花の種をまもった人びと=『おはなし千葉の歴史』
【タイトル】 花の種を守った人びと
文:池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長)
『おはなし千葉の歴史』千葉県歴史教育者協議会 2012年7月発行
早春になると千葉県南部の南房総では、菜の花、キンセンカ、百日草、金魚草、ストック、水仙など、色あざやかな花畑が広がります。けれども戦争のときには花禁止令が出され、花の苗を引き抜き、種や球根を捨てるよう命じられました。美しい花畑にも、戦争の悲しみを乗りこえてきた歴史があるのです。
●海辺のくらしと花作り
太平洋に面した和田町(現在の南房総市)は海からすぐに山がせまり、平らな耕作地が少ないため、かつては漁業と林業を中心に暮らしていました。男の人は漁に出て、女の人はわずかな畑仕事をしながら、重いカゴをかついで魚の荷揚げを手伝う日々でした。冬の寒い加工場では足や腰が冷え、指先もかじかんで包丁がうまく握れません。子どもたちも小さな妹や弟の子守りをしながら、浜でワカメやテングサを拾う手伝いをし、家族みんなで働いていました。
苦学して薬剤師になり、朝鮮で薬草の研究をしてきた和田の間宮七郎平さんは芥子栽培に取り組んでいました。その頃すでに房総の各地では花作りの研究が進められており、七郎平さんも花を作ってみることにしました。これまで綿花や麦しか作れなかった和田のだんだん畑は、海に面して日当たりがいいので、花作りに適して他の土地よりも早く出荷することができると考えたのです。まわりの人たちは「食えない花を育ててもしょうがない」と笑っていましたが、川名リンさんという農婦だけはいっしょに花作りの研究をしました。
苦労の末、1922年に花の出荷は成功し、寒菊が1俵3円、キンセンカが5円の値がつきました。男の木こり仕事で1日50銭、小学校の先生の初任給が50円(今は約20万円)という時代のことです。しだいに村人たちも花作りを始めるようになり、寒い冬の日でもまるでじゅうたんを敷いたように、美しい花が色とりどりに咲きました。その年の暮れに鉄道が開通すると、海女さんたちも花カゴを背負って東京まで売りに行くようになりました。
翌年の関東大震災で東京が焼け野原となり、一時は鉄道も止まってしまいましたが、まもなく震災慰霊祭のために花の注文が急増し、再び花作りを志す青年が増えました。そこで和田浦生花組合を設立し、東京だけでなく全国に販路を広げていきました。
●戦争と花禁止令
1937年から始まった中国との戦争が長引くと、「ぜいたくは敵!」として国民は日用品も制限され、塩やしょう油、みそなどの調味料も配給制になり、お米が少なくなるとイモや大豆をつぶして食べるしかありませんでした。
太平洋戦争が始まり、和田町でも男の人には徴兵の赤紙がとどき、戦地に行く人がふえてきました。漁師たちは、発動機のついた漁船が徴用にとられ、魚をとることもできません。海にもぐれる海女さんたちは、アワビやサザエの代わりに、火薬の原料になるカジメやアラメなどの海藻を採集するように命じられました。となりの館山町(現在の館山市)では、軍隊が使う目的で、子どもたちにウミホタルを採取させました。
農家には食糧増産のため作付割当てが命じられ、1944年になると、特に千葉県と長野県では花が禁止作物に指定されました。花畑の苗は抜き取ってイモ畑や麦畑に作り替え、種も球根もすべて焼却しなさいという命令です。村の青年団が畑や納屋を見回って監視し、花の種を持っている農民を処罰されるようになりました。どんなに花作りを望んでも、軍の命令に従わない者や戦争に反対する者は「非国民」と呼ばれて、冷たい目で見られるような社会になってしまったのです。
じゅうたんのように美しかっただんだん畑は、すっかり花が抜かれてしまいました。まるで浜に打ち上げられた海草のようにしおれて、なぎたおされています。泣く泣く種や球根を海に捨てた人もいました。七郎平さんも国の命令にはさからえず、心もちぎれる想いで、大切に育ててきた花々を抜き取ったといいます。
そんななか、リンさんは、どうしても命令に従うことができません。掘り出した水仙の球根を捨てるふりをして、人目につかない山奥の杉林にこっそりとかくしました。それが精いっぱいの抵抗だったのです。
サイパン島や硫黄島の日本軍が全滅して、沖縄本島にアメリカ軍が上陸し地上戦となりました。次は、この房総半島が「本土決戦」の場所になるといわれ、つぎつぎと陣地や特攻基地が作られていきました。敵の上陸にそなえて、女の人も子どもたちも竹やりをもって戦う訓練をしました。花のなくなっただんだん畑には、敵の標的になるようなニセ陣地も作られました。
● ふたたび花作りを
長く苦しかった戦争がようやく終わりました。季節がうつり冬になると、リンさんが球根をかくした山奥の杉林には、一面に水仙の花が咲きました。ここは土が深く、ふかふかとしたふとんのようだったので、球根が根をおろして生きのびることができたのです。リンさんのほかにも、食べ物といつわって種をナベに隠していた人もいました。のこらず絶えたと思われた球根や種は、花を愛する人びとによって守られ、ふたたび花作りがはじまりました。
リンさんの台帳には、「1947年1月25日、エリカ16束、小菊110本」という記録があります。戦後まもなく、まだ満足に食べられない人もいるというのに、花は毎日のように東京で売れていました。ある日、不思議に思った息子の武さんが市場の人にたずねてみると、
「それは、戦争で亡くなった人たちの慰霊に使っているのですよ」と言われました。
それから、武さんは「花作りは平和産業だ」と考えるようになったそうです。この話は田宮寅彦の小説『花』、映画『花物語』、郷土の音楽物語『花とふるさと』となり、多くの人に知られるようになりました。
「花は口で食べることはできないけれど、口で食べるものだけが食べ物ではないの。心で食べるものがなくなってしまったら、心は生きてゆけなくなってしまうのよ」
いつもリンさんが言っていたことばです。武さんは、花が作れなくなるような戦争は二度とあってはならないという願いをこめて、「花は心の食べ物です」と印刷したダンボール箱で、花を出荷するようになりました。今も、和田町をはじめ南房総では美しい花畑が広がり、多くの人の心をいやしています。
【参考文献】
・田宮虎彦『花』新潮社1964年
・石渡進『間宮七郎平と和田の花』和田小学校社会科研究部1983年
・望月新三郎『よみがえった水仙』岩崎書店1985年
・郷土の音楽物語『花とふるさと』千葉県うたごえ協議会1982年
・『うたごえ新聞』うたごえ新聞社1982年
・映画『花物語』大映1989年
・『和田町史』和田町1994年
・『農民』農民運動全国連合会2002年
・『第8回戦争遺跡保存全国シンポジウム館山大会』戦争遺跡保存全国ネットワーク2004年