メディア報道

【朝日】150819*戦争を語り継ぐ活動をしている団体

戦争を語り継ぐ活動などをしている主な団体

(朝日新聞2015.8.19付)

市原平和のつどい実行委員会(市原市)

原爆の絵展など開催。鳰川(におかわ)静事務局長。0436・74・2466

沖縄6・23 歌と踊りの実行委員会(柏市)

沖縄慰霊の日に語り継ぐイベント。小林正幸代表。080・3477・8683

柏・麦わらぼうしの会(柏市)

原爆をテーマに朗読劇を行う。村山久美代表。090・9687・7376(事務局)

平和を語り継ぐ会(木更津市)

元教諭らが学校で語り継ぎ授業。山田孝子(のりこ)会長。0438・23・7258(君津教育会館)

戦争体験語り部の会(山武市)

戦争体験者が語り合う。小学校での語り部活動も。高橋照美会長。0475・88・1515

安房文化遺産フォーラム(館山市)

館山市の地下壕(ごう)など戦跡のガイド。愛沢伸雄代表。0470・22・8271

平和祈願うたごえの集い実行委員会(銚子市)

銚子空襲を伝える催しを商店街で。溝口哲広代表。090・4733・3031

千葉市空襲と戦争を語る会(千葉市)

空襲体験を伝え、過去には証言集も作成。白井進代表。090・9306・1583

ちば・戦争体験を伝える会(千葉市)

千葉市空襲などを伝える紙芝居を上演。市川まり子代表。080・5017・1584

野田市戦争かたりべの会(野田市)

語り部活動。映像で証言を残す試みも。日佐戸輝代表。04・7122・1418

【毎日】150902*本土唯一軍政敷かれた館山

本土唯一軍政敷かれた館山、占領軍上陸から4日間

8月28日富津、9月3日館山

(毎日新聞2015.9.2付)⇒印刷用PDF(拡大)

70年前の9月2日、東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号で重光葵外相ら日本代表が降伏文書に調印した。東京湾口に位置し、軍事上の重要拠点だった館山はその翌日から、1945年6月に米軍に占領された沖縄に次いで本土で唯一、占領軍の施政下に置かれた。戦跡保存に取り組むNPO法人「安房文化遺産フォーラム」(愛沢伸雄代表)が米テキサス軍事博物館から取り寄せた写真や資料は、当時の様子を生々しく伝えている。

資料や関係者の証言などによると、千葉県内に米軍が最初に進駐したのは45年8月28日、先遣隊である米海兵隊の特殊部隊が富津海岸に上陸したのが始まりとされる。海兵隊員は二百数十人。連合国軍最高司令官のマッカーサーが厚木飛行場に降り立った30日には、館山港から上陸。館山海軍飛行隊の基地に入り、富津から館山にかけての海岸線の機雷敷設状況などを調査した。その結果を踏まえ9月3日、ジュリアン・W・カニンガム准将が率いる米陸軍第112騎兵連隊約3500人が館山に上陸した。

愛沢代表は「米軍は東京湾岸を挟む館山と横浜に正規軍を上陸させ、挟み撃ちで首都を制圧する作戦を計画していた」と説明する。

同隊の任務は日本軍の武装解除と民政監督。カニンガム准将は3日付の文書で日本側に米軍司令部による館山地区の占領を宣言した。文書では、日本軍関係者と行政当局に、館山から鴨川にかけてのすべての軍事施設や発電所、燃料施設の位置を記した地図を提出するよう求め、すべての学校の閉鎖、午後7時から午前6時までの外出禁止、酒場や劇場の閉鎖などを命じた。一方で、米兵には神社内への立ち入りを禁じ、文化・芸術品の保護、職務の妨害がない限り一般人に危害を与えないことを指示した。

軍政を敷く前の数日間、海兵隊員が館山市内で婦女暴行2件、同未遂6件、住居侵入16件など36件もの犯罪を起こしていたことが千葉県警察史に記録されている。愛沢代表は「軍政を通じて、米軍の綱紀粛正も図ったのでは」と分析する。

館山での軍政は「日本政府の機能を存続し尊重する」とした連合国軍総司令部の方針と矛盾するため、わずか数日で撤回された。軍政の終了を告げる文書は残されていないが、愛沢代表は安房中学(現安房高)の授業が9月7日から再開されたことを根拠に、館山の軍政は4日間で終わったと推定している。

【中島章隆】

【熊本日日】150824*地下壕戦争遺跡へ整備

地下壕戦争遺跡へ整備

千葉館山市、平和学習、観光の拠点に

(熊本日日新聞2015/8/24)⇒印刷用PDF(要拡大)

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錦町で昨年、戦争中に作られた人吉海軍航空隊の地下壕(ごう)や作戦室、無線室などが見つかった。町や地元の住民グループは、戦争遺跡として整備する取り組みを始めた。先行する千葉県館山市では2004年から、館山海軍航空隊・赤山(あかやま)地下壕跡が平和学習や観光資源として活用され、戦後70年の今年も多くの人が訪れている。現地を訪ねた。

今月17日。地元で戦跡の保存活動に取り組むNPO法人安房(あわ)文化遺産フォーラムの金久修さん(70)の案内で地下壕へ。

土のにおいが漂う中を懐中電灯を手に一歩一歩進む。穴はまるで迷路のように四方に延びており、総延長は1・6キロ。頭をかすめるほどの高さの通路の所々に、広さ60畳ほどで高さも数メートルある空間が設けられている。

■首都を守る要塞

「ここは通信部隊が詰め、暗号解読などをしていたそうです」。「壁にはツルハシで削った痕跡が鮮明に残る。地盤がもろいため発破や重機が使えず、ほとんど手堀りで造られたという。

1時間ほどの間に、地元の親子やツアー客が次々に訪れる。「地下壕を造らざるを得なかった戦争というものを、肌で感じてもらえれば」と金久さん。

房総半島の南端、東京湾の入り口に位置する館山市は戦時中、街全体が首都・東京を守るための「要塞(ようさい)」とされた。多くの砲台が造られ、1930年に館山海軍航空隊が置かれた。戦争末期には本土決戦に備え、約7万人の兵士が終結したともいわれる。赤山地下壕は、空襲を避けるための施設とされるが、資料が乏しく、掘られた時期などは判然としない。戦争体験者の証言で、戦闘指揮所や格納庫の存在が明らかになった。

■課題は「安全性」

地下壕は戦後、そのままの状態で放置されていた。戦跡として整備されるきっかけは戦後50年の1995年。地元の高校教師だった愛沢伸雄さん(63)=同NPO代表=らが「歴史教育に生かせないか」と調査や講演活動を始めた。保存を求める市民の声が次第に高まり、館山市も保存・活用に乗り出した。

「負の遺産」のイメージもある戦跡の保存や整備は消極的な自治体も少なくないが、同市は歴史的価値があると判断。97年、子どもたちの平和学習や観光の拠点として生かす方針を決めた。

最大の課題は安全性だった。地下壕は崩落部分もあり、市は本格的な地質調査を実施。04年4月、安全が確認された一部のみ(長さ約250メートル)の公開を始め、翌年には市史跡に指定した。現在も月1回の詳細な点検と、年1回の詳細な検査を欠かさないという。入場料は一般200円、小中高生100円。

■行政と民間連携

今年3月までの11年間の入場者数は17万5千人。昨年度は過去最多の2万4千人が訪れた。同市教委は「戦後70年を迎え、戦争への関心が高まっている」と分析する。内訳は県外から63%で、東京都や神奈川県など首都圏が多い。団体客の割合は36%。小中学・高校の平和学習に利用されるほか観光ツアーの行程に組み込まれるなど観光資源としても定着してきたという。

同市内では、空襲から戦闘機を守る掩体壕(えんたいごう)や砲台跡などの戦跡が47カ所確認されているが、赤山地下壕以外はほとんどが民有地。市が関わることが難しいため、NPOや住民団体が地権者の了解を得て管理やガイドツアー(有料)をしている。

愛沢さんらのNPOにも約20人の「語り部」がいる。同市教委は「行政が及ばない部分を補ってもらっている。民間との連携が大切」と強調する。

戦争遺跡の意義について、愛沢さんは語る。「戦争の悲惨さや当時の人々の暮らしをまざまざと教えてくれる。私たちは貴重な戦跡を残し、伝え続けていかなければならない」

人吉海軍航空隊 錦町も活用チーム

人吉海軍航空隊の地下壕跡からは、作戦室や無線室など約20の施設が見つかった。70年間、地下に眠っていた「戦跡」をまちづくりに生かす動きが始まっている。

同隊は1944年2月に発足。飛行予科練習生が飛行訓練などを受けていたが、1年5カ月で解隊された。旧軍の地下無線室の確認は九州でも数例しかないが、地下壕の存在は地元でもほとんど知られていなかった。

錦町は今年2月、「基地跡活用研究プロジェクトチーム」(6人)を設置した。まずは住民に知ってもらおうと、町広報誌で特集。地区ごとに開く町政座談会でも報告し、情報提供を求めている。

年度内に調査測量などに着手したい考えだが、公開までには、安全性や地権者の了解、費用負担など課題は多い。5年計画で進める予定といい、森本完一町長は「安全性の確保が大前提。戦争の悲惨さを伝える戦跡として、少しずつ整備していければ」と話す。

一方、住民有志らは同地下壕を中心に、人吉市や湯前町などに残る防空壕などの調査・研究に取り組む。金山充さん(64)=湯前町=は「戦跡の保存・活用が、人吉球麿全体の活性化につながればいい」と期待する。

【産経】150811*米軍上陸‥自宅そばに「占領地」(高橋博夫)

千葉から語り継ぐ戦後70年

米軍上陸‥自宅そばに「占領地」顔合わせるうちに親しく、学校に招待も

元館山市教育長・高橋博夫さん

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終戦から間もない昭和20年8月30日正午ごろ。館山湾から上陸してくる米軍の先遣隊の様子を一目見ようと、国民学校の助教だった高橋博夫さん(87)=館山市沼=は自宅のソテツの木の陰から目をこらした。地域の住民には数日前に「米軍が近く上陸する」と知らされており、周囲の家は戸を閉じ息を潜めている。女性や子供を避難させた家もあり、まち全体が静まりかえっていた。

高橋さんの自宅は海岸を見渡せる場所に位置していたため、館山終戦連絡委員会の職員が不測の事態に備えて待機していた。全員が落ち着かない様子で港の方向を見つめていた。

やがて、東京湾上の艦艇から上陸用舟艇数隻が接岸。上陸してきた米兵の先遣部隊十数人が見えたが、その姿にぎょっとした。上半身裸に短パン姿で、腰には拳銃を携えている。

「日本軍だとあんな恰好は考えられない。『すげぇ国だな、野蛮な国なのかな』と職員の人たちと話したのを覚えている。

その後、米軍の兵士らは日本軍の兵士らとともに車に乗って館山海軍航空隊基地方面に向かっていった。

ああ、負けたのか

高橋さんは、旧制中学を卒業し、終戦の4カ月前に教員不足に陥っていた西岬村立東国民学校(現・西岬小学校、館山市)に助教として勤務していた。

しかし、戦局はすでに厳しく、学校近くの畑でイモやカボチャを作ることがほとんどで、ろくに勉強を教えることはなかった。学校の講堂などに陸軍が駐在していて、使える教室は限られていた。「千葉県が米軍が上陸して来るといわれていて、どこの学校も同じような状況だった」という。

8月15日の玉音放送のラジオは学校で聞いたが、音が悪いのと、慣れない言葉だったためよく分からなかった。ただ、学校に駐屯していた部隊長が「戦争に負けました。次の命令が下るまで乱すことなく待つように」と話、「ああ、負けたのか」と理解した。

教え子たちには日本が負けた事実だけ伝えた。「この後どうなるかなんて自分自身が分からなかった」

いつ銃口が向くか

ミズーリ号での降伏文書調印翌日の20年9月3日、再び米軍の別の部隊が館山に上陸した。高橋さんはこのときの様子も見ていたが「前回と違い、整然と隊列を組んでいた」という。上陸した米軍はその日のうちに高橋さんの自宅そばの道路に沿って鉄条網を敷き、機関銃を設置。鉄条網の中は米軍の「占領地」となった。鉄条網は4日間ほどで撤去されたが、高橋さんは「いつ銃口を向けられるかと怖かった」と振り返る。

鉄条網の撤去後も衛兵の詰所は残され、高橋さんは衛兵と毎朝顔を合わせるうちに米兵らと次第に親しくなった。若い兵士を勤務先の学校に招待したり、「日本文化を学びたい」という将校を自宅に招いてもてなしたりしたことも。「米兵は接してみると威圧的な様子はなく親しみやすかった。こっちも負けた悔しさはなく、人間同士のつきあいができた」という。

戦後は地元の小学校などに勤務し、館山市教育長も務めた。教育現場では、欧米の新たな価値観を取り入れながらも、日本人の誇りを大事にする人づくりに力を入れた。一線を退いた現在、日本社会を「自己中心的行動が目立つようになった」とみる。

「終戦から70年が過ぎ、もう一度、家庭や社会を大事にする日本人らしさを見直すことが必要。そうすれば、戦争のない、よりよい社会が築けるはずだ」

(大島悠亮)

【読売】150812*布良沖の惨劇

戦後70年 第2部 苦悩の記憶

⑦布良沖の惨劇(1945年春)

死傷者 地元に記録なし

(読売新聞千葉2015.8.12付)⇒印刷用PDF


その日も朝から天気が良く、館山市布良(めら)の沖合は春の日差しを受けて青く輝いていた。

布良沖には潜水艦攻撃船「駆潜艇」とみられる艦艇が1隻、爆雷投下訓練の後、一時停泊していた。昼前になり、突然、伊豆半島方面から米軍の爆撃機が1機、低空で接近してきた。爆音と硝煙が上がり、艦艇はあっという間に船尾から沈んだ。

近くの土手で遊んでいた少年たちから「あ—撃沈だ」との声が上がる。その中の一人、青木辰一さん(83)(館山市相浜)は「米軍機は旋回して来て今度は機銃掃射した」と振り返る。攻撃は一方的だったという。住民は救助に出ることもできず、目の前で初めて見る惨劇をただ眺めているしかなかった。

一部始終は、その土手近くにあった民間防空富崎監視哨からも目撃されていた。監視哨は敵機をいち早く見つける施設で、14〜18歳の少年らが詰めていた。

監視哨にいた豊崎栄吉さん(86)(同市布良)は双眼鏡で艦艇が攻撃される様子を目撃し哨長が本部に「布良沖で駆潜艇訓練中」と報告するのを聞いた。哨長の命令を受け富崎漁港に状況視察に出ると、地元の漁船に救助された大勢の将兵たちが運ばれており、「海軍の若い人たちが多かった。血だらけの負傷兵を住民が手当てし、海女さんたちが体で温めていた」と証言する。

多数の将兵が死傷したとされるにもかかわらず、惨劇の記録は地元に残っていない。

艦艇はそこで何をしていたのか。

東京湾の入り口にあたる布良沖は日清、日露戦争の頃から海軍の演習場となっていたが、当時、県上空では既に米軍機が定期的に偵察活動をしており、危険な状態だった。「そんな場所で訓練するのは理解できない」と豊崎さん。艦艇の乗員は、爆雷で浮き上がった魚をボートから回収していたという。

記録がないため、死傷者数、艦艇の名前、訓練目的は不明のままだ。港に行った豊崎さんは「地元の警防団長が負傷者に艦長名を聞いたが、『指揮者死亡』と答えていた」と話す。死傷者は館山海軍砲術学校から来た関係者が運び、地元住民に説明はなかった。

また、惨劇の日時についても、東京大空襲(3月10日)の後から、横浜大空襲(5月29日)あたりまでの間と、特定できていない。

埋もれた戦災の聞き取りを続ける元中学教師の山口栄彦さん(84)(同市大神宮)は「かなりの人が見ているのに日時すらはっきりしない。証言者が出てきたことは全容解明につながる」と期待している。

住民の記憶にのみ残る「布良沖の惨劇」。70年がたち、その過去を知る人も少なくなった。米軍史料を含め、史実を掘り起こす作業は始まったばかりだ。

館山 軍事上の重要拠点

布良沖を含む館山市一帯は帝都・東京の海の入り口という地理的要因から軍事上の重要拠点だった。

東京湾要塞が江戸末期から明治時代に設置され、終戦まで運用された。布良地区には古くは気象観測や海上監視を担う海軍の施設「布良望楼」が設置され、先の大戦がはじまると敵機を見つける監視哨もできた。近くの山には海軍のレーダー基地が造られ、布良沖は海軍の演習場にもなっていた。

米軍も布良の陸と海の役割を把握し、偵察や拠点攻撃をしたとみられる。

【読売】150624=民防空監視哨、経験者証言

戦後70年 少年たちの前線館山に

民防空監視哨、経験者証言手記に

(読売新聞千葉2015.6.24付)⇒印刷用PDF


先の大戦で、本土に来襲する米機をいち早く見つける軍の監視哨の補助として「民防空監視哨」があった。機密扱いだったため、実態はよく分かっていないが、首都防衛の玄関口、館山市の「富崎民防空監視哨」の詳細が、動員体験のある豊崎栄吉さん(86)(館山市布良)の証言で明らかになった。親戚で元中学校教師、山口栄彦さん(84)(日本文芸家協会会員)が聞き取って手記にまとめている。(笹川実)

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南房総の民防空監視哨は詳細記録が残っていない。館山市史によると、東部軍司令部・館山防空監視隊本部が北条警察署(現館山署)2階にあり、1941年(昭和16年)下部組織が市内の富崎を始め、館山、洲崎(西岬)各地域など安房地方の数十か所に置かれた。

豊崎さんによると、富崎監視哨は当初、館山市布良と旧白浜町の境に設置された。開設数か月後には、軍の電波探知機陣地構築のため、旧富崎小の敷地内に移転した。豊崎さんは移転後の44年6月に入哨。富崎村青年学校2年生、16歳だった。

哨長と副哨長の4人は軍経験の大人。青年学校から動員された14〜18歳の18人が哨員となり、3班に分かれて1日交代で哨に入った。班内で2人ずつのペアを3組作り、立哨、連絡、炊事などを交代でこなした。

通信連絡や炊事・待機用の30平方メートルほどの小屋1棟があり、太平洋が一望できる建物前に固定式の対空双眼鏡が2台。その脇に直径穴があった。これは雨や曇りの爆音で機種を識別するための「聴音壕」。豊崎さんは「飛行高度や機体の色、爆音で、機種を識別する訓練を徹底的に受けた。しかし、壕で識別できたことは一度もなかった」と語る。

青年学校は勤労青少年の夜間学校だった。監視哨が非番の時は漁師などとして働き、夜に勉強した。44年秋、1万メートル上空を飛ぶ米機B29を哨員が発見、空襲警報につなげ表彰された。

豊崎さんは、45年春の潜水艦攻撃船「駆潜艇」の惨劇が忘れられない。監視哨の前方で米機B24の攻撃を受けて撃沈。米機が去るまで住民らは助け舟を出せず、大勢の兵士が死んだ。後日、平砂浦上空で米機P51が被弾し、墜落。操縦士がパラシュートで脱出、着水すると米軍の潜水艦が浮上し救助した。いずれも双眼鏡で目撃した。目の前の海は既に米軍が掌握していた。

豊崎さんに詳細証言を勧めた山口さんは、監視哨は少年たちの“前線”だったと考えている。「民間の青少年が動員され、史料がほとんどない監視哨の記録を残した」と聞き取りを続けている。

【読売】150827*戦跡保存シンポ・企画展

戦争遺跡保存考える、館山5日からシンポ

貴重写真など企画展スタート

(読売新聞2015.8.27付) ⇒印刷用PDF


戦争遺跡全国シンポジウム館山大会(戦争遺跡保存全国ネットワークなど主催、館山市など後援)が9月5日から3日間、館山市の県南総文化ホールを主会場に開かれる。今年で19回目となり、同市での開催は11年ぶり2回目。26日には、戦中、戦後の貴重な写真などを集めた特別企画「戦後70年展」が、同ホールギャラリーで始まった。

大会初日は、松苗禮子実行委員長による語り「青い目の人形」で幕開け。河正雄・韓国光州市立美術館名誉館長による記念講演に続き、パネルディスカッション「戦跡と文化財を活かしたまちづくり」が行われる。2日目は特別分科会「米占領軍の館山上陸と直接軍政/証言者のつどい」などが開かれる。最終日は野外活動が行われる。

70年展では、写真や資料200点が展示されている。大会現地事務局を務めるNPO法人安房文化遺産フォーラムが、米テキサス軍事博物館から提供をうけた米進駐軍・第112騎兵連隊の館山占領上陸写真などが初公開されている。このうちの1枚は、船形山をバックに米進駐軍が館山航空隊水上班滑走台から上陸する有名な場面だが、従来国内で見ることができた写真と比べ広範囲が写っており、トリミングされていないことがわかった。

大会には全国各地から約300人の参加を見込んでいる。参加費は1日券1000円、2日券が2000円。野外活動は別料金で、要予約。問い合わせは戦争遺跡保存全国ネットワーク事務局(026・228・8415)か安房文化遺産フォーラム(0470・22・8271)へ。

【千葉日報】150811*戦後70年ちば〜館山海軍航空隊(高橋博夫)

館山海軍航空隊、戦後米軍が一時占領

「国のため」4次の移転

(千葉日報2015.8.11付)‥⇒印刷用PDF


元館山市教育長 高橋博夫さん(87)=館山市=

館山海軍航空隊(館山市宮城)に絡んだ周辺住民は戦前から戦後にかけて、計4次にわたる移転を余儀なくされた。「当時は国のためにというのが大きかった」と振り返る。

最初は高橋さんが2歳の時。1929(昭和4)年の同航空隊建設の際、道路のための土地を提供しなければならなかった。約150メートル離れた現在の自宅がある場所に移った。39年頃から航空隊の拡張工事のため、2次移転として住み慣れた家を追われる住民も多かった。

太平洋戦争が激化した44年以降、航空隊は集中爆撃を浴びるようになる。硫黄島占領を目指す米軍が、日本軍の本土からの反撃を防ぐためだった。高橋さんは当時、学徒動員で館山を離れていたが、「民家もバリバリやられた。みんな恐怖で防空壕(ごう)へ入っていた」と後に知る。航空隊の離発着を妨げないため、周辺の多くの住民が3次移転を強いられた。

45年8月15日の終戦後も周辺住民の混乱は続いた。航空隊のあったエリアが占領地になることが決定し「9月1日に米軍が来る」ことを、8月28日に政府から通知される。占領地の住民は第4次移転をせざるを得なかった。猶予はわずか2〜3日。まさに着の身着のままだった」

8月30日の米軍の館山上陸に際し、自宅が政府の終戦連絡事務所の拠点になった。他の家庭は「一切の戸締りをして、外に出ないように」と命令を受けていた。

連絡事務所の関係者4、5人と一緒に高台にある自宅の窓からそっと海岸を見た。上陸してきた米軍の姿にあっけにとられた。「緑色のショートパンツ、腰にピストル。上半身は裸」。機雷など危険物を調べる先遣部隊として海に潜るためだったのだが、当時は知るよしもなく「あれがアメリカか。野蛮な国だな」と感じだ。

米軍が航空隊エリアを占領した9月3日から4日間、占領地は完全に封鎖された。その後もしばらく午前5時〜午後7時以外の外出は許されず、近くを通ることすらままならなかった。

勤務する小学校に行くにも、自動小銃を肩にした米兵の前を通らなくてはならず、「息が詰まる思いで近づき、身ぶり手ぶりで伝え、ようやく通行が許可された。あの時の緊張と安堵(あんど)の深呼吸は忘れられない」と表情をこわばらせる。

街を歩くと「グッドモーニング」と声をかけてくるなど、米兵は紳士的でトラブルはなかった。小学校に呼んだり、自宅に招き日本文化を紹介したりと、個人的には交流を深めることもできたという。

しかし、「戦争は悪」と断言する。「正義なしに、領土や石油を得ようと戦い、負ければ悲惨な目に遭うのは当然。被害がでるばかり」。平和が続くことを切に願う。

(館山・鴨川支局 吉田哲)

【毎日】150811*地方から発言〜平和のまちづくり推進(愛沢伸雄)

地方から発言

「平和」のまちづくり推進

愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム)

(毎日新聞2015年8月11日付)

ユネスコでは、対立や争いを創造的な対話によって解決していく価値観を「平和の文化」と提唱している。私たちは地域から「平和・交流・共生」の精神を活かした「平和の文化」のまちづくりを呼びかけ、市民が主役になったNPO活動につとめてきた。単に戦争がない状態を平和と捉えるだけでなく、貧困や差別、環境破壊のない持続可能な地域社会を目指している。

東京湾口部に位置する要衝の地・館山には、幕末から御台場がつくられ、明治期からは半世紀をかけ強力な東京湾要塞砲台群が配備された。昭和に入って、館山海軍航空隊や館山海軍砲術学校、洲ノ埼海軍航空隊などが置かれ軍都となった。戦争末期、「本土決戦」が想定され、数多くの陣地や特攻基地がつくられたものの敗戦となり、その直後に米占領軍の上陸地となった。4日間ではあるが、本土では唯一「直接軍政」が敷かれた地域である。館山にのこる戦跡は、近現代日本の歩みを知るうえで貴重なものが多い。

「戦後70年」である今年、「戦跡や文化遺産を活かしたまちづくり〜館山まるごと博物館」をテーマに、9月5日から7日まで千葉県館山市で第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム千葉県館山大会を開催する。

振り返ると「戦後50年」平和を考える市民の集いを契機に、館山海軍航空隊赤山地下壕跡の保存を呼びかけ、2003年、館山市は平和学習拠点としての整備事業を決めた。翌年に平和ガイド活動をおこなうNPO法人安房文化遺産フォーラム設立、その年4月に赤山地下壕跡が一般公開となった。そして、夏には前述の戦争遺跡の第8回大会が当地で開催され、2005年には市の指定史跡となった。以来、現在まで県内外より年間二万人近くの入壕者がある。

これまで赤山地下壕跡だけでなく、小説『南総里見八犬伝』で知られる房総里見氏の中世城郭・稲村城跡の保存運動を17年間、続けてきた。この市民活動は、歴史・文化を活かしたまちづくりを地道にすすめ、2012年に念願の国史跡となった。さらに過疎と高齢の漁村集落を活性化するため、2009年、青木繁『海の幸』(国重文)が描かれた小谷家住宅を市指定文化財にしてきた。この取り組みでは、地域の人びとと全国の画家が力を合わせ、資金を集めながら修復事業を実施し、来年4月の公開を準備している。

前回の戦跡大会以降、市民の文化財保存・活用は、点から線につながり面となり、官民協働のまちづくりに活かされている。今回の大会は「戦後七〇年」として、あらためて「平和の文化」を心に刻み、「平和・交流・共生」の精神を「ピース・ツーリズム」につなげたいと思っている。

そこで地域全体を「館山まるごと博物館」と見立て、市民が主役になった活動を進めながら、戦跡など多様な自然遺産や文化遺産に磨きをかけていくとともに、「平和の文化」を伝えていくガイド活動を深めていきたい。地域に根ざした平和教育や平和創造の活動は今、正念場といえる。

 

あいざわ・のぶお 1951年、北海道下川町生まれ。千葉県高校社会科(世界史)教員。館山市観光協会理事。千葉大学教育学部非常勤講師。