メディア報道

【房日】100401=漁村の食「おらがごっつお富崎」

漁村の食65点を記録

「おらがごっつお」富崎版刊行

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国土交通省のモデル事業として館山市富崎地区の「まちづくり・まち起こし」をすすめているNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は、このほど地区に伝わる漁村の献立65点のレシピなどを収録した冊子「おらがごっつお(わが家のごちそう)富崎」をまとめ、地区の約500戸に全戸配布した。

「みずなます」「ナマダ(ウツボ)の塩焼き、から揚げ」「ゴンズイの味噌汁」など、地元の人にはおなじみの料理のほか、「しょだき(塩汁)」「ブダイのづけ寿司」など、富崎地区ならではのメニューも収録。

いまでは、地区でもほとんどつくられなくなった「しょがつ」(カツオの干物のようなもので保存食として正月の神棚に飾る風習があった)の作り方、古くから祝いの席で述べられる「ほめ言葉」や、地区の年間行事も収めた。地元食文化の調査は、市民グループ「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」などが実施。布良、相浜で回覧版を回してアンケート協力を呼びかけ、聞き取り調査を行なった。

調査担当者によると、「ひっくりかえりなます」(ジンタアジの皮を残し、ゼイゴがついたまま仕上げたなます)など、布良ではつくられているのに隣の相浜ではなじみのない料理も見つかったという。

冊子はA5判白黒64ページ。部数が限られているが、600円(税込、送料別)で販売する。希望者は住所と氏名、冊数を記入の上、ファクス(0470-22-8271)じゃ電子メール(awabunka@awa.or.jp)で同フォーラムに申し込みを。冊子の内容は同フォーラムのウェブサイトにも順次掲載される。

(房日新聞2010.4.1付)

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レシピ集「おらがごっつお」の内容はコチラ

上段メニューバー「新たな公」に収録。

【千葉日報】100401*エコウォーク富崎

南房漁村の雰囲気満喫たてやまエコウォーク盛況

青木繁没後100年を記念

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南房の自然や文化、人情に触れながら散策する「たてやまエコウォーク」が館山市の平砂浦、布良、相浜地区で催された。県内のみならず、都内や横浜市などから34人が参加し、漁村の雰囲気を満喫した。

今回のエコウォークは、「海の幸」などで有名な明治期の洋画家、青木繁が滞在し「海の幸」を描いた市文化財にもなっている同市布良の小谷家住宅を巡った。ガイドを務めたNPO安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄理事長)は「青木繁没後100年事業のキックオフにしたい」と話す。今回の参加費の一部は小谷家の修繕・保存費として寄付された。

昼食に立ち寄った相浜では相浜漁協(天野光男組合長)が浜揚げ解禁直後の伊勢エビを用意し、サザエなどと海鮮バーベキュー。参加者らは「味付けなしでおいしい」と舌鼓を打った。例祭に当たっていた相浜神社では、伝統のおはやしに拍手を送った。

エコウォークは、地域のガイドと一緒に歩き、通常の旅行では見落としてしまいがちな文化や特徴を発見する「歩いて楽しむエコツーリズム」運動の一環で、日本エコウォーク環境貢献推進機構が進めている。館山市では市内のNPOや各種施設などが「たてやまエコツーリズム協議会」を結成して8コースを設定、普及に努めている。

(千葉日報2010.4.1)

【房日】100330相浜の太鼓〜エコウォーク

海へと響け、相浜の太鼓
小中生への稽古が復活
神社の例祭でお披露目

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館山市の相浜地区で、しばらく途絶えていた祭り囃しの小中学生への伝承が、この春6ねんぶりに復活した。

相浜神社境内の二斗田集会所で、今月6日から週2、3回のペースで稽古を続け、27日の例祭で成果をお披露目した。当日は、富崎一体で行なわれた「エコウォーク」(たてやまエコツーリズム協議会主催)の参加者約40人も勇壮なお囃しを鑑賞。大きな拍手を送っていた。

高齢化が進む同地区では、子どもの数が少なくなるなどさまざまな理由から、祭り囃しの稽古が中断。この状態が続くことを心配していた30代中心の「囃子方」有志が「伝統ある地元の文化が途絶えてしまう」と、区長や神社の氏子らに復活を強く要請し、地区の父母らに働きかけたところ、小中学生18人が「お囃しを習いたい」と集まった。

稽古は夜間。家族の都合がつかない日は囃子方のメンバーが子どもらを送り迎えするなど、全面的なサポート態勢も構築。「ばかばやし」「すが」「おかざい」「しょうぜん」「やぐるま」の5つのお囃しの習得に取り組んだ。

住民によると、相浜の「ばかばやし」は房州の他の地区にはないもので、テンポが非常に速いのが特徴という。

相浜の磯部勲区長は「子どもたちが生き生きとやってくれてうれしい。独特のお囃しだと思っており、これを絶やさず後世に残すのは重要だ」と話している。

(房日新聞2010.3.30付)

【房日:講演抄録】100325*愛沢伸雄「地域まるごと博物館」〜明治・大正期の文化交流

◎講演抄録

〝いま〟あるものを活かした地域づくりと「地域まるごと博物館」構想
〜明治・大正の館山における文化交流の一端〜

愛沢伸雄氏(NPO法人・安房文化遺産フォーラム代表)

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安房地域はどんな地域なのか。4つの顔を持っていると思う。第1は「房総里見氏と戦争遺跡」。古代から地政上、海上交易の面からも戦略的に重要な場所で、城なり軍事施設が置かれた。第2は「地震と復興」。第3は「地場産業・近代水産業」。3つの海底プレートが交わるまれな地域で、たびたび災害が発生した。だが、人々は農漁業を発展させて、それを乗り越えてきた。

第4は「癒しの地と転地療養」。明治期の館山は、結核などの療養地、保養地となった。

この安房歴史文化研究会で皆さんが研究してきたことを、どのようにまちづくりに活かしていくか。「地域を良くしていこう」というなら「地域を見つめ直し、考える」ことが必要。地域の地理的歴史的な特性を活かした生活・文化を掘り起こし、再生していくことが重要だ。

◇ ◇ ◇

館山が明治期に療養地・保養地となった理由は、この地で酪農や果物づくりなどが発達したこととともに、川名博夫(富浦生まれ、1864-1947)という人が東大でベルツ博士に学んで、転地療養を取り入れた館山病院を設立したことにある。資生堂創設者の福原有信(1848-1924)は館山の人で、長女が川名博夫に嫁いだ。東京銀座の資生堂ビルの中には、館山病院の営業所があった。関東大震災後は、資生堂が館山病院に出資している。

彫刻家の長沼守敬(1857-1942)は、パリ万博で金賞を獲得した大変な人物。東大にあるベルツ博士像も制作し、付き合いがあったという。突然引退して館山に移住した。長沼の持っていた碁盤の裏に、「南陽」の文字がある。坪野平太郎(号・南陽、1854-1925)と囲碁仲間だった可能性がある。

南陽は田村病院の「南陽会」、安房高の「南陽文庫」に名が残る人。東大を卒業し、転地療養で館山に来た。後に神戸市長や一橋大の学長になるが、全国に館山の転地療養を知らしめた重要人物。定年後は関東大震災まで館山に住んでいた。

民芸運動を起こした柳宗悦の兄悦多は、大正期に短期間安房中の柔道教員をしていた。彼は水産講習所卒が縁で、北条海岸に船2隻を所有している。柳兄弟の母は柔道で有名な嘉納治五郎の姉。安房中が水泳や柔道で全国トップクラスになったのは東京高師との関係が深いが、その東京高師の校長を長くやっていたが嘉納。どうも坪野南陽と嘉納は東大の先輩後輩で教育分野でもつながりがあり、南陽らが資金を出して安房出身の在京学生のための寮舎「安房育英舎」をつくる際に、嘉納は建物と講道館敷地内の土地を寄付したという。

福原有信の3男、信三(1883-1948)は千葉医専から米国に留学して薬学を学び、化粧品メーカーとして資生堂を大きくしていく。写真家でもあり、資生堂ギャラリーに多くの文化人を集めた。資生堂-館山病院というルートは、館山にとって文化の流入口の役割を果たした。

万里小路通房(伯爵・1848-1932)もキーマンの一人。明治天皇の側近だった人脈で、神祇官僚福羽美静を通じて栽培技術の第一人者福羽逸人を館山に招き、促成栽培をはじめている。また、長女伴子が佐倉藩主堀田正倫の夫人であったことから、堀田農事試験場とも関わり、通房の農業・畜産分野のネットワークは広かった。

近代水産業の先駆者・関沢明清とも、農商務省の調査会と担当の貴族院議員ということで関係がある。水産講習所高ノ島実験場の日誌などをみると、万里小路が農業だけでなく水産業にも関心を持っていたことが分かる。

アワビ漁で米国に渡った小谷仲治郎(1872-1943)は水産伝習所卒業で関沢明清とつながりがあり、後に安房郡水産会長を務めた人物。彼の妹が嫁いだのが画家の倉田白羊(1881-1938)。安房の小学校を回り、児童たちが自由画を描く美術教育を進めた。倉田は、版画家の山本鼎と深い交流を持ち、彼とともに日本の児童自由画運動で画期的な役割を果たした。

青木繁中村彝・倉田白洋・山本鼎などの著名な画家たちは、どういうわけか富崎を訪れている。青木繁の没後100年を機に、美術史的な地域の掘り起こしが大事ではないかと思う。

これらの知識人の交流事例については手元に資料があまりなく、痕跡が少ないので不明なことも多い。地域の方々からご協力をいただき、調査研究をしていきたい。

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本稿は、20日館山市コミュニティーセンターで行われた安房歴史文化研究会第4回公開講座の内容を抜粋、要約したものです。

【浄土宗新聞】100323*秋山巌が大巌院で作品展

■落下傘部隊ゆかりの地

版画家、秋山巌氏が作品展

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千葉県館山市の大巌院(石川龍雄住職)客殿で、1月19日から25日まで、版画家の秋山巌氏(88)の作品展が開催され、木版画や陶器など約50点が展示された。

太平洋戦争で、海軍落下傘部隊として館山で訓練をした秋山氏、復員後は棟方志功に師事し、種田山頭火の俳句やフクロウなどを題材に作品を描いている。

作品展は秋山氏の緒女町田珠実さんが、父親が戦争を体験した館山の地を旅したことが縁となったもの。期間中には秋山氏が大巌院で肉筆画の実演を、また、23日には同市内の南総文化ホールでトークショーも行なわれ、落下傘部隊の思い出や、死と隣り合わせだった体験談などが語られた。

(浄土宗新聞2010.3.23付)

【房日】100321*里見ウォーク

 

館山市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は3月28日、城山公園で同日に開催される「里見桜まつり」に合わせ、城山周辺を散策する「里見ウォーキング—『八犬伝』のふるさと〜里見の城山—」を開催する。

同公園駐車場横に集合し、午前10時にスタート。4キロを約2時間かけてゆっくりと歩く。館山城跡と戦争遺跡、千畳敷、八遺臣供養塔、慈恩院、鹿島堀などをめぐるコースで、「里見ガイド」の説明付き。

参加費200円。同フォーラムでは「戦争中に城山は削られてしまったが、まだまだ築城当時の城跡遺構が残っている。ガイドと歩いて、在りし日の城の雰囲気を味わって」と話している。

(房日新聞2010.3.21付)

【房日】100320*地域医療協議会で看護師確保熱く語る

安房地域の医療のあり方について、関係機関のトップが話し合う「安房地域保健医療協議会」が18日、安房合同庁舎を会場にあった。看護師不足が進む中、亀田クリニック院長が看護大学の設立構想、安房保健所長が看護師確保対策などについて語った。

平成24年に看護系の大学「亀田医療大学(仮称)」の開学を目指している亀田クリニックの亀田省吾院長は、医師は足りているが看護師がいない地域の問題点を指摘し、「我々は全国行脚して集めているが、都会から田舎にナースは流れてこない。この地域を守るには、地域の優秀な子たちに看護師になってもらい、地域に根付いてもらうしかない」と大学の必要性を訴えた。

開学にあたっては資金面や教授などの人材確保に苦慮しながらも、公的資金の投入や寄付の募集など県、市町はじめ各方面に支援を呼びかけている現状を報告し、委員らにも協力を求めた。

今年度から看護師確保対策に乗り出している保健所の久保秀一所長は、高校への進路ガイダンスや意識調査の結果を報告。高校2年生の段階では、看護師を含めた医療職を目指す生徒が多くおり、そうした生徒らを看護師に養成し、地域で働いてもらえるよう、ニーズの高い奨学金制度、託児所などを設ける重要性を訴えた。

協議会には、医師会長や館山、鴨川市長など15人の委員が出席。冒頭には、昨年から導入された全県供用型医療連携パス、香取・海匝地域などで実施される地域医療再生プログラムの概要について県の担当者から説明もあった。

【那古小PTA広報】100315*家庭教育学級〜安房国再発見

第三回家庭教育学級〜安房の国を再発見

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2月4日、図書館にて、第三回家庭教育学級が行われました。皆さんは地元館山の歴史についてどの位知っていますか?NPO法人安房文化遺産フォーラムの池田恵美子先生を講師にお迎えして知られざる安房のお話を伺いました。

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安房に残る数々の戦争遺跡にはこの10年間で6千人、いまも年間にして200団体もの人々が国内外から訪れています。大房の砲台跡や赤山地下壕などが有名ですが、たくさんの遺跡があるということはそれだけ戦争の拠点として重要な場所だったことです。もしかしたら沖縄のような地上戦が、この館山で起こっていたかもしれないのです。1945年には米占領軍3500名が上陸し、日本本土で唯一「4日間」の直接軍政が敷かれ、館山の街を占領支配しました。ほか、人間魚雷「回天」の格納壕・数々の砲台跡・基地跡など、一時間の講演ではとても足りない戦争の傷跡に驚くばかりでした。

ほとんどの親やよは戦争体験のない世代。遺跡を見ただけでは想像することすらできません。よくわからないから子供にも見せない、敬遠してしまう、という人も多いと思います。安房文化遺産フォーラムの方々は、放置され朽ちかけていたこうした遺跡を、戦争の事実とともに保存しようと調査・研究を続けながら遺跡巡りのガイドもしてくれます。宮城の赤山地下壕は600万年前の地層や、掘削した当時のツルハシの跡も見られるそうです。ぜひわが子にも見せたい、と思いました。そして見塚な遺跡をめぐり、先人たちが築いた知恵や歴史を語り継ぐことの大切さを感じました。

館山海岸通りにある小高記念館という白い建物に、NPO法人安房文化遺産フォーラムはあります。一度足を運んではいかがでしょうか。

(那古小学校PTA広報2010.3.15号)

【房日】100314*安房歴史文化研〜明治・大正期の館山紹介

安房歴史文化研〜「明治・大正期の館山」紹介

20日に公開講座

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安房歴史文化研究会(天野努会長)の第4回公開講座が3月20日、館山市コミュニティセンターで開かれる。今回はNPO法人・安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表が、「館山に住んでいた明治・大正期の知識人らの文化交流の一端」について、事例を交えながら研究発表する。

同会によると、明治期の館山は東京と汽船で結ばれ、保養地・避暑地として発展。彫刻家の長沼守敬、建築家の辰野金吾らが住居・別送を構えた。また、水産伝習所や安房中学校を通し、多くの知識人が来訪。水産業で財をなした企業人が多く出たことなどもあり、これらインテリ層の文化交流が起こり、地域社会にも影響を与えた。

愛沢氏は、これまでの調査で得られた知識人文化交流の一端を紹介。また、宮内庁の侍従職を辞して房州に移住した伯爵・万里小路通房の人的ネットワークについて語る。同フォーラムで取り組む「地域まるごと博物館」構想についても報告する。

講座は午後2時から4時まで。定員は当日先着50人で、参加費は200円(資料代)。

【日経】100314*「海の幸」会のこと〜入江観

(日本経済新聞2010.3.14付)

「海の幸」会のこと

入江観

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山国育ちの私は、今、四十年を超えて海辺の街で暮らしていることを幸せに思っている。

朝寝坊の私は同行しないが、妻は早朝の海岸歩きを習慣にしている。時折、地曳網に出合うことがあり、鯵や時には平目などを分けてもらってくることがある。「魚が減った」という漁師の嘆きも聞こえてはくるが、そんな時、海の恵みと直につながっているという実感はある。

今日の話は、そのことではない。青木繁の描いた「海の幸」についてである。

この作品は、近代日本の洋画としては最も早い時期に国の重要文化財に指定され、美術の教科書にも載っており、現在は作者の郷里でもある久留米市の石橋美術館にあるが、長年にわたって東京・京橋のブリヂストン美術館に陳列されていたので多くの日本人の眼に触れ、記憶に残っているはずである。

十人の全裸の男たちが、銛に貫かれた、人の背を超える大きな三尾の鮫を、担いで波打ち際を歩いていく。若者の群像は、各々が持つ銛が作り出す横V字の形で鎖のようにつながれている。同時に右から左へ向かって隊列の進行を促してもいる。空も、海も、砂地も荒々しいタッチで、その部分だけ見れば完成にはほど遠い。塗り残しの部分も多い。しかし、青木繁の作品の多くにはそれこそが彼の魅力といえる「仕上げ」という辻褄合わせがない。

当時、地方の高校生であった私は、開館して間もないブリヂストン美術館の一室で、この絵の前に立って戦くような感動を覚えたことを忘れない。そのような言葉の用意もなかったが、絵というものが、始原的な生命の発露であることを、つまり絵の力を初めて教えられたのかもしれない。

「海の幸」が描かれたのは明治三十七年(一九〇四年)。東京美術学校を卒業した二十二歳の青木が、その夏、森田恒友、坂本繁二郎、恋人であった福田たね等を伴って、房州・布良の海岸に滞在した折のことであり、青木繁一行の滞在した小谷家は代々網元であって、今も当代の小谷栄夫妻によって大切に住み継がれている家屋の一室であった。

もう十年以上前から、女子美術大学の吉武研司さんは、毎年、学生を引率して布良海岸に写生旅行を続けているうちに、その小谷家をしばしば訪れるようになったと言う。訪問を重ねる度に、彼は、青木繁の残香を探し求めるようになり、浜の古老から小谷家の仙台のおばあさんが子供のころ、障子に穴をあけて部屋を覗くと、青木繁が、裸の福田たねを描いているのが見えて驚いたというような話を聞きだしたりもしている。

彼は「海の幸」が生まれたその部屋を残せないかという強い思いを抱くようになったという。そういう思いを温めているときに、青木繁と故郷を同じくする久留米出身の元編集者でもあった画家、吉岡友次郎さんと出会い、「海の幸」への思いを共有し、九州や栃木など青木ゆかりの地の紀行を重ねつつ、その部屋を残すことを真剣に考え始めたということである。

二人だけではいかんとも難しく、多くの人に協力を求めたところで、私にも話があった。

もともと、こうした文化遺産を残すということの意味を充分理解しても、それはやりだしたらキリのない話であり、消えるものは消えるにまかせるのが自然の理ではなないかという考えが一方にはあることも承知している。同時に、こうした事業はつまるところ資金集めということであり、そういうことに自分に適正があるのかと自問もしてみた。

二人の男の無料の熱意にほだされたということもあるが、私にNOと言わせなかったのは、若き日に「海の幸」を前にして受けた感動、その一点につきると言うほかなかった。

二人が、小谷家の当主の御理解を得て動き始めたのは当然のことであり、館山市の教育委員会にも相談に出向き、強い関心を示してくれたが、ご多分にもれず予算は無いとのことで、すでに地元にある保存会との連係を探りながら、自分たちが率先して動き出すべきだと活動を開始する。

画家はもとより、評論家、美術館関係者に発起人としての参加を促し、昨年六月、地元関係者を招いて、上野の東京文化会館で設立総会を開催した。

この会の事業目的として「海の幸」が描かれた小谷家の復元、保存を行い、これを広く一般に公開し、同時に南房総地域の環境保存に貢献すること、また、これに関連する調査研究と情報交換などを行うことを確認した。

総会の議を経て、事務局所在地の神奈川県に申請していたNPO法人(特定非営利法人)の認可も、この一月に下りた。

理事長には、北里研究所名誉理事長、女子美術大学理事長でもある大村智先生にお願いしたが、大村先生は依頼と同時に、即座に布良の小谷家を訪問し、実見した上で承諾してくれた行動の人手ある。理事長には錚々たる顔ぶれが揃ったが、その一人であった平山郁夫先生が急逝されてしまったことは残念の極みであった。

NPO法人の認可を受けて、二月末に総会、理事会を経て、いよいよ活動が開始されることになった。

現下の社会、経済状況の下での募金活動が容易ではないことは想像がつくことである。しかし、こういう状況だからこそ、日本の文化が試されているのではないだろうか。

日本全体に広く呼びかけながら、ひとり、ひとりの感動の拠を守ろうという人が、どれだけ居るかが問われているのだと思う。

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○いりえ かん

洋画家、女子美術大学名誉教授。1935年栃木県生まれ。東京芸大卒。62年フランスに留学。帰国後、春陽会会員に。71年に昭和会優秀賞、96年に宮本三郎記念賞。