考古学からみた古事記と古代房総
〜景行天皇と倭建命(やまとたけるのみこと)東征伝説を中心にして〜
安房歴史文化研究会会長 天野努氏
(房日新聞 2012年10月3日) ⇒記事PDFはコチラ。

ヤマトタケル伝説に真実味
史書と古墳がオーバーラップ
今年は古事記が編さんされてちょうど1300年にあたる。奈良や出雲、宮崎などではメモリアルイベントがさかんに行われている。この機会に古事記がこの地域について記述した部分と、それに関係するような最新の考古学発掘調査の結果を紹介し、その関連性の有無について考察してみたい。
古事記の中巻、景行天皇の段には房総に関わる記載がある。
天皇の御世に東国の「淡水門」(あわのみなと)を定め、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を定めた。また東国征討のために倭建命(やまとたける)を遣わしたが、「走水の海」(はしりみづのうみ)を渡るときに荒波を鎮めるため、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海中に身を投げた‐というくだりだ。
この倭建命の東国征討の話は日本書紀にも書かれている。日本書紀では天皇が上総・淡を訪れたとの記述もあり、そこに磐鹿六雁(注・・高家神社にまつられる料理の祖神)のエピソードが出てくる。ちなみに「走水の海」は浦賀水道、「淡水門」は館山湾とも考えられている。
また東国征討が実在したと仮定すると、その年代は4世紀ごろと考えられる。
さて、その時代の古墳に目を移すと、東国の3世紀の古墳は前方後円墳が大半を占めていたのに対し、4世紀には大型の前方後円墳が出現する。房総では小櫃川、養老川、村田川隆起に集中する。
三浦半島の逗子市・葉山町の境界で平成11年、長柄・桜山1号墳、2号墳という2つの大型前方後円墳が発見された。標高100-120メートルもある山に築かれ、相模湾や富士山が一望できる。ともに壷型埴輪などが出土している。直下の沖積地の集落遺跡からは銅鏡や銅製の鏃(矢じり)、石釧など大和王権と直結するような出土品もあった。
この古墳は交通の要衝に、海からのランドマークになることを意識してつくられたと考えられている。埋葬者は大和王権とのつながりの深い首長と思われ、この古墳が発見されたことで「ヤマトタケルの伝説」が真実味を帯びてきたと私は考えている。
東京湾をはさんだ木更津市の矢那川沿いに手古塚古墳がある。墳丘長60メートルの前方後円墳。今は海岸が埋め立てられているが、眼下に東京湾、三浦半島が望め、海岸から最も近い場所につくられている。
三角縁神獣鏡や、畿内のものとみられる朱の入った布留式の士師器甕などが出土。籠手や銅・鉄製の鏃なども出た。遺物からみて、この古墳は4世紀前半のものとみられている。埋葬者は畿内と強い関係を持った武人と考えてさしつかえないだろう。
姉崎古墳群(市原市)の釈迦山古墳。これは手古塚と同時期か一段古い前方後円墳だが、畿内のものによく似た高杯や、東海地方の「S字甕」が出土している。このように考古学からみると、古事記、日本書紀に書かれている「東国征討」とオーバーラップするような古墳の分布がみられる。
安房はこれまで大きな古墳がない場所といわれてきたが、2年前に報告書がまとめられた萱野遺跡(館山市)の発掘調査では大型方墳(一辺34.2メートル)あるいは前方後円墳(62メートルぐらい)ではないかと言われている、出現期(3世紀ごろ)としては東日本最大の古墳が見つかった。
この萱野遺跡からは伊豆・新島産の流紋岩を使った石器が多く出土している。当時の海上交通をになっていた集落がこの地に存在し、古墳はその海上ルートを支配していた首長の墓と考えられる。
安房では4世紀の古墳は見つかっていないが、5世紀後半のものとしては恩田原古墳(南房総市久枝)や永野台1号墳(同市石堂)などがある。
(本稿は、館山コミュニティセンターで9月30日に行われた安房歴史文化研究会公開講座の内容を要約、再構成したものです)
水産業の父の魚類図、加賀藩出身の関澤明清
千葉の網元に贈呈、漁業へ情熱示す
(北國新聞2012年10月2日)
⇒印刷用PDF

サケの養殖技術などを日本に伝え「水産業の父」と呼ばれる加賀藩出身の関沢明清は明治時代千葉県館山市の旧家に送った書状が1日までに見つかった。関沢が水産業を志す生徒を漁の盛んな館山に派遣していたことがうかがえるほか、生徒を受け入れてくれた礼として精密な魚類図を送っていたことが分かり、関沢の水産業発展への情熱が伝わる貴重な資料だという。
書状は、館山市指定有形文化財の「小谷家住宅」で地元のNPO安房文化遺産フォーラム関係者が確認した。1890年(明治23年)9月10日付の小谷家当主宛てで「生徒御地出張中はご多忙の中、特に漁具その他の説明を煩し、生徒に於いても満足致して居り候」などと直筆で書かれており、関沢が所長を務めていた水産伝習所の生徒が江戸時代から続く網元だった小谷家に滞在して漁法を学んでいたと推測される。
小谷家で保存されている石版画「日本重要水産動植物之図」が、生徒受け入れの札として関沢から同家に贈られた品であることも、書状の記述から初めて分かった。
この図はイセエビやマンボウ、アシカなど海の生物159種の絵と名前、体長などが日本語とフランス語で記されている。関沢について調べている金沢工大の吉道悦子教授(文芸社会学)によると、図は1888年、農商務省が複数制作し、現在、小谷家が保管するほか、公共図書館では金大附属図書館が唯一所蔵。金大の前身の旧制四高が1917年に購入し、授業で使っていたとみられる。
吉道教授によると、従来、この魚類図が関沢と関連付けて考えられることはなかったが、今回の発見で関沢が図を贈答品に用いていたことが分かったのに加え、図の出版当時、関沢がこの図の製作に関わった可能性が大きいという。吉道教授は「書状の発見が水産業の発展に尽くした関沢の功績が広まるきっかけになればうれしい」と話した。
関沢明清 (1843〜97)
加賀藩士関沢安左衛門の次男。1866年、長崎に留学中、藩命で海外渡航の禁を破って英国へ留学し、帰国後、明治政府に仕えた。ウィーン万博、フィラデルフィア万博を視察して魚の養殖法や漁網編み機を持ち帰り、缶詰製造や捕鯨銃の採用、遠洋マグロ漁業の普及に尽くした。水産伝習所(東京水産大の前身)の初代所長。北國新聞社から「関沢明清‐若き加賀藩士、夜明けの海へ」が発刊されている。
独協医大准教授:木村真三氏
「ネットワークでつくる放射能汚染地図」から安房を見る
〜市民科学者養成講座〜
房日新聞 2012年9月21日

正しい知識で差別をなくそう
定期的な食品検査が大切
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木村氏は1967年愛媛県生まれ、東日本大震災発生直後、勤務していた労働安全衛生総合研究所に辞表を出し、福島県各地で放射能線量を独自調査。その様子が「NHKのETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」で放送され、大きな反響を呼んだ。現在は獨協医大国際免疫学研究室福島分室で放射能汚染調査などを続ける一方、NPO法人・放射線衛生学研究所(郡山市)の理事長として住民支援活動を行なっている。
今月7日に福島第一原発近くの海域で、海水の汚染レベル調査をした。原発から1キロほど離れた地点から、持っている線量計の値がグーッと上がってくる。これで、原発からの放射能が約1キロの距離を飛ぶということが分かってきた。原発から200メートルまで近づくと、海上で7・5マイクロシーベルトというとてつもない放射線量が計測された。海洋から見た放射能汚染調査はこれまであまりない。採取した水は現在長崎大で分析中だ。
私はこれまで、放射能汚染地図づくりに始まり▽二本松市住民の内部・外部被ばく調査▽昨年4月21日にいわき市が“安全宣言”を出したものの、その後の高濃度のお線画見つかったいわき市志田名・荻地区の調査および支援—など、東日本大震災後にさまざまな活動を行なっている。
福島での住所は不定で、県内各地の一般家庭にホームスティしながら活動、地元の方々と寝食をともにし、その思いや痛みを一緒に味わいながら、どうしたら今の状況が改善できるかを日々考えている。
原発事故で避難者はものすごいメンタルストレスを抱える。特に県外の方をなんとかフォローしたい。国の対応も不十分で、今年3月から新潟県でストレス調査と支援活動を始めた。福島からは現在6500人が新潟に避難。強制避難が3000人ほど、残りは自主的に避難した方々だ。
柏崎市に避難している女の子は、男子生徒の心ない言葉で拒食症になった。ぽっちゃり体型を「身体の中に放射能が入っているのだろう」とからかわれた。体重は20キロ台になり、チアノーゼの症状も。それでも毎日学校に通っている。
また、母と子で避難生活中に母親にがんが見つかった別の事例。原発事故との関連は極めて低いのだが、当人は「あの時、あの野菜を食べたからでは」と気に病んでしまう。隣人からは「放射能が降ってくるから、子どもを静かにさせろ」「福島に帰れ」など、とんでもないことを言われ続けている。
いずれのケースも、構造は部落差別と同じ。正しい知識が欠如しているからこのような問題が起こる。放射線についての正しい学習、教育の普及がなによりも大切だ。原発事故による被害は、直接的な被ばくの影響だけでなく、間接的な影響がとても大きい。チェルノブイリの時もそうだった。
日本人は何事にもまじめに考えてしまう傾向があるので、心が病んでしまう人が多く出る心配がある。メンタルストレス被害のデータをきちんと残すことが重要だ。
「原発立地を推進してきた」という理由で、福島(の人々)に事故の責任をなすりつける論調が一部にある。「貧しい地域」だったために原発を受け入れざるを得なかったという歴史的視点を欠いた、間違った物の見方だ。沖縄の基地問題も根底は同じ。実際にいわき市で、東京の人がそのような発言を公の場でしたのを私は聞いた。この種の「無学、無知」を正す作業も地道に行っていかなければならない。
多くの市民の方々に▽放射線の単位(シーベルトとベクレル)▽放射線の種類と人体影響▽放射能汚染の拡がりについて▽外部被ばくと内部被ばく—について、正しい知識を知ってほしい。
安房地域の空間放射線量は0・05〜06マイクロシーベルトで、事故が起こる前の基準と同レベル。普通に生活していただいて大丈夫だ。
今回の原発事故で大量放出された放射性核種は風や雨、潮の流れなどによって移動する。日本のどこでも汚染の可能性はあり、食べ物は気をつける必要がある。食品・学校給食の検査はどうしても必要だ。
福島第一原発は、大震災後の揺れ戻しがきた場合にどうなるかが心配。危険な場合は自宅など屋内にとどまり、放射性物質が通過するまで外出を避けることだ。
(本稿は、館山商工会館で17日に行われた安房地域母親大会での講演内容を要約、再構成したものです)
渚の博物館「海の幸」オマージュ展
延べ8250人が入館
房日新聞 2012年9月14日

延べ8250人が入館
渚の博物館「海の幸」オマージュ展
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館山市館山のなぎさの博物館で開催された巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」(6月26日〜9月2日)の入館者数がまとまった。開館日数の60日間で、延べ8250人が入館した。1日あたりの平均入館者数は138人だった。
同市や同市教委、NPO青木繁「海の幸」会が共催した展覧会。NPO青木繁「海の幸」会は、青木が同市で宿泊した小谷家の保存と警官の環境整備を目的に活動。明治時代の画家、青木繁(1882〜1911)が代表作「海の幸」を描いた同市と、東京、銀座で開催した。
展示では未公開の8点を含む、青木のデッサン画17点をはじめ、画家56人の作品64点が飾られた。
1日の入館者数が多かった日は、8月の盆の14日が541人、15日が304人。関連イベントもあり、洋画家佐々木豊氏と美術評論家、ワシオ・トシヒコ氏のギャラリートークには60人が、福岡大学人文学部教授、植野健造氏を招いたふるさと講座には71人が参加した。
入館者からは「小谷家はどこにあるか。行ってみたい」などと関心を寄せる声が多く聞かれた。
安房から平和への願い込め
枇杷倶楽部ギャラリー61人で慈善美術展
房日新聞 2012年9月2日

安房地域在住の芸術家が、作品をとおして平和を願う「安房・平和のための美術展」が、南房総市富浦町の枇杷倶楽部ギャラリーで開かれている。今回が8回目。
画家の溝口七生さん、イラストレーターの山口マオさんら安房を拠点に活動し、名の知られた芸術家61人が参加。絵画、陶芸、木彫、版画、いけ花、創作人形など多彩なジャンルの作品が一堂に展示されており、会場にやってきた女性客は「すばらしい作品ばかりですね」と感心しながら見入っていた。
展示会はチャリティーで、隣接する会場には、出品作品が制作したきり絵、色鮮やかなガラスのペンダント、ポストカードなどが手ごろな値段で販売されているほか、本展示の作品も作者の好意で一部が販売されている。
収益は、ウガンダのめぐまれない子どもたちと、東日本大震災の復興支援などに役立てられることになっている。
同美術展では、これまでの戦争で才能ある多くの芸術家の命が失われたことや、いまでも内戦、貧困、飢えに苦しむ国や地域があることから、世界平和と人々の幸せを願い自分たちでできることをと、有志が実行委員会を組織して始まった。
展示は9日までで、大勢の来場を望んでいる。
美術展に関する問い合わせは、事務局の桧山薫さん(090‐7721‐3022)へ。
読者のコーナー 【鋸南町 溝口七生】
青木繁「海の幸」オマージュ展に感動
房日新聞 2012年8月18日
“渚の駅”たてやま渚の博物館で開催中の『青木繁「海の幸」オマージュ展』を観て、大きな感銘を受けた。
まず、青木繁が布良に滞在した時のもの、初公開のものも含まれた貴重なデッサン作品17点を興味深く観て、改めて青木繁の非凡な才能、芸術感覚の鋭さ・豊かさなどが感じられた。
さらに、『青木繁「海の幸」会』のメンバー有志らの作品群も見応えがあった。その顔ぶれが凄い。現代日本画壇のトップレベルの画家たちの作品がこれだけ一堂に展開される展覧会は稀なことである。
日本芸術院会員の奥谷博、中山忠彦、塗師祥一郎、大津英敏は小作と大作の2点ずつの出品。この4人を始めとして、日展や主要美術団体の審査員や役員や中心会員、美術大学教授たち、入江観、馬越陽子、内山孝、張替眞宏、楢崎重視、齋藤研、吉武研司、安達博文、棚瀬修次、川村良紀、金井訓志、浅野輝一、吹田文明など、美術界で名の知れた人たちの魅力的な作品が並んでいる。
青木繁へのオマージュを直接的に表現している作品もある。地元作家の船田正廣の「海の幸」の模刻作品、福田たねを描き入れた作品、自画像を元にした作品、小谷家や布良を描いた作品など。
作品ジャンルも油彩、水彩、日本画、水墨、版画と変化に富んでいるし、伝統的写実的作品と現代美術的抽象作品と作品傾向の幅も広く、小品が多いのではあるが、安房地域で開催された数多くの展覧会の中でも一、二を争う貴重な、レベルの高い展覧会となっていると思う。
なんども会場に足を運び、じっくり鑑賞し、味わっている。
9月2日まで開催されるとのことで、さまざまな関連資料とともに、ぜひ多くの方々に観て頂きたい展覧会である。
「海の幸」会の会員は500人にもなっているとのこと。私もその一員に加わって今展にも参加しているが、小谷家を復元・保存し、記念館へという運動が、地元の館山市と『青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会・NPO安房文化遺産フォーラム』の活動と連動して大きな盛り上がりを見せてくれることを期待している。
従軍慰安婦よ安らかにかにた婦人の村で鎮魂祭
房日新聞 2012年8月17日

館山市大賀の婦人保護長期収容施設「かにた婦人の村」(天羽道子施設長、入所者71人)で、67回目の終戦記念日となった15日夕方、従軍慰安婦として亡くなった人の「鎮魂祭」が行われた。入所者らが朝鮮民謡の「アリラン」を歌いながら、鎮魂碑へ献花した。
性的な暴力により療養が必要となった女性たちの安らぎと療養の場の必要性を説いた故深津文雄牧師が、1965年に同施設を設立。深津牧師に賛同した天羽施設長が活動をともにし、深津牧師の遺志を受け継ぎ、運営にあたっている。
鎮魂祭は、入所者の1人が、「従軍慰安婦となった娘たちの慰霊塔を建ててください」と切願したのが始まり。初めは1本の木を植えて祈りを捧げ、その後石碑を設立。27年間毎年、終戦の日に行われている。入所者は「性の提供をさせられた娘たちは、足手まといになると放りだされ、荒野をさまよい、凍てつく原野で野良犬の餌食となり土にかえった。同僚の顔が浮かぶ」と語っていたという。
鎮魂祭では、深津牧師が作詞した歌を「きよらのおとめつれさられ、なげきのなみだあともなく」とアコーディオンのメロディーに合わせて合唱。天羽施設長はあいさつで、「67年間の平和を享受してきたが、平和の中に浸ってよいのか、その思いの中荷甘んじでいてよいのかという気持ちを強めてまいりました。このことは日本の戦後処理がなされていないことが1つにある。日本従軍慰安婦に対し、日本がすべきことが、この間、なされないままで引きずられてしまっている」と語りかけた。
献花された花は、東京の在日韓国人から寄付されたニチニチソウなどの苗で、一人ずつ石碑の周りに置いて行き、手を合わせて冥福を祈った。
青木繁テーマ研究者が講座
房日新聞 2012年7月21日

洋画家。青木繁(1882〜1991)の作品「海の幸」(重要文化財)について学ぶ、館山市中央公民会の第3回ふるさと講座が、あす22日午後1時半から、同市コミュニティセンターで開催される。一般が対象で、定員は150人。参加者を募っている。無料。
同市の渚の駅たてやま渚の博物館で開催の巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」の関連事業として開催する。講師は福岡大学人文学部教授の植野健造氏。植野氏は「海の幸」を収蔵する石橋美術館学芸員で25年間勤務。昨年は「没後100年 青木繁‐よみがえる神話と芸術展」を企画し、「青木繁《海の幸》」(中央公論美術出版)など、著書も多数。
テーマは「青木繁の生涯と芸術‐《海の幸》を中心に‐」青木は1882年(明治15年)福岡県久留米市に生まれ、画家を志して」上京。1904年(明治37)に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業すると、友人らとともに訪れた館山市の布良で、代表作となる作品「海の幸」を制作。
講座は海の幸を中心に、青木繁の生涯を紹介する。
問い合わせは、館山市中央公民館(23‐3111)へ。

小谷家保存する市民団体に助成金
(房日新聞2012.7.20付)
館山市の青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会にこのほど、日本興亜おもいやり倶楽部から、活動助成金として10万円が贈られた。
青木繁が滞在した同市布良の小谷家住宅前で贈呈式が行われ、保存する会の嶋田博信会長に手渡した。
同クラブは、日本興亜保険グループの役職員有志が会員。社会貢献活動として、毎月の給与から拠出した金額に日本興亜損保が同額を上乗せして贈っている。
館山で没した林栄之助
明治期に印刷業・うちわ産業に影響
関係者が資料提供呼びかけ

明治時代に、尋常小学校などの辞書編纂に携わり、房州うちわ生産や館山の印刷業振興にもかかわったとされる林栄之助。館山で没し、同市安布里の源慶院に墓があるが、栄之助の足跡を明らかにしようと、源慶院の小池宏学住職ら関係者が、資料発掘への協力を呼びかけている。
小池住職や、調査を行っているNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄さんによると、栄之助は美濃岩村藩の江戸深川屋敷にいたとされる林角助の子として生まれた。明治10年(1877)に、妻のち賀とともに、当時の北條町に転居。同24年に他界した。館山へ転居した理由は分かっておらず、生年月日も不明だが、墓石から58歳で亡くなったことがわかっており、天保4年(1833)に出生したらしい。岩村藩最後の藩主、松平能登守の家臣で維新後、東京士族となった。
全国で広く活用された「高等小学読本字引」「尋常小学読本字引」ほか、明治の三筆と称された書家の日下部鳴鶴が題字を書いた「篆書参考 実用新選字典」を編纂。これらは、大学の図書館や国立国会図書館に保管されているという。
さらに栄之助の死後、明治30年に印刷された北海道の地図に、栄之助の名前が印刷されていることから、幕末に陸軍奉公を務めた能登守が管理していた日本地図を、許可をもらって編集し版権を所有して印刷、発行していたのではないかという。
栄之助と交流のあった長尾藩士が、明治16年、栄之助の自宅近くに印刷業を開業し、栄之助の指導を受けていたと見られていること。また丸亀うちわで知られる丸亀藩京極家と岩村藩松平家、さらには家臣の栄之助も交流があったことから、栄之助がうちわ産業の接点となったと推測され、房州うちわの製造技術や、印刷技術の振興につながったとしている。
栄之助編纂の字典や関連資料に心あたりのある人は源慶院(0470-22-2923)へ。
(房日新聞2012.6.3付)