【東京新聞】210118*にっぽんルポ「かにた婦人の村」

安らぐ心「ここにいたい」

行き場のない女性を保護

(東京新聞2020.1.18付)‥⇒印刷用PDF

急な山道を駆け上がると、館山湾と富士山を望む絶景の高台が広がった。上空では、翼を広げたトンビがのんびりと弧を描いている。房総半島の先端、千葉県館山市内ののどかな場所に、性搾取や暴力などに傷ついた女性たちが共同で暮らす婦人保護施設「かにた婦人の村」はある。

婦人保護施設は、戦後の貧困で売春に身を投じる女性が増えたため、一九五七年の売春防止法施行を受けて全国に造られた。国内に四十七カ所ある。かにたは全国で唯一、長期入所を掲げて六五年に設置され、社会福祉法人が運営している。

現在は、軽度の知的障害や精神障害があり、性暴力などに遭った二十三~九十歳の五十七人が暮らす。平均滞在年数は三十五年ほど。健康状態や能力に応じて、班に分かれて仕事に汗する。編み物で小物を作る班や、陶芸で器を作る班、調理や農作業を担当する班。

「おっきい大根だ」「楽しいね」。昨年暮れの早朝、農作業を担う女性たちの柔らかな手は土の中にあった。気温三度。白い息を吐き、無邪気にきゃっきゃと盛り上がりながら、収穫作業に精を出した。

五十嵐逸美(いつみ)施設長(58)のまなざしは温かい。「かにたにつながれた人はまだいい。たどり着けず孤独に耐え続ける女性は今も多くいるから」

かにたとは、近くを流れる小川の名前だ。創始者の牧師が、赤手ガニがヨチヨチと渡り切れるほどの川のせせらぎに、つつましやかに生きる女性たちの姿を重ねた。施設の入り口に門扉はない。「全てを受け入れ共に生きる」との思いの表れという。

社会から投げ出され、家族を頼れず、どこにも行き場がなくなった女性たちが最後にたどり着く場所。人々は口々に言う。「あそこはユートピアだ」と。 (木原育子)

 

◆傷ついた人々

東京ドーム二つ分の広大な山里に、居住棟や作業棟が点々と立ち並ぶ「かにた婦人の村」。女性たちは朝七時二十分のチャイムで食堂に集い、礼拝から始まる。その後、それぞれの班に分かれて自活の時間を過ごす。

赤、薄紫、黄色…。寮の部屋に無造作に毛糸玉が転がっている。毛糸は女性たちのしなやかな指先に絡まり、色とりどりの小物が生まれていく。膝掛けや壁掛け、布団カバー。「編み物をしていると夢中になって時間を忘れてしまうの」と高齢の女性。紅を引かなくなった口元には、女性らしい穏やかなほほ笑みがあった。

各地の婦人保護施設は当初、貧困や借金から売春をしていた入所者が多かった。現在はDV(家庭内暴力)や援助交際、アダルトビデオへの強制出演など、性的被害は多岐にわたる。かにたでは、福祉支援の過程でトラブルになり、「手に負えない人」とみなされて入所する女性もいる。

「もう、かにたしかない」。ある時、関西方面の自治体の婦人相談所から連絡が入った。生きることをあきらめていた四十代の女性。高校を中退し、だまされたり傷ついたりしながら、どこにも支援の網にかからず生きてきた。その女性もかにたで生活するうちに、「もう少しここにいたい」と思えるようになった。

多くの入所者は今もトラウマ(心的外傷)を抱えており、取材で過去の体験を詳しく聞くことはできない。

「彼女たちは、ただ生きていくことに困っているだけなのに、社会にとって困った人たちだと押しやられてきた」。五十嵐逸美施設長は投げかける。

五十嵐施設長は大学卒業後の一九八七年、妻と一緒にかにたに移り住んだ。一時は北海道で酪農を営んだが、二〇〇六年に子どもとともに家族で戻ってきた。「支援するって、弱い人たちを上から引っ張り上げることじゃない。同じ場所に下りていき、一緒に坂を上ることなんじゃないかって」

かにたの施設の急坂を、傷ついた女性たちが今日も駆け上がる。SOSの電話はやみそうにない。

 

◆温かい支援の輪

かにたを支える輪の中には、ボランティアも欠かせない。

半世紀以上通い続ける鈴木俊治さん(74)もその一人。一九六〇年代に盛り上がった学生運動の「熱」についていけず、デモの代わりに始めたのが、かにたのボランティアだった。

ソニーに入社し、研究者として多忙な日々を送りながら、かにたに足を運んだ。作業小屋や階段などの施設整備をこなし、いつしか入所者から「お兄ちゃん」と親しまれる存在に。プロが造った施設と見ばえは異なるが、日曜大工のような出来がほっこりさせる。

昨年十二月下旬、大勢の掛け声が山あいに響いていた。ボランティアの人や施設職員らが一堂に会する餅つき大会だ。入所者も交代できねを握り、村の田んぼで栽培したもち米をついていく。

つき終えた餅を皆でほおばる。「今年はいつもよりおいしいね」。会話が花咲く食堂には毛糸で編んだ壁掛けが飾られ、女性たちが農園で育てた大根の漬物やミカンなども並んだ。

食堂の外で、一人の女性が一本の木を見つめていた。台風19号の被害で根元から地面に倒れ込んだ桜だ。「かわいそう」。知的障害で小学校低学年ほどの理解力しかない。女性は倒れた木をいたわるように、静かに幹に手を置いた。

鈴木さんが声をかける。「さあ、こっちおいで。みんなでお餅を食べよう」。女性は、子どものように笑顔で駆けだした。

 

◆残る戦争の遺物

かにた婦人の村は、旧海軍の砲台跡地に開設された。戦争の遺物は施設内に今も横たわる。

頂上の丘には、一つの碑がたたずむ。刻まれた文字は「噫(ああ) 従軍慰安婦」。かにたに入所していたある女性の要望で建てられた。

戦前、女性は裕福なパン屋の長女に生まれたが、父が親戚の借金を肩代わりしたことで暗転。遊郭に売られ、戦場の日本軍の慰安所に行き着いた。女性は南洋諸島のパラオなどの慰安所で働いた苦悶(くもん)の日々を告白。「戦地に散った同僚女性たちが毎夜夢に浮かぶ。どうか慰霊碑を作ってください」。そう言えるまで戦後約四十年がかかった。

一九八五年夏の除幕式で、女性は南の海に向かって叫んだ。「みんな、ここに帰っておいでよ」。泣き崩れた身体を、そっと抱き寄せたのが前施設長の天羽(あまは)道子さん(93)だった。

女性の告白で初めて知った戦場の実態。「本当にショックでした。私は何も知りませんでした」

天羽さんは旧満州(中国東北部)生まれ。父は銀行員で何不自由なく育った。戦時中は東京都内の学校に進学し、長期休暇のたびに朝鮮半島を列車で横断して満州に帰省した。当時、日本の植民地だった朝鮮半島の女性たちも慰安婦にさせられた歴史も後で知った。「あの列車のレール上を、私と同年代の女性たちが慰安婦として乗っていたなんて…」

クリスチャンだった天羽さんは終戦後、家族を亡くして街をさまよう浮浪児の姿に心を痛め、二十三歳で献身活動に身をささげた。

あれから七十年。性搾取におびえる女性は、今も少なくない。傷ついた女性が訪れるたびに、両手を広げ、朗らかに迎え入れている。「もう大丈夫。よく生きて、かにたにいらしてくださいましたね」

(文・木原育子/写真・木口慎子、木原育子)