館山病院と東京養育院安房分院の歩みから地域史をみる〜福原有信・渋沢栄一

館山病院と東京養育院安房分院の歩みから地域史をみる

〜福原有信・渋沢栄一をめぐって

印刷用PDF

愛沢 伸雄(安房支部)
『子どもが主役になる社会科』千葉県歴史教育者協議会

千葉県館山市出身の資生堂創業者福原有信は、長女とりを館山病院初代院長川名博夫に、四女美枝を渋沢栄一の次男武之助に嫁がせ、福原有信と渋沢栄一とは縁戚関係となっている。渋沢栄一は日本水産会社に出資したり、東京養育院安房分院(現・東京都船形学園)の初代院長になるなど、館山との関係は深い。東京帝国大学医学部ベルツ教授から薫陶をうけた川名博夫は館山を転地療養の地とし、後に日本内科学会長となる同級生の入沢達吉は、東京養育院医長として、安房分院の子供たちの結核治療にあたっている。明治期に館山は転地療養の地として紹介されていくが、そのなかで館山病院と東京養育院安房分院の歩みから地域での人びとの動きを報告する。

 

住民たちが設立した館山病院と初代院長川名博夫

明治初頭、医師免許制度の導入を機に漢方から西洋医学へと医療体系は大きく変わり、近代的な医療施設が生まれた。1877(明治10)年、那古町には安房地域で最初の近代的な那古病院が開業したものの、鴨川町近郊ではコレラ患者の防疫活動を誤解され、医師沼野玄昌が住民に殺害されるという事件がおこっている。1886(明治19)年、館山町では療養に来ていた長州藩士金近虎之丞が自ら汐湯と称する海水と真水につかる浴室施設をつくったという。海水浴がリューマチに効くということで神奈川県大磯海岸に初めて海水浴場が開設された時期である。

房総半島南端の温暖な館山湾沿岸の地は療養にとって適地であった。那古病院のような近代的な医療施設を望んでいた館山町の住民たちは、病院設置の発起人8名は「設置連」をつくって住民運動を始め、病院建設募金では32名が資金を出した。1891(明治24)年、『館山病院設置連名簿』が安房郡長吉田謹爾に提出され、その『名簿』の嘆願書には「…吾人カ最モ貴重ナル生命ヲ委ヌヘキ完全ナル病院ノ設ケ未タアラサルハ生等カ切ニ遺憾トスルヤ久シ然ルニ今回醫学士川名博夫氏當舘山町ニ於テ開業シ獨国コツポ氏ノ発明ニ係ル肺労ノ療法ヲモ兼ネ普ニ治術ヲ施シ度ニ付テハ地方有志者諸君ノ賛助ヲ得病院設置…名称ハ館山病院ト称ス…」と記載されている。

この嘆願書では「醫学士川名博夫氏」と「獨国コツポ氏ノ発明ニ係ル肺労ノ療法」という部分が注目される。1882(明治15)年、ドイツの細菌学者コッホによって結核菌を発見され、1891(明治24)年にはドイツから結核の最新予防液ツベルクリン注射液が日本もたらされていた。館山病院が川名博夫を医師として結核治療をおこなうための医療施設をめざし、それも住民たちが貴賎貧富の別なく公平で平等に、誰でも恩恵を受けられることを要望していた。館山病院の設立理念を考えるうえで重要な一文である。

川名博夫は外国語学校でドイツ語を学んだ後、東京帝国大学医科大学に進学し、そこには日本の近代医学に大きな貢献したドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ博士がいた。ベルツ教授から内科学を中心に結核治療法や予防医学を学んだ。1889(明治22)年に卒業後、横須賀において一時医院を開業したが、館山町住民たちや安房郡長吉田謹爾からの要請を受けて、2年後に館山病院初代院長となった。内科病院として開業し、外科・産婦人科・耳鼻科を増設していった。なお、予防液ツベルクリンが誕生したものの結核の根絶は無理で、治療にはベルツ教授が提唱する大気安静療法や温泉療法、海水療法などと栄養摂取などで体力を回復させていく転地療法が必要であった。館山病院は全国に先駆けて近代的なサナトリウム(結核療養病棟)をもつ近代的な総合病院にむかっていったのである。

初代院長川名博夫という人物について、3代目院長にあたる甥の川名正義が次のように語っている。「川名博夫初代院長は元治元年六月十四日、富浦町汐入の名主川名近太郎・妻ヨネの次男として生まれた。(幼名を千代吉といった)長男正吉郎と汐入の満蔵寺の寺子屋に通い、読書、ソロバンを習う。十歳位より兄と北条町八幡の士族の家に通い、漢文と算術を習う。その後、満蔵寺の寺子屋でそれらを教えた。明治初年に、長女の幸子(男爵古市公威夫人)が女子高等師範学校に入学するに当たり、兄とともに上京し、東京外国語学校に入学、独逸語を学ぶ。その後、東京帝国大学予備門に入学し医科大学に進級。明治二十二年三月三十一日に卒業し内科を研究した。弟の浩は帝国大学医科大学別科に学び、卒業後河本教授の許で眼科を学んだ。博夫は明治二十三年に横須賀に開業した。翌年、吉田謹爾郡長の招きにより、十月四日館山町に内科の病院を開業した。そのとき、北条町には従兄の角田佳一が北条病院を開業していた。当時、千葉県には学士開業医が三人しかいなかった。…明治三十九年に…安房郡医会は安房郡医師会となり第一回の会長に川名博夫がなった。同時に千葉県医師会の初代会長になり、その後三代医師会長にもなった。川名博夫は、昭和八年に院長を辞任し、昭和二十二年八月二十四日に八十二歳で亡くなった。」(館山病院会誌『せいわ』創刊号1981年)

川名家は汐入村(現・南房総市豊岡)にあって幕末より名主をつとめていた。川名博夫の祖父近右ヱ門は「多寿(だし)の花」という商標の醤油を醸造し、近右ヱ門の長男で博夫の父近太郎は五男三女の家族で、醤油醸造業を営みながら富浦村の初代村長になっている。その近太郎の長男正吉郎もやはり家業を受け継ぎ、同じように富浦村長となり、さらに千葉県議会議員になっている。博夫の兄正吉郎は弟を医者にするために経済的支援をしたうえに、その後の館山病院経営や医師会活動に対して、富浦村長や千葉県議の立場から応援していた。公立病院がなかった館山において、基幹的な総合病院の院長である川名博夫の行動や発言は、地域の政治や医療政策に影響力をもち、その背後にあった川名家の存在はさまざまな人脈を形成し、地域に影響をもたらしていたのではないかと考えられる。

 

館山出身の「資生堂」創業者福原有信

福原有信は1848(嘉永元)年、安房国松岡村(現・館山市竜岡)で出生し、福原家は代々漢方医であり、祖父有斉から長兄陵斉へと家業が受け継がれていた。しかし、26歳の陵斉と祖父有斉が亡くなったことで、四男有信が家業の医師を継ぐこととなり、親戚の医師の紹介により緒方洪庵の高弟織田研斉に入門したのである。動乱の幕末に修業しながら幕府医学所において西洋薬学を学び、その後、幕府医学所頭取の松本良順(佐倉藩順天堂総裁佐藤泰然の次男で、幕医松本良甫の養子)に認められ、有信は薬学の専門家になった。

なお、松本の父佐藤泰然は長崎で医学を学んだ後に、佐倉にオランダ医学の塾順天堂を開き、当時としては最高水準の外科手術を中心に実践的な医学教育と治療をおこなった。幕末から明治にかけて全国各地から塾生が参集し、その多くは明治の医学界で活躍している。系統的な医学教育をとり入れた泰然の養子・佐藤尚中(たかなか)は、新政府から大学東校の最高責任者として招かれた後に、御茶ノ水に順天堂医院を開業している。有信は佐藤尚中の大学東校において西洋薬学を学んでいた。

松本良順は幕府陸軍軍医から明治政府では初代陸軍軍医総監になった人物で、有信が考えていた薬局や薬剤師の存在、医薬分業の良き理解者であった。明治に入って有信は海軍病院薬局長になったものの、1872(明治5)年に23歳で官吏を辞して、東京銀座に洋風調剤薬局「資生堂」を開業した。日本で初めての医薬分業を実践したのである。1885(明治18)年には、本邦初の近代的な製薬工業を興し大日本製薬会社の創設に関わった。そして翌年からは医薬分業を法制化するために日本薬局方制定の作業に精力を傾けていった。その編集委員会には有信と深い関係にあった松本良順や高木兼寛、そして東京帝国大学医学部ベルツ教授がいた。その間、日本最初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を製造し好評を博したことで資生堂の名が高まっていった。薬品だけではなく日常の生活衛生用品や化粧品の製品開発もおこない、今日の「資生堂」の源流となったのである。

医薬分業の先駆的人物であった有信は、日本薬剤師会を結成すると初代会長に推挙されている。この時期、もう一つ生涯のなかで深く関わっていく企業がある。1888(明治21)年に創設された帝国生命保険会社(現・朝日生命保険)であった。経営を安定させていくために1893(明治26)年、社長に就任している。この生保事業は、安房地域で多発していた漁民たちの遭難救済に大きく貢献していることが、近年青木繁が逗留し『海の幸』を描いた小谷家の水産資料からわかった。安房地域の生保事業の展開と相まって取り組まれたのが、新しい金融機関の設立である。それが1896(明治29)年の安房銀行(現・千葉銀行)の創設であり、その際には発起人の一人となって安房の殖産興業のために力を注いだのであった。

 

川名博夫と福原とりの結婚

1898(明治31)年、福原有信の長女とりが館山病院初代院長川名博夫と結婚した。館山病院長の妻となった娘とりを通じて、福原有信は館山の地と深い絆が築かれていくのであるが、婚姻に関する資料もなく、その経緯を推察するしかない。考えられることの一つが東京帝大医学部出身の川名博夫には、同窓生入沢達吉や田代義徳という後に日本医学界の重鎮になった人物がいたということである。卒業後も親しく交流していた。実は有信の幕府医学所時代の同僚入沢恭平の息子が達吉であり、田代基徳の養子義徳であった。つまり、東京帝大学医学部の人的なネットワークの中に、福原有信と川名博夫とは繋がっていた。

後年、それに関連するような出来事があった。川名博夫が館山病院の後継者を得るため、長女露子を医者に嫁がせたいと願っていたが、その際に同窓生の東京帝大医学部入沢達吉教授や田代義徳教授に相談したという。その結果、白羽の矢が当ったのが入沢教授の内科医局出身で、当時医学部の講師をしていた穂坂与明博士であった。1921(大正10)年、田代義徳教授夫妻を媒酌人として穂坂与明・露子の結婚式がおこなわれ、穂坂与明はすぐに館山病院副院長に就任している。

二つ目に考えられることが、福原有信が関わる日本薬局方制定編集委員会の委員にベルツ博士がおり、川名博夫にとって結核治療法を学んだ恩師である。コッホが結核菌を発見し、その後予防液ツベルクリンが日本に送られてきた年が館山病院設立の1891(明治24)年であったと前述した。有信には六男四女の子がいたが、長男信一が札幌農学校時代に結核に冒され、25歳になった長女とりは、姉として3歳下の弟が効果的な治療がないまま、失意の毎日を送っていることを憂いていた。資生堂薬局もこの予防液を扱っていたものの、結核には根気強い治療が必要であった。

1898(明治31)年、ベルツ博士の提唱する大気安静療法という結核治療を実践していた医師が、25歳のとりの見合い相手となった。弟信一の結核の姿と重なって、33歳であった館山病院長川名博夫に対し関心を持ったのは不思議ではない。その頃の海外医学雑誌には転地療養が紹介され、結核には特効薬がないので温暖な気候のもとで海岸浴などをしながら、十分な休養を取って栄養価のある食事をすることが延命になると判断されていた。館山病院がおこなう大気安静療法は、休養をとって高タンパクと高カロリーの食物摂取で抵抗力をつけるとともに、日光の紫外線を多く浴びて結核菌が暴れ出すのを防ぐ転地療法であった。東京から近い館山の地は、温暖のうえに栄養価のある果物や牛乳があった。弟思いであったとりは、父有信の故郷である館山を信一の転地療養の地にしようと思ったかもしれない。だが信一は苦しみながら44歳で亡くなっている。

 

福原有信・渋沢栄一・古市公威のネットワーク

企業人であった福原有信は、当然財界の重鎮渋沢栄一と交流があった。1914(大正3)年、福原の四女美枝が渋沢の次男武之助に嫁いだことで、縁戚関係となっていった。その結果、渋沢は第4回目の渡米の際に、川名博夫・とり夫妻の娘婿である館山病院副院長穂坂与明を侍医として随行させている。

川名家との人脈を見ると、渋沢栄一と繋がっている重要人物がいる。川名近太郎の長女幸子、つまり川名博夫の5歳上の姉は、1875(明治8)年に東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の第1期生として卒業後、1884(明治17)年に元姫路藩士で内務省土木局事務取扱の古市公威(30歳)の妻(23歳)になった。1854(安政元)年生まれの古市公威は、第1回のフランス留学生として土木工学を学び、帰国後は1890(明治23)年に東京帝国大学工学科大学教授となり、初代の帝国大学工科大学学長に任命された。内務省土木局のトップとして古市は、全国の河川治水や港湾の修築のみならず、近代土木行政の骨格をつくるとともに、土木学初代会長・日本工学会理事長(会長)として明治期の土木行政の中心を担った。なかでも代表的な功績として横浜港の設計と建設に関わり、1905(明治38)年横浜港に日本最初の繋船壁が完成させている。翌年には朝鮮統監府鉄道管理局長官を経て、その後枢密院顧問官になった。妻幸子の兄川名正吉郎は、古市の義兄である立場を房総半島沿岸の鉄道線敷設の呼びかけにつかった。なかでも古市の口添えを得て後藤新平を動かし、1918(大正7)年には予定になかった富浦駅を開業させたという。

渋沢栄一の日記によると「明治22年8月20日(1889年)是日栄一、奈良原繁・高島嘉右衛門・小野義真・金原明善・織田完之・鈴木安武ト…印旛沼開鑿事業ヲ議シ、予算書ノ作成及ビ印旛沼・手賀沼拝借願ニ連署ノ件ヲ決シ…願書ニ栄一等ノ調印ヲ了リ、千葉県庁ニ提出ス」とあり、渋沢は内務省土木局事務取扱時代の古市公威と出会っている。また前年、本邦初の工学博士号が授与された古市公威(35歳)は、東京市区改正委員に任命され、渋沢栄一らとともに東京市の都市づくりに関わっていた。

 

渋沢栄一のライフワーク東京養育院安房分院長

渋沢栄一は、1872(明治5)年に大蔵省三等出仕となり大蔵少輔事務取扱に任命された。その際に営繕会議所が東京・本郷に創設した棄民と呼ばれた人びとの応急的な救護施設の取締に就任している。だが翌年、渋沢栄一(33歳)は大蔵省の官吏を辞して、第一国立銀行総監役(後の頭取)に就任し、1875(明治8)年には第一国立銀行頭取に互選されている。この年に森有礼が創立した商法講習所(現・一橋大学)が東京会議所の所管に移ったことで委員となり、その後、深く教育の世界にも関わっていった。

1874(明治7)年、救貧制度の根幹となる規則がつくられ、一人暮らしの病弱者や高齢者、生活困窮者などが保護される社会福祉の制度が不十分ながら動き出した。この翌年、営繕会議所は東京会議所と改称され、渋沢は会頭および行務頭取となった。東京会議所の事務は束京府に戻されたことで、救貧事業は東京府直轄となり東京養育院と改称され、渋沢栄一は東京養育院初代事務長(その後の院長)に就任した。東京市制を施行した1890(明治23)年には東京市養育院と改称されている。

その5年後に入沢達吉が東京帝大医学部助教授になった。そして、同時に東京市養育院の医長に就任している。前述したようにベルツ博士は、1876(明治9)年にライプチヒ大学講師から東京医学校に招聘され、数多くの医師を育て日本の防疫事業の基礎を築き、結核治療としては大気安静療法をすすめた。ベルツはその後、ドイツに帰るが、その後任を託されたのは川名博夫と同窓であった入沢達吉であった。ベルツ教授から内科学を学ぶとともに、ドイツ留学後はベルツのもとで助教授となっている。1901(明治34)年にはベルツの退職を受けて入沢は教授となり、医学部に入沢内科医局を創始・主宰することになる。後に医学部長などを歴任して日本内科学会会長となり、日本の内科学確立に大きな貢献したのである。

入沢達吉は東京市養育院医長として、結核児童のためには海浜治療所が必要と痛感し、実際に房総方面を調査して渋沢栄一院長に施設設置を提案した。その結果、1900(明治33)年に渋沢は東京市長松田秀雄に千葉県安房郡勝山町に海浜療養所を設置するよう建議して許可された。こうして虚弱(結核)児童たちの転地療養のため、東京市養育院安房分院の前身である勝山保養所が試験的に設けられた。ここでは毎日2回の海水浴の後には松林のなかで新鮮な空気の中で授業(林間教授)がおこなわれたという。5年にわたる試験的な取り組みが良好であったので、分院的なものとして永久化すべきとなった。現在も、東京都船形学園として児童養護施設が運営されている。

1909(明治42)年、勝山町の海浜療養所である勝山保養所は、安房郡船形町に移されて病弱児童療養と小学校教育のために、東京市養育院安房分院が誕生したのであった。安房分院長として渋沢は開院式に臨み演説している。当時の入所児童は46名、その後1912(明治45)年までに延べ219名が入所したという。こうして渋沢にとって安房分院長の仕事が生涯にわたるものになった。忙しいなかを開設記念会など各種行事のために、開設以降7回にわたって安房分院を訪れている。

渋沢栄一は、1909(明治42)年に多くの企業や諸団体の役職を辞任し、実質的に経済界から引退した。以来、より幅の広い社会貢献活動を続けていくが、それは貧窮者を助けて貧富の格差をなくすことは「公益」であると考えていたからである。そのためにも政治は「仁」をもっておこなうことであると論語の教えから学んでいった。東京養育院の事業は「公益」という理念で貫かれた実践的な取り組みであった。

そして1923(大正12)年9月1日、関東大震災の勃発で安房分院は全壊し、児童10名と職員1名が死亡するという大惨事になった。大震災善後会副会長であった渋沢は、直ちに安房分院の復旧もおこない、翌年にはすべての施設を復旧させた。渋沢は高齢にも関わらず、1927(昭和2)年と1929(昭和4)年の記念会に出席し、東京養育院の仕事は生涯にと自負していたように安房分院のあゆみを見つめながら、1931(昭和6)年に92歳で亡くなっている。