【受賞御礼あいさつ】和島誠一賞
●第10回和島誠一賞受賞挨拶●
…NPO法人安房文化遺産フォーラム代表=愛沢伸雄…
(文化財保存全国協議会第40回京都大会2009年6月14日 於:同志社大学)
本日はこのような名誉ある表彰を賜り誠にありがとうございます。NPO法人安房文化遺産フォーラムを代表いたしまして、深く感謝申し上げます。全国には遺産保存に顕著な功績をあげている団体が数多くありますが、このなかで私たちのNPO活動を選定していただき、大変光栄に思っています。
この20年余、地域の戦争遺跡や里見氏城郭群の保存・史跡化への取り組みにご支援ご協力いただいた、文化財保存全国協議会をはじめ戦争遺跡保存全国ネットワークの皆様や全国のさまざまな文化財保存の関係団体の皆様に対し、この場をお借りしまして深くお礼申し上げます。
また、このたびの光栄ある受賞を地域において保存運動を支えてくださった方々に、とりわけこの間にお亡くなりになった方々に対して、この受賞をご報告するとともに、あらためて深く感謝を申し上げます。里見氏稲村城跡の保存では1万名をこえる方々の署名があって破壊がまぬがれました。そして14年目に入って、現在、国指定史跡にむけて調査検討されています。私もその委員の一人です。
嬉しいことに本日6月14日は、稲村城跡のある館山市の稲地区町内会において、保存活用に関する委員会が設立され、その総会が開催されていると聞きます。偶然にも本日の受賞の日を境に新たな段階をむかえ、私たちが願っていた地域の人びとによって後世に伝え、残していこうという動きが始まったことをご参加の皆様にご報告できることをとても喜んでいます。
かつて「いったん決めたことはもう後戻りできない。保存運動はこまる」と語っていた地域の人びとが、いまは自らの力で保存・活用に立ち上がったことに対し、敬意を表するとともに、今後とも同じ志をもつ市民として、ともに手を携えて地域づくり活動のなかで連携していきたいと思っております。
ところで私は20年前の1989年に、館山市内にある売春防止法に基づく、障害を持った女性たちのための日本では唯一の女性保護施設「かにた婦人の村」を初めて訪問しました。施設内の丘の上にある「噫従軍慰安婦」石碑と丘の中腹にある本土決戦の抵抗拠点であった地下壕を見学し、大きな衝撃を受けました。そのときに「かにた村」創設者であった深津文雄牧師との出会いもありました。女子高で世界史を教えていた私は、深津牧師から伺ったさまざまなお話によって、地域に根ざした歴史教育や平和学習に取り組むきっかけとなりました。女性史の視点から戦争のもっている意味を学ぶことができる丘の上の石碑と、「戦闘指揮所」「作戦室」という額のある本土決戦のために地下壕は、授業実践のなかで重要な教材になりました。
当時、戦争遺跡は地域開発のもとで次々と破壊され、またゴミ捨て場にされていきました。以来、多くの市民の方々のご協力をいただき、調査研究をつづけ、「戦後50年」の際は200名近くの市民と「平和を考える集い」実行委員会を立ち上げ、さまざまな取り組みを企画し、同時に戦跡の保存を訴えてきました。このことが契機となって市民による戦跡調査保存サークルが公民館活動に生まれ、今日の私たちのNPOによるガイド活動の原点になっていきました。
戦跡の保存をすすめているなか、1996年に里見氏稲村城跡が市道によって破壊される直前にあると知り、急遽呼びかけて50名ほどの市民たちによって「里見氏稲村城跡を保存する会」を設立しました。私は「地域のシンボル的な里見氏の文化遺産を守れなくて、戦跡などの保存はありえない」と思い、戦争遺跡の保存に協力していただいている方々に、戦国期の戦争遺跡である稲村城跡の保存を訴えて協力を願ったのです。まったく異なった歴史文化でしたが、私にとって両方が地域の貴重な文化財であり、2つの保存運動を並行してすすめていくことが両方の文化財保存にとっても重要と思ったのです。「地域活性化のために道路は必要、稲村城跡が無くなっても仕方がない」「戦跡は暗くて、花の房総のイメージに相応しくない」など強い風当たりのなかで、保存はもちろん史跡化にいたっては「100年経っても無理」と揶揄する行政担当者たちと対峙していました。
そのなかで2004年に「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」が整備され一般公開され、翌年には市指定の史跡となり、この戦争遺跡が平和学習の拠点として、まちづくりのなかに位置づけられたときには隔世の感をもちました。
これらのことを振り返るとき、市民が主役になって文化財保存運動を作り上げていくために、文化財保存全国協議会の取り組みに学びながら、私たちの住む地域の人びとの思いや願いを踏まえて、自分たちの身の丈にあった文化財保存運動を地道にすすめていきました。私にとって「かにた村」の深津牧師から学んだ「余ったから分けるというのではなく、無くてもお互いに分かち合うコミュニティをつくっていく」という地道で息の長い地域づくりの実践活動のひとつが、地域にある文化財を保存・活用していく取り組みにあったと思っています。私の場合は子どもたちとつくってきた授業づくりが原点になって、学ぶ力を市民が主役になった地域力にし、さらにNPOの市民力につなげて文化財の保存・活用の道を切り開いてきました。
南房総・安房出身の教育学者和田修二先生は「人間は現在だけでなく、過去と未来との間に生きる存在」なので、「過去に守るに価する大切な思い出をもつこと」「未来に向かって為すべき課題をはっきりと自覚すること」によって、今を生き抜く希望と勇気の支えとなるといい、この2つを「大人の世代が日常生活の中で身をもって若い世代に教えること」が教育の基本であると述べています。多分、市民とともに歩む文化財保存運動を呼びかけてきた先駆者和島誠一先生もそのことを私たちに投げかけてきたのではないかと思っています。自分たちの頭で考えて、借り物でない確かな自己の立場と思想をもって、あらためてNPO活動に邁進したいと決意しています。
最後に私事で誠に恐縮ですが、本日6月14日は次女綾子の25歳の誕生日です。娘は昨年7月8日に脳の病気である統合失調症での稀死念慮に苦しみながら、遺書を残して自死しました。大学2年生20歳の年に発病して4年間、ときに絵画制作やNPO活動に参加し自宅療養を続けていました。このこともあって、私は高校教員を8年早く辞め、娘を看ながらNPO活動に専念してきました。まちづくりのなかで取り組んでいた「まちかどミニ博物館」のひとつとして、ある病院内にミニギャラリーをつくった際に、第1回目の個展開催は娘綾子が協力してくれました。NPOではどんな人びとも参画できる地域づくりを呼びかけていますが、「かにた村」のように障害があっても人間らしく生きていく地域社会の創生が私たちNPOでの願いです。
娘の24年間の短い人生は、私の文化財保存運動の軌跡そのものでした。全国には息の長い保存運動のなかで、いろいろな困難、なかには家族のことを含めて大きな困難を抱えながら文化財保存に取り組んでいる方々も多いと思います。私もつらく悲しい思いでしたが、娘綾子が私の背中を押してくれたことで、今日という受賞につながったと思っています。本日は本当にありがとうございました。
※和島誠一賞の受賞に関する掲載記事はこちら。
==房日新聞09.06.18==読売新聞09.06.24==