たてやま・地域まるごと博物館=『旅のもてなしプロデューサー心編』

たてやま・地域まるごと博物館〜〝平和・交流・共生〟の地域づくり〜……執筆:池田 恵美子

・・*『旅のもてなしプロデューサー』心編に収録(2008.5発行)

 

■はじめに

20年ぶりに戻ってきたふるさと館山は、幼い頃には気づかなかった新鮮な魅力にあふれていた。そこには博学遊び人がいっぱいいた。一緒に野山を歩けば、野草の名前や食し方、毒性などを教えてくれる人。海に行けば、貝殻や漂流物について語ってくれる人。釣れたての魚をその場で食べさせてくれる漁師さんに、採れたての野菜を分けてくれるお百姓さん。陶芸家に彫刻家、イラストレーター、音楽家などなど、プロアマ問わずアーティストの面々。学校では学べない面白さが尽きない。ひと昔前なら〝オタク〟と敬遠されかねない変わり種こそが個性の時代になった。

このまちに暮らす人びとは、幼い頃の私同様、足もとの魅力にあまり気づいていないようだ。ある日、館山市観光プロデューサーをはじめ変わり者の仲間たちとともに夢を語り合い、盛り上がった。そうだ、〝変人教師ネットワーク〟を結んで、感性豊かな教育と観光を南房総・館山から発信しよう!

あれから5年、館山にはいくつものNPOが立ち上がり、市民が主役のまちづくりがすすんでいる。

 

■エコミュージアム 〜海とともに生きるまち〜

’71年、フランスでエコミュージアムの概念が提唱された。地域全体をまるごと博物館と見立てて、魅力的な自然遺産や文化遺産を再発見するとともに、学習・研究・展示や保全活動を通じて、地域づくりを図るという手法である。私たちはこの理念にもとづいて、「たてやま・地域まるごと博物館」の構想をすすめている。

温暖な南房総といえば早春の花と海が旅番組の定番で、波静かな館山湾(鏡ヶ浦)にはサンゴやウミホタルが生息し、歩いて渡れる無人島(沖ノ島)は海辺の自然学校である。けれども、南北逆さまに日本地図を眺めてみると、それだけではない地域像が見えてくる。太平洋に突き出た房総半島南部(安房)は、古くから重要な漁業基地であるとともに、海路の拠点として広く世界とつながってきた。一方、さまざまな支配権力の影響を受けた地でもあり、中世の城跡や近代の戦争遺跡(以下、戦跡)はその象徴といえる。繰り返し地震や津波にも被災しており、隆起した地層や海食洞穴からは地球の成り立ちを垣間見ることができる。

安房出身の偉人は日蓮上人ばかりではない。資生堂創設者の福原有信や、トヨタ車誕生の鍵となった歯車博士の成瀬政男など、世界的な偉人を多く輩出している。あるいは他所からこの地に移り住み、または関わって活躍した著名人も少なくない。名を成した人物ばかりでなく、この地に生きた農民や漁民の知恵を知れば知るほど、先人はあなどれないと驚くばかりだ。

自分の暮らすまちの物語を知ることは、地域への愛情と誇りを育んでくれる。私たちは、この物語を生み出してきた歴史的環境を「まもる」「いかす」ことに重きをおいて、「たてやま・地域まるごと博物館」の地域づくりをすすめてきた。

そのモデルコースとして、私たちは毎年、「里見ウォーキング」を実施している。市民ガイドによる解説つきスタンプラリーで市内10キロをめぐり、健康志向の生涯学習である。さらにこのコースを5つのエリアに分け、それぞれの特性をテーマ別に学べるガイドブック『海とともに生きるまち』を編集・発行した。

まちなかエリアでは産業振興と震災復興、城山エリアでは『南総里見八犬伝』と房総里見氏の歴史、赤山エリアでは戦跡と平和学習、沖ノ島エリアではビーチコーミングと自然体験、北下台エリアでは近代水産業と水産教育のあゆみ。これらのフィールドからいきいきと浮かび上がってくる地域像は、海とともに生きた先人たちが培った〝平和・交流・共生〟の精神である。戦乱や災害を乗り越え、新しい希望を生み出してきた先人の姿は、現代社会で忘れられている大切なものを私たちに教えてくれている。

 

■サスティナブル・ツーリズムの実践 〜八犬伝ゆかりの城跡をまもる〜

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝(以下、八犬伝)』は、江戸後期に書かれたベストセラーである。しかし、そのモデルになった戦国大名里見氏が、館山を中心とした安房国に実在していたことはあまり知られていない。

上野国(群馬県高崎市・旧榛名町)出自という房総里見氏は、15世紀頃に安房国にあらわれ、その後170年におよぶ領国支配をした。しかし江戸初期に改易となり、伯耆国(鳥取県倉吉市・旧関金町)に移封された。里見氏が安房国から姿を消して200年を経た後、江戸で『八犬伝』が誕生している。

馬琴は28年をかけて日本最長の小説を書いたが、生涯一度も安房を訪れなかったという。しかし不思議なことに、フィクションであるはずの『八犬伝』ゆかりの地が安房一帯にある。たとえば、南房総市には伏姫籠穴や富山、犬掛の里など物語の舞台とされる場所があり、館山城跡には全国唯一の「八犬伝博物館」がある。

そのひとつ、稲村城跡は『八犬伝』にも実名で登場し、里見氏の歴史上では天文の内乱が起きた重要な場所である。城といっても天守閣のことではない。鉄砲伝来以前の城は、敵が攻めにくい構造に山をつくりかえたものを指し、漢字が示すように「土で成した」ものが城であった。つまり、中世の戦跡である。

近年、稲村城跡は公共道路計画によって破壊されることになった。城郭研究者によれば、戦国初期の遺構が残る稲村城跡は、全国的にみても貴重な歴史遺産であるという。市民は「里見氏稲村城跡を保存する会」を立ち上げ、稲村城跡を覆うヤブや草を刈ってウォーキングルートを整備し、里見氏の歴史を学ぶ講演会やシンポジウム、フィールドワークなどを重ねてきた。

10余年におよぶ市民の地道な保存活動の末、市当局から稲村城跡の保存が正式に表明され、道路計画は変更となった。さらに現在、国指定文化財に向けての調査検討が始まっている。歴史的環境を維持するためには、単なる史跡保存ではなく、中世以来継承されてきた里山の景観保全にも配慮した〝サスティナブル・ツーリズム〟という観点からの活用が重要となる。

稲村城跡の保存運動に連動し、里見氏ゆかりの高崎市(旧榛名町)や倉吉市(旧関金町)との市民交流が生まれた。距離と時代を超えたトライアングル交流は、「南総里見まつり」「榛名梅まつり」「里見桜の植樹」「子ども村歌舞伎」「南総里見手づくり甲冑」などの文化交流として、今日まで市民によって豊かに育まれている。

 

■ピース・ツーリズムの実践 〜ユネスコ精神と戦争遺跡の活用〜

ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、先の大戦後、人類が二度と戦争の惨禍を繰り返さないようにとの願いをこめて、国連の専門機関として創設された。その理念は、ユネスコ憲章前文にも「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」と謳われている。日本でも、文科省内に日本ユネスコ国内委員会が置かれ、日本ユネスコ協会連盟を中心として、官民一体となった活動がすすめられている。

世界で最初に民間ユネスコ運動が起きたのは、’47年の仙台である。翌年に千葉県内初の館山ユネスコ協力会が結成され、’51年には世界で唯一その名を冠した「館山ユネスコ保育園」が創設されている。館山は終戦直後にアメリカ占領軍が上陸し、本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれたといわれるが、友好的に終戦を受け入れた館山市民は、とくに平和を願う気持ちが強かったのかもしれない。

’90年代になるとユネスコは「平和の文化」を提唱し、「あらゆる生命を傷つけたり奪ったりしないために、争いや対立を暴力ではなく対話によって解決していく」という行動理念を示した。元ユネスコ「平和の文化」局長D・アダムス氏は、「平和の文化」セミナーで次のように述べている。

「いつの時代も、世の中から軍需産業がなくなることは困難のようだ。しかし、軍需産業に対抗しうる産業は〝ピース・ツーリズム〟である」と。

日常的にテロや戦争が報道される昨今、「平和の文化」と観光は不可分となってきた。私たちが、地域に点在する戦跡の保存と活用を提唱しながら、10余年にわたり実践してきたことは、まさに〝ピース・ツーリズム〟といえるだろう。

戦時中軍都であった館山にはさまざまな軍事施設が造られたが、戦後は放置されたまま資材置場やゴミ廃棄場となっていた。高校の平和教育から始まった戦跡の調査研究は、市民の生涯学習に広がり、やがて公民館活動の「戦跡調査保存サークル」が生まれた。授業実践報告は歴史教育者協議会を通じて全国に発信され、さらに「戦後50年」の取組みがメディアで報道されたことを契機に、学校や労働組合などが全国から平和研修に訪れるようになった。サークルで学習を続けた市民はガイドとなり、戦跡の保存と活用を図っていった。

広島原爆ドームの世界遺産登録に際して、日本でも文化財保護法が改正され、戦跡を文化財として認定することになった。この流れを受けて、館山市も正式に調査を始めた。南房総・館山地域に残る戦跡群は、首都防衛のための東京湾要塞として、また本土決戦の要衝として、文化財的価値が高いことが分かってきた。館山市は「地域まるごとオープンエアーミュージアム・館山歴史公園都市」を将来像と掲げ、その第一歩として’04年には「館山海軍航空隊赤山地下壕」を整備・一般公開し、翌年には館山市指定文化財とした。年間1万を超える人びとが見学に訪れている。

同年、私たちはNPO法人格を取得した。国内外から訪れる年間約200団体の講演やガイド、学校への出前授業のほか、地域に埋もれた歴史・文化全般を調査研究し、ガイドブックやウォーキングマップの作成、地域活性化事業を実践している。この活動が評価され、財団法人あしたの日本を創る協会より「あしたのまち・くらしづくり活動賞/内閣官房長官賞」を受賞し、JATA(日本旅行業協会)からは「地球にやさしい市民活動賞」を受賞した。当初は平和・人権研修を目的としたスタディツアーが大半だったが、最近では地域づくりの視察が増えている。

 

■シネマ・ツーリズムの実践 〜映画『赤い鯨と白い蛇』と合唱組曲『ウミホタル』〜

館山の美しい自然と戦跡を舞台に、映画『赤い鯨と白い蛇』が誕生した。「赤い鯨」は夕日を浴びた館山沖で訓練していた特攻の特殊潜航艇を意味し、「白い蛇」は家の守り神を象徴している。登場人物は女性ばかりで、命の大切さと平和を語り継ぐことがテーマとなっている。

せんぼんよしこ監督は戦時中の館山に疎開し、千葉県立安房高女と安房南高校に学んでいる。テレビ創成期以来ドラマプロデューサーとして活躍し、78歳で映画監督デビューを果たした女性で、まさに「創年」の希望の星である。監督が少女時代を振り返って、自らの体験を香川京子さん演じる主人公に重ねたと思われ、同世代の女性を中心に共感を呼んでいる。

60年ぶりに館山を訪れた主人公は、終戦2日前に亡くなった青年将校の形見を戦跡で見つけ出す。そこには「私を忘れないでほしい」「自分の心に正直に生きてほしい」という手紙が残されていた。この出来事をきっかけに、それぞれに苦悩を抱えた異世代の女性たちは、人生を見つめなおし、新しい一歩を踏み出していく。せんぼん監督がふるさと館山に贈ってくれた映画は、現代に生きる私たちに夢と希望を与えてくれる。

映画を観た大学生から次のような感想が寄せられた。「館山の戦跡を見学した私には、映画がリアルなものとして実感できた。この映画は、平和研修で館山を訪れる人にとっては効果的な事前学習であり、復習教材にもなる。人と人とのつながりが希薄になった現在、人びとが支え合って生きていかれる社会づくりのヒントもある」と。

館山には映画館がないが、私たちは多くの市民に観てほしいと思い、上映会と監督講演会を企画した。驚いたことに、ここで最もふるい立ったのが、監督の同窓生をはじめとする70代前後の女性たちであった。女性の口コミパワーで映画券は完売し、ホールは2千人の来場者であふれた。畏るべし「創年」の女性たちよ! 今後このエネルギーをまちづくりにどう活かしていくのかが、少子高齢社会の鍵といえるかもしれない。

上映会の翌日、私たちはロケ地めぐりツアーを実施した。真っ青な海と空、まばゆいばかりの白亜の灯台、真っ赤な夕陽が映える海岸、昔ながらの六地蔵や桟橋など、ストーリーを追想しながら館山の魅力を再発見していった。とくに、平和への願いと命のエネルギーを象徴する「龍の地下壕(戦跡)」や「やわたんまち(八幡祭礼)」は圧巻である。どこをめぐっても映画のシーンを彷彿とさせ、もう一度映画を観たいという気持ちが湧いてくる。私たちは、この映画を館山の財産として末永く普及していくとともに、地域づくりの視点に立った〝シネマ・ツーリズム〟を実践していきたいと思っている。

ところで映画には、平和と命を象徴して、館山湾に生息するウミホタルが登場する。美しいマリンブルーの輝きは、今や館山観光の目玉となっているが、戦争中は軍事命令により子どもたちが採取させられていたという。2ミリ程度の小さな命を乾燥して粉末にし、水を加えると発光する特性を軍事利用しようとしていたのである。

平和研修の際、私たちはいつもウミホタルのエピソードを語っている。それを聴き、実際に発光を鑑賞した人びとは、その幻想的な輝きに感嘆の声をあげる。この感動からすばらしい楽曲が誕生した。大門高子作詞・藤村記一郎作曲による合唱組曲『ウミホタル〜コスモブルーは平和の色』である。

館山の平和研修に来訪した東京のK高校や千葉県立C高校の合唱部員は事前に練習をしてきて、当日のウミホタル鑑賞の際、全員に披露してくれた。館山の〝ピース・ツーリズム〟から生まれた平和の歌は、全国の合唱愛好家にも広がり始め、「館山に行って、戦跡とウミホタルを見学し、『ウミホタル』を歌おう!」が合言葉になりつつある。

私たちは市民に呼びかけ、「ウミホタル合唱団・安房」を結成した。歌い継ぐことを通して輪をつなぎ、ウミホタルの棲む平和な里海を次世代に手渡したいと願っている。

 

■市民が主役の日米民間外交 〜太平洋を渡った房総アワビ漁師〜

古代よりアワビは安房国の特産品であった。明治期になると、房総アワビ漁師たちは太平洋を渡って、カリフォルニア州モントレー湾岸域に移住し、アワビ産業を興した。暖流の黒潮沿岸域では素潜り漁だが、アメリカは寒流のためアワビ漁はされていなかった。漁師たちは、船底修理や海中土木工事に使われていた器械式潜水具を転用し、寒流でのアワビ漁を成功させたのである。

その後、アワビの缶詰やステーキが大ヒットしたため、次々と潜水夫が養成されて移り住み、日系人コミュニティを形成していった。ここのゲストハウスには尾崎行雄や竹久夢二、皇族らが滞在しており、日米交流の架け橋として重要な役割を担っていたと思われる。しかし日米開戦以降、太平洋沿岸の日系人らは砂漠の強制収容所への移送されていった。

一方、アワビ漁師のふるさと南房総は「第二の沖縄戦」が想定され、軍備強化と市民への統制が厳しくなっていた。食糧増産のため、花栽培はおろか花の種子を保持していることさえ禁じられた地域にあって、アメリカの家族から届いた手紙や写真が見つかれば、スパイ嫌疑をかけられかねない。戦争によって引き裂かれた家族たちは、どんな想いで生きてきたのだろうか。

戦後語り継がれることのなかったこの史実は、一部の市民により地道な調査研究が続けられ、「戦後60年」に大きな実を結んだ。アメリカの歴史学者と市民40名が来日し、私たちとともにアワビ漁師を顕彰する日米平和交流をおこなったのである。8日間にわたって、私たちはゆかりの菩提寺や生家、戦争遺跡などを中心に歴史・文化ツアーのガイドをした。さらに2年後には、アワビ漁師の二世と三世が来日し、日本に住む従兄弟たちとの初対面と先祖の墓参を果たしている。形式的になりがちな姉妹都市交流や単なる外国人誘致の観光戦略とは異なり、共通のルーツをもつ国際交流は、意義深い民間外交となった。

 

■市民が主役の日韓民間外交 〜館山と韓国浦項に建つ2つの供養塔〜

館山の大巌院に建つ「四面石塔」の各面には、印度梵字・中国篆字・和風漢字・朝鮮ハングルで「南無阿弥陀仏」と刻まれている。石塔を建立した雄譽霊巌上人は、大巌院開山の後、江戸に霊巌寺を創建するとともに、京都知恩院の中興の祖にもなっている高僧である。

なぜ、江戸初期の館山にこのような国際的な石塔が建立されたのか。資料はほとんどないが、秀吉の朝鮮侵略と家康の朝鮮通信使修交という時代背景のなかで、戦没者供養と世界平和祈願がこめられているのではないかと推察されている。

千葉県指定文化財でありながら、あまり省みられることのなかった「四面石塔」は、高校の授業実践を契機に注目されるようになった。ここを舞台にして、’02年の日韓交流年には研究者を中心とした日韓歴史シンポジウム、’05年の日韓友情年には韓国浦項製鉄西初等学校の児童20名を迎えた子ども交流が開催されたのである。

子どもたちは日本の家庭に民泊し、「四面石塔」や戦跡にふれる歴史学習のほか、ビーチコーミングの自然体験、茶道や房州うちわ作りの日本文化体験、さらには民俗音楽や舞踊の演奏会などを通じて、友情を育んだ。

一方、子どもたちが暮らす浦項市の迎日湾に面した九萬里には、日本船の遭難記念碑が建っている。1907年9月9日、日本で最初の水産教育機関である水産講習所の初代練習船「快鷹丸」が、朝鮮海域で操業中、嵐に遭遇し難破した。4名が亡くなったものの、残る乗組員は九萬里の住民たちによって救護された。偶然にも、水産講習所の実習場は館山にあり、「快鷹丸」も館山沖で訓練を重ねていたのである。

数年後、生存者や学校関係者によって遭難記念碑が建立された。その後、日韓両国間の悲しい歴史を経て碑は土中に埋没していったが、心ある韓国の人びとによって’71年に再建されたという。水産講習所は後に東京水産大学を経て東京海洋大学となり、今なお同窓会(楽水会)では現地と連携しながら碑の保存を続けている。

遭難から100年目にあたる2007年秋、私たちは楽水会メンバーとともに浦項市を訪ねた。先の子ども交流で民泊を受け入れた家庭を代表する母子らも同行し、初日には浦項製鉄西初等学校を訪問して旧交を温めた。子どもたちは言葉と時間の壁を超えて、再会を喜び合った。翌日は「快鷹丸」遭難記念碑を参詣し、地元住民との交流親睦会を開いた。100年前に嵐のなか先人たちを助けてくれたことと、現在まで碑をまもってくれていることへの感謝をこめて、私たちは浦項市長と地元住民たちに記念品を贈呈してきた。

地元の漁師たちは、私たちにその想いを語ってくれた。「ここ韓国最東端の岬は、まるで袋小路のような場所である。ロシア・中国・北朝鮮・日本に囲まれた海で生きていくためには、どこの国とも仲良くしなければならない。だから、遭難記念碑は友情の証としてまもっていかなくてはならない」と。

似たような逸話は、房総半島にもあり、島国日本にはどこにでもある。何気なく路傍に建つ石碑にも、それぞれ先人がこめた想いがある。足もとの地域に埋もれた些細な物語を語り継ぎ、市民同士が交流を育むことは、過去の戦争をも乗り越えて、善隣友好の絆を未来につむぐことにほかならない。

 

■アート・ツーリズムの実践 〜画家が愛した漁村の物語〜

明治の画家・青木繁が画友とともに館山の小さな漁村布良の小谷家に滞在し、≪海の幸≫を描いたのは1904年の夏であった。灼熱の太陽と大海原、マグロ延縄船でにぎわう漁村、漁師の頑強な肢体は、若い芸術家の才能を開花させるのに十分な刺激となったのだろう。夕陽を浴びた裸の男たちがフカを担いで浜を歩くシーンを描いた名画は、近代絵画として初めての国重要文化財となった。

青木繁没後50年を期し、布良に≪海の幸≫記念碑が建立された。当時の館山市長とともに、画家の坂本繁次郎や辻永、美術評論家の河北倫明などの著名人がその発起人に名を連ね、資金調達に奔走したという。隣接して建てられたユースホステルとともに、現代建築の第一人者であった生田勉東大教授によって設計され、趣意書によると記念碑は「美術振興の道標として」建立されている。

しかし、国内屈指の人気を誇っていた館山ユースホステルが廃業・解体されることが決まった’96年、国有地に建っていた記念碑も合わせて破壊し、土地を現状復帰するよう求められたという。かつて青木繁が逗留した小谷家当主をはじめ地域住民らは、過疎となった地区の子どもたちのために、記念碑保存を陳情し、破壊からまもったのである。今は「青木繁記念碑保存会」が結成されて、碑の保存や整備とともに、築130年になる小谷家住宅の文化財指定と活用を目ざした文化のまちづくりをすすめている。

光あふれるこの漁村に魅かれた画家は青木繁ばかりではない。≪海の幸≫から6年後、中村彝が同じ布良で≪海辺の村(白壁の家)≫を描いている。18歳で天涯孤独となり結核を患った中村彝は、療養で館山を訪れ、海を描きながら画家を志していった。当時、不治の病であった結核には大気安静療法と海水浴療法が提唱され、その適地である館山は転地療養の癒しの場であった。その後上京した中村彝は、新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻に見出されて支援を受け、画家の集まる中村屋サロンに出入りした。相馬夫妻にかくまわれていた盲目のロシア亡命詩人をモデルに描いた≪エロシェンコ氏の像≫は、後に国重要文化財となっている。

偶然にも、新宿中村屋の一番弟子だった故長束實氏は、昭和初期に館山へ出店し、全国唯一の暖簾分けとして「館山中村屋」の看板をあげた。2つの中村屋にはインドカリーやロシアケーキなど共通するメニューがあり、今なお館山の老舗として「なかパン」の愛称で市民に愛されている。

私たちは、≪海の幸≫や≪海辺の村(白壁の家)≫ゆかりの地を案内するときに、必ず中村屋の物語についても語っている。この縁をたいせつに思う私たちの活動に賛同した館山中村屋の現社長は、市民への贈り物として≪海辺の村(白壁の家)≫の複製画を原寸大で製作した。これを展示した館山駅前本店2階の喫茶室は、新たな「まちかどミニ美術館」となり、「創年のたまり場」になりつつある。

 

■ヘリテージ・ツーリズムの実践 〜たてやま・海辺のまちかど博物館〜

館山駅近くのせまい路地に、サイカチという古木がある。発音が「再勝」に通じる縁起の良い木とされ、枝に鋭いトゲがあるため門や柵の周囲に植えて鬼門除けにもされたという。元禄大地震では、この木に登った人が津波の難を免れたという逸話もある。最も重要なことは、いざというときに葉が食用、実が洗剤、トゲが解毒剤として活用でき役に立つというのである。合理性や利便性だけで伐り倒すのではなく、ここに残してきた先人たちの想いに耳を傾けてみよう。

このように地域に点在する素材の物語を磨き、点を線でむすび、地域全体を面として捉えていく考え方が「地域まるごと博物館」構想である。地域について深く学び、誇りを育んだ「創年」は、「地域まるごと博物館」の学芸員であり、新しい教育観光のガイド(インタープリター)である。とくにNPOメンバーには東京からの移住者が多く、それぞれの得意分野や技術を活かした地域づくり活動に生きがいを見出している。

地域活性化の第一歩は、ひと・もの・情報の交流である。その交流拠点(サテライト)として、地域コミュニティ・移住者・移住希望者・観光客が気軽に集える「創年のたまり場」を各地に設け、有機的に結びつけていくことが「地域まるごと博物館」実現の鍵となる。

その中核拠点(コア)として私たちが注目したのは、館山市名誉市民の故小高熹郎氏が生前に資料館として活用していた歴史的建造物である。氏の没後10年間閉館となっていたが、もとは大正期の銀行建物であったという。遺族と話し合った結果、「たてやま・海辺のまちかど博物館〜小高熹郎記念館」として開館し、NPOが運営することとなった。潮風で傷んだ建物は、「創年」たちが手弁当で補修しペンキを塗り直すと、みごとな白亜の洋館が命を吹き返した。

館山は関東大震災で98%壊滅しているが、地域には震災後に再建された大正ロマンの洋館が少なくない。現在私たちは、歴史的建造物を「まちかどミニ博物館」とする活用を呼びかけている。単なる古い建物が輝きだせば、市民も〝わがまち観光〟を始めるかもしれない。わがまち自慢のウンチクを語れる市民の数が増えれば、おもてなし指数もアップするにちがいない。まちの輝きは、ひとの輝きにほかならない。