【ちば民報】241208_ハングル「四面石塔」の謎にせまる

ハングル「四面石塔」の謎にせまる
400年記念コンサート&シンポジウム

(ちば民報 2024.12.8.)

館山市の浄土宗大巌院にある「四面石塔」には、朝鮮ハングル、和風漢字、中国篆字(てんじ)、インド梵字(ぼんじ)で「南無阿弥陀仏」と刻字されています。1624(元和10)年に建立された県指定有形文化財です。NPO法人安房文化遺産フォーラム(以下フォーラム)が、11月9日に「ハングル『四面石塔』400年記念コンサート&シンポジウム 平和への祈り」を開催し、のべ230名が参加しました。

第1部は大巌院において、「四面石塔」の見学会と奉納コンサートがおこなわれました。見学会ではフォーラム共同代表の池田恵美子さんが、当寺の開山である雄誉霊巌(おうよれいがん)上人が建立し、山村茂兵という人物が逆修(生前葬)のために寄進したと石塔に刻まれていること、ハングルは創成初期の旧字体であることなどを解説しました。
建立年は豊臣秀吉の朝鮮侵略から三十三回忌にあたり、幕府の被虜人送還事業がおこなわれた年なので、平和祈念の供養塔であると推察されるそうです。
奉納コンサートはステンドグラスの美しい本堂で、在日コリアン二世の歌手・李政美(イ・ヂョンミ)さんが朝鮮民謡などを歌い、平和を祈りました。「四面石塔には励まされ、希望が見えるような気持ちになります」
第2部は南総文化ホールにて、「四面石塔の謎をさぐる」というテーマで歴史シンポジウムがおこなわれました。様々な分野の専門家から「四面石塔」に関する持論や見識が紹介されました。
フォーラム共同代表の愛沢伸雄さんは冒頭の挨拶で、高校の世界史教諭だった30年前に「四面石塔」を教材化し、図書室の調べ学習や討論を通じて小論文を書く授業づくりが原点だったと述べました。その教育実践は日韓両国で報告して注目され、2002年には館山で日韓歴史交流が開催されています。
登壇者の一人目は、房総石造文化財研究会会長の早川正司氏で、1967(昭和42)年に「四面石塔」に出会ったときの感動と、2年後に県有形文化財に指定された経緯を話しました。
次に大巌院副住職の石川達也氏は、千葉市の大巌寺三世から館山へ移り、安房国主里見義康の帰依により大巌院を創建した雄誉上人の生涯を紹介しました。徳川三代将軍から深い信頼と帰依を得て、西国行脚で多くの寺院を創建し弟子を育てたことや、京都知恩院32世となった高僧だそうです。江戸に霊巌寺を創建するため、幕府の許可を得て埋め立てた湿地帯は霊巌島(東京都中央区新川)と呼ばれ、房州航路の湊にもなった重要拠点であったとのことです。
里見氏研究会代表で敬愛大学特任教授の滝川恒昭氏は、雄誉上人と里見氏の関わりについて解説しました。駿河国沼津出身という定説のほかに、里見氏の出自という説もあり、不明なことも多いそうです。伯耆国(鳥取県倉吉市)へ改易された最後の安房国主里見忠義を訪ね、その近くにも雄誉上人が開いた寺院もあるといいます。
韓国在住の翻訳家・永渕明子氏は、ハングルと秀吉の朝鮮侵略の歴史を解説しました。15世紀半ばに朝鮮王朝4代王の世宗(セジョン)がハングルを創成しましたが、初期の「東国正韻式」字体は短期間で消失したため、「四面石塔」の建立当時はすでに使われていないとのこと。韓国の専門家によれば、漢字と初期ハングルが併記された阿弥陀経の経典が手本になったのではないと考えられているそうです。
2度の朝鮮侵略では残虐な殺戮のうえに、数万人の朝鮮人を拉致連行しました。秀吉の死によって終戦となった後、朝鮮や明との修好回復を願った徳川幕府は被虜人を送還しました。同時代にハングルが刻まれた「四面石塔」は、慰霊と平和のモニュメントであると述べました。
最後にフォーラムの愛沢さんは、雄誉上人の生涯を詳しく調査していくと「四面石塔」解明のヒントが見えてくるといい、様々な仮説を提示しました。西国行脚で朝鮮通信使や被虜人に関わる僧侶らと交流があった可能性や、江戸城築城に関わる伊豆石を扱う石材商と霊巌島で繋がり「四面石塔」を製作した可能性、そして山村茂兵が朝鮮被虜人であった可能性などについて報告をしました。今はまだ謎だらけですが、本シンポジウムを通じて日韓両国から多くの人が関心を寄せ、今後の研究者が現れることを期待すると語りました。
「四面石塔」の歴史から先人たちの戦後処理を学び、今なお解決しない北朝鮮の拉致問題やウクライナ戦争などの終結と平和を祈りたいと思います。

安房文化遺産フォーラム
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