一般

【房日】090714*千倉の風力発電署名

●千倉の風力発電、5,044人の署名添え要望書

…南体する住民グループ、南房総市長「地元の考え尊重したい」

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南房総市千倉町の白間津・大川地区に計画されている、風力発電施設に対し、地元で反対活動を続ける「千倉の風力発電問題を考える会」(鈴木務代表)が13日午前、市役所に石井裕市長を訪問した。建設反対の署名5,044人分を添え、市に要望書を手渡した。鈴木代表らは「デメリットも多く、安全性や環境面でも疑問がある。一部地権者の同意もない」などと、市への計画に同意いないよう求めた。石井市長は「多くの署名を尊重したい。市としては5月に同意しない旨の書面を提出している」などと応じた。

風力発電は、クリーン・エナジー・ファクトリー(本社:北海道根室市、CEF)が、CEF千倉ウィンドファーム事業として計画。考える会によると、白間津・大川地区の山中に高さ135m、羽根の長さ50mの国内最大級の風車を10基建設する。事業は民間ベースで進められ、新エネルギー等事業者支援対策補助金の公募に申請している。

考える会ではこの計画に対し、地元へのメリットが少なく、森林伐採や自然環境保護、騒音、低周波などの影響があるとして、反対運動を展開。今月5日から12日までに5,044人の反対署名を集めた。このうち339人が大川地区、236人が白間津地区で、両地区以外からも1,373人の署名が集まった。

鈴木代表ら6人は13日、市役所を訪問。市長に地元で反対運動がある旨を伝えた。反対署名を添えた市への要望書では「問題のすべてを解決し、地域住民が納得して合意しない限り、この事業を認めるべきではない」などと明記し、事業者への指導を要望した。

石井市長は「市として、現時点で(事業に)同意したものではない。今年5月には市として同意しない旨の文書を(新エネルギー導入促進協議会へ)提出している」と回答。そのうえで「地元の考え方を尊重し、判断したい」などと応じた。

考える会では、26日締め切りで第二次署名活動を展開し、広く問題を訴えていく方針だ。まだ15日午後7時からは、白間津コミュニティ集会所で、考える会を開く予定。

窪島誠一郎氏講演会の感想文を掲載しました。

2009年7月10日(金) 、千葉県南総文化ホールにて無言館館主・窪島誠一郎氏の講演会を開催しました。300人収容の会場は来訪者であふれ、急遽楽屋に用意したモニターでご清聴いただいた皆様には大変ご迷惑をおかけしましたが、多くの感想が寄せられ、主催者として感激しています。感想文の現物はすべて窪島氏にお届けしました。感動的な感想が多くありましたので、多くの方にも読んで頂きたいと思い、このようにまとめました。記名のものも多くありましたが、掲載にあたりすべて無記名といたしました。【実行委員会】

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【1】「信濃デッサン館」に寄ったときは、戦没画学生の絵を集めていると言うニュースを聞いていたが、確か「無言館」と命名されていなかった? その後、「無言館」を訪れる機会を逸していた後悔よりも、本日のお話で、「今までいかに生きて来たのか?」そして「これからいかに生きるのか!」と問うことの出来た、良い一日でした。ありがとうございました。

【2】お忙しい中、お話を伺えて、本当に感謝致します。 「無言館」での事、又、想い出しております。先生より年をとっておりますが、せめて、身のまわりの子供たち、孫たちに伝えたいと思っておりますが、中々むつかしいものですね。何とか、又努力していこうと、今日、思いました。どうぞ、お身体をお大切に。お疲れの様に思われます。ありがとうございました。

【3】窪島氏の講演は、素晴らしい。文学者、芸術家、そしてストーリーテラー、三者の資質を全て備えていて、流れるごとく、すいつける如く、ひきつけていく。言葉にもむだがなく、完璧さを感じた。本人のこれまでの実人生に裏付けられた強い個性が溢れていた。満足した講演だった。

【4】結婚してから25年になりますが、東京の出身です。横浜の美大で絵画(洋画)を学びました。戦後生まれですけれど、父母は戦争体験者(と言うよりは父は戦争そのものには行っておりません)です。私が戦争中画学生であったとしたら、と考えたらたまらなくなります。まだ無言館にうかがったことはないのですが、お話をうかがって、是非とも上田まで行ってみたい。絵と向い合って対話したい。

【5】いつか、考えた、感じた、デッサン館、無言館を訪れようと思います。有難うございました。

【6】せつせつと訴えるような語り口に、心より感動しました。ありがとうございました。

【7】無言館には2度行きました。キッカケは東京駅ステーションギャラリーで出会いました。その時初めて知りました、戦没画学生のことを…。今度は是非信濃デッサン館に行きます。我が家は5年間夏山(北アルプス)を二家族で体験しました。長野は大好きな場所です。今日心に残った言葉があります。「授かった与えられた仕事」。又明日から頑張れそうです。そして私も同感なのは、「決して無言館は反戦平和とかいう言葉では無い」ということです。お話を伺えて本当に良かったです。お元気にお過ごし下さい!

【8】感動の講演会でした。ありがとうございました。いのち。生きざま……心に響きました。ご健康とともに、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。人と人との出会い(出逢い)、感動の物語をありがとうございました。安房高(美術部)船田正廣先生(恩師)の立派さにも感動でした。感謝です。

【9】今日お話し下さった内容は、窪島さんの著書の中で読んだと思います。無言館へ行く前に何冊かの本も読ませていただきました。どんな方かな?と胸をドキドキさせて会場にまいりました。たんたんと話される窪島さん。愛する者に向ける素直な心、一生懸命生きることの尊さ、等々。感動の気持ちを他者に伝えて行くことの大切さ。涙があふれました。ありがとうございました。

【10】話に嘘がないので、聞いていて涙がにじみました。「月光」の話は知っていました。また涙が出ました。今まで、自分のスケッチブックやピアノを持っていたということに意識がありませんでしたが、大切に、自分のキャンバスに絵をかいたりピアノをひいたりしたいと思いました。

【11】こんなに真剣に集中して聞いた講演ははじめてかもしれません。無言館は1回だけ、静かに、うす暗い館内で、小さな絵と向き合う時間を持ちました。何冊かの本も読み、一つ一つの絵、描き残した若き画家のおもかげ、残された遺族の重たい気持、野見山さん、窪島さんの向き合う心、様々に感動させられました。又、一日も早く無言館へ、もう一つ出来た別館へ行きたいと思います。前山寺、独鈷山、別所温泉、山本鼎記念館、信州の山に、又会いたい。「無言館」という仕事、同様な仕事はまだまだあるような気もします。この安房の地でも、窪島さんの気持を受けとめ、忘れないようにしたい。

【12】たくさんのことをゆったりきけて、とても嬉しい気持です。「嬉しい」というのは、ちょっとあてはまらないのですが、言葉が思いつきません。すみません。心から感謝します。私も1941年生まれで、大そうな方がおられるなあというような気持もしました。デッサン館でコーヒーを飲んだのでした。

【13】先生の講演は最初から最後まで感激の連続です。兄を23歳でルソン島で失いました。陸士56期、大尉でした。戦死者の家族の思いは皆同じです。入場券の手配にお世話になりました。立派な催しに感謝します。

【14】心に残る感動的なお話、とても感銘深く拝聴しました。お上手に心に響き、何とすばらしいお話、まごころで伝える、人間生きて、自分の心にあるまごころを他者へ伝える大切なことを知りました。しみじみと心に響く、豊かな心にさせて頂けるお話、シーンと皆聴き入った聴衆。こんなこと、この地ではじめて。私は窪島さんのお話に出てくる東京の明大前とか(私は新橋生まれ、育ち)戦前戦後の東京の風景はみんな心に 残っています。びんびんひびいて心にしみるお話、すばらしかった。ありがとうございました。私も窪島さんの何分の一かの感動を覚えたら、心が動いたら、人に伝えたい。あたたかい心を伝えたい。「月光の夏」の特攻隊のベートーヴェンの「月光」、映画を感動的に見ました。窪島さんのお話は絵を見るよう、映画を見るように、静かに語られるおことばがやさしく胸を打ちました。

【15】窪島先生、本日はありがとうございました。私は平成11年7月に横浜で無言館の事を知りました。戦場から妻への絵手紙展を見に行った時です。前田美千雄さんのことを語られていました。まだ無言館へは行ってませんが、一度伺いたいと思っています。私の人生、見なおしたいと思います。視野が広がりました。

【16】人の心の奥底にあるものを掘り出し掘り出すようにしての話が、これ程素直に心に入ってくるのか「無言館」をこの日本に、長野に造り上げた人の言葉をしみじみ聴きました。人の言葉のもつ力を大切にされた話と思いました。だからこそ「無言館」が建てられ、失ってはならない人の想いが残り、伝わり、命の大切さを無言のまま残し続けてくれるのだと……。まだ見ていない無言館へ、死ぬ前に参りましょう。77歳、間に合わすつもりです。

【17】一期一会。「愛を育む心」。心に残る時を過せ、ありがとうございました。

【18】①記憶力抜群でした。②人生一回、先生は思いを貫いたすばらしい生き方をされていると思う。③おしゃべりの流れが一貫し、分かりやすかった。今後のご健勝をご祈念申し上げます。

【19】溝口七生先生に絵の心を教えていただいている者です。真心を届ける絵、同じ教えを感じました。是非、デッサン館をたずねてみたいです。今日は、有難うございました。

【20】涙が出てきました。感動をありがとうございます。

【21】塩田平を望むデッサン館をたずねたのは十数年前、その時に受けた感動を再度、ありがとうございました。知人から無言館の事について便りがあった折りも折り、この様な催し物があり、心躍らせて拝聴致しました。出来ればもう一度、浅間連山を遠く眺めながらの無言館へ訪れたいと思います。

【22】一度、皆さんで上田へ行くツアーでも企画したらどうでしょうか? 一度、母と共に無言館を訪ねた時、絵を見て、強い衝撃を受けた事を昨日の事のように覚えています。お話もいいですが、是非皆さん揃って行きましょう! もし調子がよければもう一度行きたいと思います。一緒に来た友人が「別所温泉と組んでやったらどうか」と言っています。いい案と思います。

【23】ただただ感動しました。無言館は二度行きました。デッサン館へも行きたいと思います。

【24】窪島先生の真実一路の人生を、熱意をお伺い致し、感動致しました。

【25】まるで小説を読んでいるような、映画を観ているような1時間半の講演でした。無言館をつくるいきさつなどはドキュメンタリー映画にしたいくらいです。いい話を聞いて。気持が豊かになりました。ありがとうございました。

【26】6年前、何も知らないまま「無言館」に行きました。松代の大本営跡とセットの平和友好の旅は退職後の私に大きなショックを与えてくれました。その時、窪島誠一郎という人は何者なのだ?と知りたく思いました。館山の戦跡をたどるチャンスも多く、話を聞く機会も多くあり、戦後50年を経て、語られ始めたことから、戦後生まれの私には初めて聞くこと、初めて知ることばかりでした。その後、普通の観光旅行で再び「無言館」を訪れましたが、時間が短く残念でしたが、感動は一回目と変わりま せん。その頃、新聞で窪島誠一郎さんと無言館、水上氏との関係など特集され、少し知りました。今回、房日で見た時、是非話を聞きたいと、今夜並んで券を手に入れることができました。本を書く人だけに、そのまま本にできそうな内容のお話で、充実した時間をありがとうございました。同じ時代を生きてきた者にとって、共感でき、話がスッと素直に聞けました。そして、大きな仕事を成し遂げてこられた先生は、やはり只者ではない。心より敬意を表します(素晴らしい人生を送ってこられた先生に!)。

【27】6月の末に、無言館に行って参りました。予想とは裏腹に、戦没画家の無念など感じさせない、若い画家たちの前途洋々たるみずみずしい作品ばかりで、正直おどろきました。そして彼らの中には、生きて描き続けていたらきっと巨匠になっていたろうという画家もおりました。今日の窪島さんのお話を伺い、なるほど、あの館は、そんなドラマがあったのかと、思いがめぐりました。私自身も画家として、あと、10年20年と、出来ることを続けてゆきたいと思います。技術ではなく、想いを込めて。また、信濃デッサン館へもたずねてみたいと思います。

【28】素朴で素直な窪島さんのお話に涙が止まりませんでした。無言館に行きます。行って、今日の感動を確かめたいと思います。

【29】愛あふれる地球が実現しますように! 一人一人の心が平和で満たされますように! ありがとうございます。

【30】講演の一語一語が詩を紡ぐように受け取られた。他人が価値があると思うことをする人とは、このように謙虚な のかと感じ入りました。来し方行く末をもっと考えたいと思います。

【31】心に残るお話をありがとうございました。美術館めぐりをしたくなりました。感動しました。

【32】言葉では書ききれない素敵な感動をいただきました。「平凡なひとりひとりが、どう思って生きていけばよいか」……という話、先生の経験にもとづいて、とても印象に残りました。明日から、いえ今からの人生の大きな節目になる講演に感謝申し上げます。

【33】窪島先生のお話は、十分心に届きました。私も心して日々を過ごしたいとおもいます。健康第一に、お元気でお過ごしください。

【34】これからどう生きるか、問うている。自分しか歌えない歌。自分しか弾けない曲。自分しか描けない絵。授かった仕事なんだなあ。

【35】今日きて、とても良かったです。「反戦のみでない」本当にそう思います。「知覧の特攻基地」2度行きました。今度是非、長野へも、東京国立近代美術館へも行きたいと思います。

【36】時間を忘れる程、お話に引き込まれました。「人に真心を届けたい」という素晴らしいお言葉を私のこれからの指標として生きていきたいと思います。いつか、上田の地にもお邪魔させて頂きたいと思います。ありがとうございました。

【37】淡々とした話の中に窪島氏の言わんとすることが、しっかり位置づけられ、本当に良い講演会でした。これを企画された皆さんの尽力に頭が下がります。余分なことながら、前段挨拶等、力が入り過ぎ、長過ぎ。講師の人柄に合わせた進行等の配慮も必要。

【38】小学校の4年から高校3年(1961年)まで代田橋で暮らしました。明大前は自転車で走り回った遊び場でした。 「無言館の絵は、戦争を告発しているだけではなく、この60年の私たちの生き方を問うている」というお話を、甲州街道の風景とともに思いかえして、心にとどめました。 一度無言館にはうかがっていますが、また一度訪問したいと思います。

【39】私も兄が21歳で戦死しました。S20年8月16日、終戦も知らず中国で頭を打ち抜かれていたとのことです。私は生まれたばかり、顔も分かりません。もし兄が絵を残していてくれて、無言館に会いにいけるならどんなに良いかと、お話を聞きながら思いました。この60年の命の重さも、しっかりと受けとめたいと思います。私達がこれから命の大切さを。ありがとうございました。

【40】窪島先生の話を伺い、先生と同学年だということがわかりました(S17.2.16.生)。私も断片的ながら戦時中の 記憶を沢山持っています。その貴重な記憶が虫に食われぬよう白日のもとに時々虫干しし、思想に変えようとしてきました。そして、炭鉱のカナリヤのような役割が少しでも出来たらと思ってます。私の母は小学校しか出ておりませんし、次男であった父は家を出て他県で働いたようですが、尊敬する人はと問われたら、父と母と答えられる自分が幸せだと思っています。

【41】反戦平和と言う単なるメッセージでなく、戦後60年の今日の我々の心がまえを訴えているのではないかとのお話に意味深いものを感じました。画学生の気持ち、ピアニスト二人のお話も感銘うけました。窪島先生の淡々とした話しぶりの中に野見山画伯との気持ちも伺い知れました。世の中の目に見えない縁というものも不思議に思えました。開催して頂きました関係者に感謝致します。ありがとうございました。無言館を訪ねましたが、このお話を聞くまで、薄っぺらな感じしかもっていませんでした。

【42】今年の6月末無言館を訪ねました。7月10日に窪島さんの講演会があると聞いたからです。梅雨の晴れ間の無言館は青空の中に建っており、入り口がどこかわからず、デッサン館同様建物の周りをぐるりと一周しました。友人はため息をつきながら、一枚一枚の絵をみていましたが、私は亡くなった若い画学生が将来を見ながら絵を描いていたのではないかと、むしろ希望を感じた程でした。が、しかし、村山槐多さんの絵は想い出せないのです。たぶん、二度は来ないだろうと思った無言館ですが、この方の絵を観に、又、伺うだろうと想います。喫茶のピザ、コーヒー美味でした。童話も楽しかったです。ありがとうございました。

【43】今夜はすばらしい時間をありがとうございました。心より厚く御礼申し上げます。 「歌は語れ、話は歌え」と云う文字を見たことがあります。しかし、詩うが如きお話に初めて出会いました。数時間経た今も、興奮覚めやらず、余韻が全身を満たしております。何と感動的な講演だったのでしょう。よどみなく詩い続けた一時間半、身も心も吸い込まれる様な時間でした。何と表現していいか分からない程です。 声のトーンも耳に心地良く、丁度良い音楽を聴いた後の余韻と全く同じ波長です。とかく言葉は口先だけと思われがちですが、窪島氏の様な心に沁みる深さ・重さを感ずる語りに出会えた事の幸 運を大変嬉しく、心より感謝しています。私もお話の依頼を受けることがございまして、口下手なのでいつも切ない想いをしております。今日は、そういう意味でも勉強になりました。とは申しましても、氏とはスケールも人生体験も全く比ぶべくもありませんが、及ばずとも、良いお手本にと思っております。今日の無言館からのメッセージは、氏の魂からの叫びであり、そこにこめられた、かけがえのない尊い命への讃 歌と言うか祈りと言うか、すべては愛から生まれるものとした、思想や宗教を超えた、崇高なステージを感じました。心を打ったのは氏の人柄だと行き着きましたが、改めて「人間を磨けば、芸は後からついてくる」……そう教えられ、弟子にも言っている言葉ですが、その真の意味を、今日理解出来た様に思います。出来れば、もう一度、窪島氏にお願いして、お父様(故、水上勉氏)への思いを是非お伺いしたいと思います。この度は、素晴しい企画をして頂き、本当にありがとうございました。

【44】とても良い講演でした。もっと多くの人達、特に「若い人達」に聞かせたいと思いました。

【45】「無言館」を最初に訪れたのは、平成10年の春でした。こんな所に何故どうして無言館はあるのかと不思議に思いました。 無言館に一歩入ってみれば、普通の美術館とのあまりの違いに、又々びっくりいたしました。暗さになれてきて 『静子像』と目があった時の感動は、ずっと忘れられません。2時間くらい館内をめぐり、1枚1枚の絵と向き合いました。絵ごころのない私が、絵に魅せられた、思い掛けない、今までになかった体験をしました。 「無言館」への感動を暖めながら十年余が過ぎて今日、窪島先生のお話を聞くことができました。何故どうしての最初の疑問が解けました。ありがとうございました。

【46】ありがとうございました。私も昭和16年11月に生まれました。先生より4日はやく生まれました。 戦前、父も母もお話のあった牡丹江に住んでいたそうです。戦争が始まる前に、父は母を実家の熊本にかえしました。もし、私が満州で生まれ育っていたら、残留孤児になっていたかもしれません。戦後、父は満州に残されていましたが、無事帰ってきました。私も今は二人の子供にめぐまれ、孫も二人、野菜を作ったり、ボランティアをしたりしてすごしております。これもみな、先生のお話にあった人々の犠牲のもとにあったとあらためて考えました。同年の先生が日本国中をとびまわって戦争の愚かさを訴えていらっしゃる。私達も今、戦争体験を若い人達や子供達に残すために、紙芝居作りをしたり、それを持って紙芝居をみてもらう 活動をしたりしています。どうぞ先生も体に気をつけて、デッサン館や無言館を守っていって下さい。

【47】期待して参りましたが、それ以上の濃い内容でした。無言館にぜひ行ってみたい念しきり。館山へ窪島さんを呼んでくださった実行委員会のみなさまへ、感謝しています。

【48】数年前、戦跡めぐりのコースとして長野松代、足をのばして無言館へ。そして昨年、再び無言館を訪れた。何故かしら、小高い山の上の飾らない無言館、一枚一枚の絵の中に、そして一筆一筆と描きあげた作品をみる。今日、その館長、窪島様講演、全身から語りかけ、時には涙と汗、あらためて感動をおぼえる。この夏、第二展示場「傷ついた画布のドーム」を訪れる予定。–どんな感動、ドラマがあるか–

【49】人生は出会いと別れ、感動だと思いました。人は誰かに支えられ、生かされているんですね。愛なんですね。

【50】講演会の記事を朝日新聞で見てからは落ちつかぬ日々であった。館山に行きたいし遠いし。当日、片道100キロを千葉市の西のはずれから車で駆けつけたが、やはり期待にたがわぬ良い話であった。無言館は約10年前位か東京駅のステーションギャラリーで作品を見たのが最初、次に4〜5年前、長野上田近くの別所温泉へ泊り、丘の上のミュージアムに出かけ、ゆっくりと作品を見せていただいた。何度見ても雷に打たれた様な感覚で涙が止まりませんでした。確かその時は興梠武さんの姉上の絵は貸出され展示されていなかった様に記憶している。 私は仕事で長野市に4年間(S56〜59年)住まい、上田市へも仕事で出かけておりました。絵にも興味があったことから確か上田信用金庫の理事長より近くの画廊を紹介され、そこで水上勉さんの描かれた日本画(メザシ)を入手したこともありました。本当に不思議な気がします。私の郷里は岡山ですが、館長と同じ68歳、長野は第二の郷里と感じており、すばらしい自然を求めて、上高地・志賀・白馬・八ヶ岳、白駒池等は、絵に写真にと、たびたび出かけています。平和な現在、来し方を想い、次の世代へ確かなメッセージを発して頑張っておられる館長のご健康とご活躍を願い筆をおきます。本当にありがとうございました。

【受賞御礼あいさつ】和島誠一賞

●第10回和島誠一賞受賞挨拶●
…NPO法人安房文化遺産フォーラム代表=愛沢伸雄…
(文化財保存全国協議会第40回京都大会2009年6月14日 於:同志社大学)

本日はこのような名誉ある表彰を賜り誠にありがとうございます。NPO法人安房文化遺産フォーラムを代表いたしまして、深く感謝申し上げます。全国には遺産保存に顕著な功績をあげている団体が数多くありますが、このなかで私たちのNPO活動を選定していただき、大変光栄に思っています。

この20年余、地域の戦争遺跡や里見氏城郭群の保存・史跡化への取り組みにご支援ご協力いただいた、文化財保存全国協議会をはじめ戦争遺跡保存全国ネットワークの皆様や全国のさまざまな文化財保存の関係団体の皆様に対し、この場をお借りしまして深くお礼申し上げます。

また、このたびの光栄ある受賞を地域において保存運動を支えてくださった方々に、とりわけこの間にお亡くなりになった方々に対して、この受賞をご報告するとともに、あらためて深く感謝を申し上げます。里見氏稲村城跡の保存では1万名をこえる方々の署名があって破壊がまぬがれました。そして14年目に入って、現在、国指定史跡にむけて調査検討されています。私もその委員の一人です。

嬉しいことに本日6月14日は、稲村城跡のある館山市の稲地区町内会において、保存活用に関する委員会が設立され、その総会が開催されていると聞きます。偶然にも本日の受賞の日を境に新たな段階をむかえ、私たちが願っていた地域の人びとによって後世に伝え、残していこうという動きが始まったことをご参加の皆様にご報告できることをとても喜んでいます。

かつて「いったん決めたことはもう後戻りできない。保存運動はこまる」と語っていた地域の人びとが、いまは自らの力で保存・活用に立ち上がったことに対し、敬意を表するとともに、今後とも同じ志をもつ市民として、ともに手を携えて地域づくり活動のなかで連携していきたいと思っております。

ところで私は20年前の1989年に、館山市内にある売春防止法に基づく、障害を持った女性たちのための日本では唯一の女性保護施設「かにた婦人の村」を初めて訪問しました。施設内の丘の上にある「噫従軍慰安婦」石碑と丘の中腹にある本土決戦の抵抗拠点であった地下壕を見学し、大きな衝撃を受けました。そのときに「かにた村」創設者であった深津文雄牧師との出会いもありました。女子高で世界史を教えていた私は、深津牧師から伺ったさまざまなお話によって、地域に根ざした歴史教育や平和学習に取り組むきっかけとなりました。女性史の視点から戦争のもっている意味を学ぶことができる丘の上の石碑と、「戦闘指揮所」「作戦室」という額のある本土決戦のために地下壕は、授業実践のなかで重要な教材になりました。

当時、戦争遺跡は地域開発のもとで次々と破壊され、またゴミ捨て場にされていきました。以来、多くの市民の方々のご協力をいただき、調査研究をつづけ、「戦後50年」の際は200名近くの市民と「平和を考える集い」実行委員会を立ち上げ、さまざまな取り組みを企画し、同時に戦跡の保存を訴えてきました。このことが契機となって市民による戦跡調査保存サークルが公民館活動に生まれ、今日の私たちのNPOによるガイド活動の原点になっていきました。

戦跡の保存をすすめているなか、1996年に里見氏稲村城跡が市道によって破壊される直前にあると知り、急遽呼びかけて50名ほどの市民たちによって「里見氏稲村城跡を保存する会」を設立しました。私は「地域のシンボル的な里見氏の文化遺産を守れなくて、戦跡などの保存はありえない」と思い、戦争遺跡の保存に協力していただいている方々に、戦国期の戦争遺跡である稲村城跡の保存を訴えて協力を願ったのです。まったく異なった歴史文化でしたが、私にとって両方が地域の貴重な文化財であり、2つの保存運動を並行してすすめていくことが両方の文化財保存にとっても重要と思ったのです。「地域活性化のために道路は必要、稲村城跡が無くなっても仕方がない」「戦跡は暗くて、花の房総のイメージに相応しくない」など強い風当たりのなかで、保存はもちろん史跡化にいたっては「100年経っても無理」と揶揄する行政担当者たちと対峙していました。

そのなかで2004年に「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」が整備され一般公開され、翌年には市指定の史跡となり、この戦争遺跡が平和学習の拠点として、まちづくりのなかに位置づけられたときには隔世の感をもちました。

これらのことを振り返るとき、市民が主役になって文化財保存運動を作り上げていくために、文化財保存全国協議会の取り組みに学びながら、私たちの住む地域の人びとの思いや願いを踏まえて、自分たちの身の丈にあった文化財保存運動を地道にすすめていきました。私にとって「かにた村」の深津牧師から学んだ「余ったから分けるというのではなく、無くてもお互いに分かち合うコミュニティをつくっていく」という地道で息の長い地域づくりの実践活動のひとつが、地域にある文化財を保存・活用していく取り組みにあったと思っています。私の場合は子どもたちとつくってきた授業づくりが原点になって、学ぶ力を市民が主役になった地域力にし、さらにNPOの市民力につなげて文化財の保存・活用の道を切り開いてきました。

南房総・安房出身の教育学者和田修二先生は「人間は現在だけでなく、過去と未来との間に生きる存在」なので、「過去に守るに価する大切な思い出をもつこと」「未来に向かって為すべき課題をはっきりと自覚すること」によって、今を生き抜く希望と勇気の支えとなるといい、この2つを「大人の世代が日常生活の中で身をもって若い世代に教えること」が教育の基本であると述べています。多分、市民とともに歩む文化財保存運動を呼びかけてきた先駆者和島誠一先生もそのことを私たちに投げかけてきたのではないかと思っています。自分たちの頭で考えて、借り物でない確かな自己の立場と思想をもって、あらためてNPO活動に邁進したいと決意しています。

最後に私事で誠に恐縮ですが、本日6月14日は次女綾子の25歳の誕生日です。娘は昨年7月8日に脳の病気である統合失調症での稀死念慮に苦しみながら、遺書を残して自死しました。大学2年生20歳の年に発病して4年間、ときに絵画制作やNPO活動に参加し自宅療養を続けていました。このこともあって、私は高校教員を8年早く辞め、娘を看ながらNPO活動に専念してきました。まちづくりのなかで取り組んでいた「まちかどミニ博物館」のひとつとして、ある病院内にミニギャラリーをつくった際に、第1回目の個展開催は娘綾子が協力してくれました。NPOではどんな人びとも参画できる地域づくりを呼びかけていますが、「かにた村」のように障害があっても人間らしく生きていく地域社会の創生が私たちNPOでの願いです。

娘の24年間の短い人生は、私の文化財保存運動の軌跡そのものでした。全国には息の長い保存運動のなかで、いろいろな困難、なかには家族のことを含めて大きな困難を抱えながら文化財保存に取り組んでいる方々も多いと思います。私もつらく悲しい思いでしたが、娘綾子が私の背中を押してくれたことで、今日という受賞につながったと思っています。本日は本当にありがとうございました。



和島誠一賞の詳細はこちら。

※和島誠一賞の受賞に関する掲載記事はこちら。

==房日新聞09.06.18==読売新聞09.06.24==

第10回和島誠一賞 受賞!

【和島誠一賞表彰状】

NPO法人安房文化遺産フォーラム様

貴団体は、館山市赤山地下壕はじめ戦争遺跡と里見氏稲村城跡など、千葉県南房総地域の中世・近代遺跡や歴史遺産の多彩な保存・活用運動を通して、市民に広く文化遺産の歴史的意義の普及をはかられました。この顕著な功績に対し、第10回和島誠一賞を贈り、表彰いたします。

..2009年6月14日….文化財保存全国協議会

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愛沢伸雄代表の受賞御礼挨拶はこちら

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【和島誠一賞とは…】

その趣旨は、20世紀後半に行われてきた歴史的環境を保存する文化財保存運動の先駆けをなし、また大きな足跡を残した考古学者故和島誠一氏(岡山大学教授)を記念した文化財保存の賞です。和島氏は考古学的に科学的精神を啓発され、神奈川県三殿台遺跡などの遺跡保存を積極的に進められたことをはじめ、文化財保護思想の普及を広く提唱し、また積極的に実践を行いました。文化財保存全国協議会では、和島氏が遺された文化財保護思想の遺産に深く学びながら、21世紀に文化財保護、活用および普及をさらに飛躍的に発展させる期待を込めて、2000年5月より「和島誠一賞」を設け、遺跡保存に顕著な功績を挙げている個人と団体を表彰しています。

 

【歴代受賞者】

第1回*直木孝次郎氏、大分県文化財保存協議会
第2回*佐古和枝氏、田和山を見る女性たちの会、田和山文化財訴訟弁護団
第3回*佐原真氏、皇子山を守る会
第4回*門脇禎二氏、奈良世界遺産市民ネットワーク
第5回*吉田晶氏、文化財フォーラム愛媛文化財保存新潟県協議会
第6回*甘粕健氏、乙訓の文化遺産を守る会、山科本願寺寺内町を考える市民の会
第7回*永井路子氏国史跡八王子城とオオタカを守る会
第8回*峰岸純夫氏、宮川徏氏、松代大本営の保存をすすめる会
第9回*小泉功氏、戸沢充則氏、吹田操車場遺跡・明和池遺跡の保存と活用を考える市民の会
第10回*今井堯氏緑と教育と文化財を守る会、NPO法人安房文化遺産フォーラム

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房日新聞の掲載記事はこちら

読売新聞の掲載記事はこちら

山岡部隊の遺族が来訪されました。

山岡部隊(呉鎮守府第101特別陸戦隊)は、

1944(昭和44)年に館山砲術学校に集められた

選りすぐりのエリート猛者で編成された特殊部隊です。

潜水艦を使っての隠密任務だったため「S特」とも呼ばれ、

大房岬の100mの断崖絶壁を登る過酷な訓練をしていました。


2009年4月11日、山岡部隊の遺族が神戸市から来訪されました。

出撃之日に記した辞世の句など、拝見した資料は、

ブログに紹介していますので、ご参照ください。

イオン・イエローレシート贈呈式

毎月11日、ジャスコ館山店で買物をした時に出る【黄色いレシート】を、応援したい市民活動団体のポストに投函すると、合計金額の1%相当の商品を寄贈されます。

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3月15日に、20年度の贈呈式がおこなわれました。NPO法人安房文化遺産フォーラムは、8,800円をいただきました。どうもありがとうございました。

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毎月イエローレシートの日に、ジャスコ店頭で活動紹介のキャンペーンに参加している団体は、支援額が増えているそうです。ぜひ、NPOメンバーの皆さんもご協力をお願いします。

090321創作劇『八犬伝09』

創作劇「八犬伝09」

◆犬坂毛野@桃華の舞◆

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一般公募で選ばれたジュニア&アダルトメンバーによる

〝南房総Team HAKKENDEN〟とレボリューションのヒップホップ、

劇団貝の火の人形たち、里見香華社中の日舞、

魂刀流志伎会の殺陣アクション、銀座手作り甲冑隊が融合し、

豪華キャストによる新しい八犬伝が誕生しました。

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【日時】2009年3月21日(土)13:00〜

【会場/主催】千葉県南総文化ホール

【チケット】大人1,500円、子ども500円(全席自由)

【監修・演出・脚本】伊東万里子

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*公式サイトはこちら

出演者によるブログはこちら

伊東万里子さんのブログは江戸っ子瓦版

090322 あわあわマーケットinロックシティ館山

有機農産物、天然酵母パン、ナチュラルフード、ナチュラルスイーツ、マクロビオティックフード、手仕事、手作り、草木染、オーガニックコットン、天然素材衣類、エコ 雑貨、オーガニックコスメ、フェアトレードグッズ、ナチュラルマッサージ、ボディセラピー、タロット、リーディング、オーラソーマ、禁煙指導、ボディワーク、アート体験、ワークショップ、市民活動(福祉・環境・文化)などが出店します。


◆NPOも参加して、一緒に盛り上がりましょう!!


【日時】2009年3月22日(日)10:00〜16:00

【会場】ロックシティ館山

【出店料】1ブース1500円(イベント保険代込み)

※ 1ブース間口:約2m×奥行2m

※NPO団体の展示のみ参加=長テーブル半分のスペースは無料


【申込方法】

出店(展)申込用紙をFAX・郵送後、出店料を郵便局より振込。

(振込料は各自負担)

【振込先】 00160-4-357748 あわあわマーケット実行委員会

【申込締切】3月7日


※ 小雨決行・雨天中止。屋外での開催となりますので、

小雨時の対策は各出店者様にてお願いいたします。

0804*愛沢綾子・個展のごあいさつ

私は統合失調症です。ひと昔前には精神分裂病と呼ばれていた病気で、もしかしたら負のイメージを持つ人がいるかもしれません。この病気は、脳の情報伝達系に不調が生じるためにおこる精神疾患で、100人に1人はいると言われています。本人に発病の自覚がないことが多いわかりにくい病気であるため、気がつかないで苦しんでいる人が身近にいるかもしれません。

この病気が発病したとき、私は東京に住み大学生活を送っていました。まちなかですれ違う人に悪口を言われているように感じたり、電話が盗聴されていたり監視されているのではないかと不安に感じるようになりました。はじめはただの気のせいで、人が自分のことを話しているように感じるのも自意識過剰なのだろうと思っていました。しかし毎日がつらく憂鬱なことにはかわりなく、いつも死にたい気持ちでいました。

私は心理学部の学生でしたので、精神疾患に関する本やインターネットで調べていくうちに、自分は病気かもしれないと思うようになりました。そして精神科のクリニックに行ったところ、統合失調症であると診断されました。その頃には日常の生活を送ることが困難になったため、大学は退学して生家のある館山に戻り、精神科病院に入院しました。

退院してからは、自宅療養を行う中で、幼いころに習っていた絵をまた描くようになりました。2006年3月に、千倉のカフェ・ド・ヴォンで最初の個展を行なったところ、自分の絵を気に入って購入して下さった方や、褒めて下さった方がいました。このことは私に大きな勇気をあたえ、生き方を変えてくれました。日々絵を描く中で、多くの方たちの優しさにふれて、段々と家族以外の人と接することができるようになり、病気も回復していっているように思います。

最後に私を見守り励まして下さった方々、またこの展覧会を見に来て下さった方に感謝します。もしよければ感想ノートにお書き下さい。これからの創作活動の励みにしたいと思います。

…2008年4月….愛沢綾子

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◎作者プロフィール:あいざわあやこ

1984年:館山市で生まれる

2003年:安房高校卒業。日本女子大学心理学科入学。

2004年:大学を中退し、館山に戻る。入院生活の後、自宅療養。

2006年3月:千倉カフェ・ド・ヴォンで初個展「こころもよう-自画像・抽象画・風景画-」

2008年4月:館山病院内ギャラリーで第2回目個展。自宅療養中。

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房日新聞記事の詳細はこちら

2006年春の個展はこちら

2009年秋の回顧展はこちら

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●愛沢綾子さんは、2008年7月8日逝去されました。

ご冥福をお祈りいたします。合掌