青木繁《海の幸》に結ばれた漁村のまちづくり

池田恵美子

NPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長
青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会事務局次長

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1.布良星の里、神話の里

真冬の夜、南の水平線上に輝く赤い星(学名カノープス)は、通称「布良星」として呼ばれている。千葉県最南端の布良(館山市)は、マグロはえ縄船発祥の地として栄え、その名を広く知られていた。しかし冬の荒海での沖泊まり漁は厳しく、遭難事故が多かった。そこで亡くなった漁師の魂は、星になって赤く輝くという伝承になった。危険な漁撈に耐え、漁師たちが励まし合って歌った舟唄は『安房節』という。

アーエ 伊豆じゃ稲取 房州じゃ布良よ
粋な船頭衆の 出るところ

アーエ 船頭させても とも取りやさせぬ
押さえひかえが まヽならぬ

『古語拾遺』という書物には、房総開拓神となる天富命(あめのとみのみこと)が布を織るために、植物の栽培に適した土地を求めてやってきたと記されている。それが布良のアイド(阿由戸)の浜【表紙1】であり、目の前には男神山・女神山がそびえている。近くには、安房神社周辺の神戸(かんべ)や神余(かなまり)といった地名もある。

近代画壇に足跡を残して早世した青木繁が『海の幸』【表紙1】を描いた布良は、「美術界の聖地」と呼ばれるようだが、もともと神話の里=聖地なのである。なお、明治22(1889)年、布良村と相浜村は合併して富崎村となるが、地名は「天富命が上陸した岬」が由来である。

青木が坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともに写生旅行で訪れるのは、この漁村が最もにぎわっていた明治37(1904)年。40日もの間、若者4人を無賃で世話したのは、富崎村会議員や帝国水難救助会布良救難所の看守長などを務めていた小谷喜録である。屋号は代々「きろく」と呼ばれている。

ちょうど日露戦争がはじまった年である。布良は望楼があり、戦略上重要な場所でもあった。救難所の日誌には「千倉沖にて砲声聞こゆ」などと記されている。しかし青木の絵手紙では、そんな世情にはおかまいなく、青春を謳歌しているようにみえる。そして誕生したのが『海の幸』である。

 

2. 三つの〝あ〟のまちづくり

〜青木繁・安房節・アジのひらき〜

昭和29(1954)年、周辺町村とともに富崎村が館山市に編入された。布良に千葉県営館山ユースホステル(YH)が建設された昭和36(1961)年は、奇しくも青木繁の没後50年であった。田村利男館山市長と青木の旧友ら画壇の著名人らによって基金が集められ、翌年、YHの隣接地に「海の幸」記念碑が建てられた。

風光明媚な景観とモダンな建物が人気となった館山YHだったが、平成10(1998)年に廃業となり、隣接した記念碑も解体の危機におよんだ。しかし地元の人びとの熱意によって、碑は守られたのである。

漁村の衰退と少子高齢化がすすむなか、館山市立富崎小学校では、「漁村が誇る3つの〝あ〟〜青木繁・安房節・アジのひらき」のふるさと学習を実践した。児童は青木繁の調べ学習をし、母校の福岡県久留米市立荘島小学校とインターネット交流をおこなった。さらに、『安房節』を歌い、アジのひらきを作れるようになった。

やがて富崎幼稚園が統合されて廃園となり、小学校の統廃合も時間の問題となった。平成17(2005)年「青木繁《海の幸》100年」展がブリヂストン美術館で開催された。これを鑑賞した富崎地区の吉田昌男連合区長会長と豊崎栄吉区長は、「せっかく記念碑を守ったが、その重要性があまり認識されていない。記念碑を保存する会を立ち上げて、地域活性化を図りたい」と、NPO法人安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラムと略)に相談があった。布良出身のエッセイスト・山口栄彦氏が加わり、子どもたちのふるさと学習にならい、「3つの〝あ〟のまちづくり」がはじまった。

青木繁の〝あ〟は、「海の幸」記念碑や小谷家住宅など文化遺産の保存と活用。安房節の〝あ〟は、漁村の歴史・文化の調査やウォーキングガイド。アジのひらきの〝あ〟は、漁村の食文化「おらがごっつお(我が家のご馳走)」や生活文化の継承。

青木繁を敬愛する人びとの輪は、途切れることなく脈々と結ばれてきた。地域の文化遺産を守り、漁村のまちづくりに尽力した先人たちに敬意を表しながら、半世紀を超えるバトンのリレーを振り返ってみたい。

 

3.没後50年建立の「海の幸」記念碑

阿由戸の浜を見下ろす高台に、四角いアーチ型のモニュメントがある。青木繁の没後50年に建てられた「海の幸」記念碑である。足もとの碑盤には、旧友・辻永(つじひさし)の揮毫により「青木繁海の幸ゆかりの地」とあり、裏面には、

【明治洋画壇の天才画家といわれる青木繁は30年にみたない生涯であったが、天ぴんにくわえ情熱を傾注した幾多の佳品を残し、明治浪漫主義の一大金字塔として景仰されております。画伯は生涯で最も幸福であり、良き年であったといわれる明治37年夏、この地に滞留し、代表作となった〝海の幸〟を始め数点を描き上げました。この碑は画伯を敬慕し、その芸術を愛する者たちがあい寄り、没後50年を記念して、ゆかりのこの地に建立したものである。

昭和37年4月 発起人】

と刻まれている。発起人に名を連ねたのは、

・田村利男(館山市長)
・坂本繁二郎(文化勲章受賞)
・辻永(日展理事長)
・富永惣一(国立西洋美術館長)
・中沢弘光(文化功労章受賞)
・熊谷守一(画家)
・金沢秀之助(画家)
・石川寅治(日展監事)
・山下新太郎(文化功労章受賞)
・河北倫明(国立美術館次長)
・中村新一(芸術院会員)
・鈴木千久馬(日展評議員)
・嶋田繁(館山市議会議員)
・穂坂与明(館山病院長)
・川名正義(千葉県公安委員・館山病院副院長)
・赤穴博(千葉県婦人児童課長)
・安田豊作(館山市立北条小学校長)
・館山市布良漁業協同組合
・野原肇
・神田徳次
・小谷庸
・長谷川広治

らであり、館山市役所内に事務局が置かれた。

建立計画書や協力者への経過報告書には、次のように記念碑の重要性が説かれている。

【・ 碑は一つの芸術作品とも考えられますので、工事施工については万全の策を講じ、設計者の意図を充分にいかした碑を完成いたして戴く…。

・ この碑を美術振興の一つの道標といたしたいと念願し、今後この管理に十分な努力をいたすべく所存でおります。

・ 建立寄付の剰余金が生じたときは、おって組織予定の記念碑管理委員会基金として繰り入れさせていただきます。】

石橋財団からも20万円の助成をいただき、総工費60万円であった。当時の新聞には、賛同した画家から提供された絵画を市長自ら上京して販売したとある。

碑の設計は、館山YHの設計者である東京大学の生田勉教授に依頼された。国立西洋美術館で知られるル・コルビジェなど、欧米の現代建築を日本に紹介した第一人者である、『新建築』12号(1962年12月1日発行)には、次の文章がのこっている。

【「海の幸」記念碑 / 設計 生田勉

昨年の夏私はローマを訪れた。そしてローマの廃墟をあちこち見てじつに楽しかった。それを見ながらよく立原道造の詩「石柱の歌」が口をついて出た。…私は石の柱…崩れた家の 台座を踏んで/自らの重みを ささへるきりの/私は一本の石の柱だ…乾いた…/風とも 鳥とも 花とも かかはりなく/私は 立っている/自らのかげが地に/投げる時間に見入りながら…と。しかしローマの廃墟は道造のローマン派風の悲しげな詩とは反対に、もっと華やかに陽気に笑いさざめいていた。それは陽気な女たちのようであった。 ローマから帰ってすぐ「海の幸」の画面の群像の前にしばしば佇んだ。そこからは海の幸をことほぐ大らかな歌声がきこえた。私の頭のなかでその歌声にローマの笑いさざめきが二重うつしになってくるのを感じた。こうしてこの記念碑は私の単なる「ローマの思い出」かもしれない。しかしひとはこの布良海岸の小高い丘から遠く太平洋を仰ぎみるとき、アーチのように両手を眉の上にかざして母なる海に感じいることであろう。またアーチが円弧ではなく角ばっているのは、神式の幣帛を紙ではなしに石であらわしたつもりであった。こうして「海の幸」記念碑はいろいろの夾雑物を含んで生まれたものであるが、文化の種子はすべてそうしたものである。】

詩人の立原は、一高から東京帝国大学建築学科で学んだ生田の友人である。発起人らの熱い想いを受け、ともに早世した青木と立原に導かれるように、ギリシャ神殿と日本神道がイメージソースとなって、神話の里・布良にモニュメントができたというのは興味深い。

 

4.福田たねと蘭童

青木とたねの間に生まれた幸彦は、成長して尺八奏者の福田蘭童として活躍する。同年6月13日付の房日新聞には「福田蘭童から感謝のたより」としてコメントが紹介されたている。

【父が生前、最も好んでいた布良に父の記念碑が建立されるということを聴き、大変嬉しく思っています。父の出生地である久留米にも記念碑があり、毎年〝けしけしまつり〟という催しが行われていますが、布良は父の芸術発祥地と言えるだけに、父もどんなにか喜んでいることでしょう。(中略)父のことについては、母の福田たねが存命しており、何かと役に立つことがあると思いますので是非一度御来駕下さい。】

その翌週には、田村市長は蘭童の自宅を尋ねており、たねの談話メモが残されている。

【私たちと森田、坂本の4人で行った。船で霊巌島を夜9時に出て、朝館山に着いた。着いた所に茶店が多くあって、氷水を飲んだことを覚えている。そこから歩いて、安房神社の前の道を通って、吉野屋という旅館に一泊した。森田か坂本かの知り合いで、田村という医師を通して小谷喜録を紹介され、6畳と8畳の二間を借りた。着いたのが7月12,13日頃で、9月1日から学校が始まるので、それまで約40日間いた。大変親切にしてくれた。おじいさんの亡くなった直後のようだった。13,4歳くらいの女の子があって、家族4人で、使用人が5,6人いた。『海の幸』はデッサンをして、東京で仕上げた。モデルは喜録で使っていた男を二人ばかり、雨の日などよくモデルとした。(中略)主にスケッチはムカイの港の脇あたりでやった。平砂浦、伊戸にも行った。小湊へ参拝にも行った。万祝を着て、旗を立てて帰ってくる船を覚えている。布良を詠んだ歌はたしかにいくつかあったが、今覚えているのは一つだけ、「幸せやいかに未だ我が背は帰りこぬ沖は大島波の音する」。女が子どもを背負って、提灯を持って、岩の上に立って、夫の帰りを待っている絵に即興的につくった歌だが、絵は戦災で焼けてしまった。お盆にぶつかった。灯篭などを吊り、念仏などをやり、香の煙が立ち込めて神秘的であり、みんな喜んでいたことを覚えている。】

たしかに小谷家では、先代の治助が2年前に亡くなっており、10歳の種子と6歳のゆきという娘がいた。青木やたねは、お客様扱いされていたため家族との接触は少なく、偶然にも同じ名前の少女がいたことを知らなかったようである。館山市長との面談を通して思い出話を懐かしく語ったたねは、その後、『50年前の追想』【口絵3】など数点の絵を描きあげた。

そして10月1日の記念碑除幕式には母子二人で参列し、式典では蘭童が遺族代表として挨拶している。

 

5.記念碑の解体問題と保存運動

平成10(1998)年、「海の幸」記念碑が解体の危機となった。8月13日付の房日新聞によると、

【碑は、県がユースホステル建設に際して国から借用した敷地内に、〝無許可〟で建てたものらしく、同ユース廃止に伴い、構築物を撤去して土地を返さなければならないためだ。これを知った地元では、関係者がそろって同市へ存続を要望。建立当時の事実関係もハッキリしないまま。市では地元と国や県の間に立ちながら、対応に頭を痛めている。】

とある。地元の有志代表ら(下記)は、碑の存続を求める要望書を市長や県議などに提出した。

・小谷栄(富崎地区コミュニティ委員会会長)

・吉田昌男(同地区連合区長会会長)

・天野久雄(二斗田区長)

・豊崎栄吉(神田町区長)

・小宮剛志(本郷区長)

・佐藤一郎(向区長)

・長谷川広治(記念碑発起人)

・豊崎五三男(館山市社協地域福祉委員)

・吉田清一(館山市文化財保護協会富崎支部長)

・家守若吉(館山市文化財保護協会会員)

・山口市彦(富崎地区公民館長)

同市は、「文化的、歴史的価値も高く、存続の方向で国や県と話し合っていきたい」として、正式な貸借契約を結び国に賃料を払うことにより、取り壊しは免れた。

 

6.子どもたちに誇りを伝えよう

平成17(2005)年、ブリヂストン美術館で「青木繁《海の幸》100年」展が開催された。これを受けて地元では、12月4日、富崎小学校体育館を会場に「〝青木繁《海の幸》100年〟から布良・相浜を見つめる集い」を開催した。午前の見学会フィールドワークに約70人が参加し、午後のシンポジウムに約100人が集まった。

第一部は、前年に『海の幸』の調査研究を実施した東京文化財研究所の田中淳研究員に、その報告を兼ねた講演をお願いした。第二部では、富崎小学校の児童による『安房節』演奏と青木繁の調べ学習の発表に続き、呼びかけ人らの座談会が行われた。布良の漁師や船大工、美術家の立場からそれぞれ語る『海の幸』への想いや解釈は、聴く者の琴線にふれた。

・小谷栄(小谷家当主)

・吉田昌男(富崎地区連合区長会会長・元マグロ船機関長)

・豊崎栄吉(神田区長・布良の船大工)

・山口栄彦(布良出身・エッセイスト)

・船田正廣(館山美術会顧問・彫刻家)

・愛沢伸雄(NPOフォーラム代表)

・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)

この場において小谷氏は、「古い家を壊そうと思っていたが、地域活性化に役立つなら、当時のままの家を残していきたい」と発言し、小谷家住宅【表紙2】の保存運動へと発展する契機となった。

 

7.小谷家住宅の保存運動

小谷家当主の発言を受け、住宅の保存を模索するなかで、文化財専門家に調査してもらったところ、高い価値を得た。この報告書に基づき、小谷栄氏より館山市教育委員会へ「文化財指定申請書」を提出し、後方支援として、NPOフォーラムと同地区連合区長会とが連名で「小谷家住宅と記念碑の保存・活用に関する要望書」を館山市長と教育長に提出した。

並行して、同地区コミュニティ委員会の役員や市内外の賛同者、全国の美術関係者らとともに、金丸謙一館山市長と石井達郎教育長が発起人に名を連ね、平成20(2008)年9月28日、青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(以下、青木保存会と略)を発足した。吉田昌男会長の急逝に伴い、会長:嶋田博信(連合区長会長)、副会長:村田猛(元連合区長会長)・天野努(元安房博物館長)、運営委員30名、事務局はNPOフォーラムに付託され、活動が始まった。保存管理・地域振興・広報普及・募金会員拡大の4部会で、草刈整備や会報の発行など、多様な活動を実践してきた。同年、国土交通省の「新たな公」によるコミュニティ創生支援モデル事業に選定され、文化財アドバイザー会議やウォーキングマップ作成、レシピ集作成などに取り組んだ。

翌年10月に小谷家住宅が館山市指定有形文化財となったが、調書には保存上の留意事項として、「建物はほぼ良好に保存されているものの、次の箇所の修理が必要である。(1) 正面本体・庇間鉄板を撤去して本来の軒廻りを表す、この際には庇屋根取り付き部及び本体部軒廻りの修理が必要となる。(2) 正側面大壁、海鼠壁の補修・復原 (3) 背面瓦屋根及び木部補修(緊急性あり) (4) 屋根桟瓦葺きの葺替え」 と指摘があった。なお館山市文化財の保護に関する条例では、「指定文化財の維持修理費は所有者負担」と謳われている。

折しも、青木繁を敬愛し、小谷家住宅を後世に残したいと考えていた画家の吉岡友次郎氏や女子美術大学の吉武研司教授らは、NPO法人青木繁「海の幸」会(大村智理事長、以下「海の幸」会と略)を設立した。チャリティ絵画展が発案され、平成24(2012)年、東京銀座と館山で、青木繁「海の幸」オマージュ展が開催された。以降、毎年巡回展で成果を挙げている。同年より、館山市ふるさと納税で「小谷家住宅の保存・活用の支援に関する事業」を指定する寄付制度が整備され、オマージュ展売上の一部が寄付されるようになった。

民官協働の文化財保存のまちづくりが始まったことを契機に、小谷家当主・青木保存会・「海の幸」会・館山市教育委員会生涯学習課は「四者協議会」を発足し、小谷家住宅の修復・公開に向けた話し合いを重ねてきた。これらの熱意により石橋財団の助成金800万円も決まった。総事業費約4,500万円(居住部の自己負担額を含む)のうち約半分が集まった。そこで教育委員会を除く三者で「修復と公開に関する覚書」を交わし、平成26(2014)年春から2ヶ年計画で修復工事にとりかかり、平成28(2016)年春の一般公開を目ざすこととなった。

 

8.文化遺産を活かしたまちづくり

青木繁没後100年にあたる平成23(2011)年、石橋美術館・京都国立美術館・ブリヂストン美術館で大回顧展が開かれた。世代交代した小谷家当主と青木保存会有志(下記)は久留米市を訪問、命日供養の〝けしけし祭り〟にはじめて参加した。楢原利則久留米市長をはじめ、青木の遺族や旧居保存会など関係者らの歓迎をいただき、交流を温めることができた。

・小谷福哲、由喜枝(小谷家当主夫妻)

・愛沢伸雄、香苗(NPOフォーラム代表夫妻)

・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)

・鈴木瑞江(青木保存会運営委員)

同年8月27日、南総文化ホールにて、「青木繁《海の幸》フォーラム」を開催した。第一部はブリヂストン美術館の貝塚健学芸員の美術講座「布良という聖地〜《海の幸》が生まれた場所」、第二部は《海の幸》井戸端会議としてパネルディスカッションをおこなった。

・石橋鉄也(青木繁のひ孫)

・小谷福哲(小谷家当主)

・山口栄彦(布良出身、エッセイスト)

・島田吉廣(布良崎神社神輿世話人)

・鈴木聡明(館山市観光協会副会長)

・愛沢伸雄(NPOフォーラム代表)

・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)

石橋氏は、父がクレージーキャッツの石橋エータロー、その祖父が福田蘭童という血筋をひいた後裔である。

平成24(2012)年、富崎小学校は統廃合により休校となった。残念ではあったが、明治の先人がアワビ漁の収益を村有財産として開いた学校の誇りを未来に語り継ごうと、まちづくりへの機運が高まっていった。

平成26(2014)年7月27日、再び南総文化ホールにて、「青木繁《海の幸》フォーラム」を開催。第一部は石橋美術館の森山秀子学芸課長の美術講座「青木繁を通じてみる文学と美術の交流」、第二部は「明治の漁村・富崎から《海の幸》誕生を探る」をテーマにパネルディスカッションをおこなった。

・小谷福哲(小谷家当主)

・吉武研司(女子美術大学教授)

・島田吉廣(労働大臣認定カラースキャナー1級技能士)

・愛沢伸雄(NPOフォーラム代表)

・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)

これらの活動は、文化庁の「文化遺産を活かした地域活性化と観光振興」事業として開催された。同事業では、「ヘリテージまちづくり講座」やシンポジウム「館山まるごと博物館」などの開催にもつながっている。

 

9.青木繁が描いた布良の海

まちづくり活動のなかで調査がすすむにつれ、明治期の富崎村の様子が明らかになってきた。漁村の人びとの想像力は豊かに沸き、青木の描いた作品についての新解釈や仮説が生まれている。

布良から太平洋を見ると、真正面に伊豆大島、左に小さな正三角形の利島、その左に平らな新島と並んでいる。荒々しい黒潮の波と岩が印象的な2枚の作品があるが、『海』には伊豆大島が、『海景(布良の海)』には利島が象徴的に描かれており、連続したパノラマであることがわかる。

さらに、当時の色彩を復元する特殊技術で複製画を製作した島田吉廣氏は、次のような発見をしている。 同寸大で2枚のパノラマを並べると、水平線と岩と波の位置がピタリと合う。もともと1枚に描いたデッサンを左右半分に切り分けたのではないかという。また、左の『海景』は折りジワで画面のインクが割れ、右の『海』にはそれが見られない。つまり、署名のある『海景』は布良で着色まで完成してから丸めて東京へ持ち帰り、『海』は東京に戻ってから色をつけたのではないかと考えられる。両館より写真データをお借りし、もう一点気づいたのは、キャンバスの枠を留める方法がホチキスとテープと異なるため、製作する時機も異なるであろうと推察される。今後の研究に期待が寄せられる。

写生地については、関東大震災の隆起を経て、青木が滞在した頃とは地形が異なるため、特定をすることは難しい。しかし地質図を確認すると、250万年前の布良層と呼ばれる凝灰岩質砂岩のなかで、1ヶ所だけ300万年前の白浜層と呼ばれる赤味がかった火山灰質の岩場が海岸線に見られるので、ここではないかと推察される。なお布良層は、地学区分において新生代の新第3紀と第4紀の境界基準となる重要な鍵層であるという。

明治40(1907)年作『わだつみのいろこの宮』は、山幸彦が海底で豊玉姫と出会う神話が描かれている。『青木繁全文集 假象の創造』(中央公論美術出版)によれば、布良で海女メガネを借りて海に潜った感動と、2年後に長崎で体験した器械式潜水がイメージソー・スになっているようである。画中の足もとには、海の中なのに泉が湧き、海草(カツラ)の幹は樹木のように太い。

青木が滞在した小谷家の奥二間から眺めると、庭の向こうにマテバシイ(トウジイ)の木があり、関東大震災前までは、その手前に池もあったという。『わだつみのいろこの宮』の下絵デッサン(個人蔵)や、青木の原画を山本鼎が木板画にした蒲原有明著『春鳥集』の口絵『繍斧』と同名の水彩画を見ると、どれも小谷家のマテバシイに似て見える。『わだつみのいろこの宮』のような、縦長の窓から40日間見続けた庭の印象が、様々な作品のイメージソースになったと考えるのもおもしろい。

 

10.円光寺の板戸と〝波の伊八〟

明治38(1905)年、青木は身重となったたねを伴い、再び房州を訪れている。今度は布良ではなく、ほど近い西岬村伊戸の円光寺に寄寓し、本堂の板戸4枚に焼き釘で海の絵を描いている【口絵1】。4枚のパノラマに太平洋の荒波が広がり、右端に小さく富士山、左方には伊豆大島、利島、新島らしき島影が見える。

後年、円光寺の本堂は建て直されているが、間取りは当時と同じだという。板戸があったであろう位置の斜め上方に、欄間から飛び出るような力強い龍と波の彫刻がある。よく見ると、板戸の構図に酷似している。作者は安房鴨川生まれの宮彫師、武志伊八郎信由。波と龍を彫らせたら関東一と名を轟かせた、通称「波の伊八」である。葛飾北斎の富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』も影響を受けたといわれているが、青木もまたこの欄間彫刻に刺激を受け、挑むような気持ちで板戸に向かったのかもしれない。それなら、荒波を主役にして、富士山や島々が小さく描かれたわけが分かるような気がする。

小谷家にも板戸がある。『海の幸』の同寸大レプリカを縦に並べてみたら、板戸の高さと一致することに気がついた。キャンバスを板戸に貼りつけて、描いたのではないだろうか。そうすると、両端の色が異なる部分が、板戸の上下の框(かまち)にその幅がピタリと合うのである。

それでは、キャンバスはどこで入手したのであろうか。もしかしたら船の帆ではないだろうか。もともとキャンバスは西欧の帆布に由来するという。船主であった小谷家や長逗留で親しくなった船大工から、帆布を分けてもらったということは十分あり得そうだ。あるいは、祭礼で使う神社の幟旗という可能性もあるかもしれない。布良の人びとのロマンは、尽きることなく湧いてくる。

 

11.布良を愛した画家たちの足跡

◇ 寺崎武男

東京美術学校で青木繁の3年後輩であり、イタリアから帰国後、山本鼎らと日本創作板画協会を設立する。東京美術学校に彫塑科を開いた彫刻家の長沼守敬(もりよし)が大正3(1914)年から館山に移住しており、師を慕って館山を往復するうち気に入って、自らも震災後に本格移住。房総開拓神話に惹かれ、多くの壁画を描き、安房神社や下立松原神社などに奉納している。近年、布良崎神社からも、鳥居型に額装された縦120cm×横210cmの奉納画『天富命の布良上陸の図』が見つかっている。寺崎の指導を受けた伊東博子・井上忠蔵・松苗禮子らが画家として活躍する。

◇中村彝(つね)

18歳で天涯孤独となり結核を病み、明治38(1905)年、北条町湊(館山市)に転地療養で滞在、海でスケッチをして画家を志した。『海の幸』から5年後の明治43(1910)年、布良で描いたのが『海辺の村(白壁の家)』‐東京国立博物館蔵‐である。写生地は布良本郷の墓地とされていたが、小谷家から徒歩5分、海が見渡せる高台の狭い路地であり、白壁の蔵は昭和10年頃(1930年代半ば)まで存在していたことが分かった。海の向こうの陸地は、平砂浦から続く洲崎の岬である。

その後、彝は新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光の支援を受け、中村屋サロンで活躍する。奇しくも、前身の本郷中村屋から新宿へ出店する際、本郷店を任されたパン職人の長束實は、昭和初期に独立し館山へ出店している。相馬夫妻から暖簾分けを認められ、館山中村屋の商号を得る。新宿中村屋の流れを受けて、インドカリーやロシアケーキが人気の老舗パン屋として、今も市民に親しまれている。館山駅前の本店2階喫茶室には、『海辺の村』の同寸大複製画【口絵3】が展示されている。店主は代々美術愛好家であり、伊東深水や向井潤吉など著名な画家の作品を多く所蔵し、季節ごとに展示を入れ替える「まちかどミニ美術館」でもある。

 

◇ 多々羅義雄

佐賀生まれで16歳のとき、亡くなる前年の青木繁に絵画指導を受けたという。大正11(1922)年『房州布良ヲ寫ス』を描いているが、わざわざタイトルに「写す」と入れたのは、何か意味があるのだろうか。そうして見てみると、中村彝の『海辺の村(白壁の家)』と同じ蔵だと気づいた。同じ位置から構図を左寄りの向きに描いているため、水平線上の陸地は伊豆半島の天城山と伊豆大島である。さらに、船の帆は同じ型であり、画中の洗濯物や腰をかがめた女性の姿などが酷似している。多々羅が彝を意識していたかどうか分からないが、同じ写生地だと比定できたことにより、当時の地形の変化など様々な情報が読み取れる。

 

◇倉田白洋(はくよう)

写生旅行先の根本村(現南房総市)で出会った小谷英子に恋をして、明治43(1910)年に結婚、館山に居を構えている。根本は布良の隣村であり、児童自由画教育を実践した白羊は富崎尋常小学校でも絵画指導していることが分かってきた。後に山本鼎(かなえ)が長野県上田市に開く農民美術研究所の副所長に招聘されている。

館山市立図書館所蔵の『水門』は、青木保存会の調査により、今も残る松林と背景に見える館山湾と大房岬の稜線から、写生地は館山市の湊川(平久里川)河口であると比定できた。

白羊の義兄の小谷源之助・仲治郎は、根本村から米国モントレーに渡り、器械式潜水のアワビ漁を始めた先駆者である。仲治郎は水産伝習所で関澤明清の指導を得ている。源之助の息子ユージンの岳父は、戦前からヨセミテ国立公園を描いて認められていた日本人画家の小圃千浦(おばたちうら)である。日米開戦後は強制収容所に送致されるが、所内に美術学校を開いて日系人たちを勇気づけ、戦後はカリフォルニア大学バークレー校の名誉教授になった美術教育のパイオニアである。

 

◇ 青木茂

もう一人のアオキシゲル、『三太物語』の文学者。画家としても、大正10(1911)年の館山美術会発足に関わっている。没後、遺族が作品やスケッチブックを館山市立図書館に寄贈した際、生前親しかった白羊から贈られたという『水門』(前述))も一緒に寄贈された。

 

◇ 大下藤次郎

水彩画のパイオニアといわれ、房総を何度も訪れている。明治27(1894)年に著した『安房の冬』-島根県立石見美術館蔵-では、「兼ねてきく布良」へ行った様子が記されていて興味深い。明治29(1896)年の再来訪では、『菱花湾日記』-同-という絵日記を事細かに描いており、菱花湾とは館山湾の別名である。

布良は、今なお多くの人びとを魅了しつづけている。