柳楢悦・柳悦多
●柳 楢悦(ならよし) /1832(天保3)〜 1891(明治24)
●柳 悦多(よしさわ)/ 1882(明治15)〜 1923(大正12)
柳楢悦は江戸に生まれ、9歳で書や算術を学び、元服後に和算や測量術塔を学ぶ。1855(安政2)年に幕府の長崎海軍伝習所で、勝海舟や榎本武揚らとともに近代的な航海術や海防に必要な測量術を学ぶ。新政府の海軍創設の基幹要員として上京、1886(明治19)年に初代の海軍水路部長に就任。水路業務の推進だけでなく、関澤明清とともに水産技術の発展に尽力し、1888(明治21)年大日本水産会幹事、1890(明治23)年第一回貴族院議員となるが、翌年逝去。
1880(明治13)年に加納治五郎の姉・勝子と再々婚し、悦多(よしさわ)・宗悦(むねよし)が生まれているが、楢悦の没後、幼い兄弟は伯父の嘉納塾で柔道を学ぶ。嘉納は東京師範学校の学長として館山に水泳練習場を開き、水泳師範の本田存(ありや)に指南を得た安房中学は日本一のカッパ中学と異名をとる。
柳悦多は、父楢悦が関澤明清とともに開いた水産伝習所を継承した水産講習所に学び、卒業後も実習場のあった館山に定住。近代的な漁業に取り組むかたわら、安房中学の野球部と柔道部の指導にあたっていたが、関東大震災で生徒を避難させた後、建物倒壊で殉職している。
…◎『館山まるごと博物館』より…