戦跡からみる安房の20世紀⑧戦時安房から世界史をみる(房日掲載2000年)

戦跡からみる安房の20世紀

⑧戦時安房から世界史をみる

 

【ドゥーリトル東京初空襲】

一九四二年四月、米軍は突如日本本土奇襲攻撃にでた。ドゥーリトル中佐指揮する本土初空襲の東京爆撃特攻作戦は、ハワイ真珠湾奇襲の報復作戦であった。

まず日本の哨戒線を突破し、銚子犬吠埼から約千二百キロメートル地点より、陸軍ノース・アメリカン中型爆撃機B25一六機を空母から発進させ、東京など空爆後、中国の航空基地に着陸させることにあった。

一八日朝、米機動部隊発見の報が入ると、軍は米空母の艦載機による攻撃と予想して対米作戦を発令、来襲は翌日未明と判断した。

当日木更津基地の四機の偵察機のうち一機がB25一機を発見したと報告したが、米空母には双発機の搭載はないと判断された。木更津や館山の基地には、艦戦九〇機、「中攻」機八〇機、艦爆三六機、飛行艇二隻などが待機していた。

 

【長狭中生の米爆撃隊発見】

四月一八日、長狭中学校の校庭や校門周辺に生徒や先生がいるなか、見たこともない飛行機がただ一機、海の方から校舎すれすれの超低空でゆっくり飛来し、「敵機だぞ!」と叫んだ生徒もいたとの証言がある。鴨川に現れた双発爆撃機はB25であった。

茨城水戸の防空監視哨が、東部軍司令部に「敵大型機一機発見」と報告した一二時すぎが、従来の戦史での本土初侵入の時刻である。しかし、一六機が離艦していった時間幅などを勘案に入れて侵入場所と時刻をみると、鴨川上空には一一時前に侵入したと推察され、戦史に新しい事実を加えたことになる。

また「一一時過ぎに館山那古上空に飛来したとき、城山砲台の高角砲が発射された」と鶴岡五郎氏は証言する。もしこの時刻が正確であれば、ドゥーリトル爆撃隊が日本で初めて砲撃されたは、館山上空ということも新事実である。

ドゥーリトルら一三機は作戦にそって巡航速度二七〇キロメートル、海上高度三〇メートルという超低空で侵入し、東京・横浜・横須賀などを空襲していった。

 

【レーダー網整備と情報操作】

本土初空襲は被害こそ少なかったが、敵爆撃機を帝都東京に侵入させたことは、政府・軍部に大きなショックを与えた。これ以降、報道統制に走り、軍事情報では虚偽の発表をすることで国民を盲目にさせていった。

また、本土防空体制の不備が明らかになったので、防空航空隊を拡充するだけではなく、日本全域をカバーする陸軍レーダー警戒網の設置を急遽すすめた。太平洋を監視する警戒機を銚子・勝浦・下田・八丈島に、そして最重要レーダー基地と位置づけた白浜には、最新鋭の要地用警戒機四基を設置したのであった。

 

【艦砲射撃は本土決戦の声】

四五年七月一八日、アメリカ機動部隊は白浜レーダー基地に対して、艦砲射撃を加えた。軍当局は本土決戦を前にして、住民対策のためか潜水艦からの攻撃と虚偽の発表をしている。

野島崎灯台のある島崎地区への着弾が多かったことから、国際法上禁止されている灯台を狙ったという説も流れた。しかし、灯台北方一キロの城山には、陸軍のレーダー基地があることは公然の秘密であった。深夜、安房一帯に鳴り響いた轟音に、人々は本土決戦が近いことを感じ取っていた。

 

【米軍報告書に歴史的事実】

敗戦後の米軍報告書には、七月一八日二三時五二分から五分間、白浜レーダー基地へ艦砲射撃した概要とその効果が記載されている。

それによると第三艦隊司令官から派遣命令をうけた、第三八機動部隊第三五・四任務群の巡洋艦四隻と駆逐艦九隻が一六キロ海上から夜間レーダー照準によって、六インチHC砲弾二四〇発を打ち込んだとある。

しかし、レーダー基地には命中せず、付近の島崎村に三七発が着弾し、六名死亡一七名が負傷した。

白浜レーダー基地への艦砲射撃は、世界史的にどんな意味があったのだろうか。

 

【白浜艦砲射撃とポツダム会談】

ハルゼーが率いる一〇五隻の米海軍太平洋艦隊第三艦隊第三八機動部隊は、四五年七月一日から本土侵攻事前作戦を展開していった。

その任務は日本軍に残っている軍事施設や基地を破壊することで、本土侵攻作戦をスムースにする本格的な攻撃であった。一四日朝から一七日まで、釜石の製鉄所への本土初の艦砲射撃にはじまり、室蘭、鹿島灘から日立、水戸に艦砲射撃を実施している。

一六日からのポツダム会談では、対日占領策が検討され、アメリカは原爆実験の成功を背景に、ソ連を押さえ込み戦後の覇権をめざしていた。対日作戦では、第三艦隊にソ連参戦前に日本本土制海制空権の完全確保がとくに求めていた。

東京湾口南方海上一六キロ地点に接近し、海軍の水上水中特攻作戦を警戒しながら、白浜のレーダー基地をたたくことは重要であった。ポツダム会談期間中に実施された白浜艦砲射撃は、日本の無条件降伏とソ連参戦という世界史的な動きをめぐる第三艦隊による政治的軍事的戦略対応であった。