承がある。今までは「古語拾遺」が多く語られていたが、最近の文献史学では新しい史料が発掘され、「高橋氏文」は史実を反映しているものだとされるようになった。

「高橋氏文」では▽安房のカツオと貝がセットで天皇の食膳に提供されていること▽高橋氏の祖先が天皇から「大伴部(おおともべ)」と呼ばれる部民を賜ったこと▽安房大神(あわのおおかみ)を御食都神(みつけかみ)として大膳職の祭神としていたこと—などが書かれている。

これまでの記述を証明するものはなかったが、731年の「類聚三代格」という文書の中に、「安房地方で安房大神を祀っていた女性たちが上京して宮中の御食都神を祀ることを命令されていた」ことを示す内容が見つかった。当時は安房神社は、安房大神と言われていたようだ。

これを考古学の資料からみるとどうなるか。

安房の漁村型集落遺跡の沢辺遺跡(南房総市白浜町)では、7世紀ごろの疑餌針が出ている。カツオの骨とウロコもたくさん出てきた。カツオ漁が行われていたのは確かで、「高橋氏文」の内容と符合している。

出土した貝はサザエが多いのだが、アワビオコシの道具も出ている。

平城京跡などから出土した木簡には、安房の「大伴部」がアワビを献上したことが記されている。出土木簡に書かれている「大伴部」姓は安房の人以外にはなく、このことからも「高橋氏文」の内容は史実だと考えられる。

一昨年、昨年と千葉大学の考古学研究室が、安房神社の境内にある安房神社洞窟を再調査した。洞窟のある場所は、6000年前の縄文海進で海が一番高くなった「沼1面」にあたる。出てきた一番古い土器は縄文前期。縄文海進が終わって陸化し、その段階で洞窟になっていたところに人が住み始めている。

安房神社の境内でも以前、縄文時代の土器が採取されたという。安房神社のある所に古くから人が住んでいた場所だ。

境内から出土して、安房神社が今も所蔵している高坏、5世紀のもので市の文化財に指定されているが、これが館山市沼の大寺山洞穴遺跡から出たものとまったく同じ特徴を持つ。安房神社のものは祭祀に使われたと考えられている。

大寺山の高坏は舟形木簡の副葬品だった。時代は同じ。形がまったく同じ高坏は、この2ヶ所以外では出ていない。大寺山では他に鉄の兜、短い鎧が出ている。これも5世紀のもの。短い鎧は房総では珍しいが、ふつうは古墳から出てくる。それが海岸近くの洞窟から出てきた。この遺跡に葬られた人々は、安房の海人集団の首長だと考えられる。

房総半島の中で、祭祀遺跡は(古代の)安房郡=注:現在の館山市、旧白浜町を主とする地域=に集中する。白浜の小滝涼源寺遺跡は4世紀後半からの遺跡だが、石製模造品と言われている剣や鏡が伴っている。祭祀が早い段階で行われていた。房総にはヤマトタケルの伝承もあるが、大和朝廷の東北支配にかかわる遺跡ではないかと考えられている。

5世紀の遺跡になると、土器を使った祭祀品が出てくる。

安房の地域には古代からの漁労民の集落があり、祭祀遺跡や洞穴遺跡がある。特に大寺山遺跡と安房神社境内に同様の出土品がある。安房神社のある場所というのは海人の首長に崇拝される、地域の人にあがめられる、そういう場所だったのではないか。

神社が形を持ってくるのは、天武天皇の時代の7世紀後半から。安房は5世紀ぐらいに大和朝廷の支配下に入っていく。当時の漁労種族、房総半島を回るときの水先案内人のような人々がいて、その中心的崇拝地が安房大神、それが安房神社になったのではと考えられる。

(本稿は平成22年1月23日に館山市コミュニティセンターで行われた同研究会公開講座の内容を要約・再構成したものです)

【房日】140126*研究者ら可能性など探る 「館山まるごと博物館」でシンポ

研究者ら可能性など探る 「館山まるごと博物館」でシンポ

(房日新聞2014.1.26付)

地域の自然遺産や文化遺産を「まるごと博物館」と見立てるエコミュージアムの手法が、市民による生涯学習として全国的に広がりを見せる中、館山市での取り組みを検証するシンポジウムが2月16日、市内のたてやま夕日海岸ホテルで開催される。この分野の第一人者による基調講演やパネルディスカッションをとおして、取り組みがどんな未来を創造できるのか、その可能性と課題を探る。

20年にわたり文化財保存運動を展開してきた「館山まるごと博物館」の取り組みは、実践的なモデル事例として注目されている。〝平和・交流・共生〟をまちづくりの理念として、文化遺産の保存・活用を呼びかけてきた同博物館の活動は、地域住民の絆を育むとともに、共通の歴史をもつ地域間の連携として、広域「まるごと博物館」のまちづくり交流に発展している。

その活動の中心的役割を担ってきたNPO法人安房文化遺産フォーラムと、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会が主催し、シンポジウムを企画。横浜国立大学大学院教授で日本エコミュージアム研究会前会長の大原一興氏を迎え、広く世界を見てきた同氏から「文化遺産を活かしたエコミュージアムのまちづくり」と題して基調講演してもらう。

この後、林浩二(県立中央博物館学芸員)、チョン・イルジ(神奈川大学助手)、杉江敬(館山市教育委員会生涯学習課文化財係長)、愛沢伸雄(安房文化遺産フォーラム代表)の4氏をパネリストに話し合う。

午後1時半〜4時までで、参加無料で興味関心のある市民の来場を呼びかけている。

 

椿の小原家庭園 午前中に見学会

シンポジウムに先立って、同日午前10時から「椿の館」として知られる同市南条の小原家庭園の見学会が開かれる。参加希望者は、同所の観音寺前に時間までに集合する。

小原家は、築160年の和風建築で、離れは映画「赤い鯨と白い蛇」のロケにも使われた。三代前の当主・小原金治(1859〜1939)は、明治期に県議や衆議院議員を務め、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業株式会社の設立と経営に関わり、安房の近代化に大きな役割を果たした。

その孫の謹治(1910〜1999)は、館山市花となったツバキを700種類育てた研究者として世界に知られ、作付した新種は「布良」「相の浜」「山王」などと名付けられ10種類にのぼる。

【房日】111229*ウガンダ支援の安房高JRC、先輩河辺さんが報告

ウガンダ支援の安房高JRC

先輩の河辺さんが現地報告、頻発する停電に驚きの生徒

(房日新聞2011.12.29付)‥⇒印刷用PDF

アフリカのウガンダ共和国で支援活動を続ける県立安房高校JRC(青年赤十字)の生徒22人がこのほど、同校社会科室で平成20年度卒業の河辺智美さんから「ウガンダ現地実習報告」を聞いた。

河辺さんは、東洋大学国際地域学部国際地域学科で、国際協力について学んでいる。今年9月にゼミナール研修でウガンダ共和国に約2週間滞在した。報告会では、河辺さんが滞在中に体験し感じたことなどを発表。子どもたちの就学についてや電力の供給状況など生活環境についても説明があった。生徒からは、「停電が頻発するといった生活環境の実情を知り驚いた」といった声が聞かれた。

同高は、旧安房南高校の生徒会とボランティア委員会の活動として行っていたウガンダ支援バザーを、学校統統合後も継続し収益金を毎年送金している。支援は、ウガンダ意識向上㈶(CUFI)を通じて行っており、同財団は86年に設立され国際的な支援が始まった。これまで支援金により「安房南高校洋裁学校」が開設されており、河辺さんは、支援活動が現地の子供たちに役立てられていることも報告した。

【房日】131218*青木保存会、東京の歴史館物視察

青木保存会、小谷家住宅公開に向け

東京の歴史建物視察

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明治期の洋画家、青木繁が画学生時代に滞在した館山市の小谷家住宅(同市指定文化財)の保存を目指す、「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)は、このほど、東京の歴史建物バスツアーを行った。会員ら25人が参加。先進事例視察として新宿区立中村彝(つね)アトリエ記念館と旧安田楠雄邸庭園(東京都指定名勝)を訪問した。

同会では、市のふるさと納税制度を活用し、全国の著名な画家が組織するNPO法人青木繁「海の幸」会とともに募金活動を展開。今後、2か年の修理復元工事を経て一般公開を目指している。

館山の転地療養をきっかけに画家となった中村彝は、新宿中村屋の相馬愛蔵夫妻から支援を受けて活躍した。大正期に新宿区下落合に建立した彝のアトリエは、住民による長い保存運動の末、新宿区によって新築復元され、今春から記念館として公開が始まっている。館内はイーゼルや調度品と複製画の展示で当時の雰囲気が再現され、映像で彝の生涯や画業を紹介している。奇しくも館山中村屋は、昭和初期に新宿中村屋から暖簾(のれん)分けした老舗であり、本店喫茶室には彝が布良で描いた「海辺の村(白壁の家)」の複製画が常設されている。

一方、文京区千駄木の旧安田邸は大正期建立の近代和風建築として価値が高く、現在は公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されている。週2日の公開だが、今回は貸切の特別見学として企画され、管理運営を担っているNPO法人文京歴史建物の活用を考える会(通称たてもの応援団)理事の多児貞子さんから講義を受けた。市民ボランティア80人が建物や庭園の行き届いた清掃管理や館内ガイドなどに活躍。きめ細かい工夫や季節ごとに趣向をこらした企画が好評で、リピーター来場者も多いという。

視察を終えた参加者、「小谷家住宅の公開後のビジョンを具体的に描くためのヒントを多く得た」としている。

(房日新聞2013.12.18付)