館山海軍砲術学校
■海軍の学校で陸上戦闘の専門家養成
海軍の学校には、海軍大学、海軍兵学校をはじめ、さまざまな兵種や兵務に関わる海軍独自の学校や養成機関がある。その1つに主に艦船に配備されている兵器の操作技術、つまり海上での砲術を学ぶ学校として横須賀海軍砲術学校があった。
海軍でも陸上戦闘(以下、陸戦)を行なっていたので、横須賀海軍砲術学校がその作戦にあわせた戦闘員の養成をしていた。ただ、この兵種の部隊は必要に応じて臨時編成になる場合が多く、日中戦争でも特別陸戦隊が編成されていた。陸戦に関わる砲術や訓練の養成機関は、日中戦争の実戦のなかで必要とされてきたこともあり、また間近に対米英戦が想定されたので、海軍上層部は組織を分けることとした。
1940(昭和15)年、横須賀海軍砲術学校の分校を設立するにあたり問題となったのが、分校に併設する広大な演習場をどこにするかにあった。太平洋諸島での上陸作戦を実戦訓練するにふさわしい自然の砂丘ということや、館山航空基地もすぐ近くにあるということで、房総半島南端の館山市布良・相浜から伊戸の間にある白砂青松の平砂浦海岸が、演習場に選ばれたのであった。
翌1941(昭和16)年6月1日、海軍は館山市佐野の地を選定して、陸上砲術の実地訓練を主たる目的とした館山海軍砲術学校(通称「館砲」)を開校したのである。
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■海軍初の落下傘部隊
対米英戦の戦術戦略上において、「館砲」には開校直後から、最高機密の特命をもった特別陸戦隊養成が課せられていた。なかでも対米英戦直前に関わるセレベス島メナドのランゴアン飛行場と、チモール島クーバン飛行場への奇襲占領作戦を担った横須賀第一特別陸戦隊(通称「横一特」)と横須賀第三特別陸戦隊(通称「横三特」)の編成と訓練であった。その指導者養成に使われたと考えられる落下傘訓練プールが「館砲」に残っている。
この特別陸戦隊は海軍初の落下傘部隊で、41年9月、全国から体力と気力をもった精鋭1,500名が館山海軍航空隊に集められ、わずか3ヶ月という短期間で特殊任務の落下傘兵を養成することが命ぜられた。
実地訓練は館山航空隊基地を敵の飛行場と想定し、狭い航空基地内に落下傘で正確に降下することが要求された。この猛特訓では降下に失敗し死亡事故もあった。
対米英戦直前に落下傘兵は仕上がり、館山航空基地から台湾にむけて出発していった。42年1月10日にメナド奇襲占領作戦は敢行され、多大の犠牲を払って飛行場を制圧し、海軍初の落下傘部隊による奇襲作戦が成功したのであった。
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■「鬼の館砲」での死の特訓
「館砲」での訓練生をみると、大学や高専卒などの予備学生のほか、普通科練習生・高等科練習生・講習員などさまざまな養成組織に分かれていた。まず普通科練習生とは、海兵団で新人兵士の教育を受けた後に、二等水兵・一等水兵のなかで模範的な兵士との評価を受け、学力試験に合格した者たちであった。また高等科練習生も、海軍で一定の経験を積んで兵士としての高い能力を実戦で示した二、三等兵曹から選ばれていた。
常時1万5千人はいたといわれる訓練生たちは、「鬼の館砲」とよばれるほど日夜にわかたぬ猛特訓を受け、一人前の兵士と認められた後に、北はアリューシャン列島の島々から、南はジャワ、ニューギニア島など太平洋の戦場に、「死の特訓」で学んだ高度な陸戦技術と技能を背負って赴いていったのである。
「館砲」入校後にどのような訓練を受けたかを、3期の予備学生からみると、まず陸戦・対空・化学兵器の3科に分かれて教育を受けていた。それぞれの訓練内容は、陸戦科が学校前に広がる平砂浦演習場において、分隊や小隊、中隊、大隊の形態で攻撃や防御を学び、それを日夜繰り返し訓練し体にたたき込まれた。はじめの頃は、敵前上陸や橋頭堡襲戦闘などを主とする戦闘訓練であったが、戦局が悪化するにつれ対戦車戦闘や夜間奇襲確保、さらには噴進砲訓練などに重点が移っていった。
次に対空科では、学校の西側や東側の山頂に設置してある高角砲砲台を使用して、射撃指揮と砲員としての操作訓練をしていた。卒業前には「館空」から吹き流しを曳いた飛行機を飛ばしてもらい、吹き流しを標的にして対空攻撃の実弾訓練もしている。
最後に化学兵器科は、当時日本で細菌戦の訓練をしていた唯一の学校といわれ、また毒ガス戦の訓練などもしていた。扱う武器の性質上、薬学や菌学、理工系の学生たちが多かった。この化学兵器科では、全国から極秘で集められた150余名による特殊部隊がつくられていたという。実際に細菌戦などの実地訓練を平砂浦海岸でおこなっていたので機密保持は徹底されていた。当時の様子について次のような証言がある。ある朝全員が暗いうちに叩き起こされ、平砂浦海岸に整列後、防毒衣やマスク、手足のつけ根まで手袋と長靴をつけて、まずサラシ粉を散布し、その後波打ち際に得体の知れない液体を撒いた。敵が上陸してくる前に撒けば、一週間は生きていて、それが口から入れば猛烈な下痢を起こすと教官たちが言っていたという。