みつめる伝える街角の戦跡
足元の遺産、今に活かした
「平和学習」で街づくり
(朝日2004.8.14付)‥⇒印刷用PDF
みつめる伝える街角の戦跡
(朝日2004.8.14付)‥⇒印刷用PDF
(毎日新聞2004.8.13付)‥印刷用PDF
(房日新聞2015.10.7付)‥⇒印刷用PDF
10、11日に館山市コミュニティセンターで第21回安房地域母親大会が開かれる。母親大会の歴史は古く、1955年に第1回日本母親大会ならびに第1回世界母親大会が開催されている。きっかけになったのは54年の米国によるビキニ環礁の水爆実験で以来、原水爆禁止と子どもの生命を守ることをメーンテーマとした社会運動が続けられている。
日本母親大会を生んだ中心人物の1人は平塚らいてうである。彼女は対象から昭和にかけて女性の権利獲得のために立ち上がった活動家であり、文筆家であった。与謝野晶子、市川房枝、野上弥生子らと協働し、時に袂を分かちながら女性の権利拡大と平和のための婦人運動を生涯にわたって展開した人物である。
一方では日本で最初の女性による女性のための文芸誌を創刊した。余談ながら、女性より若い恋人のことを呼ぶ「つばめ」という言葉は、平塚が受け取った恋人からの別れの手紙の一文にあり、それが同誌に公表されて流行語になったものだそうだ。
地域に根ざした母親大会ということで96年に始まった安房地域母親大会は今年で21回目を迎える。この間、老後の豊かさ、子どもをめぐる性の問題、食育、身近な環境問題、介護保険、貧困問題、親子のコミュニケーション、地域医療、地域の歴史、地域おこし、郷土料理など世界大会や全国大会とは日お味違ったテーマを据えて、地域という視点から母親大会を運営している。
コンサートや映画の上映会もアリ、今回はドキュメンタリー映画「疎開した40万冊の図書」が上映される。太平洋戦争末期、東京の日比谷図書館の蔵書を戦禍から守るために40万冊の図書が東京郊外の農村の土蔵に疎開した話を関係者のインタビューを交えて映画化した作品だ。映画では、合せて、東日本大震災で避難することができず、取り残された福島県飯館村の多くの図書が除染され蘇るまでの「被災した図書」の話も織り交ぜられていく。
監督は、館山海員学校(現って山海上技術学校)を卒業し船員になった後、映画界に転身した異色の経歴を持つ金?謙二氏で、大会開催の両日とも上映会と監督のトークショーがある。大会スタッフは「名前は母親大会ですが、未婚者も男性も誰でも大歓迎です」と参加を呼び掛けている。
2015.10.7(F)
10・11日に館山コミセン、監督トークも
(房日新聞2015.10.7付)‥⇒印刷用PDF
「女性と子どもの目から安房での戦争を見つめよう!」をスローガンにした第21回安房地域母親大会(同実行委員会主催)が、10、11の両日、館山市コミュニティセンター第1集会室で開かれる。ドキュメンタリー映画の上映と監督トークを主体に、平和について考える場。10日には「おやこピースカフェ」があるほか、両日ともパネル展示、11日にはワークショップを予定。上映協力券(チケット)を500円で販売している。
太平洋戦争末期、東京都立日比谷図書館の蔵書を疎開させた史実に基づく、ドキュメンタリー映画「疎開した40万冊の図書」(金高謙二監督)を上映する。戦時下で生きることが精いっぱいな状況でありながら、活字文化を守った図書館員、高校生、疎開先で土蔵を提供した村人の思いが交錯する作品。滝沢馬琴の自筆稿本「南総里見八犬伝」もこの疎開で戦火を免れたという。映画では東日本大震災で被災した図書館の復興も描かれている。文化について考えさせる作品。
上映は2日間とも午後1時半から。3時半から金高監督のトークを予定。金高監督は国立館山海員学校(現館山海上技術学校)卒。外国航路の船員を経て人形劇団員。2013年に本映画を制作している。
10日は午前11時からパネル展示「安房での戦争〜忘れずに伝えたいこと〜」。10時半からは「おやこピースカフェ」で疎開体験者の話を聞く。
11日は午前10時からパネル展示、10時半からはワークショップ「禁止唱歌と替え歌」、語り、「禁演落語」などが予定されている。
未婚者や男性でも参加できる。10日のみ保育があるという(要予約)。
上映協力券は宮沢書店本店と鴨川書店で扱っている。
(西日本新聞夕刊2015.10.14付)‥⇒印刷用PDF
建物は明治期の木造瓦ぶき平屋で、小谷家は網元だった。青木は1904年、恋人福田たねや友人で同郷の坂本繁二郎らと約1カ月半滞在。獲物を携えた漁民が更新する「海の幸」は、坂本から聞いた漁の光景の話や地元住民の姿などをもとに当地で描いた。
老朽化した住宅を後世に残そうと、2008年に地元住民などが「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」を結成。10年には画家などが「海の幸」会を発足。「海の幸」会がチャリティー絵画展を開くなど両会で総工費約4600万円のうち約4千万円を集めた。現住する子孫の居住部を移設し、子写真や子孫の話を参考に増築部分の撤去や屋根のふき替えなど作品が描かれた当時に近づける修復を続けている。
公開は当面、週2日程度の予定。「保存する会」の愛沢伸雄事務局長は「これから地域で支える態勢をつくっていきたい」と話し、「海の幸」会の吉岡友次郎事務局長も「青木繁が絵に打ち込んだ小谷家を、特に若い人に知ってもらいたい」と望んでいる。
(大矢和世)
(産経新聞2015.10.8付)‥⇒印刷用PDF
ノーベル医学・生理学賞に決まった北里大特別栄誉教授の大村智さん(80)は、美術愛好家として明治期を代表する洋画家・青木繁が代表作「海の幸」(国指定重要文化財)を描いた館山市の旧家「小谷家住宅」の保存に尽力しており、昨年8月にも市を訪問していた。受賞には地元関係者からも喜びの声が上がっている。
小谷家は江戸時代から続く漁業家。明治37年、当時22歳だった青木は友人とともに小谷家に約1カ月半滞在し、数人の漁師がサメを担ぐ有名な絵画「海の幸」を描いた。大村さんは、この旧家「小谷家住宅」の保存や修復などを目的とする全国の画家ら約600人からなるNPO 法人「青木繁『海の幸』会」の理事長を務めている。
同会の事務局長で、親交のある吉岡友次郎さん(78)は「受賞は大変喜ばしい。一見怖そうに見えるかもしれないが、実はきさくでよく冗談も話される。館山には苦学をなさっていた頃に新婚旅行で訪れたこともあると聞きました」と明かす。
同会と協力し活動しているNPO法人・安房文化遺産フォーラムによると、大村さんは個人的にも市にふるさと納税を通し、小谷家保存のために300万円の寄付をしているという。現小谷家当主の小谷福哲さん(64)は「受賞と聞き、びっくりしました。感激しています。大村さんは紳士的で温厚な方」と話した。
地元で旧家の保存や修復などの活動を行っている「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」の会長、嶋田博信さん(82)は「大村さんは自分よりも人のために行動する方」と笑顔で祝福。副会長の小谷昭さん(71)も「近寄りがたいという印象のない方。美術愛好家としての顔しか知らないので、ノーベル賞を取ったと聞いても『何の分野でだろうか』と思ったくらいです」と話した。
現在「小谷家住宅」は腐食した部分の修復作業が進められており、来春に一般公開される予定。
5日にノーベル医学生理学賞に決まった大村智・北里大特別栄誉教授(80)は女子美術大の名誉理事長で自ら設立した韮崎大村美術館の館長でもあり、美術界への貢献も大きい。九州ゆかりの画家とも関わりが深く、NPO法人「青木繁『海の幸』会」(川崎市)の理事長として、日本近代洋画で強い輝きを放つ福岡県久留米市出身画家の顕彰に尽力してきた。
「海の幸」会は、青木が滞在し代表作「海の幸」を描いた小谷家住宅(千葉県館山市)の修復保存活動に取り組む。毎年チャリティー絵画展の収益の一部を修復基金に充てている。同会が2010年、画家らを中心に設立された際、美術に造詣の深い大村さんに理事長の白羽の矢が立った。大村さんは「(小谷家の)部屋にたたずむと、青木繁、坂本繁二郎などの青春群像が立ち現れてくるような思いにかられます」と設立にあたり言葉を寄せている。
同会事務局長で画家の吉岡友次郎さん(78)=久留米市出身=は「理事長を引き受ける前、まず小谷家へ足を運ばれ、何より現場を大事にされる方だと感じた。各美術団体を超えて集まっている画家たちの話を、よく理解してくださる」と横顔を語る。同会理事を務める洋画家、大津英敏さん(72)=福岡県大牟田市出身=は「青木繁は若くして亡くなった。韮崎大村美術館に若い美術家の作品を積極的に収蔵し活躍を応援するのも、青木の姿を重ねているのではないか」と話し、同理事の洋画家、中山忠彦さん(80)=北九州市出身=も「私財をNPOの活動に投じている。青木繁への敬意が伝わってくる」と語る。
同会とも交流がある久留米市の「青木繁旧居保存会」荒木康博会長(65)は「美術関係の方と思っていたので、ノーベル賞と聞いて驚いた。小谷家の保存活動が勢いづくといい」と期待している。
(房日新聞:寄稿2015.10.8付)
戦後70年の今年、第21回安房地域母親大会は、映画『疎開した40万冊の図書』を上映する。本作は、「百年後の人々に届けたい作品」として、3年をかけ金高謙二監督により制作された。
学童疎開が行われていた同時期に、都立日比谷図書館で蔵書の疎開が行われていたことはあまり知られていない。図書館員や都立第一中学の生徒たちが、リュックを背負い、大八車を押して、50キロも離れた奥多摩や埼玉まで何度も本を運び、移動は1年に及んだという。映画では、実際に携わった人や、疎開先で自宅の土蔵を提供した人びとなどの証言によって、過酷なプロジェクトの史実が明らかにされていく。
この疎開により、国指定重要文化財『江戸城造営関係資料』をはじめ、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』自筆稿本など、貴重な書籍40万冊が戦禍をくぐり抜け、後世に残された。昭和20年5月25日、焼夷弾により日比谷図書館は全焼し、21万冊の図書は消失している。命がけで本を守った人びとのおかげで、日本の文化は遺産として守られたのである。
「戦争は人々に直接的なダメージを与えるだけでなく、民族の尊厳や文化を破壊することに他ならない。彼らが守りたかったのは、本という文化に宿った多くの人々の命ではないだろうか」と、金?監督は語る。
映画の後半では、東日本大震災で被災した図書館の復興について紹介されている。陸前高田市立図書館では、津波で8万冊の図書を流失したが、400冊の貴重書を取り出して修復し、仮設図書館や移動図書館車を進めながら再建を目ざしている。被災後は生活の立て直しが最優先だが、その次には、心を癒す文化がなければ人は生きられない、ということを痛切に感じる。
戦後70年という節目を迎え、平和の文化を未来の子どもたちに手渡すことを願い、映画上映とともに監督の講演が実現した。奇しくも、金?監督は館山海員学校(現館山海上技術学校)の卒業生である。しかも同校は、洲ノ埼海軍航空隊跡地の一角にあり、カッター艇庫は海軍水上班基地跡でアメリカ占領軍の上陸地という戦争遺跡である。不思議な縁である。
10月10日と11日、午後1時半より、会場は館山市コミュニティセンター第一集会室。上映協力券500円は、宮沢書店本店と鴨川書店で前売りし、当日参加も受け付ける。
両日とも安房での戦争パネル展、10日10時半より「おやこピースカフェ」、11日10時半より「禁止唱歌」や「禁演落語」などのワークショップを参加費無料で同時開催する。母親大会は、老若男女を問わず、誰でも参加できる。多くの方のご来訪をお待ちしている。
問合せは、080-5516-9926石井麻美子、090-5762-5956関恵美子。
(東京新聞2015.10.7付)‥⇒印刷用PDF
ノーベル医学生理学賞の受賞が決まった大村智さん(80)は美術にも造詣が深いことで知られる。明治期の画家青木繁が滞在し、代表作「海の幸」を描いた「小谷家住宅」(館山市布良(めら))の保存にも協力。館山市の関係者からも祝福の声が上がった。
(北浜修)
小谷家住宅は市有形文化財だが、築約120年と老朽化し、現在は、来年四月の一般公開を目指して修復工事中。大村さんが理事長を務める美術家らのグループ「NPO 法人青木繁『海の幸』会」(川崎市)、地元住民団体「青木繁誕生の家と記念碑を保存する会」(館山市)、小谷家、館山市の四者が連携して、保存に動いている。
館山市によると、大村さんは2012年度、小谷家住宅の保存を今後進める事業に指定し、300万円の寄付もしている。
「保存する会」事務局長で、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(63)は6日、「保存に協力していただいている人がノーベル賞受賞とは大変光栄なこと」と喜んだ。
大村さんは保存活動を通じて、館山を訪れることがあるという。愛沢さんは「世界的な研究者でありながら、絵画などの収集家として美術にも造詣が深い、稀有(けう)な人」と話した。
現在の小谷家当主、小谷福哲(ふくあき)さん(64)も5日夜、「受賞決定はテレビで知った。候補とは聞いてはいたが、すばらしい。性格は温厚で誰にも気さくに話し掛けてくれる人。本当におめでとうございます」と祝福した。
小谷家は江戸時代から戦前まで、布良の有力漁家だった。経緯は不明だが、画家青木繁は1904(明治37)年夏、知人らと2カ月ほど小谷家に滞在。海岸を歩く漁師らを描いた日本絵画史の傑作「海の幸」を残した。
金丸謙一市長は6日、大村さんに祝電を送り、「市は『海の幸』への思いをキーワードに、小谷家住宅を市民の誇りとすることを誓った。文化財活動を展開されている大村先生には今後とも、市の発展にお力添えを賜りますようお願い申し上げます」と要請した。
戦火の記憶(中)ちば戦後70年 遺構は語る
(千葉日報2015.9.30付)‥⇒印刷用PDF
のどかな田園風景が広がる南房総市下瀧田地区の山中。野菜や果物が植えられた畑の中を、100メートルにわたり古びたコンクリートが横切っている。
70年前、本土決戦の秘密兵器として海軍が開発を進めていた日本初の特攻ロケット「桜花」の発射台跡。終戦を迎え、この場所から桜花が出撃することはなかったが、唯一残った無機質なコンクリートだけが、その恐ろしい計画の存在を静かに伝えている。
桜花が初めて開発されたのは、1944(昭和19)年。当初の初期型は、飛行機の下に吊り下げて敵艦近くまで移動した後に切り離し、搭乗員もろとも体当たりする様式だった。終戦までに約750機が生産され、多くの若い命が散った。
それでも、軍は「肉弾」の効率化を図った。45(昭和20)年、米軍の本土上陸が現実味を帯びてくると、軍は、“最後の切り札”作戦の準備を急いだ。「新型桜花」の開発。飛行機を使わず地上から発射できるよう、改良を目指したのだ。
「陸上発射式なら、沿岸部に停泊した米軍艦を直接攻撃できる。効率が良いと考えたのだろう」。市内の歴史などを研究するNPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(63)はそう指摘する。
新型桜花の開発には最先端の技術がつぎ込まれた。中でも、桜花を離陸させるための射出機「カタパルト」は、世界でも類を見ない最新鋭の設備だった。「火薬ロケット噴射などを使用し、わずか8秒で離陸できる世界トップラスの技術。この国はそれだけの能力を、人間爆弾に使ってしまった」(愛沢さん)。だが、新型「桜花43乙型」の機体は試作段階のままで終戦を迎える。
作戦は市民をも巻き込んでいた。同年春、軍は三芳村(現在の下滝田地区)に新型桜花の発射基地建設を決定。米軍の上陸が予想された館山湾から近いことなどが理由だった。突貫工事に駆り出されたのは、10代の少年兵ら。
当時、建設地のすぐ近くに住んでいた佐久間嘉子さん(82)=同市=は「いきなり兵隊がやって来て土地を奪われた。住民は自分の畑に近づくこともできなくなり、生活のすべを失った」と振り返る。
桜花を敵の飛行機から守る掩体壕(えんたいごう)の工事は過酷そのものだった。「つるはしやシャベルで、ひたすら洞窟を掘り進めていたらしい。地響きのようなダイナマイトの音がほぼ毎日聞こえた。当時は、特攻基地を造っているなんて考えもしなかった」(佐久間さん)。
工事は終戦当日まで続き、朝鮮人労働者の姿も多く見られた。佐久間さんは「崩落で亡くなった人もいる。辛くて怖い思い出の場所で、今も近寄りたくない」と語り、「若い命を使い捨てにする特攻などとんでもない」と憤る。「(作戦の目的が)本土防衛、というのは建前。実際の狙いは戦後交渉を有利にするため、敵艦を一隻でも多く沈めておくことだった。命を軽視するむごい作戦。幻に終わったが、その陰で犠牲になった人も多く、忘れてはいけない悲劇」と表情を引き締める。
同地区の寺「知恩院」には、基地で使用されるはずだったレールの一部が忘れ去られたように放置されている。さびた鉄骨に触れ、愛沢さんは静かに語る。「これも立派な負の遺産。昔、この穏やかな街で、何が行われようとしていたのか。二度と戦争をおこさぬよう、後を生きるものがしっかりと語り継いでいかないと」