メディア報道

【房日寄稿】200929*安房地域母親大会を終えて
安房地域母親大会を終えて
コロナ禍における台風災害対策の意見交換会

池田恵美子(第26回安房地域母親大会 実行委員長) ⇒ 印刷用PDF

房総半島を直撃し、安房地域に甚大な被害をもたらした台風から1年。新型コロナウイルスの世界的感染が続く今、再び巨大台風に見舞われたとき、私たちはどのように対応したらいいのでしょうか。不安を解消し、いざというときに備えるために、市民と行政の話し合いの機会を設けました。

前半は、館山市総合政策部社会安全課危機管理室の清野賢一室長より、昨年の台風の被害状況とその対応について報告をいただき、後半は質疑応答と意見交換が熱心に行われました。一部の内容を下記に紹介します。ご協力いただいた同課及び館山市社会福祉協議会に厚く御礼を申し上げます。

なお今回は感染症対策のため、参加者は実行委員会の構成団体に限定し、インターネットの動画配信で広く市民に情報共有を呼びかけました。2時間にわたる話し合いは、「安房地域母親大会」と動画検索するか、QRコードから誰でもユーチューブを見ることができます。ぜひご照覧ください。

▼全般:

・15号の被害は、家屋等の損壊・停電・断水・通信障害・倒木や飛来物による通行止めなどが想定を超え、実態の把握や対応が遅れた。

・19号では避難者数が2000名を超え、過去最大となった。

・備えが不十分であった。様々な改善を重ねながら、感染症予防を反映した方針を立て、避難所運営マニュアルを改定しているが、まだ課題が多い。

・町内会の自主防災会と市の連携が図れなかった反省を踏まえ、公助・共助・自助をともに高めるために、防災能力と意識の向上を図りたい。

・社会福祉協議会でボランティアセンターを開設するが、地区ごとのサテライト機能は困難。最も被害の大きかった富崎地区や西岬地区では、民間組織が独自にセンターを運営してくれた。

・他の自治体(山梨県笛吹市・兵庫県篠山市・鳥取県倉吉市・埼玉県三郷市・東京都中野区)と災害協定を結び、対応支援を受ける。

・東京電力・館山市建設協力会との災害協定により倒木撤去・停電の回復に努める。

▼情報伝達:

・暴風雨のなか防災無線が機能しなかった。

・「安全・安心メール」「安全・安心テレフォン」「たてやま安心電話」が無料で確実。(利用方法は広報誌「だん暖たてやま」9月号に掲載)

・有償の「防災ラジオ」があるが、2年後には使用できなくなる。

・ツイッターやフェイスブックなどのSNSを有効活用しフォローしたい。

▼避難所:

・初動で公民館・小学校体育館などを設定するが、土砂災害警戒区域や耐震構造などのため不適の建物は除き、三密を避けるため定員は半数以下。必要に応じて中学校・高校・県の施設・旅館組合・大学セミナーハウスなども順次増設する。(広報誌「だん暖たてやま」8月号に掲載)

・段ボールベッドではなく、エアーベッドを500台入れる計画ですでに100台設置済。要支援者・要介護者・高齢者・妊婦さんに優先に考えている。

・飛沫防止の段ボール衝立、できるだけ避難所の改善を考えている。

・トイレを清潔にし、環境改善が必要。飛沫防止のラッピングトイレを各1台ずつ設置。

・発電機は各2台設置のほか、東京電力との災害協定により被災時に電源車を配備。携帯の充電用バッテリー50台くらい配備予定。各自でも充電用を工夫してほしい。

・食事はどうしてもお弁当やパンになりがちなので、避難初日の分は飲料水とともになるべく持参してほしい。

・ペットはケージに入れて、餌と水は持参の条件で、同伴OK。ただし居室スペースは別で、廊下や屋根のある場所に置く。

 

◆YouTube動画配信

⇒ https://www.youtube.com/watch?v=PTtw21ZLpmU&feature=youtu.be

【房日寄稿】200818-19*建設から75年たつ特攻基地(八木直樹)

建設から75年たつ特攻基地(上・下)
特攻機「桜花」下滝田基地

八木直樹(南房総市)

(房日新聞:寄稿2020.8.18-19)‥⇒印刷用PDF

建設から75年たつ特攻基地【上】

毎年2、3回の草刈り清掃をして保存してきた、わが家の近所にある旧海軍特攻基地跡。

わが家の農作業の遅れから初夏の草刈りが遅れ、15日を前にようやく草刈りをしました。

いつも保存活動をともにしてきた仲間たちと作業を行ってきましたが、この炎天と猛暑の中での作業なので、さすがに親世代の方々を誘うのはためらわれ、妻と2人で作業を行いました。

7月の雨量が多かったせいか、例年よりもセイタカアワダチソウやイタドリなどの丈が長くてはかどらず、1日では終わりませんでした。

それでも、草むらに埋もれていた特攻機「桜花」の滑走路を、何とか見えるようにすることができました。お盆が過ぎてから残りの作業も終えようと思います。

最近はネット情報がさまざま飛び交っているらしく、各地から頻繁にここを見に来る人がいると、近所の人から聞いています。もちろん、現場を見ることは大事だと思いますし、より多くの人にこの場所を知っていただくことも保存活動の目的です。

この海軍の特攻基地から「桜花」が飛び立つことなく、日本の敗戦を迎えたわけですが、「桜花」特攻のための部隊は、実際に鹿児島県の鹿屋基地から10次にわたって飛び立ち、430人の若き兵隊さんたちが戦死し、他に訓練中の事故などによって亡くなった方々もいます。

ですから、草むらから現れた特攻基地を運よく見られた方は、「桜花」特攻で、あるいはあの戦争で亡くなった方々に思いをはせ、その死を悼んで欲しいのです。

 

建設から75年たつ特攻基地【下】

私はここをはじめ、戦争中につくられた地元の地下壕(ごう)や砲台跡などの戦争遺跡周辺の整備や調査をしたり、地元の戦争体験者の方々からの聞き取りをしてきました。その中で強く感じてきたことは、戦争のことをただ資料から読み解いた「歴史」、あるいは誰かが物語として書いた「歴史」を知るだけでは、戦争の真実は感じ取れないということです。

戦場に置かれた一人一人の人間にとっての戦争体験に触れ、その状況下で戦病死したたくさんの人たちの心中を想像することなく、ただ「歴史」としての戦争を批判し、死者の数だけで戦争を知った気になる人。日本の戦争は正しかったとか、自らを犠牲にして戦った兵隊さんたちのおかげで今の平和があると言いながら、一人一人の置かれた状況やその心情には目をくれようとしない人。戦争を批判する人にも、肯定する人にも、「一人一人の人間にとっての戦争とは何なのか」という深井思いが欠けている人は多いという気がします。

逆に、兵隊さんとして亡くなった人たちの死を悼むという気持ちを持っているならば、日本の戦争の歴史に対する考え方に違いはあっても共有することができということを、これまでいくつかの団体さんとの交流を体験して知りました。

戦場や軍隊を体験した方々の中には、靖国(やすくに)神社の存在を肯定する方と否定する方がいます。私は靖国神社が戦死することを名誉だとされた国家的なうそを維持するための場所であると思って参拝などしませんし、靖国神社の中にある戦争博物館「遊就館」を見学したときにその展示が戦争の真実を覆い隠したものだと感じました。

しかし、だからといって、戦争体験者の方々が靖国神社への親しみや特別な思いを口にされるとき、軍国主義的な思想の押し付けを感じない場合には違和感を覚えません。それは戦争中に青春時代を過ごした人たちにとってごく普通の感覚なのだろうと思うからです。そのような方たちからは「戦争だけはあってはならない」というような言葉を必ずといっていいほど聞きました。

特攻、靖国。今は批判的な立場にいる私が、もしもその時代に青春期を迎えていたとしたら、いったいどう思い、どう行動しただろうか。体験者の方々のお話を聞いたり、ドキュメンタリー映画を見たりするたびに、心の中で問いかけるのです。

(おわり、三芳地区在住、農業)

【房日】200809_戦時期をまるごと紹介

戦時期をまるごと紹介

館山のNPO、30日まで渚の駅で展示

(房日新聞2020年8月9日付)

館山市の渚の駅たてやまギャラリーで、戦後75年の平和を祈念する「館山まるごと博物館展」が開かれている。7点の作品や60余点のパネルが並び、本土で唯一直接軍政が敷かれた当寺の様子、館山ゆかりの芸術家を紹介している。30日まで。

NPO法人安房文化遺産フォーラム主催。今年は戦後75年の節目に当たり、映画祭なども検討してきたが、新型コロナウイルスの影響で断念。代わりに同法人がこれまで調査してきた歴史的事実を、分かりやすくパネルなどで伝える。

展示されているのは、海軍初の落下傘部隊として館山で訓練を行った版画家、秋山巌氏が落下するときに見た富士山と黒松を描いた「館山富嶽」や、旧安房中学校(現安房高)で美術も教えていた洋画家、寺崎武男氏が昭和21年に描いた「平和来たる春の女神」など芸術家の作品7点。

また、終戦後9月3日から4日間、本土で唯一館山市で直接軍政が敷かれた経験や当時の米兵と市民の交流の様子を文章や写真で紹介。同法人の調査に関わる新聞記事も数多く展示されている。

事務局長の池田恵美子さんは、「本土では、館山での直接軍政が起点となって全国に平和が訪れました。厳しい戦時期を乗り越え、平和を求めた先人の精神を多くの方に知っていただきたいです」と来場を呼び掛けている。

時間は、午前9時~午後4時45分で入場無料。問い合わせは、池田さん(090-6479-3498)へ。

【東京新聞】200803*ハリウッドで活躍 早川雪洲

ハリウッドで活躍 早川雪洲

伝説の名優 故郷の素顔 千葉 旧千倉町で撮影 未公開写真発見

東京新聞  TOKYO Web 2020.8.3  ▶ 東京新聞 2020.8.3付 PDF

「ハリウッドで活躍した伝説のスター 魅惑の浴衣姿にドキッ お宝写真発見」

 米ハリウッドの草創期から俳優として活躍し、アカデミー賞助演男優賞にもノミネートされた早川雪洲(1886~1973年)が1930(昭和5)年5月、故郷の千葉県南房総市(旧千倉町)に凱旋した際に撮影された未公開ショットを含む写真5枚が見つかった。伝説的スターの面影をしのばせる貴重な資料となりそうだ。

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【房日】200408*地元保存会が補修作業、布良の青木繁記念碑

 

地元保存会が補修作業 布良の青木繁記念碑

(房日新聞2020.4.8)‥⇒ 印刷用PDF

老朽化が進んでいる館山市布良の青木繁記念碑の補修作業が、地元住民らでつくる「青木繁誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)のメンバーの手によって行われている。

同市布良は明治を代表する画家青木繁が代表作「海の幸」を描き上げたゆかりの地で、記念碑は没後50年を記念して、当時の館山市長や著名な美術関係者らが発起人となり、布良

海岸が一望できる高台に昭和37年に建立された。

高さ約3・6メートル、幅約4メートルの鉄筋コンクリートづくりのアーチ状の記念碑。建立後、60年近くがたち、潮風にさらされて劣化が進み、コンクリートにひびが入り、一部は剥がれ、危険でもあったため、補修することになった。

作業は4日から始まり、連日メンバー5、6人が作業。劣化していたコンクリをハンマーなどで剥がした後、木枠を当てたモルタルを流し込んで補修していた。

嶋田会長は「記念碑は青木繁ゆかりの地であることを示すシンボルであり、布良の宝。観光名所でもあり、青木の功績を功績と伝えていくためにもこれからも大事に守っていきたい」と話していた。

【房日】200222_館山病院ギャラリー 画家4人

館山病院ギャラリー 画家4人の作品15点

NPOが29日まで

(房日新聞2020.2.22付)

NPO法人「安房文化遺産フォーラム」による「館山の海を愛した画家たち展~青木繁・寺崎武男・中村彝・中原淳一~」が館山市長須賀の館山病院ギャラリーで開かれている。29日までで、多く来場を呼び掛けている。

明治期、館山市布良に滞在し、国の重要文化財「海の幸」を描いた青木繁をはじめ、明治から昭和に活躍した館山ゆかりの画家4人の作品(一部複製)15点と解説パネルが並ぶ。

ギャラリーを訪れた女性は「すごく立派な作品ですね」と展示してある作品を眺めていた。

時間は午前9時から午後4時45分(最終日は4時)まで。

【房日】200212₌歴史感じるひな人形

歴史感じるひな人形
小谷家で3月8日まで展示

(房日新聞2020.2.12付)…⇒印刷用PDF

館山市布良の小谷家住宅「青木繁『海の幸』記念館」で、同住宅から見つかった歴史を感じさせるひな人形の展示が始まった。3月8日まで。開館日は土曜、日曜部。
青木繁が「海の幸」を描いた小谷家は、江戸時代から続く網元の名家。展示されているのは、数年前に納戸から見つかった4対のひな人形。正確な年代な不明だが、江戸後期のものと推測されている。
館山市内を中心とした愛好家らが制作したつるしびなも一緒に展示され、華やいだ雰囲気となっている。
小谷福哲館長は「台風からの復興に向かう中で、地域に明るさを与えることができれば、多くの人に見に来てもらいたい」と来場を呼び掛けている。入館料は、一般200円、小中高校生は100円。

 

【東京新聞】210118*にっぽんルポ「かにた婦人の村」

安らぐ心「ここにいたい」

行き場のない女性を保護

(東京新聞2020.1.18付)‥⇒印刷用PDF

急な山道を駆け上がると、館山湾と富士山を望む絶景の高台が広がった。上空では、翼を広げたトンビがのんびりと弧を描いている。房総半島の先端、千葉県館山市内ののどかな場所に、性搾取や暴力などに傷ついた女性たちが共同で暮らす婦人保護施設「かにた婦人の村」はある。

婦人保護施設は、戦後の貧困で売春に身を投じる女性が増えたため、一九五七年の売春防止法施行を受けて全国に造られた。国内に四十七カ所ある。かにたは全国で唯一、長期入所を掲げて六五年に設置され、社会福祉法人が運営している。

現在は、軽度の知的障害や精神障害があり、性暴力などに遭った二十三~九十歳の五十七人が暮らす。平均滞在年数は三十五年ほど。健康状態や能力に応じて、班に分かれて仕事に汗する。編み物で小物を作る班や、陶芸で器を作る班、調理や農作業を担当する班。

「おっきい大根だ」「楽しいね」。昨年暮れの早朝、農作業を担う女性たちの柔らかな手は土の中にあった。気温三度。白い息を吐き、無邪気にきゃっきゃと盛り上がりながら、収穫作業に精を出した。

五十嵐逸美(いつみ)施設長(58)のまなざしは温かい。「かにたにつながれた人はまだいい。たどり着けず孤独に耐え続ける女性は今も多くいるから」

かにたとは、近くを流れる小川の名前だ。創始者の牧師が、赤手ガニがヨチヨチと渡り切れるほどの川のせせらぎに、つつましやかに生きる女性たちの姿を重ねた。施設の入り口に門扉はない。「全てを受け入れ共に生きる」との思いの表れという。

社会から投げ出され、家族を頼れず、どこにも行き場がなくなった女性たちが最後にたどり着く場所。人々は口々に言う。「あそこはユートピアだ」と。 (木原育子)

 

◆傷ついた人々

東京ドーム二つ分の広大な山里に、居住棟や作業棟が点々と立ち並ぶ「かにた婦人の村」。女性たちは朝七時二十分のチャイムで食堂に集い、礼拝から始まる。その後、それぞれの班に分かれて自活の時間を過ごす。

赤、薄紫、黄色…。寮の部屋に無造作に毛糸玉が転がっている。毛糸は女性たちのしなやかな指先に絡まり、色とりどりの小物が生まれていく。膝掛けや壁掛け、布団カバー。「編み物をしていると夢中になって時間を忘れてしまうの」と高齢の女性。紅を引かなくなった口元には、女性らしい穏やかなほほ笑みがあった。

各地の婦人保護施設は当初、貧困や借金から売春をしていた入所者が多かった。現在はDV(家庭内暴力)や援助交際、アダルトビデオへの強制出演など、性的被害は多岐にわたる。かにたでは、福祉支援の過程でトラブルになり、「手に負えない人」とみなされて入所する女性もいる。

「もう、かにたしかない」。ある時、関西方面の自治体の婦人相談所から連絡が入った。生きることをあきらめていた四十代の女性。高校を中退し、だまされたり傷ついたりしながら、どこにも支援の網にかからず生きてきた。その女性もかにたで生活するうちに、「もう少しここにいたい」と思えるようになった。

多くの入所者は今もトラウマ(心的外傷)を抱えており、取材で過去の体験を詳しく聞くことはできない。

「彼女たちは、ただ生きていくことに困っているだけなのに、社会にとって困った人たちだと押しやられてきた」。五十嵐逸美施設長は投げかける。

五十嵐施設長は大学卒業後の一九八七年、妻と一緒にかにたに移り住んだ。一時は北海道で酪農を営んだが、二〇〇六年に子どもとともに家族で戻ってきた。「支援するって、弱い人たちを上から引っ張り上げることじゃない。同じ場所に下りていき、一緒に坂を上ることなんじゃないかって」

かにたの施設の急坂を、傷ついた女性たちが今日も駆け上がる。SOSの電話はやみそうにない。

 

◆温かい支援の輪

かにたを支える輪の中には、ボランティアも欠かせない。

半世紀以上通い続ける鈴木俊治さん(74)もその一人。一九六〇年代に盛り上がった学生運動の「熱」についていけず、デモの代わりに始めたのが、かにたのボランティアだった。

ソニーに入社し、研究者として多忙な日々を送りながら、かにたに足を運んだ。作業小屋や階段などの施設整備をこなし、いつしか入所者から「お兄ちゃん」と親しまれる存在に。プロが造った施設と見ばえは異なるが、日曜大工のような出来がほっこりさせる。

昨年十二月下旬、大勢の掛け声が山あいに響いていた。ボランティアの人や施設職員らが一堂に会する餅つき大会だ。入所者も交代できねを握り、村の田んぼで栽培したもち米をついていく。

つき終えた餅を皆でほおばる。「今年はいつもよりおいしいね」。会話が花咲く食堂には毛糸で編んだ壁掛けが飾られ、女性たちが農園で育てた大根の漬物やミカンなども並んだ。

食堂の外で、一人の女性が一本の木を見つめていた。台風19号の被害で根元から地面に倒れ込んだ桜だ。「かわいそう」。知的障害で小学校低学年ほどの理解力しかない。女性は倒れた木をいたわるように、静かに幹に手を置いた。

鈴木さんが声をかける。「さあ、こっちおいで。みんなでお餅を食べよう」。女性は、子どものように笑顔で駆けだした。

 

◆残る戦争の遺物

かにた婦人の村は、旧海軍の砲台跡地に開設された。戦争の遺物は施設内に今も横たわる。

頂上の丘には、一つの碑がたたずむ。刻まれた文字は「噫(ああ) 従軍慰安婦」。かにたに入所していたある女性の要望で建てられた。

戦前、女性は裕福なパン屋の長女に生まれたが、父が親戚の借金を肩代わりしたことで暗転。遊郭に売られ、戦場の日本軍の慰安所に行き着いた。女性は南洋諸島のパラオなどの慰安所で働いた苦悶(くもん)の日々を告白。「戦地に散った同僚女性たちが毎夜夢に浮かぶ。どうか慰霊碑を作ってください」。そう言えるまで戦後約四十年がかかった。

一九八五年夏の除幕式で、女性は南の海に向かって叫んだ。「みんな、ここに帰っておいでよ」。泣き崩れた身体を、そっと抱き寄せたのが前施設長の天羽(あまは)道子さん(93)だった。

女性の告白で初めて知った戦場の実態。「本当にショックでした。私は何も知りませんでした」

天羽さんは旧満州(中国東北部)生まれ。父は銀行員で何不自由なく育った。戦時中は東京都内の学校に進学し、長期休暇のたびに朝鮮半島を列車で横断して満州に帰省した。当時、日本の植民地だった朝鮮半島の女性たちも慰安婦にさせられた歴史も後で知った。「あの列車のレール上を、私と同年代の女性たちが慰安婦として乗っていたなんて…」

クリスチャンだった天羽さんは終戦後、家族を亡くして街をさまよう浮浪児の姿に心を痛め、二十三歳で献身活動に身をささげた。

あれから七十年。性搾取におびえる女性は、今も少なくない。傷ついた女性が訪れるたびに、両手を広げ、朗らかに迎え入れている。「もう大丈夫。よく生きて、かにたにいらしてくださいましたね」

(文・木原育子/写真・木口慎子、木原育子)