戦跡からみる安房の20世紀⑥海藻まで決戦兵器に(房日掲載2000年)

戦跡からみる安房の20世紀⑥

海藻まで決戦兵器に


【軍需物資の海藻カジメ・アラメ】

カジメとアラメは外海性岩礁帯に生育する大型の多年草海藻で、明治初期までは、主に肥料として使われていた。

明治20年代に入って海藻灰ヨード工業がおこると、その工業原料として大量に用いられた。生産量は年々増加し、日露戦争中に急増したことで、1908(明治41)年に森為吉らは房総の粗製ヨード製造業者を合同して、総房水産(株)を設立した。

第一次世界大戦中には、敵国ドイツから医薬品輸入がストップしたことで、ヨードや塩化カリなどは国内で生産することになり、カジメ生産は最高になった。

1926年、為吉の息子矗昶は日本沃度(株)を設立し、ヨードを主とする医薬品の製造や、カジメ・アラメの海藻灰の塩化カリを原料とする硝石製造をおこない、陸軍造兵廠へ納入した。

1927年には、樺太沃度合資会社を、その翌年には済州島を中心に朝鮮沃度(株)を開設したが、世界恐慌の波及でヨード業界は不況となった。


【戦争で発展した昭和電工】

1931年に満州事変が勃発すると、ヨードや火薬の需要が高まり、軍需物資カジメ・アラメも大量に求められたので、千載一遇のチャンスとなった。

この年水力発電所建設に乗り出していた森は、電力を利用した国産技術で硫安生産に成功し、昭和肥料(株)を設立した。また、1934年には日本沃度で独自の技術を使い、日本最初のアルミニウムの工業化に成功し、社名を日本電気工業(株)とした。

こうして1938(昭和13)年の国家総動員法制定をきっかけに、翌年には昭和肥料と日本電気工業が合併し、総合化学工業会社として昭和電工(株)が設立されたのであった。


【国家戦略の海藻増産】

1941年8月、千葉県漁業組合連合会は各漁業組合長にあてに「カジメ採集ニ関スル件」を通知し、「決死的御協力ニ依リ其責任数量確保ニ萬全ヲ期シ国家ノ使命・・・緊迫セル時局下ニ於ケル国策遂行ニ協力」とカジメ採集の供出責任数量を各漁協に割り当てた。

また、県経済部長からの文書では「カジメの供出が高度国防国家建設に寄与する処大なるを貴組合員に周知せしめ当分の間カジメの採取、集荷に専念」せよとの指示があった。

さらに8月16日には、軍当局により乾燥したカジメ・アラメは「昭和電工株式会社ニ荷渡ス事」との命令が出された。陸海軍指定工場であった昭和電工は、千葉県内にヨード・ヨードカリ・塩化カリを製造する館山工場と、ヨード・塩化カリ・カリ肥料・食塩を製造する興津工場をもっていた。両工場とも、乾燥カジメ・アラメを焼いて海藻灰(ケルプ)からヨードを製造していたので、供出を命じられた漁民たちは、工場側から出された指示通りの乾燥や処理が求められたのであった。


【決戦下の「兵器海藻」】

1943年の新聞報道には「カリを多量に含む海藻が軍需資源として極めて重要であるに顧み、商工省では陸海軍、農林、企画院の各省および全漁連、カリ塩対策協議会と協力し、全国の漁民を総動員して海藻採取の大運動を」とか、1944年7月25日には「ゼアリミン火薬、光学兵器レンズ等になる加里原料、アラメ・カジメ・ホンダワラ等の海藻は、決戦下の化学兵器だ・・・他の海藻採取を中止して一斉にこの『兵器海藻』採取に全力を」との記事が見受けられる。

こうして軍需品として不可欠であった医薬品のヨードから、火薬原料として重要物資であった塩化カリまで、房総半島の海藻カジメ・アラメが深く関わり、昭和電工などを中心とする海藻灰ヨード工業の拡大につながっていった。

外房の磯根漁業では、古くからアワビやサザエを採取してきた。しかし、戦時下においては海藻生産が中心とされ、カジメ切りの期間は、アワビ採りを一切禁止すると漁業会は申し合わせ、もしアワビを採った場合には厳しく処置した。

海に生きる人々は、軍需物資カジメ・アラメの増産の掛け声のもと、日々追われていたのであった。