波の伊八

●波の伊八
初代=1751(寛延4)〜1824(文政7)

 

「波を彫ったら天下一と畏れられた欄間彫刻の巨匠」
安房国には、寺社建築や工芸にすぐれた名匠を多く輩出してきた歴史がある。その伝統は、武志伊八郎信由、武田石翁、後藤義光という三名工を生み出し、それぞれの時代で光彩を放って輝いていた。なかでも江戸時代中期の武志伊八郎は、波を彫らせたら天下一。〝波の伊八〟という異名をとり、「関東に行ったら波を彫るな。伊八がいるから恥をかくぞ」と、その名を全国に轟かせていたという。

かつて鴨川の大日地区では、良質の粘土が採れ瓦焼きが盛んだったため、瓦職人を中心に左官屋や大工の職人が集まっていた。その時代は長男が継ぎ、次男三男は腕を磨いて職人になり、生計を立てるケースが多かった。初代伊八は大工の家に生まれた長男だったが、早くに親を亡くしたため、幼くして職人修行についたという。当時は、大工が彫り物の技術も持っており、伊八も大工の修行を積みながら彫り物の腕も上げたようである。江戸彫刻界の巨匠・島村丈右門貞亮にも弟子入りし、21歳で江戸杉並の妙法寺に作品を彫っている。後に故郷鴨川を本拠地とし、全国各地に名作を残した。

〝波の伊八〟とまで呼ばれた彼の彫刻は、今にも崩れ落ちそうな波を横からのアングルで捉えている。外房の荒波の、ゴオーッという轟音が聞こえそうだ。このリアルな波を彫るために、伊八は馬を飼って荒々しい海に入り、波の高さで真横から観察したという。この熱意が波ばかりでなく、龍などの作品にも迫力を生み出している。そこから生まれた伊八彫刻の極意を、伊八研究家の長谷川治一氏は次のように語る。

①欄間の寸法より大きく作り、欄間から飛び出して襲いかかってくるような迫力を出すことで、装飾彫刻の域を越えて芸術性が高まったこと。

②高い所へ掲げる場合、上を大きく、下を小さく彫ることで、見る者の視点を尊重し、上の部分が小さく見えないような工夫がされていること。

③厚彫り彫刻といって、たとえば10cmの薄い板を、20〜30cmのボリュームあるものに見せるように彫ること。

「芸術家に制作意欲があっても、それだけでは芸術は存在しない。古寺や神社へ行くと心が清められるように感じる信仰心だったかもしれないし、現代も美術館で感じるような気持ちだったかもしれない。安房地域の民衆がそれを求めて、庶民でお金を出し合って作らせたのは、高い精神文化といえる。お寺を建てるだけでも大変なのに、あんなに立派な装飾品を施すというのは尚更大変なこと。それは地域の人びとの心が一つにならなければできない。現代人が忘れてはならない心だ」と語る長谷川氏は元鴨川市長である。

伊八を知らない人でも、葛飾北斎を知らない人はいない。北斎の代表作『富嶽三十六景』のなかの『神奈川沖浪裏』は、伊八の豪快迫力の波に影響を受けたと言われている。たしかに北斎の絵は神奈川沖というより、外房の波を想起させる。北斎と伊八が交流のあったと思われる逸話も残っている。さらにフランスの音楽家ドビュッシーは、北斎の絵からインスピレーションを受け、交響詩『ラ・メール(海)』を作曲したとも言われている。この世界的な作品のルーツが安房の名匠伊八にあるかもしれないことは誇りである。

(話:長谷川治一、文:池田恵美子)

『南総ふるさと発見伝まほろば』4号より抜粋