日韓交流

【日韓交流のあゆみ】

*2001年8月=日韓歴史教育交流会(韓国ソウル)
*2001年12月=日韓歴史教育交流会(韓国晋州)
*2002年3月=日韓歴史交流「ハングル四面石塔」(館山市)
*2002年10月=日韓歴史教育交流館山シンポジウム(館山市)
*2005年7月=日韓子ども交流in館山(韓国浦項製鉄西初等学校)
*2005年11月=韓国民団千葉 視察来訪
*2006年8月=済州島大学校・趙誠倫教授のまちづくり視察来訪
*2007年9月=韓国浦項市「快鷹丸」遭難100年記念訪韓交流
*2009年3月=済州島:戦跡調査団視察来訪
*2009年8月=ソウル平和博物館の講演&仁川まちづくり交流
*2010年6月=東京大学院留学生・鄭一止(チョンイルジ)氏博士論文調査来訪
*2010年8月=第9回日中韓青少年歴史体験キャンプin南房総
*2011年2月=韓国釜山・慶星大学カン・ドンジン教授 視察来訪
*2012年12月=駐日韓国大使館 視察来訪
*2013年8月=韓国文化体育観光部・文化観光研究院来訪交流(館山市)
*2014年1月=韓国歴史教育者来訪
*2014年5月=韓国オルティナブルスクール視察来訪
*2014年8月=韓国水原ルネサンスセンター来訪交流(館山市)
*2015年3月=館山市・青木繁「海の幸」記念館:ブロンズ『刻画・海の幸』除幕式

*2015年8月=東京韓国学校 視察来訪
*2015年9月=第19回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会・河正雄氏講演
*2016年3月=韓国ソウル秀林アートセンター:ブロンズ『刻画・海の幸』序幕式
*2016年3月=韓国京畿道エコミュージアムフォーラム(韓国)
*2016年4月=韓国京畿創作センター訪問
*2016年5月=韓国光州市立/霊岩郡立美術館:ブロンズ『刻画・海の幸』除幕式
*2016年5月=韓国済州道大学校・趙誠倫教授と日本軍戦跡調査
*2016年7月=東京韓国学校100名・スタディツアー来訪
*2016年12月=韓国始興市バラジエコミュージアム団 視察来日
*2017年7月=在日コリアン・マイノリティ人権研究センター 視察来訪

*2017年=韓国OBSテレビ取材「館山まるごと博物館」
*2017年=韓国MBCテレビ取材「房総の済州海女」
*2023年11月=在日韓国民団大田支部 視察来訪
*2024年1月=在日韓国民団 金文子氏より大巌院に蓮アートフラワー奉納
*2024年8月=韓国国外所在文化財財団 視察調査来日
*2024年11月=ハングル「四面石塔」400年記念シンポジウム

 


 

 

 

 

 

【日韓交流の地域資源】

■ ハングル「四面石塔」 <館山市>

館山市内の大厳院には、朝鮮ハングル・印度梵字・中国篆字・和風漢字で「南無阿弥陀仏」と刻まれた石塔があります。同院創建の雄譽霊厳上人が石塔を建立した1624年には朝鮮通信使が修交され、秀吉の朝鮮侵略(文禄の役)から33年目にあたることから、戦没者供養と世界平和祈願がこめられていると推察される。これを地域教材とした授業実践を歴史教育者協議会で報告したことを期に、日韓歴史教育実践研究会の支援を得て、さまざまな日韓交流が始まる。

「快鷹丸」遭難記念碑 <韓国浦項市>

東京海洋大学(旧東京水産大学)の前身である「水産講習所」の初代練習船「快鷹丸」は、館山沖で操業訓練を重ねた後、1907年に出航先の朝鮮海域で遭難し、4名殉難。現地住民に救助された乗組員や後進たちによって遭難記念碑が建立。アジア太平洋戦争を経て、碑は倒され土中に埋もれるが、1972年に再び現地住民によって掘り起こされ、現在に至る。2007年には、東京水産大学OBとともに、現地にて100年供養の日韓交流を実施。

済州島海女(チャムス)墓地 <鴨川市>

明治期より済州島の海女が多く来日し、アワビ漁に従事していた。安房にも暮らしていた彼らは、戦後、鴨川市の長興院を墓地として埋葬した。儒教を国教とする韓国では、参詣の際には数十にのぼる墓碑をすべて供養するという。済州島大学校の趙教授は、日本国内での韓国人墓地は貴重な事例という。

「噫従軍慰安婦」碑 <館山市>

1984年、館山の婦人保護施設に暮らす一人の女性が、慰安婦の仲間の鎮魂を願い、その体験を世界ではじめて告白した。はじめは檜の鎮魂碑を建てたが、翌1985年に石碑を建立。韓国KBSドキュメンタリー『太平洋戦争の魂~従軍慰安婦』で紹介され、各国から証言者が現れる契機となった。

■「名も無き女の碑」 <鴨川市>

元日本軍の衛生兵だった男性2人が戦後に出会い、慰安婦だった女性たちを悼み、1973年に建立。

ブロンズ『刻画・海の幸』
 <館山市・久留米市・ソウル・光州・霊岩>

青木繁が滞在し『海の幸』を描いた館山の小谷家住宅を保存するために、全国の著名な画家との協働により保存基金を募り修復し、2016年に青木繁「海の幸」記念館を開館する際、日韓の友情の証として韓国秀林記念財団の河正雄(はじょんうん)氏がメセナとしてブロンズ制作し、次の5か所に寄贈設置した。
製作者は、館山市在住の彫刻家船田正廣(1938-2022)。

李埈鎔の書 <小谷家住宅蔵>

韓国の王族(高宗の甥)である李竣鎔は、王位継承問題に巻き込まれ、国王廃位の陰謀者として流刑になり、1896(明治29)年日本に留学、翌年欧州へ視察。
1899(明治32)年から日本に亡命し、日本政府の監視下で北条町(現館山市北条)に滞在時、韓国からの刺客による暗殺未遂事件がきている。
館山市布良の青木繁『海の幸』記念館・小谷家住宅(館山市指定文化財)には、「韓国 李埈鎔」と署名入りの書が存在する。
鋸山の日本寺(鋸南町)の山門にも、李埈鎔による扁額「乾坤山」がある。

関澤明清の顕彰碑と「順天丸」殉難の碑 <館山市>

近代水産業のパイオニア。アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人工ふ化、缶詰製造法を習得し、日本に導入。水産教育の重要性を説き、水産伝習所(後の水産講習所・東京水産大学・東京海洋大学)を開き、初代所長となる。退官した後、館山に居住し、関澤水産製造所を設立、遠洋漁業・捕鯨に尽力。
農商務省の事務官として朝鮮近海漁業視察をおこなっている。
東京海洋大学館山ステーション裏の高台(北下台)には、460名の拠出による建立された巨大な顕彰碑がある。

その隣に建立されている「順天丸」は、関澤の実弟・鏑木余三男が設立した房総遠洋漁業会社(後の東海漁業)の所有の漁船であり、1903(明治36)年に朝鮮海域で遭難沈没、22名が殉難。

正木清一郎胸像と正木灯跡 <館山市>

船形町長(館山市)でもあった正木清一郎は、関澤や農商務省とともに水産博覧会や漁業調査などに関わった。千葉県水産組合連合会が朝鮮への漁業移民を討議し、韓国馬山に「千葉村」を建設するための先遣隊として現地調査に出向いた。
渋沢栄一が終生院長を務めた東京府養育院安房分院を船形に誘致し、支援したことから、船形漁港に建立された正木の顕彰碑は渋沢が揮毫している。

関澤の顕彰碑の近くには、館山湾の航路を照らすために正木清一郎が建立した「正木灯」跡が今も残る。

本田存 の墓 <館山市>

水泳は水府流太田派を極め、柔道は講道館8段。嘉納治五郎が校長を務めていた東京高等師範学校(現筑波大学)が北条海岸(館山市)に合宿所「芳躅舎(ほうしょくしゃ)」を開き、水泳師範として来房。館山に在住し、地元の安房中学を日本一に導く。

東京外国語学校(現東京外語大学)朝鮮語学科の教授としても重要な役割を果たした。墓は館山市の金台寺にある。

嘉納の義兄・柳楢悦(ならよし)は関澤とともに水産伝習所を設立。その長男・柳悦多(よしさわ)は水産講習所を卒業後、館山に定住し水産業の発展と安房中学で野球・柔道の指導などに尽力。関東大震災で、生徒を避難させた後、殉死。実弟は柳宗悦(むねよし)。

 

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