メディア報道

【房日】130220*NPO青木繁「海の幸」会大村理事長が300万円寄付

NPO青木繁「海の幸」会大村理事長が300万円寄付

青木繁ゆかりの小谷家保存に

(房日新聞2013.2.20付)

学校法人女子美術大学(東京・杉並区)の理事長で、NPO法人青木繁「海の幸」会理事長を務める大村智氏がこのほど、300万円を「ふるさと納税」として館山市の「小谷家住宅の保存及び活用の支援に関する事業」に寄付した。

【「ふるさと納税とは?」参照】

同市では、小谷家住宅保存活用支援基金に積み立てる。同基金への寄付はこれで17件、計395万円に。金丸謙一市長は「心強い応援に感謝の気持ちでいっぱい。貴重な文化財を保存、活用できるよう、支援を続けたい」と話している。

同市布良にある小谷家は、明治ロマン主義時代を駆け抜けた夭折の天才画家、青木繁が明治37年に滞在し、日本美術史に残る名画「海の幸」を描いたことで知られる。「海の幸誕生の家」とも呼ばれ、現在も当時の面影を残す家屋がある。

老朽化などが懸念される小谷家を、当時の姿に復元して公開したいというファンらが平成21年に設立したのが「海の幸」会。同市でも同年に小谷家を文化財に指定。23年には小谷家住宅保存活用支援基金を創設し、今年度からふるさと納税の使途事業にしている。


【ふるさと納税とは?】

ふるさと納税は、平成20年度の税制改正で導入された。税金の一部を、出身地やかかわりが深い居住地以外の自治体(都道府県や市町村など)に納めることができる制度。自治体によっては使い道を選ぶこともできる。

ふるさと納税した場合、確定申告することで2000円を越える部分の金額が、国や県、居住地の自治体に納める所得税と住民税から軽減(個人住民税所得割額のおおむね1割が限度)される。

例えば、専業主婦の妻とA市で暮らす年収500万円のサラリーマンが、B市に3万円をふるさと納税した場合、所得税の還付金と住民税の減額の合計が約2万8000円分の税金を、B市に納めたことになるという仕組みだ。

お礼の品など特典を設ける自治体も多い。安房では館山市が1万円以上で「地元特産品の詰め合わせ」や「季節の花」など。鴨川市が1万円以上で金額に応じて「長狭米」や「ヒジキ」「干物」など地元産の農産物や海産物、銘菓などを用意している。

ふるさと納税の方法は、自治体によって異なる。南房総市では、担当窓口の払い込みと郵便局(ゆうちょ銀行)の振込の2種類で、館山市ではこれに現金書留での送金(郵便料金は申込者負担)も可能。鴨川市は、郵便局以外の都市銀行や、千葉銀行、館山信用金庫などの金融機関でも振り込みできる。

【房日】131016ヘリテージまちづくり講座(古文書の保存活用)

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館山のNPO、ヘリテージまちづくり講座

古文書の保存活用学ぶ

館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄理事長)と、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(嶋田博信会長)による「ヘリテージまちづくり講座」が開かれている。ヘリテージとは文化遺産のことで、文化庁の「地域の文化遺産を活かした地域活性化事業」の助成を受け、全5回で開催。先ごろ、同市富崎公民館で第2回目が行われ、市民ら34人が参加した。

近年、青木繁が滞在した布良の小谷家住宅や南条の小原家住宅から、明治期以降の資料が大量に発見され、近代水産業の発展に重要な関わりがあったことが分かってきた。これらの古文書をどう扱い、整理して調査していくかを学ぶため、地域史料保全有志の会代表を務める中央学院大学准教授の白水智氏を講師に迎え、「漁村資料の保存管理と活用」と題した講座を開いた。

白水氏は、長野県栄村で10年以上にわたり、山村の歴史文化を紐解く古文書の研究に携わってきた。同村は、東日本大震災の翌日の2011年3月12日に付近を震源とする震度6強の地震に見舞われ、甚大な被害を受けた。震災の一月半後に現地入りした白水氏らは、次々と解体され、廃棄物として処理される古民家や土蔵を目の当たりにし、文化財の損失に危惧を覚え、すぐに地域史料保全有志の会を発足し、そこに眠っていた文化財の救出活動を開始した。

置き場所の確保などの問題を一つ一つ乗り越え、活動報告会などを通して、子どもから高齢者まであらゆる世代の村民に「文化財を守ること」の理解を促した。今では、自治体の協力を得て、小学校の旧校舎を村の文化財保管庫にすることが認められ、将来的に村の歴史と文化の拠点施設にする流れを形成した。

白水氏は、「古文書や古い資料は家族写真と同じ。風景や人々の技術、生活の知恵や人間関係のかたちを残す地域のアルバム。その大切さに気づいたときに、文化がその地域らしさとして次の世代に受け継がれていく。震災後、生活基盤が復旧するだけでは、人は生きていかれない。文化が復興して初めて地域の復興につながると実感した」と、文化財保存の重要性を力説した。

講義後には、古文書に接する際の注意点などを解説。実際に明治期の文書類を仕分けし目録を作る実習を行った。参加者はその重みをかみしめた様子で、「この話を多くの人に伝え、押し入れの古い資料を捨てないように広めていきたい」と話していた。

【写真説明】文化財保全の重要性を力説する白水氏(中央)=富崎公民館

(房日新聞2013.10.16付)

【千葉日報】130907*韓国視察団、地域振興と地域資源探る

館山に韓国視察団、地域資源と観光振興探る

大巌院「四面石塔」など見学

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日本の観光振興を探るため来日した韓国の政府系視察団が、館山市で地域資源を生かしたまちづくりの在り方を視察した。一行は、韓国とゆかりのある大巌院(同市大網)を見学したり、明治の洋画家、青木繁が滞在し代表作「海の幸」を描いた小谷家(同市布良)や布良崎神社を訪ね、漁村の祭り文化に注目していた。

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来日したのは韓国文化体育観光部や同部研究機関、韓国文化観光研究院の職員や研究者ら約30人。

館山が視察の対象となったのは、神奈川大学の助手のチョン・イルジさん(32)が昨年、東京大学大学院の都市工学研究科在籍中にまとめた博士論文が韓国研究院の目に留まったためという。チョンさんは、館山市で戦跡や史跡を保存し、観光資源や平和教育に生かす活動をしているNPO安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)に注目して、民間主導の生涯学習まちづくり「館山まるごと博物館」運動を論文に取り上げた。

大巌院には豊臣秀吉の朝鮮出兵で捕虜になった朝鮮人の供養塔「四面石塔」(県有形文化財)があり、「南無阿弥陀仏」とハングルで刻まれている。小谷家は青木繁が投宿した家で、「海の幸」は布良崎神社の神輿からインスピレーションを得て描かれたとの説もある。

視察を終え、同研究院国際交流センター長のイ・ドンホンさんは「四面石塔の平和を求める思いに感動した。広い交流が大切だ。館山の祭り文化は地元住民の手作りで個性的、印象的だ」と視察成果を語った。



【関連記事】

*洪城新聞2013.9.27=韓国観光文化研究新の視察団(日本語翻訳)

【房日】130906*ウガンダ支援と子ども絵画展

ウガンダ支援と子ども絵画展

活動と交流のあゆみ展

(房日新聞2013.9.6付)

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アフリカ内陸の赤道直下にある国ウガンダ。「アフリカの真珠」といわれる美しい国だが、経済破綻や内戦の影響で今なお貧困が続いており、旧安房南高校で始まった安房地域の支援活動が、20年来にわたって引き継がれている。そのウガンダ支援の歩みと現地から送られてきた子どもたちの絵画展が、館山市の館山病院ギャラリーで開かれている。13日まで。

「安房・平和のための美術展」をとおして7年前から支援を続けるNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)が主催。ウガンダの子どもたちが描いた絵画10点と、安房南高から安房高JRC、さらに市民グループへと広がっている支援活動の経過資料などが展示されている。

平和授業の中で、ウガンダではエイズと孤児がまん延し、教育を求めていることを生徒たちが知った旧安房南高で1994年、バザーや募金が生徒会活動としてスタートした。現地のNGOを窓口にして地道な支援活動を毎年続けた結果、2001年には「AWA—MINAMI(安房南)洋裁学校」がつくられた。活動は、高校の統廃合を経て安房高JRCに引き継がれ、さらに市民グループへと地域での活動の輪も広がっている。

安房南高時代に始まった活動から、間もなく節目の20年を迎えるにあたり、これまでを振り返り、今後の交流や支援のあり方を見つめ直そう、と同NPOが展示会を企画した。会場には、内戦がまだ激しかったころに現地の子どもが鉛筆で描いた絵や、やや落ち着いてきた最近の明るい作品など10点を展示。南高でのバザー風景など各種の資料や写真とともに支援活動の歩みをふり返っている。

【写真説明】ウガンダ支援の歩みと絵画作品が展示されている=館山病院

 

案内チラシ

【房日講演抄録】130809*愛沢伸雄「明治期館山の殖産興業をみる」

安房歴史文化研究会2013年(第24回)公開講座 2013年7月27日

明治期館山の殖産興業をみる 〜小原金治の経済人ネットワーク

NPO法人安房文化遺産フォーラム代表 愛沢 伸雄

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明治期、千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物である。小原金治の生涯については、資料に乏しく不明な点が多い。最近、館山市南条の生家から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見された。この「草稿」と富崎の小谷家住宅から発見された水産資料を通じて、明治期の館山の姿を知ることができる。

金治は、1859(安政3)年、豪農であった父桂助母かよの長男として旧南条村で出生。12歳で旧館山藩士であった叔父から初めて読み書きを学ぶ。以来、22歳まで農業の傍ら、地域の漢学の師を訪ね、独学で勉強。21歳のときに大きな転機が訪れる。金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし勝訴した。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代、政治を見る眼や法律に強い関心をもち、北条村で何回か開催されていた民権派の演説会に参加した。東京からの弁士小野梓や田口卯吉や、地元の県議小原謹一郎や若手の満井武平らの熱弁を見聞し、政治世界に入る契機になったと思われる。

激動する時代にあって、22歳の金治青年も大きな志をもって上京した。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学ぶ。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷。その頃、北条村で開催された民権派の演説会では弁士の一人として活動するなかで、1884(明治17)年25歳の金治は南条村会議員に選ばれた。

村議の活動では、住民から無法状態にあった房州白土の採掘と土地問題について相談をうけた。金治は県や国に働きかけるとともに、住民との契約関係をもった会社を立ち上げることにした。安房坑業会社と呼ばれたこの白土会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長になり、地元からは金治自らが取締役となった。最近、源慶院からこの会社と契約を結んだ吉田智道住職の証書が見つかっている。

岩谷は松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっている。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと書いている。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎である。小原は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴し、安房汽船会社を創設した人物である。しかし、運賃競争で破産して大きな負債をかかえ三六歳で亡くなっている。また、盟友になる満井武平を通じて彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門とも交流が生まれ、安房の水産業問題も語り合ったであろう。

1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選した。二人は力を合わせて安房の殖産興業に取り組んでいった。当時、関澤明清や神田らは近代的な水産事業を自ら実践していた。満井は大隈重信の立憲改進党に入ったが、金治は党派の政策にこだわらない政治的立場をとっていた。県議三期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介で大隈重信と会見。その後に大隈の理念に共鳴して改進党の一員となったのであった。

衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかで大隈の側近岡山兼吉らの説得があり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立された。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年九月の第四回衆議院議員選挙は改進党の重鎮島田三郎らの応援や安房国改進党の全力をあげた選挙運動によって、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選した。日清戦争のなかで注目されることが「草稿」にある。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介で、金治は勝海舟と会見したという。日清戦争と国政のあり方について懇談し、高い見識に驚いたとの記載がある。

1897(明治30)年までの3年間の議員活動で、安房において重要なものの一つが、神田や満井らの水産業の改革を応援し、関澤明清が館山で取り組んでいる先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっている。二つ目には県議時代より正木貞蔵らの公的な海運事業「安房団体」組織し援助してきた。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要であったが、常に資金的な課題を抱えていた。金治は殖産興業の資金を調達する金融機関設立が急務であると安房郡長の吉田謹爾とも相談していた、吉田の義父は旧館山藩士で金治の叔父とは仲間であったし、8歳年長の吉田は村議や県議の時代から強い結びつきがあった。金融機関設置する方策では、金治は安房出身である大物大蔵官僚である曽根静夫国債局長に相談したであろう。曽根は日清戦争時に戦時国債を発行し戦費調達を成功させた人物として金融界に大きな影響をもっていた。金治と曽根と吉田の三者の連携のもとで、安房ゆかりの企業人福原有信や浅田正文、川崎財閥の総帥川崎八右衛門らを発起人として、1896(明治29)年、千葉銀行の前身である安房銀行がスタートしたのであった。

謹厳実直で実務派の吉田謹爾は郡長を辞め専務取締役として全てを仕切った。この年に金治は病気になったこともあり議員生活を終えている。しかし、自ら先頭に立って本格的な安房の殖産興業に取り組んでいった。1897(明治30)年、館山の地でモデル的な遠洋漁業事業を実践して企業化のきっかけをつくった関澤が志半ばで急逝した。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社創設を呼びかけた。翌年に安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入され、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治が社長となったのである。

近代的な水産業を模索していた盟友満井の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていた。また、資生堂の福原有信は帝国生命保険を創設しているが、1894(明治27)年に社長となり、吉田らが呼びかけて遭難者家族救済のための保険事業に関わった。神田も全国でも先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原の帝国生命保険と連携した取り組みをおこなった。実はこの動きは人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかで地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に貢献していったことを忘れてならないであろう。

その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努めていった。金治は吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年、安房銀行を頭取として引き継いでいる。県内の金融界の重鎮として、千葉銀行創設に一石を投じるなか、1939(昭和14)年79歳で没している。

今回の報告は、小原金治の動きを切り口に明治期の安房での殖産興業の一端を紹介した。

【房日】130730*シンポジウム「東京湾まるごと博物館」

東京湾をまるごと博物館に

館山と横須賀NPOがシンポ〜観光とは異なるアプローチを

(房日新聞2013.7.30付) ⇒ 開催概要

古くから歴史文化を共有する房総半島と三浦半島の文化遺産を活用し、東京湾一帯をまるごと博物館ととらえて広域連携を考えるシンポジウムが23日、館山市中央公民館で開かれた。

同市のNPO法人安房文化遺産フォーラム愛沢伸雄理事長)と、神奈川県横須賀市で戦争遺跡の保存活動を展開するNPO法人アクションおっぱま昌子住江理事長)が共催。館山、横須賀両市をはじめ都内などから70人が参加した。

シンポジウムでは、はじめに昌子理事長が、貝山地下壕第三海堡(かいほう)遺構の保存活動などを報告。活動から生まれた「フィールドミュージアム(屋根のない博物館)」構想を説明した。

続いて安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長が、館山周辺の戦跡や明治期の画家・青木繁が代表作の「海の幸」を描いた足跡など、歴史や文化をまとめた「館山まるごと博物館」の事例を発表した。

最後に土木・産業遺産の利活用を研究する近畿大学の岡田昌彰教授が、イギリスやフィンランドなどを例に、海外の多様な戦跡の利活用、公開方法などを紹介しながら助言。

愛沢理事長が「地域資源を活用したまちづくりという視点は、物見遊山の観光とは異なるアプローチで、人と人との交流を生み、地域を活性化させる。横須賀と館山の共通点、それぞれの特徴を生かした連携で、東京湾まるごと博物館という構想を前進させたい」と締めくくった。

シンポジウム終了後は、海軍航空隊赤山地下壕跡、青木繁のゆかりの地を巡るフィールドワークも行った。それぞれの文化財の維持管理者らともふれあった参加者は、感激した様子だった。

ヘリテージまちづくり講座(案内チラシ)

【房日】130222*富崎小会場にイベント

富崎小会場にイベント

あす子どもと地域を考える

(房日新聞2013.2.22)

「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」とNPO法人安房文化遺産フォーラムによるイベント「元気なまちづくり市民講座」があす23日、館山市の富崎小学校体育館を会場に開催される。文化庁補助を受け、地区コミュニティ委員会と県歴史教育者協議会の協力で開くもので、イベントを通して子どもと地域・社会科を考える。

青木繁が愛した「布良という聖地」は、少子高齢化が進み、休校となった富崎小を「芸術家を育てるまちづくり」に生かしたいと考えた両団体が企画した。

講座は正午からのワークショップで開講。ここでは▽青木繁が滞在した明治期の富崎(布良・相浜)を知ろう▽糸を紡いでみよう▽錬金術を体験してみよう▽房州地布縞帳の展示▽ベトナムフェア▽旭市の津波災害報告▽安房南のウガンダ支援交流▽ところてん体験と試食-の各コーナーが設けられ、午後1時30分から同NPO池田恵美子事務局長が実践報告。2時からは「文化遺産を生かした館山まるごと博物館」をテーマにシンポジウムも開かれる。

翌24日には、午後1時30分から2時間ほど、青木繁が滞在した小谷家住宅や布良崎神社などを巡るウオーキングも予定されている。

市民講座は参加費無料、ウオーキングは参加費500円で、多くの来場を呼びかけている。

【千葉日報】100811日中韓歴史体験キャンプ

日中韓 歴史体験キャンプ

学生ら戦跡巡りや討論 南房総・館山

(千葉日報2010.8.11付)


日中韓の高校生や大学生らが戦跡巡りや討論を通じて相互理解を深める「第9回青少年歴史体験キャンプ」(NPO安房文化遺産フォーラムなど主催)が4日から9日まで南房総市や館山市で行われた。

3カ国の約160人の学徒が参加した。従軍慰安婦をしのぶ石碑が立つ婦人保護施設「かにた婦人の村」では、天羽道子施設長の「慰安婦だった方々に日本政府は謝罪をしていない。謝罪は破れてしまった人間尊厳の回復」との訴えに耳を傾けるなど、昼は安房地方の戦跡や日韓、日中交流の史跡を巡り、夜は討論を繰り返した。最終日には言葉や文化の壁を乗り越え、日中韓の間に横たわる数々の問題を正視しながら、平和を求める独自の宣言を作成。国境を超えたきずなを強めていった。

「歴史の教科書は自国に都合よく書くもので、相手の国に行かないと違いが分からない」と中国の銭宇飛君(17)。「日中韓には文化も歴史も、同じものも違うものもたくさんある」と交流の意義を語る。

慰安婦問題に韓国の張ユナさん(13)は「日本の学校で教えず、生徒がほとんど知らない」といら立ちを隠さない。李仁煕君(16)は「日本人にも慰安婦問題を広く知らせようと活動する方々がいて安心した」とし、「韓国は日中に挟まれ危機感がある。日本、中国の友人らと話すことは大事」と未来を見据えた。

「日本の加害ばかりでなく、中韓も他国での加害の歴史がある。一方的に相手を責めるのではなく平和につなげていこうと話し合った」と地元の県立安房高2年、清水絵夢さん(16)、飯沼日沙子さん(16)、加藤一徳君(16)ら。「お互いの溝が討論で少しでも埋まって良かった」と成果をかみしめ、「来年は韓国で開催。ぜひ参加したい」と目を輝かせた。

【房日】121123*愛沢氏に文化財保護功労

愛沢氏に文化財保護功労

稲村城跡保存の功績で

(房日新聞2012.11.23付)

戦国大名の城跡である館山市の「稲村城跡」の保存運動に取り組んでいるNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表(61)=同市小原=が、県文化財保護協会から文化財保護功労者として表彰された。長年にわたる運動が実を結び、同城跡が今年1月に国史跡にしてされた功績などが評価された。

道路建設計画が具体化し、同城跡が破壊寸前にあった17年前、愛沢氏が代表世話人となって「里見氏稲村城跡を保存する会」を立ち上げ、保存運動を展開。城跡存在の意義や文化的・歴史的価値や重要性を強く訴えてきた。

有志の輪は徐々に広がり、会では定期的な草刈りや展示会、ガイドブックの作成、案内板の製作、現地案内や学習会、冊子の刊行、さらには周辺重要城跡の見学会など、十数年の長きにわたって地道な活動を展開。しだいに市民の理解も深まり、市議会に提出した保存の請願も採択され、道路建設は城跡を迂回する形に変更されるなど、活動は同城跡の国史跡指定への原動力となった。

同市の稲村城跡調査検討委員会委員を歴任。史跡指定を受けて、先ごろ、市教委が発足した「稲村城跡保存・管理計画策定委員会」委員に委嘱され、市民代表として保存・整備計画に取り組んでいる。

愛沢代表は「本来ならば保存する会が団体としてこの栄誉を受けることがふさわしいと思っているが、すでに会は解散しており、その旗振り役であった私が代わって受賞したと受け止めている。これを機に、この地域が持っている多彩な歴史・文化を学びながら、今後も文化財保護の市民活動を地道に続けていきたい」と受賞の喜びを語っていた。

【房日】121023*芸術文学散歩に30人

芸術文学散歩に30人

NPO主催 館山の痕跡巡る

(房日新聞2012.10.23)

NPO法人安房文化遺産フォーラム主催の「芸術文学散歩バスツアー」がこのほど行われ、30人が明治時代から昭和にかけて館山を訪れた芸術家や文人墨客の痕跡を巡った。文化庁の補助事業で企画、9月に20人が参加したのに続いて2回目。

ツアーでは青木繁が滞在した小谷家、塩見海岸の中原淳一詩碑、館山総合高校水産校舎では、長崎の平和祈念像制作者北村西望作の旧安房水産高校初代校長の銅像、布良崎神社に残る画家、寺崎武男の奉納画2点などを見学した。同フォーラムによると布良崎神社の奉納画は、最近、寺崎の作品であることが分かり、このツアーで初めて公開された。

寺崎は東京美術学校を卒業。農商務省実業講習生としてイタリアに留学した。日本創作版画協会の設立に関わったが、彫刻家で東京美術学校彫塑科初代教授を務めた長沼守敬を慕って館山に移住。旧制安房中で美術を指導し、安房神社や下立松原神社などに神話の絵画を奉納した。1967年没。

同フォーラムでは、21日に富崎小学校で開かれる「青木繁《海の幸》フェスタ」でこの2点を展示した。