【房日】250502_市部瀬の惨劇 恩人の情報知りたい

市部瀬の惨劇

84歳 記憶は薄れず
恩人の使者「アンドウさんの情報知りたい」

(房日新聞 2024.5.2.付)

鋸南町下佐久間で、米軍戦闘機P51が列車を機銃掃射、死者13人、負傷者46人を出した「市部瀬の惨劇」(1945年5月8日)で、当時、館山に疎開していた男性が、父親の依頼で列車に乗車していて被害に遭った人の情報を探している。惨劇から80年になるが、関係者の記憶は薄れない。

埼玉県朝霞市に住む、早川通夫さん(84)。父・兼通さんは海軍の軍医で中佐。一家は北海道登別に住んでいた。早川さんらきょうだいは戦火が激しくなった43年から、館山の知人宅に身を寄せていた。東京大空襲後、関東地方もいよいよ危険となり、早川さんは父のいる北海道に呼び寄せられる。きょうだい合わせて6人で北海道へ向かうことに。

 

軍人で忙しかった父の使者が「アンドウ」さんという男性。早川さんによると、父の部下ではなく、登別温泉の関係者らしい。複数で列車を乗り継いで館山に向かい、鋸南町で当該列車に乗り合わせ、銃撃に遭ったとみられている。

世はインターネット時代。早川さんは検索するうちに、NPO法人安房文化遺産フォーラムの情報にたどりついた。同NPOの紹介もあり、本紙記者との接触となった。

NPO関係者の身内が、当時の勝山町の助役だった。明確な回顧録が残されており、当時の町役場は、行政として銃撃に遭った人の対応に追われた。回顧録によると、被害者は胸の名札で住所が判明したが、自由にきっぷを買える時代ではなく、死者、負傷者の名簿もつくられなかった。

 

従軍記録のように長年保管される公文書ではなく、あの列車のアンドウさんがどんなふうに亡くなったのかの記録はない。きょうだいは、この使者グループの行動によって、館山から登別に引っ越し、戦後の生活につながった。

市部瀬の恒久平和の祈念碑を訪れた早川さんは、石碑に頭(こうべ)を垂れて、合掌した。現地の石碑には「死者13人」と刻まれているが、14人という説もある。これはアンドウさんが、現地ですぐに火葬されたという事情からだろうと早川さんは推測する。90歳になる早川さんの姉の記憶では、母親が夜に出掛け、遺骨を抱いて帰宅したという。「アンドウさんの『1人』が数字の差ではないか」と、早川さん。戦時中の混乱は記録の数字さえも狂わせる。

亡くなったアンドウさんは、当時5歳の早川さんを迎えに来た命の恩人。父の使者というだけで、どういう人なのかも分からない。名字の漢字も不明だ。「当時の情報はないに等しい。アンドウさんがどんな人物で、どんなふうに亡くなったのか。少しでも当時の情報があれば、知りたい」と早川さん。