【東京】150903*本土唯一、軍政敷かれた館山

本土唯一、軍政敷かれた館山

米軍上陸など写真17点を公開、地元NPO代表が入手

(東京新聞千葉房総版2015.9.3付)⇒印刷用PDF

70年前の9月2日は日本が降伏文書に調印した日。翌3日には米兵が館山湾から本土に続々と上陸した-。そんな終戦直後の貴重な写真を、館山市の郷土史研究者で、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表、愛沢伸雄(あいざわのぶお)さん(63)が米国の博物館から入手した。同市の南総文化ホールで開催中の「戦後七十年展」で公開されている。

(北浜修)

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愛沢さんは当時の資料や写真などを収集しており、今回新たに米テキサス軍事博物館から17点の写真を提供された。いずれも米側の撮影とみられる。

注目されるのは「館山に上陸する米軍」。1945(昭和20)年9月2日、東京湾に停泊した米戦艦ミズーリ号上で日本側全権の重光葵(しげみつまもる)外相らが出席し、降伏文書の調印が行われたが、翌日に米兵約3,500人が館山湾へ上陸する様子を撮影した一枚だ。

愛沢さんによると、これまで日本で見られた同じカットの写真に比べて、トリミングされておらず左右の幅が広い。右端に背広姿とみられる男性が写っている。「館山に設置された政府の出先機関、館山終戦連絡委員会の人物ではないか」とみる。

愛沢さんの研究では、降伏調印に先立つ8月30日、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場(神奈川県)に到着。その同じ日に米軍の先遣隊(100人規模)が館山入りし、同委員会と本隊上陸について事前協議したことが分かっているという。

ほかの写真は、当時の米兵や市民の様子をうかがわせ、興味深い。「館山の病院」(撮影は9月12日)では、院内で米兵が日本人医師と患者の様子を見ている。左端の人物は日系の米兵で通訳しているとみられる。「館山のおみやげ店」(9月20日)は、米兵とやりとりする日本人店員の姿がある。

愛沢さんは長年の研究を通して、米軍が9月3〜6日の4日間、本土で唯一、館山で「軍政」を敷いたと主張する。米軍が三日に市内の学校、劇場や酒場の閉鎖、市民の夜間外出禁止などを命令したことによる。これは同委員会が政府を通じて米側に中止を求め、解除された。

米側が当初、日本を軍政統治する計画だったことは知られている。2日の降伏調印直後、連合国軍総司令部(GHQ)は立法、行政、司法三権の制限や、円を廃止し軍票の配布などを通告。翌3日に発表予定だったが、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣(当時)の重光葵外相らが強硬に反対し、施行されなかった。

軍票配布などはなかったものの、館山が4日間「軍政」下にあったとする背景を、愛沢さんは「米側には敵地へ乗り込むように日本人への警戒感があった。館山は東京湾の入り口で海軍の基地もあったが、東京や横浜から離れており、占領のモデルになると見ていたのでは」と説明する。

今回入手した写真を見て、「終戦直後、米兵と館山市民は良好な関係だったことがあらためて分かる貴重なもの。友好的な日本人の態度は、その後の米側の対日占領政策に影響を与えているからだ」と話す。

戦後70年展は8日まで。午前10時〜午後5時。7日は休館。入場無料。また5、6の両日、南総文化ホールと市コミュニティセンターに各地で戦跡保存活動をする関係者らが集い「戦争遺跡保存全国シンポジウム」を開く。愛沢さんは六日の会合で米軍の館山上陸について発言する予定。問い合わせは、安房文化遺産フォーラム=電0470(22)8271=へ。