館山海軍航空隊

■ 関東大震災から館山海軍航空隊の開隊へ

1916(大正5)年、対岸の横須賀に海軍航空隊を開隊して以来、航空兵力増強に力を入れ、全国に航空基地をつくっていった。1923(大正12)年の関東大震災で壊滅的打撃を受けた館山は、宮城地区の海岸と高ノ島、沖ノ島の海域が大きく隆起して遠浅になった。鏡ヶ浦と呼ばれる穏やかな館山湾は、水上航空機の発着に適しており、この遠浅を埋め立てて、空母の形に似せた海上航空基地建設には好条件の地形だった。3年間の浚渫や埋め立て工事によって、1930(昭和5)年、横須賀・佐世保・霞ヶ浦・大村に次ぎ、全国で5番目の館山海軍航空隊(通称「館空」)が開隊した。

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■ 空母パイロット養成の基地「館空」

房総特有の西風を強く受ける「館空」滑走路による離着陸訓練は、航空母艦(以下、空母と略)の短い甲板から飛び立つ訓練に最適だった。航空兵力増強を主張する一部の海軍首脳たちは将来航空戦が主力になると予想し、空母による機動部隊戦術を考え、高性能な艦上戦闘機(艦戦)や艦上攻撃機(艦攻)を開発するとともに、空母での離発着操縦に優れたパイロット養成に力を入れた。

付随してつくられた赤山地下壕は、航空要塞的な機能をもち、戦前の早い段階から秘密部隊によって掘られたものを推察される。

この実戦的な訓練を担ったのが「陸の空母」といわれた「館空」である。後にハワイ真珠湾攻撃に投入された艦攻のパイロットたちは、「館空」で高度な操縦訓練を受けていたといわれる。ハワイ真珠湾攻撃の成功記念に特撮と実写で製作された戦意高揚映画『ハワイマレー沖海戦』は、当時の「館空」でも撮影されている。

世界大恐慌を契機に、各国とも軍縮による財政負担の軽減を求める声が広がり、ワシントン海軍軍縮条約では主力艦の保有量が制限され、廃棄艦のうち起工済みであった戦艦「加賀」と巡洋戦艦「赤城」が本格的な空母に改造された。主力艦の制限で失った戦力を、条約制限外の兵力である航空軍備で補う拡充策を積極的に図った。基準排水量2万7千トン、搭載機60機という、当時では最新鋭の大型空母「赤城」と「加賀」の2隻が、海軍航空戦略の期待を背負って相次いで竣工した。しかし空母の戦術的な運用という面で、全く経験がなかったうえに、空母に関する教育訓練や艦載機の実地訓練を積んだパイロットたちが不足していた。海軍は航空軍備の拡充を柱に、空母パイロットの養成のための基地航空隊(陸上飛行場)の新設をすすめていった。

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■ 中国への「渡洋爆撃」

満州事変以降、海軍は航空兵力を拡充強化するため、次々と軍備補充計画を策定した。海上哨戒や機上からの偵察において飛行艇の能力に限界があり、海軍では航続距離が長く陸上基地用の偵察機の試作をはじめた。

1932(昭和7)年、航空本部技術部長であった山本五十六少将のもと、複葉双発艦上攻撃機を陸上機に改造し、そこに新規開発の三菱製発動機を搭載して、これまでにない陸上攻撃機の開発をすすめた。「館空」に配備されてからも飛行実験は繰り返され、機体や発動機の面にさまざまな改良が加えられていった。そのなかで日本最初の引込脚方式を採用した双発中翼単葉機タイプの陸上攻撃機の開発に成功した。

1935(昭和10)年2月に登場した最新鋭機・九六式中型陸上攻撃機(通称「中攻」)が「館空」に6機が配備され、本格的な攻撃部隊として実用訓練に入った。翌年には、悪天候にもかかわらず館山-サイパン島間の約2,200kmの無着陸飛行に成功し、高性能な航空機であることを世界に示した。1937(昭和12)年7月、蘆溝橋事件を契機として日中戦争が勃発し。8月には、「館空」訓練の後木更津航空隊所属となった「中攻」部隊が、いわゆる「渡洋爆撃」と呼ばれる作戦をはじめた。以来、中国大陸の諸都市へ無差別の戦略爆撃を開始し、日中戦争は全面的に展開していった。