小原金治・謹治
=安房の殖産興業の先駆者(祖父)と世界的なツバキ研究者(孫)=
●小原金治(きんじ) /1859(安政3)〜1939(昭和14)
●小原謹治(きんじ) / 1910(明治43)〜 1999(平成11)
南条村(館山市)生まれの小原金治は、農業の傍ら独学で漢学を学び、その後自由民権運動で政治に目覚め、22歳で上京し夜学の法律学校で学んだ。25歳で南条村会議員になり、白土産出の安房坑業会社に関わって実業界に入ったことを機に、1890(明治23)年には布良の満井武平とともに千葉県議となり、立憲改進党に入った。3期目途中、日清戦争勃発直後の衆議院議員選挙で改進党から擁立され、自由党・加藤淳造と争って当選。3年間の議員活動で、神田吉右衛門や満井らの水産改革を応援し、関澤明清らのモデル的な遠洋漁業を奨励。資金面では安房郡長・吉田謹爾らと連携して、福原有信や川崎財閥の川崎八右衛門らを発起人に、1897(明治30)年安房銀行(千葉銀行の前身)を創設した。関澤の急逝後、その遺志を継いで房総遠洋漁業(株)社長となった。その後、安房銀行頭取となり経営基盤を固めたが、関東大震災後は安房震災復興会会長として資金面で奔走し、官民一体で復興に大きな貢献をしたといわれる。
金治の孫の謹治は、世界的な椿の研究家であり、20余年にわたり洋種など700種以上を手がけ、自らも10種ほど品種改良し「布良」「相の浜」などと命名している。自分の名をつけた「K.OHARA」は、アメリカの椿専門誌「カメリア・レビュー」の表紙を飾った。館山の市木でもある。
【小原家住宅】
《国登録有形文化財(建造物)》
平成29年6月28日
【所在地】館山市南条54
【年代】 江戸時代~
【概要】
館山市中心部東の丘陵地に位置します。主屋は寄棟造の主体部に台所部や土間部が接続しており、近世から近代への増改築の変遷をよくとどめています。離れは主屋の南東に建ち、床脇に独自の意匠がみられる良質な建築です。主屋の西に米蔵や文庫蔵が建ち、敷地の南側には旧長屋門が建ちます。表門は量感のある造りで家紋入りの屋根瓦を用い、表構えに風格を添えています。
・小原家住宅主屋 安政6(1859)年頃/明治29年改修、昭和前期増築
・小原家住宅離れ 昭和4年頃
・小原家住宅米蔵 弘化2(1845)年頃/平成4年頃増築
・小原家住宅文庫蔵 昭和前期
・小原家住宅旧長屋門 江戸後期/明治中期改修
・小原家住宅表門 明治中期
⇒ 館山市HP
⇒ 房日新聞2017.3.11
⇒ 房日新聞2017.11.22