手帳や書簡から見える寺崎武男の世界

調査報告 「手帳や書簡から見える寺崎武男の世界」

             愛沢伸雄(NPO法人安房文化遺産フォーラム 代表)

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掲載誌『寺崎武男・生誕140年」シンポジウム冊子

 2018(平成30)年、寺崎武男の三男裕則・由紀子夫妻から連絡を受けた。自宅に所蔵している絵画作品を縁のある美術館に寄贈したが、まだ大量に残っている。捨てるのは忍びないので引き取ってもらえないかという。最適の保存管理は保証できないが、捨てるよりはましということで、膨大な書簡や手帳・スケッチ帳などの資料とともに引き受けることとした。

翌年のGWには旧館山市立富崎小学校を舞台に「学校まるごと美術館」を開催し、多くの来場者に見ていただいた。その後、房総半島台風から新型コロナウイルス感染拡大が続き、何も手をつけることができなかったが、1883(明治16)年3月30日生まれの武男が、生誕140年を迎えることに気がつき、懸案であった資料の調査研究に着することとした。わずか半年に満たない短期間で、500枚を超えるハガキを解読し、手帳やスケッチ帳の内容を吟味した。これらの調査研究から驚くべき人脈の交流が明らかになってきた。推測の域を出ない部分もあるが、仮説を立てながら、調査報告の拙稿に取り組んでみた。海外では高い評価を得ながら、国内ではあまり知られていない「幻の画家」寺崎武男に光を当て、後世に語り継ぐ一助となることを願う。

 

1. 寺崎武男の著書『崋山』執筆の動機

寺崎武男は、1926(大正15)年に『崋山』を執筆し、美術・文芸誌専門のアルス社から出版している。渡辺崋山は、江戸後期の化政文化期を代表する画家で、谷文晁に南画を学んだ後、西洋画の技法を取り入れて写実的画風を確立するとともに、肖像画にすぐれていた。天保3(1832)年に田原藩(現在の愛知県東部)の家老に就任すると、危機的な藩財政を立て直すとともに、救民のための義倉「報民倉」を建設するなど、天保の大飢饉では餓死者を出さなかったという。また海防掛も兼ねて村々の海岸防備や見張り体制を固めた。外国事情に関心をもち蘭学や兵学の研究をするなかで、幕府の対外政策の危機的な状況を指摘した。後には『慎機論』を著して幕政を批判したことで、1839(天保10)年の「蛮者の獄」に連座し、最後は自刃している。

武男はなぜ、崋山に注目したのだろうか。著書には、「この小書を崋山先生八十五年忌に際し 祖父助一郎の名を以て 謹で 御墓前に捧ぐ」と扉に記し、序に「寺崎家とは因縁深い関係があったので、敬慕の念、親愛の念も亦一層強い」と述べている。寺崎助一郎は、崋山に師事した儒学者であり、親しい関係にあった。助一郎が江戸から派遣された長崎奉行所に駐在していた時、そこで知り得た外国事情を密書で伝えるほどの親交があったという。武男の著書にはそれを示す記載は見当たらないが、幼少時を振り返って、資料を虫干しする際に崋山の書籍や書簡などを見た憶えがあると記している。

祖父のことは父遜(ゆずる)から聞いていたと思われるが、芸術に関する論文等はあるものの、家系に関する記載はまだ見つかっていない。資料の少ないことについては、「惜しいことには私が外遊中家が火災に罫かつたために焼失」したと武男は自著に記している。

武男は帰国後、なぜ崋山の調査研究に取り組んだのだろうか。武男の画家人生において、崋山はどのように位置づけられるのだろうか。今回の資料調査では、とくに「自宅火災」に注目しながらさぐってみたい。

まず、東京赤坂の母セツから武男宛へのハガキや、武男から母宛の手紙を見ると、「十一月十三日の御ハガキ及呉氏よりの手紙受取候、赤阪の家、消失の由」とあり、自宅火災は1915(大正4)年10月31日に起こったとわかる。1907(明治40)年に東京美術学校を卒業しイタリアに渡り、7年の歳月が経った1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発し、武男は戦禍の推移を見ながら帰国を考えていた矢先のことであった。本格的に画家人生を歩む決意を固めていた32歳の武男にとって、自宅火災は大きな衝撃であったにちがいない。

 

2. 転機となった自宅火災と画家への決意

ヴェネツィアでの美術活動や日本語教師の職を切り上げて、帰国する算段を整えていたときに知らされた自宅火災は、武男の人生において大きな転機となった。崋山に関する書籍や資料もすべて灰となってしまった。

母 寺崎セツ

 

母セツは、戦禍のヨーロッパにいる武男が心配の種であったことに加え、自宅の焼失に後悔と不安を募らせることになる。これまでの母からの支援に感謝している武男は、母を気遣う優しい手紙を1915(大正4)年12月29日付で出している。

武男の心境を辿ってみると、「消失ハ事実、不幸の事なれど、命さえあれバ何んの事ハ無く…総て定まれる運命と御あきらめ」といい、「赤阪の家及富ハ是れ悉く母上の力によりてなるもの故、御心配や御気ぐろう決してあらせられまじく…斯くあらねバならぬ様定まれる運命」と母を慰めている。すべて失って、「無一物とハ人間の生活の真意義にして生れるも死するも皆無一物となる事消ゆる事…所有するとか所有せぬとかハ一時の問題」とし、「かえすがえすも御力落しなく諸情を御さとり有り、反て勇気を御つけなさる可く候只懸心にならぬハ余りの驚きや御過労によりて御健康を害され」ないようにと力づけている。

焼失した自身の作品については、「小生の絵などハ決して決して御心配なく…此二三年に小生ハ大小約五,六百枚も出来候、其中三百枚ハたしかに展覧会出来る…小作なれど美術の価値ハ其大小の差に無之…大部分風景にて小生の個人画風あり新主義でもあれバ自身期待致居候、前の作の消失など意にとめず」とイタリアで描きためた作品が多いことを伝え、「小生ハ過去より将来に重きを置き現在に極力働かんとする」と母を安心させようとしている。一方、「家の古画、掛物の消失ハ残念」と書いてあるのは、渡辺崋山などの書籍や資料、貴重な絵画が焼失したことと思われるが、「既になった事に対し、御くやみなされましく物ハ遅かれ早かれ消え」ると達観している。さらにイタリアで見聞してきた戦乱と重ねながら、「災難ハ到る度に候、殊に近時ハハ子を失ひ父を失ひ財産ハ無論にて戦の影響限り無く其を思へバ大した事にハ無」いと述べ、この悲しみを乗り越えていこうとする思いを推し量ることができる。

母には、「苦難ハ人を玉とすると申し候、恐れなく勇気をまして御くらし」てほしいと述べ、「過ぎし今日までの生活を思てバ皆母上の御力にて皆んな子供も他人の子以上に幸福に」生きてこられたことを伝え、兄弟が皆「最高の学校を修業し健全なる体を得ただけでも母上の任務ハ総て盡され…小生の如き今日まで母上の御影を以て自分以上の生活も修業も得たる」と感謝を述べている。母に寄り添う武男は「母上の御弱り遊バされ□せぬかが第一の懸念」といい、「直ちに帰朝御慰め申可く其のみ考へ居り」と伝えている。「若し帰朝費なけれバ小生三等で大使館より切符をもらって帰る」と負担をかけまいとし、「其の最後の手段に出でざるまでも肖像が成作にても売りて工面す…小生ハ今日迄十分自分の及び限りを盡した故、持ち帰る成作か他人に不評判でも致方なく…兎に角日本にて十分たたいて試みる可く勇気ハ満ち満ち致居候、大作ハ帰朝後日本の材料にて致可く…出来る可き範囲に極力盡して進む」と、画家としての強い決意を宣言している。

自分は「常に来る可き運命を受け、其に打勝ちて尚、他の運命を開きて生活」するから大丈夫、「命あっての物種に候、母上にも其のみ御気をつけ遊バされ度願」うと重ね重ね気遣っている。帰国時期については学校の問題もあるが、今の戦況ではイタリアからの航路が「敵の潜航水雷艇及機械水雷の…危険多」いため、「英国を通り亜米利加船で亜米利加を通過して帰れバ或ハ安全な」可能性が高いと伝え、「出来得るかぎり安全に無事に帰朝…第一に幸福」と、母の不安を払拭しようとしている。さらに、「色々気がもめて一通りの仕事でハ無く…小生の家ハ当分ハ房州か□州相州の海岸に田舎ずまいして十分写生を致度…金取りに肖像などハ東京にてかく」と今後の方針を伝えている。これらはすべて有言実行となっていく。

また、「何なりとも仕事して金とりも致可く…展覧会へも出品致す可く」とともに、「派も主義もえらバず…自分で展覧会も致す可く」という。そのためにも「大に頭をひくくして、どしどしやる決心…大家にハ此社会的修業の後に自然になれる」と考えていた。「出来るだけを無理なさらずに帰朝費として御送り」いただき、自分は「十分倹約致す可く…旅行の計画も中止」するという。将来的には「名を成して自力にて又巡視修学に洋行出来る」ようにしたいと心構えを語っている。そして、「悪運の極ハ幸運の来るものと御期待なされ余り御心配御力落しなく、ひたすら御健康を注意なされ、尚々御気楽に御くらし」になり、自分は「色々恩不便な事もあらるならんも、小生帰朝致せバ何んなりとも致可く御孝養」したいという。これは、崋山が母親に対して示した孝養の実践と重なる。

最後にこれまでのイタリア滞在を振り返って、「最終の滞在故、注意とつつしみとを以て約十年□も何等の恥ず可き」こともなく、「事を完うして帰る可く…他の人びと等に比して…青春の時代に有り得るあやまちだになく…金の事も交際上の事も一つのしくじりもなく…去るに臨みても一人の泣くものも悲む人もなく」「いささか馬鹿げた生活をなしたたれど、斯くある方まちがいなく…人からハ敬愛を以て迎へられ」ていることを誇りとし、自信をもって生きてきたことを伝えている。そして、「今日までの滞在の無益ならざりしハ後来御認めある可く候、将来ハ十分の発展仕可く候、かえすがえすも御体御大事に願上候渡様御家族、皆様御無事と思居候よろしく願上候、此度の事ハさぞかし残念の□ならんも運故、御あきらめある可く候、小生ハ一日も早く帰朝し、働いて、取りかえしのつく如く奮励致可く候」とむすび、大きな衝撃のなかでも悟りを得た境地が読み取れる。

イタリアにも戦禍が広がるなか、母セツと長兄渡の連名で11月13日に出されたハガキに「呉氏より申送り通り、宅ハまるやけに相成候得共、運命とあきらめ被下長年のおまへのたんせいノ画をやき、気の毒に存候、それもさだまる運に候と思ひ被下候、必ちからをおとさぬ様にたのみ候何物も約束とあきらめ可被成候」と伝え、11月14日付では次兄熊雄が従弟の吉田三郎と連名で「先月末赤坂の家は全焼した。何物も出ない父祖以来の丹精を火の舌になめられ…逃れた。悲むべからず運命である。艱難汝を玉にすといふ。敢て更に奮闘せよ」と激励している。

 

3. 崋山の思想と実践に学ぶ

前述のように、母宛への手紙には武男の心境の変化が見られるが、1915 (大正4)年3月7日付の次兄熊雄宛のハガキには、画家には戦争に反対する義務があると語っている。「若し戦になってベニスか危険なれバフロレンスの方へ行く可く同所ハ古美術にハ最も宜しく小生ハ今ハ最新画論及主義より自己独特の画派を立て人と研究…今世美術も戦の世にあり…政治としてハ主戦軍国主義ハ大反対の一人に候…今年帰朝するつもりなりしも平和の後の欧州を見たく…戦後の殺人場(即戦地)を写生して日本にて展覧会…世にミニタリズムの非を示し人道の那辺に存するかを認めしざるハ又画家の義務」と書いており、この内容は母には語ってはいない。芸術に造詣が深く、画家や美術界に忌憚のない意見を述べる次兄に対してだけは、本音や政治的な心境を吐露できたのであろう。

目の前で起きている戦争にどのような向き合い方をするか、自宅焼失という衝撃的な出来事とも重なって、武男は大きな転機を迎えていた。帰国以降10年にわたり、関係資料を求めながら地道に渡辺崋山の調査研究に取り組み、1926(大正15)年に著書『崋山』を出版したのである。この間、1923(大正12)年に起きた関東大震災によって収集資料を再度失ったと思われ、ほとんど残っていない。ただ幸いにも見つかった手紙とハガキ各1通は、武男の熱意が読み取れる貴重な証拠といえる。

1通は、1921(大正10)年1月1日付の大阪東区河原町の岸本吉左衛門からの書状である。「崋山先生と立原との関係に就て…私の知る範囲の立原杏所(立原翆軒の長子)…は水戸藩士烈公に仕へ諸藩の事情を知り三百諸僕の藩士に交り…交友極めて広かった…平生最も耳を西洋の事情に傾け青地林宗、渡辺崋山、幡崎鼎、坪井春道、髙野長英の徒と深く交じり…殊に崋山先生とは意気相投合して刎頸の交りかあった…水戸に…立原翆軒と藤田幽谷(翆軒の門下)と師弟の…軋轢…然し其の子等立原杏所、藤田東湖の世となりては胸襟を披きて親密なる交際をなし…崋山先生との関係のあった事…当時崋山先生の肖像の得意なるの故に依って杏所父翆軒の肖像を画く事となつた…全精力を以て製作された事…之れ以上には別に知らない」という内容であり、武男の依頼に対する返信であるようだ。

渡辺崋山には「崋山十哲」と称される10名の弟子がいた。椿椿山・福田半香・平井顕斎・永村茜山・井上竹逸・山本栞谷・小田甫川・立原春沙(立原杏所長女)・斎藤香玉・岡本秋暉らである。立原翆軒の長子杏所の長女春沙が弟子であったので、立原杏所についての調査報告である。祖父寺崎助一郎については書かれていないが、助一郎と崋山の関係はどうなのか、とくに儒学者立原杏所との関係や、絵画の弟子である杏所長女の立原春沙に関心をもち、その痕跡をさがしていたのかもしれない。助一郎と崋山が儒学で繋がっていたと考えれば、このように関係者にあたって調査を進めていたといえる。

もう1通のハガキは1925(大正14)年3月18日付の小説家の藤森成吉からのものである。「無事田原へまゐり、細井氏からいろいろ御世話をうけ、案内して貰ったり人に会ったりして□ます。やはり、土地へ来て見なければわからないことがあります。御托し下さった供華料は細井氏がたに一向ダメな人間也とて、崋山会のほうへ寄付と言ふことになり、御礼にとて崋山の鄭老の詩の扇の複写扇を貰いました。たいへんよい扇であります。帰京しましたら御渡し申します。‥丁度よい機会があり、崋山会の所特別観られました」という。

藤森は東京帝国大学独文科在学中から小説家として活躍し、卒業後は社会主義に関心をもち革新的なグループで小説や戯曲を書き、その後歴史小説を発表している。長編小説『渡辺崋山』(改造社・昭和10年)や戦後に『渡辺崋山の人と芸術』(春秋社・昭和37年)を出版しているが、学生時代に崋山の絵画に惹きつけられ、その後崋山の苦難に感動し、時代的背景に関心をもったことが著作に繋がったと述べている。だが、本格的に崋山研究に関わったのは、もしかすると寺崎武男との交流や著書『崋山』がきっかけかもしれない。藤森は『渡辺崋山の人と芸術』のなかで、武男の著書と評論の一部を引用している。それは、崋山が肖像画だけでなく動的スケッチにおいても、他の画家がやらないことをやった名手だという指摘である。このことは、武男が絵画に向き合う姿勢にも関わることである。崋山が懐中にスケッチ帳を忍ばせていて常にスケッチするという姿勢を学び、武男も実践していたといえる。本調査の寄贈資料には大小多数のスケッチ帳があり、そこには崋山の理念と実践が染み込んでいるように感じるのである。

武男が崋山の研究をすることは、時代を生きる人間として、あるいは画家として何かを探求したはずである。著書『崋山』の序には、「崋山自身の資質、作品の価値などを観るに苦心した…時代の人としての崋山を生かす可く努めた…時代の先駆であったので、その最後は悲惨で…単なる画家ではない」と述べている。前半部分では口絵としてかなりの作品を紹介し、後半では「退役願書稿」や「慎機論」をはじめ日記や書簡なども紹介するとともに、最後にまとめて作品解説をしている。武男自身のことを語っている記述はないが、崋山の人間性や思想的実践的な生き方を述べることで、祖父助一郎や父遜の生き方と重ねながら、自らの画家としての姿勢を示そうとする意気込みを感じる。つまり、崋山は「単なる画工として、黙々と…安逸の世界に沈湎しながら作画三昧に耽ることは彼のやうな者には到底出来ない」人物であり、時代のなかで「新派を以て任じ、一脈革新の英気を以て対抗していた…からこそ人格的な、清節を尊ぶ、気骨のある画家らしい画家が出…崋山自身も亦それ等と伍して語る可きの人物」であったと評価している。

武男は、長いイタリア滞在を支え続けてくれた母セツに応えるために、「小生の最大なる生活の希望及理想ハ母上に孝養を盡し楽しき生活」のために「一つにハ絵画を以て家名を挙げ亡き父上にも御満足を願ハんとの年来の望み」と高らかに宣言し、「男子ハ先つ自分の位置と職業ハ立て生活の土台をつくた後結婚などハ考へ可きに候小生丗五才までハ大活動を致す可く先新派独立派の絵画に旗挙げし其模様か有効ならバ一家の大家となる道につく可く然らざれバ生活の為めの画家となり人の依頼に応じ又人すきのする絵をかいて金の為めに働く可く候衣食の自から出来ざる人間ハ人間の値ハなくと思ひ候兎に角大にたたいてやつける」と、1915(大正4)年10月14日付書状で今後の人生設計を綴っている。母親へのリップサービスなのか、本心と思われない威勢がよく立身出世的な意気込みに溢れて、その違いが鮮明である。

崋山の思想や実践を受け止めていた祖父や父の生き方や言葉を振り返りながら、変転していく時代のなかで現状に甘んじることなく、常に革新の英気をみなぎらせ、人格的にも清節を尊んで気骨のある画家を目標にしたと思われる。

 

4.祖父助一郎の生涯をさぐる

外国要人の通詞(通訳)であったという寺崎助一郎については、武男の三男である寺崎裕則氏が調べて著した内容が若干伝わっている。本調査では、幕末の長崎の動きに関する書籍や史料にあたってみた。すると、『徳川実記』(第4編)や『国史大系』(第51巻新訂増補)をはじめ、『大武鑑』や『長崎町方史料』、『長崎奉行所記録口書集』(下巻)、『長崎市史』(第8)、『古事類苑 官位部23』、『長崎談叢』『長崎県史料展覧会出品目録』などに数多く登場する重要人物だとわかった。

寺崎助一郎宅(江戸の古地図)

 

 

『大武鑑』や『長崎町方史料』などの記載から、1853(嘉永6)年と翌年に江戸城西御丸附御賄組頭として江戸にいたことや、その後の1855(安政2)年から1663(文久3)年まで長崎奉行支配調役として、江戸から長崎に派遣され長崎奉行所に駐在していたことが確認できた。当初は長崎奉行へ単身で異動していたが、1858(安政5)年に家族と暮らす許可がおり、妻子が長崎に向かったという記録が見つかった。幕末における長崎奉行の役職は激務であったため、家族との再会や同居は大きな喜びであったと思われる。長男遜は幼少期の5年ほど長崎で教育を受けたと思われ、父親の仕事柄、新しい学問や海外の風を感じ吸収していったのではないだろうか。

ところで助一郎の出自については、若菜家から寺崎家の養子になったという伝承はあるものの、その時期や理由はわからない。今のところ寺崎家や若菜家の由来をさぐる手掛かりはなく、幕末にどのような交流や姻戚関係があったのかは推察するしかない。仮説とする内容が多くなることをお許し願いたい。

助一郎は若菜家から寺崎家に養子に入り、山田家より嫁いだ妻ナツが長男遜を生んだのち早世したため、妹フユが後妻となり長女町を生んだと伝えられている。時期はわからないが、町は若菜家の養女になっている。遜の出生は、寺崎家の墓碑や当時の資料から1852(嘉永5)年とわかった。その翌年と翌々年に江戸城西御丸附御賄組頭を務めた助一郎が、長崎へ異動する前に再婚して町が誕生したと仮定してみた。

助一郎の妻子が江戸から長崎に向かったのは1858(安政5)年なので、江戸城詰めの役職時に家族4人とすれば、遜は6歳、町は4歳と考えられる。江戸城西御丸附御賄組頭になった2年前にナツと結婚したとすると、1850(嘉永3)年頃に助一郎は20歳前後となる。そうすると生年は1830(天保元)年頃ではないだろうか。それでは没年はいつなのか。過去帳も墓碑もなく不明のままであるが、母セツから武男に宛てた1912(明治45)年4月2日付のハガキがヒントとなる。「只近頃者先代様五十年ニ相当法事を致度」とあり、五十年法要から逆算すると、助一郎が亡くなったのは1863(文久3)年頃である。1915(大正4)年6月29日付のハガキには「六月廿九日雨天ナリ祖父助一郎様の正月」とあることから命日は6月29日とわかった。この仮説から計算すると、助一郎が亡くなったのは33歳前後と思われ、遜は11歳頃、町は9歳頃となる。未亡人となったフユは遜と町の兄妹を連れて江戸に戻った後、どのような暮らしをしたかはまったく不明である。町が若菜家の養女になったのがこの頃だとするなら、残された母子の面倒をみたのは助一郎の実弟で若菜家の当主・三男三郎(みおさぶろう)であったかもしれない。若菜三男三郎についての詳細は後述する。

 

5.ポンペやオールコックの通詞(通訳)助一郎

前述の書籍・史料以外に、助一郎が関わる重要事項が『明治前日本医学史』(第4巻)や『長崎医学百年史』、『西洋医術伝来史』(再版)、『名古屋学院大学論集』、西岡淑雄論文『オールコックの見た大坂の芝居 その他』などにオランダ語など通詞(通訳)として記載されている。これらに書かれているのは日本医学史や幕末外交史にとって重要な出来事であり、寺崎助一郎という人物にあらためて光を当てる必要がある。

まず1つ目は、1857(安政4)年、長崎に来日したオランダの軍医ポンペが、医学伝習生として江戸から長崎に来た松本良順ひとりだけに講義をしていたが、伝え聞いた医師ら14名が集まり講義を受けることになった。これが後に初代陸軍軍医総監となる松本良順により作られた医学伝習所のはじまりである。患者の身分にかかわらず診療する病院をめざしていたポンペは、幕府に病院設立が急務と訴え、1859(安政6)年に病院建設が許可された。その建設工事の窓口として、長崎奉行支配調役の寺崎助一郎と橋本良之進の2名が病院取立掛に任じられたのである。1859(安政6)年から2年間、病院取建掛という立場で医師ポンペと協議しながら病院建設を進めていった。こうして日本初のヨーロッパ式病院が開設され、そこに医学所も誕生したのである。ポンペの病院構想や工事指示を正確に伝えたのが、助一郎らのオランダ通詞(通訳)であった。

2つ目には、オールコックというイギリス公使の日本滞在に関わり、その通詞(通訳)として行動をともにしていたことである。オールコックは1809年ロンドン郊外で医師のもとに誕生し、15歳のとき父のもとで医学を学び、イートン校卒業後、外科医ガスリーに師事した。医学を学びながら芸術にも関心をもち、パリに留学して名画や文学にも触れていた。フランス語とイタリア語を習得し、帰国後21歳で医師免許を取得して軍医になり従軍したという。だが過労からリウマチを発症して両手の親指の自由を失ったことで医師を諦め、34歳で外交官になった。以来、中国の領事を経て、1859(安政6)年に来日して初代駐日イギリス総領事兼外交代表となり、その後に公使に昇任して日本との貿易交渉に関わった。イギリスにおける日本研究の先駆者であり、日本の美術工芸品を高く評価していた人物であった。

開国後の日本に3年間滞在し、幕末の政治・外交を著した記録は、後に『大君の都 幕末日本滞在記』(翻訳版・岩波文庫)として出版されている。この書籍は外交史というだけでなく、幕末日本を知る極めて重要な記録といわれている。1861(文久元)年6月1日、オールコック一行が長崎の出島から江戸に向かう旅の記述がある。はじめは九州内の陸路を歩き、下関から兵庫までは海路を使って大坂に到着し、数日滞在の後、陸路をたどって7月4日に江戸に到着している。この一行には「Tarasaki」という名が原書に記されており、これが通詞(通訳)を担った寺崎助一郎とされている。なお同行者の一人にイギリスのタブロイド週刊紙の特派画家であるワーグマンという人物がいた。長崎から江戸まで旅行記事をイギリスに送っているが、その記事にも、通詞(通訳)は長崎奉行支配調役の寺崎助一郎と記載されている。

 

6.外交に尽力した助一郎と実弟若菜三男三郎

1856(安政3)年タウンゼント・ハリスは日米和親条約に基づき、初代アメリカ総領事として下田に着任している。下田の玉泉寺をアメリカ総領事館として下田条約を締結するとともに、江戸に出向いて通商交渉を開始し、1858(安政5)年には日米修好通商条約を調印している。一緒に来日した秘書兼通訳のヒュースケンを通じて、接待役の下田奉行支配組頭若菜三男三郎と交渉をもっている。この人物こそ、寺崎助一郎の実弟である。

寺崎家と若菜家の家系は不明のままであるが、幕末において外国との窓口になる役職に付いている。兄弟そろって語学に堪能で、長崎と下田という要地において外国要人の通詞(通訳)を担っていた。両家とも、外交や海防に関わる譜代大名の藩にいた人物ではないかと推察される。若菜は1861(文久元)年、攘夷派によるヒュースケン暗殺事件や、翌年の薩摩藩士によるイギリス人殺傷の生麦事件などの解明に関わっていた。その後の戊辰戦争などでは幕臣としてどのような役割を果たしたのであろうか。

幕末において開国をめぐる欧米諸国との綱引き、国内での尊王攘夷のもとで討幕運動が揺れ動いていた。11歳前後の遜であっても、諸外国の事情に精通する父のもとを訪れる人びととの面識はあったかもしれない。戊辰戦争など幕府滅亡の動乱により昌平黌は閉ざされ、亡き助一郎の関係者や弟の若菜三男三郎などの援助で、英語などを勉強しながら、外国人との接触機会が多い環境で、遜は成長していったと思われる。なお、遜の妹・町は若菜家の養女になり、三男三郎のもとで育っている。後に、遜の電信技師仲間となる吉田正秀に嫁いでいる。

幕末期のイギリス人アーネスト・サトウという人物は、1862(文久2)年にイギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任し、その後通訳として日本文化を深く理解した外交官であった。助一郎・三男三郎兄弟はこの人物とも面識があったと思われ、その後、遜とも交流が続いた。前述の特派画家ワーグマンとサトウは知り合いであったので、助一郎の話はワーグマンを通じて伝えられていた可能性が高い。また生麦事件では若菜三男三郎が事件解明に関わっていたので、サトウとも面識があって親しくなったと思われる。その後、様々な外交交渉の場を通じて数多くの要人たちと会い、とくに西郷隆盛や大久保利通、伊藤博文、勝海舟など、公的にも私的にも親密な交流があったといわれ、幕末から明治維新に駐日イギリス公使などで重要な役割を果たしていた。

1872(明治5)年に寺崎遜は英国留学という形で海外派遣を実現した。これは、幕末の長崎や下田にいた寺崎助一郎や若菜三男三郎が成しえなかった姿である。若菜家の当主三男三郎は明治の若者の姿を見ながら1875(明治8)年に亡くなった。神奈川県判事・寺島宗則やイギリスのアーネスト・サトウなどは、遜が助一郎の息子であり若菜が叔父であると聞いて、さまざまな人脈をつくってくれたと思われる。後に遜は英国特命全権大使のアーネスト・サトウと懇談することがあり、翻訳許可をもらって宮内省から『山田長政事蹟合考』という書名で出版している。

 

7.寺崎家・若菜家・松澤家の関係を推理

武男の母セツの出自は、『人事興信録』7版(大正14年)の「寺崎渡」紹介の欄外に「群馬、松澤重右衛門長女」と記載されている。さらに寺崎家の墓碑には、セツが1935(昭和10)年89歳で没したと刻まれている。

これまで人物の生涯や家系について不明なことが多いまま仮説や推察で述べてきたが、ここでセツが群馬の松澤家出身とわかった。これを手掛かりに寺崎家や若菜家、松澤家について考察してみたい。

前述のように幕末の外交・海防に関わる幕府の役職は、いわゆるエリート官僚とされている。寺崎助一郎や若菜三男三郎などは選ばれた藩の人材であり、さらに上層部から任命された藩士は幕府の外交官僚といえる。では外交や海防などに重要な役割を担っていた関東の譜代大名の藩士で、幕末に江戸詰になるような寺崎姓や若菜姓をもつ人物がいたであろうか。セツという女性は「武士のような上州の娘」といわれ、男装で嫁いできたという武勇伝がある。明治期に群馬県の松澤家が寺崎家と婚姻関係をむすぶ痕跡があるか、外交・海防に関わってきた藩を想定し、北関東の範囲に絞って調査してみた。

・御武器預下役 六石二人扶持                                                                              寺崎清三郎

・御賄役御広敷御賄役 江戸詰料三両 十石二人扶持 内四石御用給米 一石足米   寺崎五兵衛

・御用席子供 二人扶持                                                                                               寺崎専太郎

・御武器支配  六石二人扶持                                                                                       松澤重三郎

・御武器支配  五石二斗二人扶持  御武器細工人 一代組貫                                     寺崎嘉右衛門

・その他 寺崎恒次郎・寺崎守愛・寺崎音作・寺崎庄左衛門・寺崎由之助・寺崎利憲など

そこで浮かんできたのが、房総の海防でお馴染みの忍(おし)藩である。忍藩は現在の埼玉県行田市域であり群馬県境で隣接している。忍藩の藩士名簿は、1854(嘉永7)年頃と推定される「忍藩分限帳」が公開されている。まず、寺崎姓や松澤姓をもつ藩士がいるかを見てみると11名が存在し、役職も記されていた。おもな人物と役職は次のとおり。

 

このなかで注目されるのが、江戸詰となっている「御賄役御広敷御賄役 寺崎五兵衛」である。寺崎助一郎は、江戸詰で西御丸附御賄組頭を2年間勤めていた。同じ寺崎姓をもつ助一郎と五兵衛が、解明のヒントになるかもしれない。また、「御武器支配 寺崎嘉右衛門」は御武器細工人であり、その仲間に「松澤重三郎」という人物がいる。両者が同じ役職で親しい関係にあり、セツの父「松澤重右衛門」と「松澤重三郎」が親戚関係にあるとすると、同じ忍藩士という縁で寺崎遜と松澤セツの結婚の可能性も考えられる。飛躍した推論であるが、あくまで仮説として、これを裏付ける資料調査を続けながら解明の糸口を見つけていきたい。なお、1810(文化10)年に忍藩は「進脩館」という藩校を設立している。教授には芳川波山ら数名の儒者や洋学者がいたといわれ、渡辺崋山らの関係者と交流していた可能性はある。幕末には寺崎梅坡という「寺崎姓」の儒者がいたことにも注目しておきたい。

 

8.武男の父遜のあゆみ

遜は、神奈川県判事・寺島宗則との出会いもあり、1868(明治元)年に16歳で神奈川県兵になり、同時に横浜の神奈川県立修文館の生徒として父や叔父のように英語を身につけていった。この語学力を足掛かりに、近代日本黎明期の電気通信分野の事業に関わっていったと考えられる。

 父 寺崎 遜

 

このとき寺島は、戊辰戦争での様々な事件処理を迅速におこなうため、東京-横浜間に電信機の架設を計画してイギリスに人材や資材を求めていた。来日したイギリス人ギルバートから日本最初の電信教育を受け、頭角を現したのが修文館生徒の寺崎遜であった。すぐに修文館の吉田正秀ら11名によって電信教育がはじまり、遜や吉田らは和文モールス符号をつくった。今日のモールス符号の原型である。後に逓信省電務局長になる吉田は逓信技術官僚の中心人物であるが、若菜家の養女になっていた遜の実妹町を妻としていたので、ともに助け合って新しい電信の世界を切り拓いていったのである。

遜は翌年、伝信機伝習御用から電信機重立取扱役、さらに工部省電信機掛、電信権少属となり電信技術グループのリーダー格になり、東京-横浜間の鉄道開業にともなって鉄道信号設置に関わった。

1872(明治5)年、遜は電信技術研究の留学生として岡崎重陽とともにイギリスへ派遣された。このことは当時の書生たちに刺激を与え電信界を志すものを増やしていくきっかけとなった。電信オペレータの需要が高まり、いわば公立の専門学校に当たる電信修技校が設置された。3年間のイギリス留学から帰国すると、遜は電信修技校の教授となりイギリス最新の研究成果を生かし、翌年には電信建築監督長ギルバートの通訳官を兼ねて、指導者として全国各地に出向いていった。

『日本電気事業発達史後編』(加藤木重教著)には、1873(明治6)年に電信修技校に入学して遜に学び、2年後に卒業した旧佐賀藩士の福島徳太郎が思い出を述べている。福島の妹オクが東京の開拓女学校を卒業すると、英国から帰ってきた遜と結婚したが、オクは早世したというのである。自宅で旧佐賀藩士たちがよく会合を開いていたとも語り、なかでも大隈重信は電信事業を進めるため電信頭に石丸安世や郵便事業の副島種臣、元老院議員山口尚芳、開拓使大判官西村貞陽らを集めて、電信建設構想を検討していたと証言する。遜とオクの結婚には電信関係の旧佐賀藩士らが関わっていたのかもしれない。結婚後、すぐに妻を亡くした遜は、松澤家のセツと再婚し、1876(明治9)年には長男渡が誕生している。

明治期の電信事業は、国家の威信を懸けた戦略として全国津々浦々に広がっていく。なかでも大きな契機になったのが1877(明治10)年の西南戦争であった。遜をはじめ巣立っていった教え子たちが電信建設に関わり、遠方で起きた内戦の終結を電信が左右することとなり、使いこなした政府軍が西郷軍を抑え込んでいった。この成果により電信事業は海外にも向けられ海底ケーブル事業などが進展し、その後の日清・日露戦争への国家的な対応がはじまっていく。

イギリス留学によって欧米諸国の電信技術の発展を見聞してきた遜は、海外との技術研究の交流とともに、各国の電気通信事業を統計的に調査研究し、統計局研究誌「電信統計表」(明治14年)、「万国電信線(1879年版)」(明治16年)などを発表している。日本の統計学の基礎を築いた呉文聡は、寺崎遜と工部省電信寮の同僚であり、その後ドイツ社会統計学を日本に最初に紹介した杉亨二から学んだという。遜も呉から統計学を学び、その後東京統計学協会に入会し、呉とともに統計学を普及する活動に取り組んでいった。この呉文聰の長男呉建と武男は、独逸学協会学校中学の同級生であり、画家・寺崎武男の生涯の友となる。東京帝大医学部教授になった呉建は寺崎家に関わる医師として家族ぐるみの付合いになっていった。

1883(明治16)年3月、遜は古巣の神奈川県庁に戻っているが、その後宮内省に勤め、1885(明治18)年には伏見宮の洋行随員などになっている。伊藤博文や山縣有朋は近代的な国内体制の整備を急務としていた。1888(明治21)年に地方制度調査のためヨーロッパ視察に山縣が出向いた際、遜は通訳の随員として工学博士の古市公威らとともに同行している。翌年には地方自治制度を立案するために地方制度編纂委員会が設置された。ドイツの法律家モッセを法律顧問に、山縣は委員長となり、委員は青木周蔵や芳川顕正、野村靖、白根専一、荒川邦蔵、山中寛六郎らとともに寺崎遜が任命された。なお、『台東区史 下巻』(1955年)によると、「地方制度編纂医委員会の当時の記念油絵が‥地方庁に保存されているが、右の人々が全部描かれていて、テラサキ・タケオのサインがある」と記載されている。奇しくも、現在の市制町村制につながる委員会には父がいて、その記念油絵は息子の武男が描いたというのである。この絵画は、現在の総務省に保存されているのだろうか。

寺崎遜は、1895(明治28)年から4年間宮内省に勤め、1899(明治32)年の第2次山縣内閣では総理大臣秘書官を任じられ、翌年11月に辞職している。この時期の遜がどのような役割を果たしていたかは興味深い。今後とも調査を進めていきたい。

 

9.父遜と3人の息子たち

寺崎遜の培った人脈は、1875(明治8)年に結成された「昌平会(昌平旧友会)」によるものが大きい。会の成り立ちは、幕末に昌平黌(昌平坂学問所)で学んでいた200余名のうち、文久・元治・慶応年間の入学した最後の学生たちのうち、寺崎遜をはじめ塩谷時敏、平山成信、目賀田種太郎、三田 佶、大類久徴ら10数名の会合からはじまったと、会員の鈴木經勲が『懐しき友の思ひ出~昌平舊友會の事ども』(『明治大正史談11』明治大正史談会・1937年)のなかで述べている。このことから、遜も昌平黌に学んだことがわかり、父なきあと叔父の若菜三男三郎が保証人として入学に尽力したのではないかと思われる。

この会は、家族らと親交をもちながら、それぞれの生き方や考え方に大きな影響を与えた可能性があり、子どもたちの成長とともに学校教育や仕事のなかに活かされていった。30余名の会員は、第二日曜を月例会とし、持回り当番の会員宅が会場となった。会合は都合のつくものが出席して、必ず開かれた。60余年間続いた会合は前述の鈴木經勲の死去を最後に、1938(昭和13)年に幕を下ろした。

会員には寺崎遜をはじめ、塩谷時敏(青山)、平山成信、目賀田種太郎、三田 佶、大類久徴(鴨邨・耶来山人)、富永寛容(醒庵)、村井正利、中出哲、今泉雄作、野澤勝治、松長信、田沼易簡(泥劍)、牧野清三、松岡新吾、内山正壽、大高敬太郎、鈴木重邦、中山興、沖野武三郎、福岡忠之助、渡邊豊、渡邊春太郎、脇屋義典、齋藤殖、土岐豊之助、中島雄、河島由之、野田正輝、篠崎桂香、島田三郎、鈴木龍六、鈴木經勲、若山鉉吉、岡松經らの名前がある(鹽谷青山著『昌平舊友會記』明治24年)

寺崎家との関係においては、儒学者塩谷宕隂の孫の塩谷時敏(青山)が、第一高等学校教授として武男の長兄渡と次兄熊雄を教えている。また、大蔵省主税局長まで勤め近代的税制の整備にあたった目賀田種太郎は、とくに遜とは親しく、英国から帰国した時には遜が留学仲間の岡崎重陽や義弟の吉田正秀を誘って無事を祝う懇親会をおこない、天下国家を論じたという。1930(昭和5)年5月11日付で武男から母セツに宛てたハガキには、「過日ロンドンに居らる目賀田さんが一寸当地にこられました。私も無事先つ任務の大半は終」わったとあり、ローマで開催された日本美術展覧会に目賀田が来たことを伝えている。さらに大類久徴は財政学の研究者で、『石高考』(1896年)という著書がある。遜は昌平会を通じて大類久徴と再会する。後年、大類は妹の息子を養子に迎えた。この人物こそ、武男が生涯の友とした歴史学者の大類伸であり、イタリアでは武男と一緒にスケッチ旅行や遺跡をめぐっている。武男のイタリア美術研究や壁画調査が、大類伸のヨーロッパ史や先駆的なイタリア・ルネサンス研究につながっていった契機と思われ、その後大類伸は歴史学研究に大きな業績をのこしていった。

寺崎遜は1900(明治33)年11月に役職を離れ赤坂の自宅で過ごすが、1903(明治36)年5月に亡くなるまで2年半ほどの年月は、3人の息子たちと接する時間が増え、外国との関わりなど豊かな経験を話す機会も増えたのではないだろうか。後に成長して、国際的に活躍する息子たちにどのような教育をしていたのか興味深い。

長男の渡は、東京開成中学校から第一高等学校大学予科(農科志望)に進み、1901(明治34)年に東京帝国大学農科大学林学科卒業し大学院に進学している。大学在学中に農商務省山林局林業講習所が開設され、嘱託講師になっている。官庁勤めの多かった父親に、学生の身分で講師を務めることをどう思うかなどを聞いた可能性もある。遜は現場主義でありながら学問も地道に学んできた人物なので、農商務省に入る前に現場に関わる人たちと汗を流すような技術者・研究者になってほしいと願ったにちがいない。渡は山林局から委嘱を受けて、浅間山麓のカラマツ林間伐研究を地道に取り組んだことが、農商務省山林技師になっていく契機になったと後年述べている。全国の山林をめぐりながら現場の人びとと交流をもち、林学博士にもなって海外へも視野を広げた。そればかりでなく、自然環境や森林景観のあり方にも問題を提起してきた森林研究では日本の権威になっていった。

二男の熊雄は、東京府第一中学校から第一高等学校独法科に進んだ。『静岡県体育史』(1963年)には、浜松中学水泳部の創設時に神伝流泳法の師範として熊雄が指導したと記載されている。1901(明治34)年東京帝国大学法科大学に入学するが、在学中に父親が亡くなっている。熊雄宛てのハガキの多くは同級生たちと思われ、とくに芸術や文化を話題にした内容が大変多い。熊雄は法律よりも文学や美術を志望したかったのではないかと考えられる。おそらく小学生のころから成績が良く、中学・高校・大学といわゆるエリートコースをのぼりつめ、政府の高官になるように仕向けられていたように感じ、その反発から、芸術や文化に関心の深い友人と交流をもつようになったのではないだろうか。このことが2歳下の弟武男に大きな影響を与えていったと推測する。

前述した同級生の呉建は、1900(明治33)年に独逸学協会学校中学を卒業しているが、武男の卒業が2年ほど遅れた理由は不明である。次兄の熊雄が芸術や文化に興味をもったように、熊雄の行動や交遊関係が武男にも影響を与え、美術の世界を志す契機になったかもしれない。独逸学協会学校中学は大半の卒業生が医師になっており、呉建も医学の道に進んでいった。武男も一時は医師を目指したが、自分には向かないと気づき進路変更を考えていた矢先に、熊雄やその友人からの影響を受け、率直に父親に進路を相談したのではないだろうか。幼い頃から祖父助一郎と渡辺崋山の話を聞き、自宅には崋山の書籍や資料もあり、医学よりは美術的な世界へ目が向いていたと思われる。中学校は退学せずに絵画を習いながら卒業し、その後東京美術学校に進むことになる。熊雄が自分の進路についての悩みを武男に打ち明けたことから、武男の決断につながっていったのであろうか。

熊雄はすでに進路変更が効かない状況にあり、周囲に小言をいわれたかもしれない。父遜が亡くなり、長男渡が家督を継ぐと、熊雄は兄から釘を刺されたであろう。とりあえず大学では将来に備えて法律の勉強を続けていたが、水泳をやっている頃の頑強な身体ではなく病気がちとなり、母親セツを困らせるような行動もあったという。結局は大学院に進んで論文を書き、兵庫県庁に入職するが長続きせず、30歳過ぎて弁護士に転身している。武男とのハガキでは、芸術に関する内容が多く、よき話し相手になっていたようである。画家寺崎武男の人生を考えるうえで、渡辺崋山とともに兄熊雄は重要な存在であったといえる。

なお、親友の呉建は何度もノーベル医学生理学賞の候補となる高名な医師であるだけでなく、帝展・文展に6回も入選するほどの画家であった。統計学の普及活動をしていた父親同士も、古くからの友人である。大類伸もまた美術に造詣が深く、文化財や史跡をスケッチしながらイタリア国内をめぐって、美術史や歴史学を深めていった。父親同士も昌平会でつながりが深い。偶然にも呉建と大類伸は、1900(明治33)年の一高時代、寄宿舎東寮で同室であったことが、後に作家となった同級生の生田長江の資料からわかった。こうして武男をめぐる重要人物たちは、親子二代のネットワークで深くつながっていたのである。

 

10.成瀬正一・福子夫妻とむすんだ絆

武男は長期にわたるイタリア滞在の間、ヨーロッパを訪れる美術関係者らに様々な情報を提供したり、ヴェネツィアでは現地を案内したりしていた。これは武男の人柄でもあるが、祖父や父の生き方を受け継ぎ、そして何より渡辺崋山から学んだ思想と実践にあったのではないかと思われる。

成瀬正一 福子

 

さまざまなネットワークのなかでも、フランス文学者の成瀬正一との絆は深く、福子夫人とパリ在住後もさらに親しく交流は続いた。本調査からも20数通のハガキが見つかっている。署名は独特に崩されており、当初は成瀬正一だとわからず、内容も解読できなかった。第一次世界大戦に関する書籍を調査中に、成瀬正一という氏名が記載されていたことから注目した。

成瀬は、平和主義の小説家ロマン・ロランの研究者である。第一次世界大戦中にかかわらずヨーロッパまで行き、スイスでロマン・ロランに会っていた。関口安義論文の『成瀬正一の道程(Ⅰ)―ロマン・ロランとの交流』(2005年)と『成瀬正一の道程(Ⅱ)―松方コレクションとのかかわり―』(2006年)を参考にハガキの分析を進めた。

ハガキの1枚は1917(大正6)年5月10日付、ニューヨーク滞在中の成瀬から武男に宛てたものである。「4月13日附の御葉書ありがたく拝見…石田と菊池に御面会に…両方とも一高から大学まで始終一緒なので、そして又石田とは同中学なのでなほよく知って…作品の展覧会をおひらきになった相ですが、日本の批評家の中にはいやな奴がうんといるでせう。私は今ヨーロッパへ飛んででも行きたく思いますが、どうも行けないんで焦れています。寺崎兄 紐育〈正〉」とあり、菊池とは菊池寛ではないかと思われる。「私は今ヨーロッパへ飛んででも行きた」いとは、ロマン・ロランに会いたいということを武男に伝えてきたと推察できる。

もう1枚は1918(大正7)年5月28日とハガキに記され、成瀬がパリから武男に宛てている。「私はフランス滞在中に伊太利へも行くつもりで居ります故、伊太利に於て美術遍路のために相談するやらな人でも御紹介下さ…私は英仏語だけしか出来ません。独乙語も少しやりますが今は独乙語をつかわぬ方がいいと…伊太利人で英仏語の出来る人を御紹介下さい…私は伊太利語が出来ません。もしお心あたり…何とぞよろしく 寺崎様 巴里 成瀬生」。裏面には「戦乱のため博物館は皆しまって居りあまり面白くありません…5月28日」と書かれている。

武男と成瀬との交流は、これまで知られていない事実で、関口安義論文や『評伝 成瀬正一』などでは触れられていない。ハガキの多くはフルネームの署名だが、1枚目の〈正〉というサインは親しい者とのやり取りに使っている書き方であろうか。9歳ちがいの成瀬とはいつごろ知り合ったのか不明だが、24歳の成瀬にとって画家でありイタリア美術の造詣も深い33歳の武男は、深いレベルで美術を語り合える尊敬する友になっていったのではないか。

ハガキの文字が不鮮明なものが多く見過ごしがちであったが、調査を進めるうちに、さらに数枚のアメリカ滞在中の成瀬のハガキが見つかった。推察どおり、成瀬がロマン・ロランを訪ねていく旅であることが確認できた。

手元にある成瀬の最も古いハガキは、1916(大正5)年12月13日付のもので「桑港(SF)より御葉書ありがたく拝見。紐育(NY)御滞在の節は、小生貧乏のため、御もてなしも出来ず、大に失礼いたしました。その上いろいろ郵便を御托し申し恐縮に存じます。私は来年戦争がすめば欧州へ参ります。いづれ又伊太利でお目にかかりませう。寺崎武男様 紐育市 成瀬正一」とある。このハガキの内容は、武男が1916(大正5)年12月にイタリアから帰国するルートを知る重要なハガキでもある。戦時下のもとで潜水艦による攻撃が頻発していたので、武男は安全な帰国航路としてアメリカ廻りを選んだことが、このハガキからわかった。成瀬は武男と出会った際に「郵便を御宅」する間柄にすでになっており、「いずれ又伊太利でお目にかかりませう」と約束している。

成瀬正一は1892(明治25)年に事業家の父成瀬正恭の長男として出生し、麻布中学校を経て第一高等学校に入学し、芥川龍之介らと親交を結んでいる。東京帝国大学文科大学では芥川や久米正雄、松岡譲、菊池寛らと同人雑誌『新思潮』を出した。卒業後の欧米留学を考え、フランス語を習っていたという。もともと語学の勉強に関心があり、麻布中学校時代は英語、一高時代にはドイツ語、そして大学に入ってからはフランス語を学んでいた。フランス語が理解できるようになるとロマン・ロラン著の『ジヤン・クリストフ』を愛読書にしただけでなく、すっかりロマン・ロランに心酔し文通するまでになった。交流を通じて自己のあり方を問い、これからの生き方を考える機会になった。

1916(大正5)年7月、大学卒業後すぐにロマン・ロランに会いたいとヨーロッパ行を希望したが、両親に反対され、『ジヤン・クリストフ』を携えてアメリカ留学に旅立った。日々生きることに苦悩していた成瀬には、クリストフの苦闘の生涯が指標を与えていたようで、高い理想をもって前向きに生きていくクリストフの人生を学ぶためにも、ロマン・ロランとの出会いを強く望んでいた。そのスタートがアメリカ留学であった。成瀬は大戦下のヨーロッパにいるロマン・ロランに熱意をもって戦争に対する問題意識をぶつけ、反戦と平和への強い願いをもった手紙を送ったという。そのような情熱的な姿勢は、武男にとって崋山が求めていた実践であって、成瀬には共感をもって親しく接したのではないだろうか。

ニューヨークやボストンの滞在中、連日のようにメトロポリタン美術館など大きな美術館を渡り歩き、ボストン美術館で浮世絵のコレクションやフランス印象派の絵をかなり見たという。美術の調査研究など成瀬の情報は、画家寺崎武男にとっても新しい学びの場となり、成瀬も武男に信頼を寄せていったと思われる。

 

11.寺崎武男は語らなかった「松方コレクション」

成瀬正一の妻福子の祖父川崎正蔵は、川崎造船所創業者であり、美術収集家でもあった。川崎造船株式会社社長の松方幸次郎が、第一次世界大戦中から1920年代初めにかけて、パリやロンドンなどヨーロッパの主要都市で収集した美術品の総称を「松方コレクション」と呼んでおり、国立西洋美術館の開設につながり、一部は常設展示されている。日本におけるヨーロッパ絵画を知るうえで極めて重要な「松方コレクション」に関わっていたのが、成瀬正一・福子夫妻である。成瀬の絵画鑑賞の眼はアメリカ留学時代に養われたといい、「松方コレクション」の絵画収集につながっていった。ヨーロッパ美術に関しては、武男との交流のなかで理解を深め、鑑賞する力を養っていったのではないかと考えられる。成瀬夫妻と武男の交流のなかで積み上げられた美術的な調査研究があって、「松方コレクション」に関しては、何らかの形で武男も協力したかもしれない。

1921(大正10)年秋、松方はイギリスからパリを訪れ、精力的に美術品収集をおこなったという。同年4月からパリに居を構えた成瀬正一・福子夫妻は新生活にも慣れ、成瀬の絵画を鑑賞する力が発揮され、パリの画商たちを驚かせた松方の絵画購入に協力していく。また、松方はモネのアトリエを2回訪ねており、ロダン美術館のベネディットという人物が交渉役であった。ベネディットはフランスの画商たちのまとめ役でもあり、松方からの信頼も厚く、最終的には成瀬とベネディットの調整によって絵画代金の支払いなどがおこなわれた。

英語はよくできた松方もフランス語は上手くなかったので、成瀬はフランス語の通訳を受け持った。松方は若い頃からよく知る成瀬夫妻を我が子のように可愛がったという。松方が絵画を選ぶ際に、成瀬がモローやクールベの作品を勧めたことで購入に至ったことがある。モローについては、実は武男がよく画法の研究として作品を取り上げていたこともあり、本調査の手帳にもモローに関する記録は多い。武男は成瀬にモローの絵画の良さを伝えることも多かったのではないだろうか。私見だが、武男の作品のなかにはモローの画法を取り入れたものがあると感じている。

1919(大正8)年12月、寺崎武男は明治神宮奉賛会より絵画館建設のための壁画調査を依頼され、再びイタリアのヴェネツィアに来ている。12月8日付の朝日新聞に「横浜港から北野丸で印度を経て、再びイタリア、フランス、ドイツ、イギリス各国を巡歴研究する」渡欧と掲載されている。1922(大正11)年12月に帰国しているので、約3年間滞在している。帰国の年の2月に成瀬正一・福子夫妻がパリに来ているので、約10ケ月ほど滞在が重なっている。成瀬夫妻は1924(大正13)年12月まで約4年間パリに滞在する。

1922(大正11)年1月には松方幸次郎がニューヨーク経由で2月に日本に帰国したので、「松方コレクション」に関わる動きも一段落しているが、成瀬夫妻とベネディットの間では引き続き絵画購入と支払いの処理が続いていた。3月から4月にかけて成瀬夫妻が各地を自動車で移動しているのも、そのような仕事をしていたのかもしれない。ヴェネツィアに向かったのは、寺崎武男にお世話になったとハガキに書いてあるので、やはり「松方コレクション」に関わることでお礼に訪れようとしたのかもしれない。この時期に成瀬夫妻が武男に宛てたハガキが4通見つかり、連絡を取り合っていたことがわかった。

3月6日付は「このたびはいろいろ御世話様に相成り御礼の申し様も御座いません、定めし御つかれ遊ばされ事と存じます、今日私共は□□見物いたしました、ボチセリーの画が大変ずいいと存じました、□□窓ハやうやく頼んで小さき窓ながら□つきしてもらいました、近日御帰りを楽しミにしております 三月六日 寺崎様 フレンツ 成瀬ふく子」

3月10日付には「速達便及御葉書ありがたく拝見、種々の御手紙恐縮いたします、自動車は御申越の事が大層御都合のやうに思ひますから、お約束真つニ差支ありません、ギリシヤも仰の如き旅程をとりませふ、いつれ土曜夜十一時、御地に着きますからハダコエリでお目にかかつて御話いたしませふ、九日 寺崎兄 フロテラス 成瀬生」

4月28日付は「昨朝ハ早朝にもかゝはらず、わざわざ御見送り下さいましてありがたう存じました。在中ハ写真の整理と、いただいた新聞紙を拝見し退屈せず無事、今朝巴里に帰りました。いろいろの御厚情厚く御礼申上げます。取りあへず急ぎ御礼のミ 四月廿八日夕 寺崎様 成瀬正一 ふく子」

4月30日付は「ヴェニス出立の時は早朝お見送恐縮に存じます。万事好都合に巴里帰着、三月振に手足を延しました。サロンもひらき春の季節が始てゐます。併し寒いのには閉口です、マロニエの芽もまだ小さいものです。土耳古の方では茂てゐたのにこゝは小がらです。スポルヂさんに宜しく。

三十日 寺崎兄 巴里 成瀬生」という内容である。

成瀬夫妻は「三月振に」とあるが、3カ月をかけて各地を巡ったということかもしれない。2月頃パリを出発して3月中旬の土曜日にヴェネツィアに着くとの内容なので、初めから武男に会いにいくことが目的とされていた。4月30日付には武男の見送りを受けたお礼が記されている。この時期のことでは『松方コレクション展カタログ2019年』のなかに陳岡めぐみ論文「松方コレクションに百年の流転」があり、「1922年3月13日付手紙でヴェネツィアにいた成瀬からベネディットに宛てて、画商たちへの支払いのためとして1,355,800フランの小切手が送られている」との一文があった。松方幸次郎が帰った後に各地の画商から買い求めた絵画・美術品の支払いは、成瀬夫妻が関わったからであろう。2月から4月までの成瀬夫妻の「松方コレクション」の絵画収集や代金支払いのことでは、画商だけでなく数多くの個人的な絵画所有者などが関わっていた。

イタリアに長く滞在し様々な人脈をつくり、日本とイタリアの美術界を橋渡しする役割を果たしていた武男は、成瀬にとって頼りになる相談相手であり、助けられたことも多かったのではないだろうか。さらに、ロマン・ロランに心酔していた成瀬は、美術が平和社会の実現に寄与するという信念をもって「松方コレクション」に関わっていたのではないだろうか。第一次世界大戦が終結したなかで、ロマン・ロランの平和の想いをどのように継続し実践していくかが成瀬自身も問われたことだろう。渡辺崋山の生き方に学びながら絵筆をとる武男もまた、美術を平和のために活かしたいと願う想いは共通していたと思われる。

 

12.生誕140年によみがえる祈りの絵画

武男は、100年後までも色あせない不朽の絵画を探求しつづけた美術研究者でもあった。このたび、生誕140年を記念し、南総文化ホールギャラリーに作品を展示紹介することができた。なかでも注目したい代表作をいくつか紹介したい。

1つは、2m四方の屏風画『平和来たる春の女神』であり、1946(昭和21)年の作品である。ようやく戦争が終わり、訪れた平和な春を祝福し、戦没者を慰霊する作品と思われる。舞台は、館山市布良の阿由戸の浜をイメージしたのではないか。右手に女神山がそびえ、海の向こうには富士山・天城・大島・利島・新島・式根島‥を眺めることができる神話の里である。隣接する布良崎神社には、房総開拓神アメノトミノミコト(天富命)が忌部一族を率いてこの浜に上陸したという大作が鳥居型の額に納められており、騎馬のスサノオノミコトを描いた掛軸がある。

2つめは、『天照皇大神(アマテラスオオミカミ)永遠の平和』。1945(昭和20)年8月1日、戦争が終わる直前に描かれた平和を願った作品と思われる。海の向こうに富士山が見え、心象風景としての館山湾が描かれている。当時、館山海軍航空隊があって、中国への無差別攻撃やハワイ真珠湾攻撃、南方地域への落下傘奇襲攻撃など最前線の戦場でもあった。館山海軍航空隊の近くに住み、空襲が激しくなった戦争末期に、武男は戦争のない平和な社会を強く願ったのであろう

3つめは、天守閣様の城を描いた大きな掛け軸であるが、題名は『館山に敵入る』となっており、描かれたのは敗戦直後の昭和20年9月1日である。8月31日に館山に米占領軍先遣隊が上陸し市民に向けて物騒な事件が多発していた。武男が住んでいた館山市西ノ浜は、館山海軍航空隊と城山(館山城跡)の中間であった。当然、占領軍の兵士を目撃したと思われる。心象風景を中世城郭になぞらえて描いたのではないか。武男は、館山城跡がもともと山城であり、中世の里見氏の時代から天守閣は存在しないことを知らなかったのであろう。

そしてもうひとつ重要なことが法隆寺金堂壁画の模写である。ルネサンス壁画とともに法隆寺壁画の研究を続けた武男は、1919(大正8)年の論文「法隆寺の壁画」には、防火設備や消防隊が整わず、水利の悪い法隆寺の状況を危惧し、「壁画の保存上最も重要な事」は防火対策だと警鐘を鳴らしている。その4年前、イタリア滞在中、東京・赤坂の自宅火災で崋山関係のものや自分の作品を焼失した経験をもつ武男は、「防火設備の完全ならん事を切に希望せざるを得ない」と述べている。

ところが1949(昭和24)年、法隆寺金堂は炎上してしまった。館山市西ノ浜のアトリエでニュースを知り、激怒し落胆し手を合わせて座り込んでしまったという。すぐ法隆寺に駆けつけて、佐伯定胤管主に会い、焼け残った輪堂に新たな壁画を描くことを懇願して許可を得た。

積年の研究を活かして、描法は金堂と同じ方法であり、画題は聖徳太子の人生観や哲学観とした。3年の準備期間を経て9年がかりで取り組み、1961(昭和36)年に『昭和の輪堂壁画殿』を完成させた。しかし、三男の寺崎裕則氏によると、世界遺産登録後に遺跡整備の時に地下水が噴出し、その後、輪堂が傾いてしまい武男が描いた壁画が損傷してしまったという。全身全霊を賭けて制作した文化遺産を現在、拝観できないのは残念である。今回の展示作品のなかに、彩色が剥げ落ちる前の金堂壁画の模写を見られることは幸いであった。それは祈りの壁画であった。