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【房日】210429*熊谷知事、台風の復興状況を視察

台風の復興状況を視察

熊谷知事就任後初、3首長と直接意見交わす

房日新聞2021.4.29付

熊谷俊人知事は27日、おととしの台風15号で大きな被害を受けた館山市、南房総市、鋸南町の被災地を訪れ、復興状況を視察した。知事就任後、安房地域を訪れるのは初めて。各市町の首長の説明を聞きながら、住宅修繕や農家の現状を把握した熊谷知事は、「市町村と一緒に、安房地域の被災地にもう一度人が戻ってくるようなまちづくりをしていくことが重要だと実感した」と語った。

熊谷知事は午前、館山市内で最も被害が大きく、約8割の住宅が被災した富崎地区を視察。神輿蔵が倒壊し、神輿が大破する被害のあった布良崎神社や、周辺の住宅の復旧の様子を見て回った。

午後は、出荷の最盛期を迎えている南房総市富浦町青木のビワやカーネーションの農業用ハウスに足を運んだ。熊谷知事がビワを試食し、「おいしい」と笑みをこぼす場面も。ビワ農家の岡本正さん(71)は「出荷量は被災前の1割にも満たない。元の状態に戻るには10年ぐらいはかかる」と説明。被災後、安房地域のビワ園の約2割が栽培を諦めたといった深刻な状況を聞き、熊谷知事は「ぜひ生産を続けて、おいしいビワを全国に出荷していってください。しっかりバックアップします」とエールを送った。

その後、約7割の住宅が被災した鋸南町では、特に甚大な被害を受けた岩井袋地区を訪問。町の担当者から、「岩井袋では、被災後に地区外へ移り住むなど、被災前と比べ世帯数が2割減少している」などと説明を受けていた。

視察後、記者団の取材に応じた熊谷知事は「8~9割、復旧復興が進んできている」と話し、被災により加速した人口減少を食い止めるために、雇用の重要性を強調。「農業も含めた経済の活性化、雇用の確立に力を入れていきたい」と抱負を語った。

さらに、熊谷知事が目指す「防災県」の確立について、「2市1町の市長町長からも話があったのは、情報の部分。被災地の実情を県庁がすぐに把握して、機動的に動けるような体制を普段から構築しておくことが重要」と述べた。

 

【房日】210404*県知事就任、熊谷氏に単独インタビュー(安房の復興)

県知事にあす就任、熊谷氏に単独インタビュー

安房の復興・活性化へ今後のビジョンを語る

(房日新聞2021.4.4)‥⇒印刷用PDF

先月21日に投開票された県知事選挙で、史上最多の140万票を獲得し初当選した元千葉市長の熊谷俊人氏(43)。あす5日付で新知事に就任するのを前に、房日新聞の単独インタビューに応じた。インタビューでは、プライベートでも毎年のように足を運んでいるという安房地域への思いや、安房地域の現状を踏まえた今後のビジョンを語ってくれた。

 

【鋸南で第一声上げる】
Q. 開票結果を受けて

これだけの票を頂くのは当初想定していなかったので、それだけ県民の皆さんの期待が大きいということ。特に、おととしの災害とコロナがあって、知事という職種に対する県民の危機感、期待感がこういう形になったと思っている。

 

Q.選挙戦初日には、まず安房地域に入り、鋸南町岩井袋で第一声を放った。その真意は

知事選の立候補を決意した理由の一つが、あの災害からの復旧復興。そして、安房や銚子といった地域を活性化させたいという思いが立候補の原動力なので、決意した時点で第一声は安房で行うと決めていた。

 

Q.実際に安房を見て、どんなことを感じた

空き家が増えている状況で台風があり、今もブルーシートが残っている。ブルーシートをどう解消するか、弘次事業者待ち、お金の問題、空き家といったそれぞれの状況に応じて、各市長たちと意見交換をして、復旧復興につなげていきたい。

 

【自身が安房のファン】
Q.安房地域の活性化には何が必要か

まず一つ目は、雇用と産業をどうつくっていくか。県として、安房地域の土地の状況を見て、可能性のある土地があるか、そこにどういう産業を呼び込むのか検討していく。

二つ目は、観光業として日帰りではない「宿泊型」をどう増やしていくか。観光面にもっと力を入れて、滞在日数を増やし、落ちるお金を多くするために、県としても支援していきたい。

三つ目は、もっと富裕層に来てもらい、お金を落としてもらうような展開をしていったら方がいい。1週間のうち2,3日安房で暮らすスタイルを含め、そういう人たちを取り込んでいかなければならない。

私自身、毎年旅行に行くほど安房地域のファンなので、その魅力にふさわしい評価を受けるようにしたい。

 

Q.プライベートでも安房へ

かなりの頻度で言っている。家族で宿に泊まって、のんびり海を見て過ごす。妻にプロポーズしたのも、館山の北条海岸。妻も私も美術が好きなので、鋸南の菱川師宣記念館、布良の青木繁「海の幸」記念館に行ったり、勝浦、鴨川から館山、鋸南までを回ったり。

本来持っている土地の魅力は一級品。館山は三方が生みに囲まれて、日本のダイヤモンドヘッドのよう。観光地として成功しているところは、仕掛ける人が外の人なので、外の意見が一定量入るようになれば、自然とあか抜けていくと思う。

 

【地域の魅力向上へ】
Q.どんな知事を目指す

首長で大事なことは「ハブ」になること。その地域のためにいろんな人の力を結集する。東京、日本、世界の人など、安房のためになんとかできる人をどんどん連れてくる。地元の人たちももっと立ち上がって、エネルギーが一つになるよう、私自身現地に何回も行って、可能性を探っていきたい。単に安房地域のためだけではなく、この地域の魅力が上がることで、千葉県全体の魅力が上がると思っている。

 

安房美術会100年展(2021.4.3~4.11)

安房美術会 100周年記念展

由緒ある安房美術会は中村有楽・石原純・原阿佐緒ら著名人や地元の画家中心になり、1921(大正10)年発足。「おらあ三太だ」で知られる、館山在住のもう一人のアオキシゲル(青木茂)も発起メンバー。
1934(昭和9)年5月には、東京日本橋の白木屋で「房州風景紹介展」を開催している。

【期間】2021年4月3日(土)~4月11日(日)

【会場】

・会員展=館山市コミュニティセンター

・特別展=南総文化ホールギャラリー

※当会の中心メンバーである、故溝口七生、船田正廣、愛沢伸雄らも出展。

【朝日夕刊】210315*まちの記憶~館山市街地

朝日新聞夕刊_2021.3.15)‥⇒ 印刷用PDF(A3)

【まちの記憶 館山市街地】

南国気分の保養地に戦争遺跡 黒曜石・里見氏…栄えた海の要衝

歩き出すと、次の角の向こうに何があるのかとわくわくが止まらない。今月初めに訪れた館山はそんな町だった。

以前はJRの特急が定番だったが、今は本数の関係で東京駅発の高速バスがおすすめ。2時間ほど乗ると、旧市街が広がる館山駅(千葉県館山市)の東口に着く。西口へ回れば、見えてくるのは南欧スタイルの駅舎。海岸線までは明るい色の町並みが続き、リゾート気分が漂う。

駅から、伊豆大島などが見える洲埼灯台までは、車で20分。途中にはレストランなどを併設した「〝渚の駅〟たてやま」があり、テラスからは館山湾が一望できる。

館山市立博物館主任学芸員の岡田晃司さん(63)によると、館山に人が住み始めたのは、約7千~5500年前の縄文前期。「市内出土の黒曜石は伊豆諸島の神津島産。海上交易が行われていたようです」と岡田さん。古墳時代には、大寺山洞穴遺跡などに、舟に人を葬る舟葬墓が造られた。漁労など、海に関わる人々の墓とみられる。

戦国時代に入ると、館山はのちに曲亭馬琴の小説「南総里見八犬伝」とモデルになった里見氏の支配下に入る。

里見氏は市内の稲村城などを居城に安房を治め、一時は房総半島全域に覇を唱えた。

そんな里見氏の居城の一つだった館山城跡は現在、城山公園となり、花の名所として季節ごとに市民が集う。高台に建てられた模擬天守の内部は「八犬伝博物館」で、NHKの連続人形劇「新八犬伝」で使われた辻村寿三郎作の人形などを見ることができる。

江戸時代の館山は物流の集積地・中継地として栄え、押送船という快速船で、江戸までを一昼夜で結んでいた。当時の漁業の様子がよくわかるのが、海沿いの「〝渚の駅〟たてやま」にある「渚の博物館」の展示だ。一方、城山公園の館山市立博物館では、企画展「武士たちの明治」(21日まで)で、大政奉還後の1868年に、駿河から館山に移封された長尾藩の侍たちが、71年の廃藩置県によってもたらされた新しい時代にどう対応したのかを紹介している。

そんな館山が大きく変わったのは近代以降だ。蒸気船が東京との間を5時間で結ぶようになり、近代水産業の拠点として1901年に水産講習所の実習場が開設された。

保養地としても有名になり、イラストレーターで詩人の中原淳一も晩年の足かけ22年を過ごしたという。

☆ ☆

館山で忘れてはならないのが、戦争遺跡の存在だろう。

市内に残る戦争遺跡は47カ所。戦闘機を隠す掩体壕や海軍砲術学校跡など重要なものが多く、2004年には総延長1.6キロ超といわれる館山海軍航空隊の赤山地下壕跡が市によって公開され、05年に市指定史跡となった。多い年には3万8千人が訪れる。内部には工事に使われたツルハシの跡が残る。

NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表、0470-22-8271)の事務局長を務める池田恵美子さんによると、館山海軍航空隊は関東大震災で隆起した館山湾の一部を埋め立てて1930年に開隊した実戦部隊で、西風を強く受ける特性を生かして短い滑走路で離着陸訓練を行っており、基地は「陸の空母」と呼ばれていた。

「私たちは赤山地下壕を、専門部隊によって秘密裏に造られた地下航空施設と考えています。房総半島南部はハワイ・オアフ島周辺と地形が似ており、真珠湾のフォード島と館山航空基地も近似していることから、1941年の真珠湾攻撃を想定して、パイロット養成が早い時期から行われていたのかもしれません」。

フォーラムではこのほか、画家・青木繁が滞在して「海の幸」を描いた小谷家住宅を修復して「海の幸」記念館にしたり、昭和初期の建築様式を残す旧安房南高校木造校舎の保全活動や見学会を行ったり、明治期に渡米したアワビ漁師・小谷仲治郎の旧宅から発見された古文書や書画の整理・解読を進めるなどして、地域史の掘り起こしと活用に力を注ぐ。町歩きにはフォーラムの「館山まるごと博物館」などの小冊子(600円)が便利だ。

(編集委員・宮代栄一)

 

東京にゆかりの老舗旅館

館山市街には東京にゆかりの深い店が少なくない。館山駅前の幸田旅館は1907(明治40)年に東京・本郷から移転した老舗。女将の幸田右子さん(69)は「東京では旧幕臣の榎本武揚さんにひいきにしていただきました。初代が体を壊し、静養もかねて開業したそうです」。

当時の写真をみると、海岸線までほかに建物はほとんどない。館山駅の前身の安房北条駅の開業が19年で、当初は船が唯一の交通手段だった。

南房総随一の料理旅館だったが、23年の関東大震災で全壊。現在の建物は「当初の部材を一部使い、建て増しを繰り返したもの」という。とはいえ、本館1階の内玄関つき客室「桜」の間には桜材を多く使うなどの凝ったつくりで、往時がしのばれる。「コロナで団体さんが減って大変。外で修行中の息子が継いでくれるまで頑張ります」

大正のレトロ建築でカフェ

築港前交差点にあるTRAYCLE Market&Coffeeは知識絵理子さん(44)&淳悟さん(43)夫妻が経営する、フェアトレードコーヒーとおからマフィンが売りのカフェだ。2016年に開店した。

大正初期に建築された古川銀行の鴨川支店を、鳩山一郎内閣で文部政務次官などを務めた詩人の小高熹郎氏が、昭和の初めに移築。水産事務所などをへて、小高氏を顕彰する「小高資料館」などとなったが、孫の絵理子さんが受け継ぎ、改装した。おからマフィンは試作を重ねたオリジナルで、抹茶&桜あん、コーンとツナのサラダなど、毎日、8種類前後を販売。「朝6時から百数十個を焼く」(淳悟さん)というが、早い日には数時間で売り切れる。絵理子さんは「『毎日食べてもあきない』を目指して作りました。今はコロナでテイクアウトのみですが、たくさんの人に食べてほしい」と語る。

 

【房日】210108*オンライン色紙展で支援
オンライン色紙展で支援
青木繁「海の幸」記念館 2月28日まで作品販売

(房日新聞2021.1.8付)‥⇒ PDF

館山市布良の青木繁「海の幸」記念館を支援する「青木繁『海の幸』オマージュ色紙展」がオンラインで開催されている。全国15人の美術家が15点の作品を寄せ、各1万円で販売。購入金額は同記念館の管理運営の費用に充てられる。2月28日まで。

明治期を代表する画家、青木繁が国の重要文化財「海の幸」を描いたときに滞在した小谷家住宅。全国の画家、美術関係者らでつくる「NPO法人青木繁『海の幸』会」などの尽力もあり、平成18年に同記念館が開館した。

オマージュ色紙展は、開催した旧海の幸会の有志が、同記念館の管理運営費を支援する企画で、同年第1回を開催。第2回は一昨年の台風被害とコロナ禍で延期されていたが、12月28日~2月28日の期間でオンライン開催されることになった。

青木繁の画友、坂本繁二郎に師事した版画家、故・秋山巌氏による「雪ふりしきる(山頭火)」、東北生活文化大学学長の佐藤一郎氏による「櫻花」、女子美術大学名誉教授の吉武研司氏による「太陽のように2019」など、全国15人の画家、美術家が色紙サイズで各1点の作品を寄せている。

「青木繁『海の幸』記念館・小谷家住宅」のウエブサイト=QRコード=で公開。購入の申し込みは2月28日まで。希望者は必要項目(氏名、住所、電話番号、メールアドレス)と第1~3希望の作家を記入して安房文化遺産フォーラムへメールか電話・ファックスする。希望者が複数重なった場合は、抽選となる。

‥⇒ 青木繁オマージュ色紙展

【房日】200408*地元保存会が補修作業、布良の青木繁記念碑

地元保存会が補修作業 布良の青木繁記念碑

(房日新聞2020.4.8)‥⇒ 印刷用PDF

老朽化が進んでいる館山市布良の青木繁記念碑の補修作業が、地元住民らでつくる「青木繁誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)のメンバーの手によって行われている。

同市布良は明治を代表する画家青木繁が代表作「海の幸」を描き上げたゆかりの地で、記念碑は没後50年を記念して、当時の館山市長や著名な美術関係者らが発起人となり、布良

海岸が一望できる高台に昭和37年に建立された。

高さ約3・6メートル、幅約4メートルの鉄筋コンクリートづくりのアーチ状の記念碑。建立後、60年近くがたち、潮風にさらされて劣化が進み、コンクリートにひびが入り、一部は剥がれ、危険でもあったため、補修することになった。

作業は4日から始まり、連日メンバー5、6人が作業。劣化していたコンクリをハンマーなどで剥がした後、木枠を当てたモルタルを流し込んで補修していた。

嶋田会長は「記念碑は青木繁ゆかりの地であることを示すシンボルであり、布良の宝。観光名所でもあり、青木の功績を功績と伝えていくためにもこれからも大事に守っていきたい」と話していた。