雄譽霊巌

●雄譽霊巌(おうよれいがん)
1554(天文23)〜 1641(寛永18)

 

江戸時代前期の浄土宗の僧。号は松風。駿河国出身。千葉生実の大巌寺三世。

館山市大網の大巌院開祖、ハングル「四面石塔」を建立。

幕府に取り立てられ、江戸(東京)の湿地帯を埋め立てて霊巌寺を開いた。その地(東京都中央区新川)は霊巌島と呼ばれ、房州航路の湊となった。明暦の大火で焼失した霊巌寺は、深川に移転し現存する。

浄土宗総本山・華頂山知恩院第32世となり、3代将軍家光の庇護のもと、大火後の知恩院再建に尽力し、諸堂や日本一の大梵鐘を建立、中興の祖といわれる。3,000人を超す弟子をもち、皇室や幕府にも信任が厚く、政治的にも活躍した。熱心な信者に支えられ、全国各地に多くの寺院を建てている。

後年、弟子が著した『霊巌和尚伝記』によると、大巌院に立ち寄った朝鮮人は霊巌上人の業績を聞いて、「現身の仏陀なりと嘆徳」したと記されている。朝鮮通信使が館山に立ち寄ったことが示唆されることは、日韓交流史をひもとく上で重要な寺院として注目されている。

【出典】館山まるごと博物館

【年譜】
1554年、駿河国沼津今川家一族土佐守氏家の三男として誕生、幼名友松。1564年、沼津浄運寺増雄上人につき得度。肇叡と命名。
1568年、下総国生実(千葉市)大巌寺道譽貞把上人の門下、霊巌と改名。
1587年、大厳寺3世となる。
1590年、江戸城内の法門にて争論。大厳寺を辞し東海道へ旅立つ。
1951年、南都(奈良県)に霊巌院(霊巌寺肇叡院)を創建。
1592年、山城(京都府)宇治に称故寺、滝鼻に西光寺建立。伏見城にて家康より大巌寺再住を命ぜられる。
1593年、大巌寺改修着工。字を松風とする。
1603年、大厳寺落慶、寿像作成。江戸開幕。大厳寺出寺、伊豆大島・安房を巡教。安房国主里見義康の帰依により、大網村(館山市)に大巌院を創建。入仏供養。
1607年、大巌院「寿像」胎内銘。
1608年、上総国(五井)の松平家信の帰依を得て守永寺の開基となる。
1609年、大巌院「寺号扁額」。
1610年、里見忠義公に円頓戒を授ける。42石の朱印をもって大巌院寺領とする。
1613年、上総佐貫の内藤政長の帰依を得て善昌寺に転住。
1614年、里見氏改易となる。上総国(君津市)法巌寺開基。
1615年、上総国(富津市)湊に湊済寺、小糸に三經寺建立。宗祖法然上人の霊場参拝に旅立つ。
1616年、安房国検儀谷(南房総市)に大勝院、下総国生実(千葉市)に大覺寺建立。里見忠義公を改易地・伯耆国に訪ねる。
1617年、筑後国善導寺7日間不眠念仏。
1618年 京都知恩院(満誉尊照上人)7日間参篭。
1619年、安房国保田(鋸南町)に別願院創建。
1621年、江戸に霊巌寺仮堂建つ。
1622年、2代秀忠および家光(翌年3代)にお目見え。
1623年、下総国千田(長南町)に称念寺改宗開山。
1624年、大巌院「釈浄土十二蔵義」版木刻銘、「四面石塔」建立。江戸に霊巌島(中央区新川)を築き霊巌寺を建立。孫弟子光譽が安房国大戸(館山市)の大円寺を開山するのに附法。
1627年、江戸城西の丸で将軍ならびに大御所に法談。
1628年、霊巌島を埋め立て、諸堂建築はじまる。
1629年、江戸霊巌寺本堂・諸堂落慶。台命により華頂山知恩院の第32世に任じられる。
1631年、岡山に霊巌寺を開く。江戸下谷英信寺開基。宣旨により仙洞御所の後水尾法皇に説法。院宣により明正天皇に説法。富津市金谷の本覺寺建立。
1632年、上総国(君津市)法巌寺附法師(開基)。
1633年、知恩院出火、諸堂焼失。大巌院「釈迦涅槃図」。
1636年、知恩院の大梵鐘完成。大巌院を朝鮮通信使が訪れる。
1638年、知恩院諸堂造営成就。
1639年、落慶大法要。
1640年、「浄土三部経」「選択集」「頌義」などを開板。
1641年、落慶御礼のため関東へ下向。上意により登城し法談。江戸霊巌寺にて没(88歳)。

 

【参考論文】愛沢伸雄
江戸時代ハングル「四面石塔」のなぞ〜安房から見た日本と韓国(朝鮮)の交流
地域教材「四面石塔」を活かした現代社会の授業実践
地域教材で日韓交流を学ぶ〜生徒と学ぶ「四面石塔」の謎
16・17世紀の安房からみた日本と朝鮮〜朝鮮侵略から善隣友好へ
近世安房にみる朝鮮〜朝鮮通信使と万石騒動

【参考図書】
館山市立博物館図録:安房の人物シリーズ⑥
『浄土の高僧・雄譽霊巌』