中村 彝(つね)

●中村 彝(つね)
1887(明治20)〜1924年(大正13)
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「房総の海に魅せられた薄幸の画家」
茨城県水戸生まれ。幼くして両親や兄弟を亡くし、18歳 で結核を病み、1905(明治38)年、北条町湊に転地療養。この地でスケッチを始め、画家を志す。その後も転地療養を繰り返しながら、白馬会絵画研究所で黒田清輝、次いで太平洋画会研究所で中村不折や満谷国四郎に師事し洋画を学ぶ。

1910(明治43)年、館山市布良に滞在して描いた 《海辺の村(白壁の家)》 -東京国立博物館蔵-が、第4回文展で3等となる。病弱な彝に海外経験はないが、レンブラント、ルノワール、セザンヌ、ゴッホ、ミレー、マネ、シスレー、モネ、ドガらの技法を独学し、模倣だけに終わらない独特な画法を確立している。新宿中村屋の創設者、相馬愛蔵・黒光夫妻の中村屋サロンに支援され、活躍した。相馬夫妻の長女俊子をモデルにして《少女裸像》《婦人像》などを描くうちに、彼女を深く愛していくが、夫妻に反対され別離。失恋と病苦のなか、1920(大正9)年には後に国の重要文化財となる代表作《エロシェンコ氏の像》を描き上げたものの、37歳で死去。伊豆大島には中村彝記念碑、茨城県近代美術館には復元されたアトリエがある。新宿区下落合に残る実際のアトリエは、区民らによる保存運動がすすめられている。

【参考】中村彝アトリエ保存会

◇ 新宿中村屋 と 館山中村屋
1901(明治34)年、相馬愛蔵・黒光夫妻は東京本郷の東大正門前にパン屋を開いた。木村屋から斡旋してもらったパン職人のほか、13歳の長束實が手伝いとして雇われた。後に新宿に出店し、1919(大正8)年に本郷店を一番弟子だった長束實に譲った。1927(昭和2)年、人の勧めもあって長束實は館山に移転。しばらくは新宿中村屋支店の看板を出していたが、相馬氏が館山を訪れた際、「もう独立したのだからその看板は外せ」と言われ、それ以来、館山中村屋として営業している。

長束實は、キリスト者としての信仰も深く、コルバン夫人らとともに地域社会に貢献した。一方、相馬夫妻は、若い芸術家を支援したばかりでなく、インドやロシアからの政治亡命者などをかくまった。その縁を物語っているのが、2つの中村屋にあるチキンカリーやロシアケーキなどのメニューである。中村屋の包装紙は、画家・石丸達也の考案した模様に、ロゴは中村不折の若い頃の文字をあしらっているという。

現在、館山駅前の館山中村屋本店2階喫茶室には、中村彝《海辺の村(白壁の家)》の複製画(下写真)が展示されている。ほかにも卓越した絵画が季節ごとに架け替えられ、ちょっとした「まちかどミニ美術館」である。