【東京】230815_カニンガムレポート 終戦直後の館山明らかに
<つなぐ 戦後78年>
終戦直後の館山 明らかに
カニンガムレポート 4日間の「軍政」触れず
地域史研究者が入手
終戦直後、館山市に上陸した米陸軍のジュリアン・W・ カニンガム准将が書き留めた 「カニンガム・レポート」には、上陸、制圧した手順、迎えた地域住民の様子が詳述されていた。地城史を研究しているNPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(71)が、米国・テキサスの軍事博物館に問い合わせて同文書を入手。連合国軍が最終的に示した方針とは異なる「軍政」を館山で4日間敷いたことに触れていないとし、「軍政を歴史的に消す流れにあった」と推測する。
(山本哲正)
レポートは、占領軍本隊である米陸軍第8軍の第11軍団第112騎兵連隊(112RCT)を率いたカニンガム准将が、連合国軍総司令部(GHQ)内で情報共有するために作成した。英文で17枚。1945(昭和20)年8月18日~9月2日は一節にまとめられ、同月3~30日は1日ごとに書かれている。
米軍は当初、日本を軍政統治する計画だった。同年9月2日に東京満の戦艦ミズーリ号で行われた降伏調印直後、GHQは英語を日本の公用語とすることや、司法権の制限、円を廃止して軍票を法貨にすることなどを適告。翌3日に発表予定だったが、日本側の強硬な反対で取り消されたとされる。
ただ、愛沢さんによると、館山では同日、米軍が市内の学校や劇場、酒場を閉鎖し、市民に夜間外出禁止命令を出した。日本側を通じず、直接行政に当たったとし、愛沢さんはこれを「軍政だった」と解釈。レポートにも書かれておらず、愛沢さんは「あえて証拠は残さなかったのではないか」と語る。
一方、それ以外の記述は細かい。「現地哨戒隊は周辺の高射砲と沿岸砲を査察し、見つけた銃砲はすべて使用不能にした」「民間人は米兵を怖がる印象で、女性と子どもは我々のパトロールが近づくと走って隠れ、男の子は敬礼やお辞儀をした」(4日)
「民間人は今では我々の存在にすっかり慣れた。女性や子どもたちでいまだに我々の車両から走って逃げるのは田含のみになった」(18日)
「館山航空基地近くの日本の弾楽集積所で爆発。作業員が弾薬箱を運んでいる間に煙が出はじめ、それを落としたことで爆発が始まったと思われる」「基地のほぼすべての逮物に何らかの被害。死亡1 人、負傷7人」(20日)
愛沢さんは、戦後70年を迎えた2015年にテキサス軍事博物館に協力を願い、写真や資料を取り寄せた。『レポートはその一つで、翻訳を進めてきた。
愛沢さんは、住民が米軍に反発したとの記載はなく協力的だったことにも注目しており、「日本軍将校が隠した軍用物資を見つけた米軍が住民にそれを配り、協力的になったのではないか」とみている。
<用語解説> 戦争と館山
館山は、地園を南北逆さに見ると、弧を描く日本列島の頂点に位置する房総半島南部にある。太平件に関かれ、古くから要衝の地。幕末には大砲を設置した「台場」が置かれ、明治期以降は東京湾要塞(ようさい)など重要な軍事施設が造られた。1930年、関東大震災で隆起して干潟になった館山湾を埋め立て、館山海軍航空隊が聞隊。戦争末期には本土決戦に備え、房総南部には7万人の兵が配備された。
米軍は46年3月実施を計画した関東上陸作戦「コロネット作戦」で館山を上陸地点と想定。東京湾を挟む館山と横浜に上陸して挟み撃ちで首都を制圧する構想だった。戦争終結を受け、45年8月30日に先遣隊が館山に上陸、連合国軍最高司令書マッカーサー元帥は同日、厚木飛行場 (神奈川県)に到着。総括指揮官カニンガム准将率いる本隊3500人が9月3日、館山に上陸した。
<写真Cap.>
上:日本軍を武装解除した後、機銃点検
下:館山航空基地で馬に乗るカニンガム准将
=いずれもテキサス軍事博物館から入手した愛沢さん提供