【東京】250505_語り継ぐ慰安婦2つの碑(上)
<語り継ぐ慰安婦 二つの碑が立つ安房から>(上)
供養されない霊 慰めたい
(東京新聞 2025年5月5日)
千葉県鴨川市内の寺に、古びた慰霊碑がある。高さ約2・5メートル、表に「名も無き女の碑」と大書されている。
名も無き女とは、戦争時の慰安婦たち。碑にまつわる逸話を広めてきた元中学美術教諭の松苗礼子さん(88)=館山市=は「建てるに当たり、周囲からは『汚らわしい女の慰霊碑なんて』と反対の声も上がり、場所も二転三転して、現在地に決まったそうです」と話す。
建立に尽力したのは、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に衛生伍長として従軍した安房地域の男性(故人)だ。終戦間際、南方のアンガウル島からパラオへ船で傷病兵を搬送中、潜水艦から攻撃を受けて沈没したが、九死に一生を得た。アンガウル島にいた所属部隊はその間に全滅し、唯一の生還者となった。
復員し家業を継いだ男性は、同じく衛生兵だった東京の男性職人と知り合う。話題は、戦時中、性病の検査などで接していた元慰安婦の女性たちの末路に及んだ。1973年10月、碑を2人で建てた。男性は83年、亡くなった。
慰霊碑を巡る物語は92年、NHKラジオ番組「ひるのいこい」で紹介された。これを聴いた松苗さんは感動し、番組制作で取材した山田恵一さんから了承を得て、語り継ぐことを決意。独自に男性の妻から聞き取りもし、「語り部さくら貝」の代表として年に1度は、語りの場で取り上げてきた。
慰安婦たちには戦地で命を落とす人や、生き残っても性病や差別に苦しむ人が少なくなかった。心ない視線を向ける日本人もいる。男性は、どんな思いで慰霊碑を建てたのか。
松苗さんが聞いた妻の話によると、「軍人や軍属は戦死すれば靖国神社にまつられるが、慰安婦であった女性は何の供養もされない。ぜひ慰霊碑を建てて、その霊を慰めよう」との考えだったという。
男性は戦後、何度かアンガウルで部隊兵の遺骨を収集し、現地にも慰霊碑を建てるなど、視野の広い篤志の人だった。妻は、NPO法人安房文化遺産フォーラムの共同代表愛沢伸雄さんによる調査にも応じ、「世の中に知らしめてほしい」と男性の遺品など資料を託し、2013年に亡くなった。
松苗さんが語り部になったのは、「もし石碑が崩れると、慰霊碑にまつわる話題も消えてしまう。何とかしたい」という思いから。女性たちの慰霊に力を尽くした男性について、妻は「夫の思いは当たり前」と話したという。反対する声もあった中で「夫婦一心同体だったことは(男性の)支えになったのではないか」と松苗さん。今は体調を崩しているが、語り継ぎたい思いに揺らぎはない。「こういう話は、風化させちゃいけないんです」
◆元美術教諭・松苗礼子さん 戦争の傷 掘り起こす
「名も無き女の碑」を建立した男性について語る松苗礼子さん=館山市で
松苗礼子さんは1936年5月、館山市生まれ。子どもの頃、自宅には、遠い土地の出身で館山海軍航空隊基地に所属する若い兵たちが休みに訪れていた。45年のある日、おめかしして若者2人と一緒に写真を撮った記憶がある。「2人はその後、パタリと来なくなった。特攻で亡くなったのではないかしら」
「悲惨な戦争を二度と起こさないためには教育が重要」と考え、千葉大を出て地元中学校や県立館山聾(ろう)学校などで美術教諭を務めた。定年退職後は子どもたちに本の読み聞かせなどをし、地元に残る戦争の傷も掘り起こしてきた。
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安房(千葉県南部)には、慰安婦を慰霊する石碑が二つ確認されている。一つは「名も無き女の碑」。もう一つは、体験を告白した女性の願いから1986年に建てられた「噫(ああ)従軍慰安婦」の碑だ。時も場所もばらばらながら、いずれも慰安婦を巡る歴史や女性たちへの補償が国際問題化する前、戦争を生き延びた日本人の意志で建てられた。それを重く受け止め、語り継ぐ地域住民もいる。二つの碑が今も問いかけることを、3回にわたり紹介する。
<名も無き女の碑>
碑の表に、薄く読みづらいがこう刻まれている。「風雪にとざされし/暗き道/春未だ来ぬ/遠き道/されど/春の来るをまちつつ/久遠にねむれ/汝(なんじ)/名も無き女よ」 碑の裏には、「今次の大戦に脆弱(ぜいじゃく)の身よく戦野に艇身 極寒暑熱の大陸の奥に又(また)遠く食無き南海の孤島に戦塵艱苦(せんじんかんく)の将兵を慰労激励す 時に疫病に苦しみ敵弾に倒る 戦敗れて山河なく骨を異国に埋むも人之を知らず戦史の陰に埋(うま)る嗚呼(ああ) 此(こ)の名も無き女性の為小碑を建て霊を慰さむ 昭和四十八年十月建之(けんのう)」とある。