嶋田正稔さん*「ふるさとのことなど」
東京駅から、特急「さざなみ」に乗り館山駅で下車、白浜行きのバスに乗り替え30分位で房総半島の最南端、夕日が美しい布良海岸に着く。少し歩いて岬の先端を回ると朝日も眺められる。
目の前に太平洋が広がり、南に大島、南西には伊豆半島、三浦半島が一望できる。特に、冬の晴れた日には、紺碧の海に雪で白く覆われた富士が鮮やかに浮かぶ。その海を望む高台の一角に古びた記念碑が建っている。その碑には『「青木繁 海の幸 ゆかりの地」没後五十年 昭和三十六年十二月 旧友 辻永 記』という文字が刻まれている。
明治洋画壇の鬼才と言われた青木繁が、東京美術学校を卒業したその年の明治37七年夏、恋人福田たね、友人坂本繁二郎らとこの地を訪れている。この時、青木繁22歳、恋人を伴い制作に励んだこの夏の日々は、29年の短い生涯のなかで 最も幸せで充実していた時期であったようだ。
この時この地で生まれた作品が名画《海の幸》である。
現在、その作品は布良の海を描いた数点の絵と共に、彼の郷里である久留米の石橋美術館に展示されている。
実はこれらの作品が制作された場所が私のふるさと、布良である。今は過疎化が進み、私の通った小学校も生徒は全校で10数人となっている。夏の一時期を除けば、訪れる人もない寂れた漁村であるが 明治・大正の頃はマグロ延縄漁の基地として 「伊豆じゃ稲取 房州じゃ布良よ」と唄にも歌われる程栄え、この地を訪れる画家・文人も多かったようである。
現在、館山市富崎地区といわれるこの地の人口は、明治22年で3,300人と記録されているが、最近は恐らく1,000人に満たないであろう。
戦後の昭和20年代当時、小・中学生であった私も四季折々に海を描いている画家をよく見かけた。亡き父が絵が好きだったこともあり、物不足であった戦後の一時期、わが家に逗留する画家も多かった。その一人に吉岡憲がいた。
父がよく将来が楽しみな画家だといっていたのを憶えている。
後年、「絵の中の散歩」須之内徹(新潮文庫)を読んでいて、吉岡憲についての10数頁にわたる紹介記事をみつけ、その記事で初めて、将来を期待されながら自ら若い命を絶ったことを知り、大変悲しかった。
小学生の私は、この画家が大好きだった。ある時などは、夏休みの宿題の絵にちょっと筆を入れてくれ、その作品が教室に特別展示されるなどして大変喜んだこともある。
今、吉岡憲の作品で手許に残っているのは、父と坊主頭の少年を描いた2枚のデッサンだけである。坊主頭の少年は12歳の私であり、この絵をみると腕白坊主だった当時のことが懐かしくよみがえってくる。
父は、青木繁の記念碑建立に熱心に取り組んでいた。
その発案者でもあったようである。ご遺族の福田たね・蘭堂母子をはじめ、青木繁と親交のあった熊谷守一はじめ著名な画家等を訪ね支援をお願いしていた。ブリジストン美術館の石橋氏を訪ねた後、多額の寄付を頂いたといって大変喜んでいたのが記憶に残っている。
若いころから絵画、特に日本画が好きな父であった。
岡倉天心を崇敬しており、秋になると院展鑑賞のため毎年上京していた。
祖父が心をかけていた苦学生が立身し、後に日本美術院の後援者となったことから、日本画家達との交流がはじまったようである。特に安田靫彦画伯を神様のように尊敬し、「先生のおそばにいるだけで心が洗われる」と言って、大磯の安田邸訪問の折には小・中学生の私を必ず同道した。お庭には先生の愛した梅の木がたくさんあった。
数年前、父の遺品を整理していて、和紙に包まれ麻の糸で巻かれた安田先生の書簡集が見つかった。
先生は良寛を敬慕し、専門家の間では、その字は良寛和尚を想わせる美しい字だといわれている。
昨年、現役引退を機にこの書簡の整理を始めようと思い立ったが、その美しい抽象絵画のような文面を読むことが出来ず、
そのままになっていた。
つい最近のことであるが、甥が一冊の本「良寛生誕二五〇年 川端生誕一一〇年 大和し美し 川端康成と安田靫彦」求龍堂(2008)を届けてくれた。その本のなかに「安田靫彦と良寛 安田靫彦画伯の書簡938通」という論述があり、先生の書簡が解説付きできれいに整理されていた。これで漸く書簡の解読者に巡り合うことが叶った。これで安田先生と父との若き日の交流を知ることが出来ると思い嬉しい気分になっている。
「没後30年安田靫彦展」が、2月初旬から3月中旬まで、茨城県近代美術館で開催され、生涯にわたる百数十点の作品が展示されていた。
際立った気品、繊細な線、鮮やかな色彩、日本画の素晴らしさを改めて教えて頂いた思いであった。
私が若い頃から続けてきたことの一つに、海外出張の折には美術館を訪ねるということがある。
その最初が、昭和51年冬のアメリカ出張のときである。
大寒波のなかのケネディ空港は、生まれて初めて踏んだ海外の地であった。凍えるような寒さで大雪が降っていた。
その週末、一人「ニューヨーク近代美術館(MOMA)」を訪ねた。
ここで初めてピカソの「ゲルニカ」に出会った。階段を上ったところの部屋の入口の壁に その絵は無造作にかかっていた。今は祖国スペインに帰り、「ソフィア王妃美術館」で防弾ガラスに守られ展示されている。
「ソフィア王妃美術館」にはピカソをはじめ、ダリ、ミロ、タピエス等、20世紀のスペイン生まれの巨匠達の作品が多数陳列されており、現代絵画の美術館としては世界有数である。
スペインに興味を覚えるようになったのは堀田善衛の著書からである。学生の頃、堀田善衛という作家を知り、すっかりフアンなってしまい 以後新作がでると必ず購入していた。
取り分けスペインに関する著作が面白く、いつのまにか「イスパノフィロ(スペイン大好き人間)」になってしまった。
ただ大作「ゴヤ」(新潮社)は久しく書棚に飾られたままであった。やっと読み終えたのは5年前、それを機にスペインへの旅にでた。
マドリードでは「プラド美術館」「ソフィア王妃美術館」等を訪ね、スペインの巨匠たちの作品を目の当たりにすることができた。その翌日に(2004年3月11日)「ソフィア王妃美術館」のすぐそばの「アトーチャ駅」等、3つの駅で「スペイン列車爆破テロ事件」が起こり、200人以上が死亡、全ての国民が三日間の喪に服した。勿論、全ての美術館が閉館となった。この悲劇が私のスペインの旅を尚一層忘れ難いものとしている。
昨年7月、45年にわたる仕事人生を終えた。その記念旅行として、ボストン、ニューヨークの美術館巡りをした。10月下旬でボストンは秋たけなわ、ニューヨークは金融混乱の真っただ中にあった。
ボストンに着くと、先ずボストン美術館を訪ねた。
優れた眼で蒐集され、大切に保存されている貴重な日本美術のコレクションをこの目で確かめておきたいと思ったからである。
館内に寺社建築が再現され、薄明かりのなかで立ち並ぶ仏像の姿は、京都や奈良の古寺で見るのとはまた違った趣を醸しだしていた。そのあと訪ねたイザベラ・ガードナー美術館では、中庭一杯に咲いていた菊の花が非常に素敵であった。
岡倉天心はその晩年ボストンと日本を行き来している。
ボストン美術館の日本美術のコレクションは、天心の眼を通して集められた至宝のものだといわれている。親しい友人、ガードナー夫人邸の庭一杯の菊も、「天心」という美を愛した一人の日本人が後世に残したかけがえのない贈りものであろう。
日本画をこよなく愛した父の感化、少年の頃大好きだった一人の洋画家との心の交流、海外の美術館で観た名画の数々、私にとってはこれら全てがかけがえのない「わが心のふるさと」である。
昨年九月 「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」設立記念の集いが、わが母校富崎小学校体育館でとり行なわれた。記念碑の設計者、生田勉(当時東京大学教授)のご息女、青木繁の研究者、地元の人たち等多数出席し、この日ばかりは体育館は人で一杯であった。
青木繁の郷里久留米からも石橋美術館の代表者がみえていた。式典は、全校でたった一七人の小学校の子供たちの「安房節」の演奏で始まり、関係者の挨拶のあと、地域の皆さんによる
「安房節」や「布良音頭」等、民謡の歌や踊りが披露され大変にぎやかで楽しいものであった。
記念碑が建立されたのが昭和36年の池田内閣時代、高度成長が始まった頃である。この村からも多くの中学・高校生が都会に職を求めて村を離れていった。自然の美しさが破壊され、地方の過疎化が進みはじめたのもこの頃である。
『失われた二十年』(注)を経て漸く経済・効率至上主義の反省と見直しがはじまり、地方の大切さが漸く認識され始めている。
こうしたなかで、訪れる人もなく埋もれていた碑が、地元の人々の努力で、40有余年の歳月を経て、漸く輝きはじめてきたように思われる。
「保存会」設立趣意文に「地域の子どもたちに夢と誇りを」という言葉があった。17名の子供たちが、夢と誇りをもって、これからの人生を強く逞しく歩んで行くことを祈ってやまない。
小学校卒業以来、すでに五十八年の歳月が流れている。
平成21年3月27日
(注)『失われた二〇年』朝日新聞「変転経済」取材班編(岩波)
(慶応義塾大学経済学部 加藤ゼミ昭和38年卒同期生 古稀記念論集「くつろぎ」掲載)