名も無き女の碑

千葉県鴨川市に「名も無き女の碑」と刻まれた鎮魂碑がある。戦時中に衛生兵だった2人の男性が戦後に出会い、戦地にいた慰安婦を悼み、1973(昭和48)年にひそかに建立した。かにた婦人の村の城田すず子さんの告白により1985年に建てられた「噫従軍慰安婦」の碑より12年も早い出来事だった。

碑の裏面には「東京 井谷忠衛」と一人の名前が刻まれているが、実は鴨川在住の刈込善一さんと二人で建てたものである。戦後の洋菓子作りで出会ったが、戦時下にはともに衛生兵として従軍したことが分かった。傷病兵の手当をするだけでなく、「従軍慰安婦」に関わる業務についていた経験をもち、「かわいそうな女性たちがいたよね。彼女たちを弔ってあげたいね」と共感した。

東京では建てる場所が見つからず、鴨川でも二転三転した末、ようやく無住の慈恩寺に建てることができた。しかし、地元には反対する声もあったため、碑には刈込さんの名前は出さずに、井谷さんの名前だけを刻むことになった。

刈込さんは、満州事変・日中戦争・アジア太平洋戦争に衛生伍長として従軍した。1944年9月にアンガウル島からパラオに傷病兵を搬送する任務中に、潜水艦の攻撃を受け、船は沈没したが、九死に一生を得た。その間に、アンガウル島の部隊は全滅し、奇跡的に唯一の生還者となった。

1945年12月に復員し、継いだ家業の和菓子屋を洋菓子屋に切り替えようと考えた。そこで指導を受けるために出会ったのが、東京の井谷さんだったという。偶然二人とも衛生兵で、パラオに配置されていたことが分かり意気投合したことから、慰霊碑の建立に至った。

戦後は、仲間の遺骨収集のためアンガウル島を何度も訪問し、現地に慰霊碑を建てた。その碑を守ってもらえるように、島の酋長に依頼し、亡くなるまで供養費を送り続けたという。

刈込さんは1983年に69歳で亡くなったが、戦争中の体験や碑の建立については、妻の富美代さんに詳しく伝えていた。夫の意志を継いでこの碑を守ってきた富美代さんは、2013年に亡くなった。その後は、檀家の女性たちがご夫婦の遺志を継いで、「名も無き女の碑」を守り、平和を祈りながら女性たちの霊を慰めている。

▶ 表面(左):「名も無き女の碑」
▶ 裏面(右):
「今次の大戦に脆弱の身よく戦野に挺身 極寒暑熱の大陸の奥に又遠く食無き南海の孤島に戦塵艱苦の将兵を慰労激励す 時に疫病に苦しみ敵弾に倒る 戦い破れて山河なく骨を異国に埋むも人之を知らず 戦史の陰に埋る嗚呼 此の名も無き女性の為小碑を建て霊を慰む
昭和四十八年十月建立 東京 井谷 忠衛」