【房日寄稿】230330-31_寺崎武男生誕140年
(房日寄稿2023.3.30-31)
(房日寄稿) 房州とイタリアを愛した画家・寺崎武男生誕140年
NPO法人安房文化遺産フォーラム 共同代表 池田恵美子
2019(令和元)年のGW、旧館山市立富崎小学校で開催した「海とアートの学校まるごと美術館」では、館山ゆかりの3人の画家(青木繁・倉田白羊・寺崎武男)を紹介しました。この模様は安房文化遺産フォーラムのユーチューブから動画を見ることができます。
寺崎武男は1883(明治16)年3月30日に東京赤坂で生まれ、東京美術学校を卒業後、国の留学生としてイタリアに渡りました。ヴェネツィアの美術アカデミーで人体・彫刻・建築・版画の4科を卒業し、ドイツベルリンの大学で壁画科や宗教哲学科・歴史科を修めました。ヴェネツィアを中心に国内外をめぐり、フレスコ画やテンペラ画・エッチング・壁画・版画など様々な技法を学び、日本に紹介しました。特にルネサンス壁画の描画や保存方法を研究しながら、「芸術の本質とは何か」を探求し、百年後まで変わらない絵画という課題に取り組みました。
留学初期に出会った『天正遣欧使節』の行跡に感銘を受け、16世紀に日本から海を渡り、ローマ法皇に謁見して外交を果たしながらも、禁教から鎖国へ向かう時代に翻弄された少年たちの姿を後世に伝えようと、生涯にわたりをこのテーマを描き続けました。
また、横山大観が中心となった「羅馬開催日本美術展覧会(イタリア政府主催・大倉喜七郎後援)」では、寺崎が通訳兼コーディネーターを務めています。同時期に、観音を描いたテンペラ作品『幻想』は、ヴェニス・ビエンナーレ国際展で日本人初の入賞を果たし、イタリア政府の買上となりました。長く日本語講師を務め、『日本のことば』『日伊会話』なども発行しています。東西文化の融合を目ざし、三度の渡欧で多年にわたる日伊交流の功績から芸術名誉賞はじめ、イタリア国王や政府からコメンダトーレ賞など多数の勲章を授与されています。
一方日本国内でも、第11回文展で入選したフレスコ画『飛鳥朝の夢』はじめ、精力的に作品を製作しています。テンペラ画『黄帆船図』は大正天皇の病室に飾られ、崩御後は東京帝室博物館の買上げとなり納められました。日本創作版画協会やテンペラ画会、壁画協会などを設立したほか、東京大学病院や日本医師会館、目黒サレジオ教会などに壁画を描きました。
明治神宮奉賛会より絵画館開設のために壁画調査を依頼されて再渡欧し、イタリア各地で模写をしながら画材や画質の研究をし、7回の報告書を提出しています。聖徳記念絵画館には『軍人勅諭下賜ノ図』が納められました。
早くから法隆寺の壁画研究に取り組み、防火設備のないことを危惧する論文を大正期に書いています。後に、彼の懸念どおり火災が起きて金堂壁画が焼失してしまいましたが、寺崎は9年がかりで法隆寺輪堂の壁画を描き上げました。
海外で高い評価を得て、日本美術史にも大きな影響を与えた寺崎ですが、その画績はあまり知られていない〝幻の画家〟です。親交のあった三島由紀夫は、「無理解と孤立には少しも煩はされずに、悠々と、晴朗に、芸術家たるの道を闊歩していた。あくまで走らず、跳ばず、悠揚たる散歩の歩度で。氏こそ、真の意味で、芸術家の幸福を味わった人ではなかろうか」と回顧展にメッセージを寄せています。
館山には、美校の師でありイタリア留学の先輩である彫刻家・長沼守敬(ながぬまもりよし)が先に移住していました。彼を慕って訪れるうちに、館山の西ノ浜に別荘を建て、やがて定住しました。房総の神話を多く描き、安房神社や下立松原神社などに奉納しています。なかでも布良崎神社に奉納されたテンペラ画は、鳥居型に額装された貴重な作品です。
大正期には東京女子美術学校洋画科主任を2年勤め、戦後には安房高校の講師となり、若者たちに情熱あふれる美術指導を授けました。安房高校では兵藤益男校長の理解ある支援のもと、テラコッタ(土焼)で『自由の女神像』を制作し、生徒も教職員も驚いたといいます。翌年の校長交代に伴い、取り壊しが命じられたものの、懇意にしていた千倉の七浦中学の栗原幸太郎校長の配慮で移転させ、解体はまぬがれました。しかし残念なことに数年後、側溝工事の際に重機で破壊されてしまったとのこと。また、安房高校の修学旅行で法隆寺に立ち寄り、壁画の制作を見学した生徒もいたようですが、あいにく現在は公開されていません。
私たちは遺族から多数の作品とともに、膨大な書簡と数十冊の手帳やスケッチ帳等の寄贈を受けており、資料の分類整理・解析調査に取り組んできました。現在500枚を超えるハガキの解読が進み、国際的に活躍した寺崎家のファミリーヒストリーや壮大なネットワークが見えてきました。
寺崎家は儒学者渡辺崋山と交流があったといわれ、祖父・助一郎は幕末、長崎奉行の役人として外国要人の通訳に従事しました。父の遜(ゆずる)は英国留学で学んだ電信技術を全国に広めた人物のひとりで、後に山縣有朋の洋行随員や山縣内閣総理大臣秘書官まで務めましたが、武男の美校入学直前に亡くなっています。長兄の渡は林学者で、渡欧留学で林業を研究し、寺崎式間伐技術を考案しました。次兄の熊雄は弁護士となりました。母セツは夫亡きあと、武男の進学・留学を支えたゴッドマザーです。その実家松澤家からは金融業・政治家・弁護士、そして一高水泳部で極東金メダリストの松澤一鶴などを輩出しています。
寺崎の友人もそうそうたる顔ぶれです。城郭研究やルネッサンス史の第一人者で歴史学者の大類伸。文展帝展に7度入選している画家であり何度もノーベル賞候補にあがった医師の呉建。美校の同期で、ロンドンに学んだ南薫造やニューヨークで修業を重ねた平井武雄。フランス文学者で美術研究に造詣が深く、松方コレクションのアドバイザーとなった成瀬正一。
こうした家族や友人らと交わした書簡は、互いへの尊敬と芸術への情熱にあふれ、西洋画の研究に没頭した寺崎のバッグボーンが読み取れます。
そこで、館山市立博物館の生誕120年記念展から20年を経た今春、安房ゆかりの先人を顕彰する機会として、「房州とイタリアを愛した画家・寺崎武男生誕140年」を企画しました。当NPO愛沢伸雄代表の調査報告「手帳と書簡から見える寺崎武男の世界」、大阪芸術大学の石井元章教授による基調講演「日伊交流における寺崎武男」を紹介します。4月1日(土)2時より南総文化ホール小ホールにて、入場は無料、資料代500円です。多くの方のご来場をお待ちしています。
また、同ギャラリーで開催中の展覧会では、大正期のフレスコ壁画『ヴェニスの女』や、終戦の翌年に描いた屏風絵『平和来たる春の女神』をはじめ、風景画や神話・宗教画なども紹介しています。ルネサンス壁画を研究した寺崎の作品は、画面の対角線の7倍離れた距離から見ると焦点が合い、奥行きや立体感を感じるといいます。どうぞお楽しみください。