メディア報道

【産経】150717*大人の遠足〜館山海軍航空隊赤山地下壕跡

大人の遠足〜千葉・館山海軍航空隊赤山地下壕跡

本土決戦に備えた「地下要塞」

(産経新聞2015.7.17付)

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房総半島の先端部に位置する千葉県館山市。県内外から多くの海水浴客が訪れる夏の人気スポットだが、先の大戦では本土決戦に備えた最重要拠点の一つとされ、現在も多くの戦争遺跡が残る。その中でもっとも有名な戦争遺跡が、館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)跡(同市宮城)だ。7月上旬、同地下壕跡で、戦争遺跡の保存や若い世代への継承などに取り組んでいるNPO法人安房文化遺産フォーラム」(愛沢伸雄代表)のガイドツアーがお紺われると聞き、参加させてもらった。

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■広々とした空間

全長1.6キロの壕への入り口は、公民館の裏にある。受付を済ませヘルメットを装着して中に入ると、ひんやりと冷たい空気が頬に触れた。ツアー当日は大雨だったが、壕内の気温は外と比べ5度ほど低いだろうか。壕内に入ってすぐの場所は、天井の高さ3、4メートルほどの広々とした空間だった。

「ここはディーゼル発電機が置かれ、発電所として活用されていた場所です。中には病院や売店がありました」。ガイド役を務めた同団体副代表の鈴木政和さん(69)はこう説明してくれた。同団体が集めた元兵士らの証言によると、壕内には他に格納庫や奉安殿、戦闘指揮所、兵舎などがあったとされる。

終戦時には壕内で保管されていた多数の無線機が米軍に接収されたという記録もあるといい、海軍の防空壕としてだけでなく要塞としての機能を備えていたことが推測できる。大戦末期には多くの兵士が駐屯していたとみられるが、鈴木さんは「当時の資料が残っていないため、何人いたかは分からない」と話した。

通路をさらに奥に進む。先ほどの発電所と同様、部屋として使われていたとみられる空間はどこも広々としていた。こうした部屋の壁には木枠が打ち込まれていた跡があり、扉が設置されていたという。

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■素掘りのまま使用

壕内の暗さに目が徐々に慣れてくると、壁面に広がる鮮やかな地層に気付いた。さらによく見ると、無数のツルハシの跡が残されている。壕の建設時期は諸説あり、昭和10年代の初めとも19年以降とも言われているが、海軍の工作部隊が本土決戦に備えて急ごしらえで掘削し、素掘りのまま使用していた様子がうかがえる。

鈴木さんは「地下壕は平和を考える上でたいへん貴重な戦争遺跡。これからの若い世代にしっかりと伝えていきたい」と話した。

約1時間にわたる地下壕内の見学の後、地域の歴史学習会も開かれた。同団体の池田恵美子さん(54)が市内の戦争遺跡のほか、江戸時代の安永9(1780)年に清国貿易船が座礁して漁民が救助にあたった郷土の歴史などを紹介。池田さんはこうした南房総地域に残る戦争遺跡や史跡、記念碑などを生かし、「戦争遺跡や他文化との交流・共生の歴史を学ぶピースツーリズムを育てたい」と語った。

今年は戦後70年。赤山地下壕跡のような施設が必要とされる時代が二度と来ないことを願いながら、かつての軍都を後にした。

(大島悠亮)

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■赤山地下壕跡

千葉県館山市宮城。入壕受付は近接する施設「豊津ホール」(同市宮城192の2、TEL0470・24・1991)で行う。JR内房線館山駅からバスで約10分。開壕時間は午前9時半〜午後4時で、休壕日は毎月第3火曜日と年末年始。入壕料は一般200円、小中高生は100円。安房文化遺産フォーラムは個人や小グループ対象に毎月第1日曜日の午前に無料ガイドを実施。10人以上の団体は有料。詳細は同フォーラムTEL0470・22・8271。

【読売】150401=館山の戦跡伝え続け10年

館山の戦跡伝え続け10年、地元のNPO

無料でガイド案内3000人

(読売新聞2015.4.1付)

館山市指定史跡「館山海軍航空隊赤山地下壕(ごう)跡※」で地元のNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(愛沢伸雄代表)が行っている無料ガイドが、今年で10年になった。毎月第1日曜日の活動で、これまでに案内を受けた来場者は約3000人に上る。戦後70年の今年はその数もさらに増えそうだ。

赤山地下壕は戦後ずっと放置されており、人が住み着いてキノコ栽培は行われた時期もあった。一級品の戦跡価値に気づいた愛沢さんが、2002年頃から保存運動としてガイドを開始。04年に保存に賛同する仲間らと同フォーラムを発足させ、ほかにも市内に残る洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡や館山海軍航空隊掩体(えんたい)壕などの戦跡をめぐるツアーガイド(有償)を始めた。

赤山地下壕で無料ガイドが始まったのは、市史跡に指定された05年から。もっと市民に関心を持ってもらうのと、メンバーのガイドの実地訓練のためだった。市が管理する壕への入場は有料だが、ガイド料は無料で受けられる。個人や団体などの希望者は平均20〜30人、多いときには50人もあつまる。いくつかの班に分かれて、同フォーラムのガイドが30分から1時間かけて壕の内部を案内する。

若手ガイドの館山市の女性会社員(40)は「戦争体験がない難しさはあるが、だからこそ勉強の場になる。地元の人が赤山に関心をもってくれた時が最高にうれしい」とやりがいを語る。

愛沢さんは「負の遺産と言われていた壕が、市の史跡になり、文化財としてまちづくりにいかされるようになり、感慨深い」と、10年を振り返る。

 

※館山海軍航空隊 赤山地下壕跡‥‥

全長1・6キロの全国的に見ても大きな防空壕で、館山市を代表する戦争遺跡。終戦の日まで工事が続いたとされる。旧館山海軍航空隊の基地司令部や発電所、病院などが計画され、一部使用されていた。市の所有で、入壕料は一般200円。

【房日】140831*韓国からまちづくり視察団(水原)

韓国からまちづくり視察団

文化遺産活かす活動見学

(房日新聞2014.8.31付)‥⇒印刷用PDF


韓国・水原(スウォン)市のまちづくり視察団が28日から2日間、館山市内を訪れ、地域の文化遺産を活用したまちづくりの取り組みを視察した。

視察団は、同市のまちづくりに取り組む団体と官民共同の支援組織「ルネサンスセンター」の12人。

視察団と館山を結んだのは、神奈川大学助手のチョン・イルジさん。戦跡などの文化遺産を保存し、まちづくりにつなげている館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)の活動に着目し、東大大学院時代に論文に取り上げ、韓国で研究発表したことが、今回の視察につながった。

一行は、愛沢代表らの案内で、韓国ともつながりのあるハングル文字が刻まれた大巌院の四面石塔、「海の幸」を描いた青木繁が滞在し保存活動が進む布良の小谷家、布良崎神社、赤山地下壕などを視察。

地域で保存・活用に取り組む人の話にも耳を傾け、同フォーラムを中心とした館山のまちづくりの事例を学んだ。

ルネサンスセンター事務局長のパク・サンチョさんは「館山の活動はうらやましい限り。専門的に活動する人がいて、市民一人一人と一緒になってまちづくりに取り組んでいる。布良崎神社を思う地域の人の熱意には感激した。韓国に戻って館山の手法を伝えたい」。

韓国でまちづくり活動をするキム・ジョンジンさんは「韓国で同じような活動をする都市と館山でネットワークをつくり、交流して互いのまちづくりにつなげることができれば」と語っていた。

【房日】140417=青い目の人形

戦火逃れた友好の証

青い目の人形「メリー」展示 19日から 館山市立博物館

(房日新聞2014年4月17日付)

昭和初期に日米関係の悪化を懸念し、友好の証しとして米国から贈られた「青い目の人形」のうちの一体「メリー」が、館山市立博物館本館で19日から6月8日まで公開されることになった。関連行事で、メリーにちなんだ語り部なども予定されている。

「こうした資料は戦争に関する展示会で公開されることが多いが、普段から平和について考えるきっかけになれば」(同館)と、収蔵資料展に合わせて展示することにしたという。

青い目の人形は、京都帝国大学などで英語を教えた米国人宣教師、シドニー・ルイス・ギューリックが、日米間の緊張を文化交流で和らげようと、帰国後の昭和2年、全米に呼び掛け日本に贈った1万2739体の親善人形。日本からは答礼に日本人形58体を贈った。

大戦中に大半が処分され、現存が確認されているのは全国で324体。県内には11体あり、安房地域では館山小、富浦小、東条小分の3体が残っている。

メリーは、当時の館山小校長から富田文枝教諭に託された人形で、押入れの奥で憲兵の目を逃れ、現在は富田教諭の親族が保管している。過去には旧県立安房博物館で展示、紹介されたことがあるという。

関連行事は5月6日と31日のそれぞれ午前11時からと、午後2時から。6日は語り部「さくら貝」の松苗禮子さんによる語りで「富田先生の青い目の人形」、子供の文化研究所の宮崎二美枝さんによる紙芝居で「原爆の子・さだ子の願い」。31日は松苗さんによる語り「富田先生の青い目の人形」と、紙芝居「小沼の花咲和尚さん」となっている。

観覧料は一般300円、小中高生150円。

【写真説明】公開される青い目の人形「メリー」

【房日】130725=ふるさと講座・吉武教授

海の幸は青春の輝き

ふるさと講座 吉武教授語る 館山

(房日新聞2013年7月25日付)

館山市中央公民館の「第2回ふるさと講座-『海の幸』の輝き」が20日、同市コミュニティセンターで開催された。女子美術大学の吉武研司教授が、青木繁の生涯や作品の魅力について語った。

同市布良で青木繁(1882〜1911)が描いた代表作「海の幸」(重要文化財)を中心に、美術史や海の幸以外の青木繁が描いた作品、西洋絵画などを紹介しながら画家の視点から青木の芸術性について話した。

吉武教授は、女子美の宿泊研修で、10年以上前から同市布良を訪れ、学生らに、海の幸を描くきっかけとなった漁村風景や小谷家などを見学させて来た。現在は、青木が宿泊した小谷家の修復と保存の活動団体として、NPO青木繁「海の幸」会理事も務めている。

吉武氏は、青木と同じ九州の生まれで、幼いころから身近に感じてきたことなどを語り、「青木の海の幸には日本人の文化があり、日本人のにおいのする作品だと感じている」と日本人の誇りが感じられる作品と説明。

海の幸を制作した時期は、青木が青春を迎えていた若者で、しかも西洋の油絵を歴史からしっかりと学び、恋人の福田たねと出会い、そのたねと友人を連れて小谷家で過ごした時期であっあとし、「日本の近代化という世界へ向けていく時代背景と青木の青春時代が交差するところで作品『海の幸』が生まれ美しい輝きが出たようだ。この1点だけ残すことで絵描きとしては幸せだった」と語りかけた。

【房日】150523=公開講座「小原代議士の資料から考察」

小原代議士の資料から考察

館山公開講座、愛沢伸雄氏が語る

(房日2015.5.23付)

安房歴史文化研究会による今年度1回目(通算35回)の公開講座が、30日午後2時から、館山市コミュニティセンター2階集団指導室で開かれる。同会の会員で、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄氏が語る。資料代として参加費200円。

テーマは「小原金治の資料から館山の近現代史をみる〜『大正九年三月安房郡在京者氏名録』の考察。

愛沢さんによると、小原金治は日清戦争勃発の明治27年(1894)、衆議院議員に初当選。日清戦争時における代議士活動を記載した小原は、実際に地域のリーダーらとともに、「安房国中央恤兵会」を結成し、戦後、鶴谷八幡宮に「征清記念之碑」(安房郡から従軍した1000人近くの人物名が刻字)を建立している。小原が持っていた「大正九年三月安房郡在京者氏名録」は、県立安房中学校を卒業した若者たちが、東京で勉学するために設立した「安房育英舎」事業に関わる名簿ではないかと推察。

当日は愛沢氏が調査したこうした内容を語る予定。

定員は先着50人。問い合わせは事務局の石崎和夫さん(0470-23-6677)へ。

【房日】150120=戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会

戦争遺跡保存全国シンポジウム、11年ぶりに館山で開催

9月5・6の2日間〜映画上映や講演会・見学会も

(房日新聞2015.1.20付)‥⇒印刷用PDF


戦後70年の節目を迎える今秋、本土で唯一の直接軍政を受け、戦後日本のスタートの地となった館山市で、戦争遺跡の保存と平和を考える「第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム」が開催されることになった。2004年に第8回大会を開いて以来、戦争遺跡だけでなく多様な文化遺産を「まるごと博物館」として、民官協働でまちづくりに生かす取り組みが評価され、11年ぶりの館山大会開催となる。

シンポジウムは、各地の戦争遺跡保存団体や文化財保存全国協議会、歴史教育者協議会などを中心に団体・個人が集い結成された「戦争遺跡保存全国ネットワーク」が主催。戦争遺跡を後世に残し、過去の戦争を現実のものとして捉え平和学習や地域おこしにつなげようと、大本営地下壕跡のある長野県松代町での第1回を皮切りに、毎年各地で開かれている。

東京湾口にある館山とその周辺には、首都防衛のための軍事施設などが多数つくられ、貴重な戦争遺跡が数多く点在していたことから、11年前に初めて同市を会場にシンポを開催。同市では、そのシンポを契機に市民の間に戦争遺跡を中心に多様な文化遺産保存の機運が高まっていった。翌年には、見学地の一つだった館山海軍航空隊赤山地下壕跡が、市指定史跡となったほか、青木繁の「海の幸」誕生の小谷家住宅が市指定文化財に、また、里見氏城跡(稲村城跡・岡本城跡)が国史跡になるなど市民運動が成果を挙げている。

終戦の1945年8月15日以降、日本軍の降伏と武装解除を進めていたアメリカ軍を中心とした連合軍は、先遣隊に続いて9月3日には、館山海軍航空基地にアメリカ占領軍の第112騎兵隊が上陸。本土で唯一4日間の直接軍政を受けた歴史も持つ。

同ネットワークでは、そうした史実も含め、多様な文化遺産をまちづくりに生かした取り組みが展開されている同市を、戦後70年の節目となる記念すべき年のシンポ開催地に決定。9月5、6の両日、南総文化ホールと同市コミュニティセンターを会場に開かれることになった。

シンポジウムでは、戦時中の館山を舞台にした、せんぼんよしこさん監督の映画「赤い鯨と白い蛇」の上映や講演会、分科会、現地見学会などを2日間にわたって計画。市民活動の中心的な役割を担い、主催者にも名を連ねるNPO法人安房文化遺産フォーラムなどで館山大会実行委員会を組織し、現在、具体的な行事スケジュールが検討されている。

【読売】150221*安房の高校から支援20年の像ウガンダに

安房の高校から支援活動20年

交流の像、ウガンダへ

(読売新聞2015.2.21付)‥⇒印刷用PDF

ウガンダの首都にこのほど、館山市の彫刻家が制作したブロンズ像が建てられた。安房地域の高校生がウガンダに対して20年続けている寄付、交流活動の象徴だ。支援の仲介窓口を務めてきた旧安房南高校の元教師愛沢伸雄さん(63)(館山市)に届いたメールには、像を囲む大勢の子どもたちの写真が添付されていた。

(笹川実)

支援活動が始まったのは1994年。南高の教師だった愛沢さんが、来日中のウガンダの男性と出会ったのがきっかけだった。

ウガンダの男性は、エイズ孤児の救済活動をするNGO「ウガンダ意識向上協会」のスチュアート・センパラ代表(57)。ウガンダの内戦やエイズ流行を知った愛沢さんのアドバイスで、生徒会が支援を呼び掛け、衣料品や学用品を送る活動が始まった。南高が安房高校に統合された後も続き、さらに安房西高校へと引き継がれている。

昨年9月には、3校の生徒や卒業生らが交流会を開催。旧安房南高の元美術教師、船田正廣さん(77)(館山市)が、高さ108センチのブロンズ女子生徒像を記念碑としてウガンダに贈ることを申し出た。

昨年12月、航空便が利用され、料金は安房西高の募金やバザーの収益金などが原資となった。像を建てる場所になったのは、ウガンダの首都カンパラの職業訓練施設「安房南洋裁学校」。旧安房南高の生徒らがバザーなどで集めた支援金で2000年に開設された施設だ。

センパラ代表からの報告は今年1月、愛沢さんにメールで届いた。添付された礼状は「館山との出会いは、恵まれないウガンダの子どもたちにいい影響を与えている。像は、結ばれた心そのものだ」とつづられ、像の周りに集まったセンパラさんと現地の子どもたちの写真も添付されていた。

「支援の証がいい場所に建った」と船田さん。愛沢さんは「民間の交流、支援は無理のない範囲で、今後も続けたい」と話す。

昨年、支援活動20周年記念誌「20年のあゆみ」が刊行された。旧安房南高卒業生の「支援は自分のためにもなった。活動のがんばりが社会人のいま、励ましになっている」との経験談が掲載されている。