島野初子(矢部初子)
● 島野初子(しまのはつこ)
1895(明治28)〜1985(昭和60)
「女性解放運動と幼児教育の母」
山梨県谷村町生まれ。旧姓:矢部初子。高女在学中から兄の影響で社会主義思想にふれ、津田英語塾在学中に学生運動家となる。卒業後、奥むめおらと「職業婦人社」という結社をつくり、機関紙『職業婦人』『婦人と職業』などの編集にたずさわる。社会主義を信条とする日本最初の女性結社「赤瀾会」を結成。1920(大正9)年、平塚らいてう、奥むめお、市川房江らと新婦人協会を設立、女性参政権獲得運動をすすめる。有島武夫の『種蒔くひと』の呼びかけで、1923(大正12)年3月8日には日本初の国際婦人デーの集いを主催し、開会の辞を担当している。
大正大学から東京外国語学校露語科に進学し学生運動家であった館山生まれの島野禎祥(船形の西行寺住職の長男)と出会い、1924(大正13)年に結婚。関東大震災で倒壊した西行寺再建のために1929(昭和4)年に館山へ。寺子屋で英語や習字などを教えるかたわら、東京の労働運動で病気になった青年たちを迎え入れて静養させたという。夫の没後、次女・潮とともに館山白百合幼稚園を設立、英語や音楽を取り入れて世界的視野を育む幼児教育を実践し、地域のリーダーを育てていった功績は大きい。
…◎『館山まるごと博物館』より抜粋…
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さまざまな社会運動から身分や財産などによる差別のない普通選挙権の要求がなされていったなかで、大正8〜9年(1919〜20)には、世界的なデモクラシーを背景に、友愛会の労働者や学生を中心に大衆運動が盛り上がっていた。同時に女性たちも権利意識に目覚め、大正期に女性解放の婦人運動がはじまった。
明治44年(1911)、平塚雷鳥らが青鞜社を結成し、機関誌『青鞜』を発行して女性解放を唱えた。大正9年(1920)には平塚雷鳥や奥むめお、市川房枝、矢部初子らが新婦人協会を組織して、女性参政権獲得運動をすすめていった。
このなかで矢部初子とは、戦後船形において学校法人館山白百合学園を設立した島野初子のことである。明治28年(1895)に山梨県谷村町で出生した矢部初子は、高女在学中から兄の影響で社会主義思想にふれ、津田英学塾に進学するとともに社会主義的な学生運動に入っていった。
卒業すると奥むめおらと職業婦人社という結社をつくり機関誌『職業婦人』『婦人と職業』などの編集に携わっていった。原稿執筆の傍ら思想研究会に関わり、「赤瀾会」という日本で最初の社会主義を信条とする女性たちの組織を結成した。その後、有島武雄らの「種蒔くひと」の呼びかけにより、大正12年(1923)3月8日には、日本で初めて国際婦人デーの集いの主催者となり、開会の辞を担当した矢部は、マスコミから注目される存在となった。社会主義者であった大杉栄らは、関東大震災の際に虐殺されているが、その翌日に矢部初子も憲兵隊に連行されたが、危うく難を逃れ命拾いをしたと後年語っている。
初子の夫である島野禎祥は、船形にある西行寺住職の長男として、明治35年(1902)に出生し、後に住職を継ぐため大正大学に進学した。社会主義的な立場で学生運動をやっていたなかで、矢部初子と出会った。
大学卒業後、初子の薦めもあって東京外国語学校露語科に進学した禎祥は、大正13年(1924)に初子と結婚した。そして二人は、関東大震災で倒壊した西行寺再建のために、昭和4年(1929)に船形に帰郷した。
寺に入った初子は、檀家からの要望で寺子屋のように無料で英語・習字・国語などを教えたり、また東京での労働運動のなかで病気になった多くの青年たちを寺に迎え静養させたという。
戦前戦後の労働運動や戦時中での監視生活のなかで心労を蓄積させた夫の禎祥は、昭和22年(1947)に亡くなった。島野初子はその後、次女潮の協力のもとで各種学校英語学院や館山白百合幼稚園を設立し、船形や那古などの地域社会と深く関わって、自ら描いてきた理想を英語教育や幼児教育を実践することで生涯の信念を貫いていったのである。
◎『那古史』より