戦跡からみる安房の20世紀①東京湾要塞地帯と安房(房日掲載2000年)

戦跡から安房の20世紀をみる

①東京湾要塞地帯と安房

 

【20世紀最後の8月】

戦後55年、20世紀最後の平和を考える8月をむかえた。

今日、平和にむけて積み重ねている国際的な努力は、世界史的な流れとなっている。国連は今年を「平和の文化国際年」とし、来年から10年間を「世界の子どもたちのために平和と非暴力の文化をつくる10年」とさだめた。

20世紀をみると、人類史上未曾有の第一次・第二次の世界戦争が勃発し、幾千万余の人々が亡くなっただけでなく、二度までの核兵器使用で核戦争の到来を告げた。だが同時に、世界の隅々で草の根の平和運動が沸き上がり、やっと核兵器廃絶もグローバルで今日的な課題となった。

いま次代の子どもたちのためにも、戦争がない平和な21世紀をめざすことは、20世紀に生きる私たちの責務といえる。

戦争体験者が減少し、戦争の「風化」がすすむなかで、戦後世代に戦争体験継承のあり方が問われている。今世紀最後の8月に、さまざまな思いが刻まれる戦争遺跡を地域にさぐり、地域から戦争の事実を学びたい。

 

【近代日本と東京湾要塞】

安房は、古代より軍事戦略上極めて重要な地域であった。

景行天皇の淡水門の伝承や、源頼朝・里見義実の安房上陸とその後の海上支配の争い、あるいは里見改易後の徳川政権下の貿易統制策や海防政策、さらに明治期からの帝都防衛の沿岸要塞建設や、戦争末期の本土決戦陣地などにみられる安房の姿は、日本列島のほぼ中心に位置し、太平洋に突き出た房総半島先端部という地域から生まれた、歴史的な特性といえる。

近代日本は「富国強兵」「脱亜入欧」の掛け声のもと国家建設を急速に押し進め、軍事的にも欧米列強を手本にさまざまな施策が打ち出され、海洋国として軍事上重要な海峡や港湾には要塞化が構想された。

1880(明治13)年、東京湾に侵入する敵艦艇の航行を阻止し、帝都東京と横須賀軍港の防衛のために、当時最高の建設・軍事技術による東京湾口の要塞建設が進められた。のち鉄筋コンクリート技術の導入や要塞兵器の国産化、また第一次大戦での潜水艦や航空機の出現による兵器の変更、さらに関東大震災での被害から要塞建設や配備兵器の強化を図りながら、軍最重要の第一級要塞となった。

32(昭和7)年、半世紀にわたって莫大な軍事費を注ぎ込んだ「東京湾要塞」は完成した。近代日本の産業や技術の粋を集めた要塞建設は、国家機密ではあったがさまざまな分野に深く関わるとともに、戦後日本の産業に大きな影響を与えた。

 

【今も残る要塞砲跡】

東京湾要塞は、まず富津岬と観音崎との間に三つの海堡を置き、三浦側では横須賀軍港地区をはじめ、走水・観音崎、久里浜、三崎の各地区に、房総では富津をはじめ、金谷や大房岬、館山洲崎の各地区に、東京湾口全域を射程に入れた多数の砲台を配備した分散型の要塞であった。

ところで、海軍は22年のワシントン軍縮条約調印によって、主力艦の保有量が制限され、艦艇建造は中止となった。そこで陸軍は海軍と交渉し、解体する主力艦の砲塔を陸上用に改修し、大型要塞砲を配備することで、海軍力の劣勢を補おうとした。

この要塞砲建設は極めて困難なものであったが、28年から4年の歳月を費やし、房総では旧西岬村加賀名に巡洋艦生駒の主砲45口径30センチカノン砲2門入砲塔1基を、また大房岬には、巡洋艦鞍馬か伊吹の副砲45口径20センチカノン砲2門入砲塔2基を配備し、東京湾要塞の近代化を図った。いまもその痕跡が鮮やかに残っている。

 

【厳しい監視下の要塞地帯】

館山市内のJR内房線新宿踏切近くの線路沿いには、四面に「東京湾要塞第一区地帯標」「第四号」「昭和16年7月30日建立」「海軍省」と刻んだ一本のコンクリート柱がいまも残っている。

1899年公布の要塞地帯法によって、指定された区域での水陸の形状を測量、撮影、模写することや地表の高低の土木工事、建築物の増改築には要塞司令部の許可を求めた。また、全地域を軍事的重要度で三区域に分け、要塞建造物から約500メートル以内の第一区は、憲兵隊や特別高等警察によって機密漏洩防止やスパイ防止の体制を敷かれ、住民は厳しい監視下におかれた。

とくに41(昭和16)年の日米開戦以降は、住民監視が一段と敏感となり、写真や地図の検閲はもちろん、たとえば安房中学では校友会誌に掲載した一編の詩でさえも、内容が「防諜上好ましからず」という理由で墨によって抹消された。

また、列車の乗客には鎧戸を下ろさせ、風景すら眺めることを禁止したのであった。