読者のコーナー:布良に残る男の溜まり場
山口栄彦
(房日新聞2014.9.15付)
戦争体験者が減ったことと同列にすることは気が引けるが、井戸端会議に参加した女性もわずかになった。したがって井戸端会議という言葉は死語に近い。
井戸端会議とは「近所のおかみさんたちが共同の井戸にやってきて、洗い物をしながら世間話に花をさかせます」(『自分の頭で考える』外山滋比古著、中央文庫)
このことについて筆者はさらに続ける。「男性がかつての井戸端会議の場所、即ち床屋、銭湯を失った」と。外山氏に反発するつもりはないが、それに代わるものが現在布良にある。
船引き場(上架場)の端に船具や網などを入れる小屋がある。その小屋を背にして古い椅子が並ぶ。船主や釣り船のオーナー、退職のサラリーマンなど、60代から80代の男たちが集まる。彼らの前には古びたドラム缶があり、たばこ好きな男は吸い殻をそのドラム缶の中に投げ込む。
話の中心はやはり漁のこと。その次はやはり漁のこと。その次は目の前の集落や地元の様子だ。政治や社会のことも時々話題になる。頭上をひっきりなしに東京の羽田に向かう飛行機にも話は及ぶ。
当方が、自由な都会生活に長く浸っている間、男たちは昔からの地元の風習や、あらぬ噂などに耐えてきたのだ。彼らが話す訛(なまり)のある地元の言葉は、独特の響きがあり、ほのぼのとする。「まさしく男の井戸端会議」だ。
絵画の重要文化財≪海の幸≫を残した青木繁にこの光景を見せてあげたい、彼は後世から何と言うだろうか。
館山市 山口栄彦
偉大な先人の生き方学ぶ
渋沢栄一と福原有信、まちづくり講座
(房日新聞2014.12.6付)
NPO法人安房文化フォーラムは、明治に活躍した館山ゆかりの人々をシリーズで紹介する「ヘリテージまちづくり講座」の第2弾を、明日7日に開催する。今回は、船形学園に記念碑がある渋沢栄一と資生堂創業者の福原有信の2人を取り上げ、見学会と講演会を行う。
渋沢は、明治から大正にかけて500件近い銀行や企業の設立に関わり明治27年には豊津村(館山市)に日本水産会社を大倉喜八郎とともに設立した。教育や救善事業にも尽くし、同42年には船形町(同)に虚弱児の転地療養施設として東京養育院安房分院を開設、自ら初代院長として傷害のライフワークとした。同院はその後、船形学園として都が運営している。
一方、松岡村(同)出身の福原は、日本で初の西洋調剤薬局・銀座資生堂や帝国生命(現朝日生命)、安房銀行(現千葉銀行)を創業。長女は館山病院の初代院長の川名博夫に嫁ぎ、その妹は渋沢家の二男に嫁ぎ、両家は姻戚関係にもある。
見学会は、午前⒑時半に船形学園正門前に集合して記念碑などを見学。講演会は、渋沢史料館の井上潤館長を招き、午後1時半から3時半まで、館山商工会館で開く。
参加無料で多くの来場を呼び掛けている。問い合わせは、事務局(090-6479-3498)まで。
千葉から語り継ぐ戦争〜秘密保護法施行深まる懸念
「見るな、話すな」戦後も国民縛る…軍機保護法と重ね合わせ
(東京新聞2014.12.11付) ⇒ 印刷用PDF
特定秘密保護法が十日、施行された。「戦時中と同様に、また国民を縛ることになりはしないか」。房総半島の戦跡の保存、研究に取り組む館山市のNPO法人「安房文化遺産フォーラム」代表、愛沢伸雄さん(63)は戦争の「語り部」として、国民の知る権利を侵す恐れのある法律に懸念を隠せない。(北浜修)
JR館山駅から館山湾沿いを西へ約二・五キロ、海上自衛隊館山航空基地に近い高台に、市指定史跡「館山海軍航空隊 赤山(あかやま)地下壕(ごう)跡」がある。海軍航空隊は、現在の海自基地の場所にあった。壕は合計の長さが約一・六キロ(公開部分は約二百五十メートル)と全国的にも大きなもので、市を代表する戦争遺跡だ。
内部の高さや幅は一定ではない。高さが三〜四メートルほどの所もあれば、一般の成人男性がかがまないと歩けないほどの部分もある。
ひんやりとした壕の中で、愛沢さんが見学者らに発電設備の跡を示したり、少ない証言などから、航空隊の事務施設や電信設備などがあったとみられることを話していた。同フォーラムはここ十年、希望者らのガイドを引き受けている。
しかし、壕がいつ、何のためにつくられたのかは、資料がほとんどないためにはっきりしない。
市のホームページなどでは、大きな地下壕が日米開戦の一九四一(昭和十六)年以前につくられた例はなく、軍部が本格的につくり始めたのは四二年以降であるとして、空襲が激しくなった戦争末期、航空隊の防空壕として使われていたとの見方が示されている。
愛沢さんの見解は異なる。
館山は東京湾の入り口に位置し、首都防衛の要所だった。三〇(昭和五)年に実戦部隊の館山海軍航空隊が開設。四三(同十八)年には隣接地に、整備部門の航空隊として洲ノ埼海軍航空隊が置かれるなど、海軍の一大拠点だった。
壕は、館山海軍航空隊の艦船や艦載機をコントロールする通信基地で、司令部や戦闘指揮所、病室、兵器貯蔵施設などを併せ持つ「要塞」だったとみている。
「日米関係が悪化していく中、対米開戦の前、三〇年代にはつくられたのではないか。戦争末期に単なる防空壕としてつくられたとは考えにくい」
さらに重要な点として戦前、軍事機密を保護する目的で施行された軍機保護法に着目する。
「資料はないが、地下壕が軍機保護法の対象であろうことは十分考えられる。当然いつ、何の目的でつくられたか、市民には知らされなかっただろう」。市民が空襲で赤山の壕に逃げ込んだという証言を得たことはあるが、周辺には多くの壕があり、場所は特定できなかったという。
愛沢さんは軍機保護法と秘密保護法を重ね合わせる。「地下壕について知っていても何も言わずに亡くなった方は多いと思う。戦前の『見るな、話すな』という社会のシステムは戦後になっても国民を縛り続けた。同じことを繰り返すことになるのでは」
歴史研究への影響も懸念する。「証言は一つ一つ検証する必要はあるが、まず誰かが証言しなければ歴史研究は始まらない。『何が秘密であるかも秘密』という社会でよいのだろうか」。そう語る表情は最後まで厳しかった。
軍事機密を漏らした軍人や民間人を処罰する法律。明治時代につくられた。日中戦争の始まった1937(昭和12)年の法改正で内容が強化され、陸相や海相が指定した機密が全て対象になった。情報収集、漏えいなどにとどまらず、軍事施設の撮影やスケッチなども制限。民間人にも適用された。終戦直後に廃止。
東京・銀座でオマージュ展
「青木繁」敬愛の作品展示8月2日まで
(房日新聞2014.7.20付)
明治時代の画家、青木繁(1882〜1991)を敬愛した作品を展示する「青木繁『海の幸』オマージュ展」が19日から、東京・銀座の「永井画廊」(永井龍之介代表取締役)で始まった。8月2日まで。
昨年、第1回として銀座で展示した作品を巡回する形で、第2回館山展として開催。代表作の「海の幸」(重要文化財)が描かれるきっかけとなった同市の市博物館の「渚の博物館」を会場に、60日間で延べ8000人以上が観賞した。今年は東京展の後、関西方面の画家らを中心にした、第4回京都展も予定している。
オマージュ展は、NPO青木繁「海の幸」会が中心となって開催。同会は、2010年に発足。東京技術学校を卒業したばかりの青木が1904年、館山市布良の小谷家へ宿泊し「海の幸」を制作したことから、この小谷家の保存、修復を目的にしている。会員有志によりオマージュ展を開催し、広く一般への賛同を呼びかけている。
今回の東京店では、永井氏が活動に賛同し、NPOと永井画廊が共催の形となった。永井氏が推薦する54人の画家の作品を展示。小品を中心とした油彩、ドローイング、立体などで、特別展示で、青木繁の作品「梅野一像」も飾られる。
第3回東京展の開催時間は午前11時半〜午後7時。日曜休館。
第4回京都展は、ギャラリー「ヒルゲート」(京都市中央区)で、8月6日〜11日に開催される。
東京展の問い合わせは、永井画廊(03-3547‐9930)へ。
青木繁「海の幸」オマージュ展
小谷家住宅の修復契機に 館山
(千葉日報2014.8.6付)
明治の洋画家、青木繁(1882〜1911年)が国の重要文化財「海の幸」を描いた館山市で5日、繁を尊敬する画家らによる作品の巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」が始まった。
繁が「海の幸」制作に取り組んだ小谷家住宅(同市布良)の保存事業を盛り上げようと、NPO青木繁「海の幸」会(大村智理事長)や市が同展を企画した。
東京、京都、福岡でも開かれ、作品の売り上げの一部は保存事業の資金になる。館山会場で作品は販売していない。
会場は2カ所に分かれ、第1会場の渚の駅たてやま内渚の博物館には、現代の画家たちが繁に思いをはせて描いた絵画23点と、繁の下絵やデッサン画10点が並ぶ。
第2会場の館山市コミュニティーセンターには地元の美術愛好家らの作品80点を展示している。
オマージュ展初日のセレモニーでは金丸謙一市長が「海の幸が館山で描かれたことは市民にとって大きな誇り。
小谷家住宅の工事も着工した。
青木繁との縁は市の教育、文化、観光振興に大きな意義」と語った。
小谷家住宅の修復工事は2016年3月まで続き、同年4月の公開を目指す。
会期は第一会場・31日まで、第2会場・24日まで。
入場無料。
23日午後2〜3時には美術評論家、金澤毅氏のギャラリートーク「芸術は時代を映す鏡」が開かれる。
5日から「海の幸」オマージュ展 2会場で複合展示
館山 青木繁の直筆デッサンも
(房日新聞2014.8.3付)
青木繁「海の幸」オマージュ展が5日から、館山市の渚の駅たてやま渚の博物館、同市コミュニティセンターで開催される。青木に影響を受けた現代画家の作品に加え、青木直筆のデッサンなどが展示される。初日には銀座・永井画廊の永井龍之介氏によるギャラリートークも予定されている。
海の幸を描くのに青木が滞在した同市布良の小谷家の復元、保存、公開を目指すNPO法人青木繁「海の幸」会と市、市教委の主催。
オマージュはフランス語で尊敬の意。青木繁に憧れ、会の活動に賛同した現代作家の作品を集め、一昨年から全国各地でオマージュ展を開催し、保存活動の機運を高めている。今回が7回目。
館山の2会場では、青木に影響を受けた現代画家約50人の約70点が展示される。日本芸術院会員の出品もあり、海の幸に描かれた青木の恋人の表情をモチーフにした作品もある。
第1会場の渚の博物館(会期8月31日まで)では、館山の地図を描いた作品など、青木の直筆デッサン10点、第2会場の館山コミセン(同24日まで)では、館山美術会所属作家の作品も展示される。
5日のギャラリートークは午前11時から。テレビ番組「開運! なんでも鑑定団」にも出演する永井氏が、「美術を身近に」をテーマに語る。
23日午後2時からは、美術評論家で成安造形大学名誉教授の金澤毅氏による「芸術は時代を映す鏡」と題したトークもある。いずれも無料で、会場は渚の博物館企画展示室となっている。
存在消された謎の岬
遺跡が伝える戦争の記憶=ちば探検隊=
(読売新聞2013.9.22)‥⇒印刷用PDF
南房総市富浦町多田良にある大房(たいぶさ)岬は、神奈川県の三浦半島側に向かって飛び出した長さ約2キロ、幅約500メートルの岬だ。かつて、この岬は世の中からその存在が消されていたと聞いた。興味を引かれ、その理由を探ってみた。
(羽田和政)
岬の付け根に当たる場所で生まれ育った鈴木勇太郎さん(81)は、花の栽培をしながら、岬の案内人を務めている。ほんの目の前にあるのに、この岬に足を踏み入れたのは13歳の中学生になってから。「私の生まれた昭和7年(1932年)にここに陸軍の要塞ができて、それから戦後まで立入が禁止されていたからなんです」
それでも戦前は規制も幾分緩やかだったが、開戦後は列車から岬が見え始めると、強制的に窓を閉めさせられたという。「当時、確か地図にも岬の輪郭だけしか載っておらず、岬内の道や建物などは白く塗りつぶされて一切記載されていなかった記憶がある」と70年前を振り返る。その地図をぜひ見てみたいと思い、地元の民俗資料館や館山市立博物館を当たったが、結局見つからなかった。
数日後、同博物館の岡田晃司館長(55)から「面白いものが見つかった。地図の代わりになるかも」と連絡があり、見せてもらったのは背景のない観光用の絵はがきだった。「安房名所・館山北条海岸海水浴場」と題した写真はがきで、海岸に遊ぶ水着姿の人々の楽しげな様子が写っている。しかし、写真の角度からいって背景部分に見えるはずの山並みや大房岬はきれいに消されていた。検閲元の「東京湾要塞司令部」による「許可済」の文字が入っている。
房総半島南部の館山市や南房総市周辺は、その立地条件や地形から、幕末以降東京湾要防衛の要だった。今も砲台跡や飛行機を隠した掩体壕(えんたいごう)など多くの戦争遺跡が残る。そうした遺跡の保存や啓発活動を行っているNPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(61)にはがきを分析してもらうことにした。
愛沢さんははがきを見るなり、「軍事施設だったからとしか説明のしようがない」と切り出し、同じ放題だった富津岬部分が消された1938年尾「大日本帝国陸地測量図」を見せてくれた。別の地図では木更津航空隊の基地も白く抜かれ、館山航空隊にいたっては、その存在すらない。「機密性の高い軍事施設は戦争が差し迫ると扱いが微妙になり、やがて人々に知られてはならない場所として地図から消される。そうした事実を踏まえ、戦争の本質を風化させないように努めるのが使命」と話す。
改めて鈴木さんに岬を案内してもらった。今は少年自然の家やキャンプ場として、子供たちが自然を学ぶ絶好の場所になっている。その周囲には1921年のワシントン軍縮条約で廃艦となった装甲巡洋艦「鞍馬」の連装副砲を据えた二つの砲台をはじめ弾薬庫や発電所があり、そこから電気を引いて会場を照らした探照灯が置かれていた探照座など数々の戦争遺跡が残る。日露戦争で連合艦隊が艦砲射撃訓練に使った穴だらけの崖もある。
「古くは信仰上の聖地、その後は軍関係の施設になって、近くにありながら出入りのできなかった謎の場所。神秘の岬です」と鈴木さん。子供や若者を案内する際に必ず言い添える言葉がある。「遺跡はあくまで素材。それを見て触れてどう思い、今後にどう生かすかが大切なのです」
ウガンダ支援続けて20年
安房の高校生ら関係者が交流会 館山
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NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は7日、安房地域の高校生らによるアフリカ東部のウガンダへの支援活動20周年を記念する交流会を、安房西高校で開いた。関係者ら40人が集まり、活動を振り返ったあと、記念としてウガンダに寄贈するブロンズ像が披露された。
支援のきっかけは、当時、旧安房南高の教諭だった愛沢代表が、孤児の救済活動を行うNGOウガンダ意識向上協会の代表、スチュアート・センパラさん(57)に出会ったこと。ウガンダでは、内戦でエイズがまん延し孤児があふれていることを知った。
愛沢代表は、生徒らにボランティア活動を提案し、94年に支援が始まった。その後、安房高JRC部を経て、安房西高JRC部へと受け継がれて、支援バザーや募金などの活動が続けられている。
安房南高時代の資金援助を原資に2000年には、ウガンダの首都カンパラ市に職業訓練施設「安房南洋裁学校」が完成。交流の象徴として同南高の校章が掲げられた。
この日の交流会では、節目に合わせて作成した記念誌を、高校生や活動を支えた同窓芳誼会をはじめとする出席者に配布して、活動を説明。活動に関わった卒業生や支援を受けたウガンダの子どもたちの声も紹介された。
活動紹介の後には、20周年を記念してウガンダに贈られる、元南高の美術教師で彫刻家の船田正廣さん(76)が制作した、制服姿の安房南高の生徒立像が披露された。寄贈にあたり、安房西高JRC部から約5万円、館山信用金庫からふるさと応援ファンドとして10万円の助成もあった。
愛沢代表は「小さなことから始まった生徒たちの思いが、人と人をつないで素晴らしい活動になった。20年続いていることに感謝するとともに、今後も続いてくことを願っています」と思いを語った。
青木繁《海の幸》フォーラム
布良で誕生した名画を考える
(房日新聞2014.7.16付)‥⇒印刷用PDFはこちら。
明治期の洋画家。青木繁の代表作「海の幸」誕生の聖地として館山市布良に残る小谷家住宅の保存運動に取り組む、「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)が27日、南総文化ホール関係者を迎え、「青木繁≪海の幸≫フォーラム」を開催する。基調講演やパネルディスカッションをとおして、明治の漁村で誕生した名作「海の幸」を考える。
青木繁が布良を訪れて今年で110年を迎える。同会の地道な活動により、その節目の年に小谷家住宅の修復工事も始まり、2年間の改修が終わる平成28年春には一般公開も予定されている。とはいえ、保存費用はまだ目標に達せず、引き続き支援を呼びかけるとともに、青木繁の力を借りて館山の地域ブランドに磨きをかけよう、とフォーラムを企画した。
フォーラムは午後一時半から小ホールで。第1部は、海の幸を所蔵する福岡県久留米市の石橋美術館の森山秀子学芸課長が「青木繁を通してみる文学と美術の交流」をテーマに基調講演。第2部では、小谷家当主の小谷福哲さん、「海の幸」会理事で女子美術大学の吉武研司教授、労働大臣認定カラースキャナー1級技能士で「海の幸」複製画を制作した島田吉廣さn、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん、同事務局長の池田恵美子さんがパネリストとして登壇。「明治の漁村・富崎から≪海の幸≫誕生を探る」をテーマにディスカッションする。参加費無料(資料代300円)で、多くの来場を呼びかけている。
また、このフォーラムに続いて8月5日から、渚の博物館と館山コミュニティセンターで、青木繁「海の幸」オマージュ展が開催される。銀座・京都・福岡・田園調布と並んで館山展として開かれるもので、著名な美術家の作品が一堂に会する。
高校生、ウガンダの子ら支援20年
安房地域の3校で活動次々引き継ぐ
(朝日新聞2014.9.8付)
高校生、ウガンダの子ら支援
安房地域の3校で活動次々引き継ぐ
安房地域の高校生が、アフリカ・ウガンダの子どもたちの支援を始めて20年。統廃合や校内事情で3校をリレーした活動を記念する「つどい」が7日、安房西高(館山市)で開かれた。
この日、参加したのは約40人。活動を続けている安房西高2年で青少年赤十字部長の進藤美紅さん(16)は「生まれる前からあったのですね」と驚く。さらに「地球の裏の人とつながる活動を引き継ぎます」。ウガンダ支援を安房南高(同市)で始めた看護師の川名麻紀さん(37)は「小さな力でもやるんだ」という気持ちで始めた。20年も続くなんて」と語り、「安房西の皆さんもそんな気持ちで続けてください」と励ました。
安房西高のバザー売上金約5万円などと共に、しない在住の彫刻家船田正廣さん(76)が制作したブロンズ像「安房南高校生徒像」をウガンダに贈ることになった。最初に支援した安房南高は女子高なので、セーラー服姿の立像。船田さんは「ウガンダで身近な所に置き、みんなに手で触れてもらいたい」と話す。
活動が始まったのは1994年。集会を主催した安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(62)は安房南高の教諭で、来日していたウガンダ人スチュワード・センパラさん(57)との出会いがきっかけだった。
センパラさんは内戦中に難民キャンプで働き、後に「ウガンダ意識向上協会」を設立して代表に。子どもの教育や健康管理、食糧供給を手掛けている。安房南高校の生徒が贈り続けた募金などで、同協会は2000年、腫とカンパラに職業訓練校を建てた。校名の「安房南・洋裁学校」に感謝の気持ちが表れている。
安房南高が統合された08年、統合先の安房高(同市)の青少年赤十字部に活動が引き継がれ、そこが活動をやめた昨年、今度は安房西高へと活動が移っている。
(田中洋一)