文化遺産を活用した地域活性化事業
文化庁が交付金、青木繁や波の伊八てこに
館山・鴨川・鋸南の3件に
(房日新聞2011.7.17付)
文化庁が全国の自治体に募集していた今年度の「文化遺産を活かした観光振興・地域活性化事業」で、安房地域から「青木繁≪海の幸≫を描いた漁村活性化・観光振興事業」(館山市)、「伊八ルネッサンス事業」(鴨川市)、「伝統文化教室」(鋸南町)の3件が補助金交付対象事業として採択された。
認められた補助金は申請時よりかなり圧縮されており、3市町では具体的な事業内容、経費配分を見直したうえで事業に着手する見通し。
3件の中で最も事業規模が大きいのは鴨川市の「温故知新のまちづくり・伊八ルネッサンス事業」で、628万4000円が認められた。新制では、鴨川が生んだ江戸期の彫物大工「波の伊八」の作品群を新たな地域資源、観光資源として活用するため▽来年2月3月に伊八シンポジウムを開催▽これまでなされた伊八の基礎研究結果の体系化・データベース化▽今秋から冬にかけ、伊八作品を巡るモニターツアーを24回開催-など、多様な取り組みを計画している。
主な実施主体となる一般社団法人「波の伊八まちづくり塾」(末吉一夫代表理事)の関係者は「この決定で、青写真に描いていた事業の多くに実現のめどがついた」と喜んでいる。
館山市の事業には94万4000円の交付が決定。「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)を中心に▽青木繁没後100年を記念したフォーラムの開催▽布良・相浜地区でのまちづくり講座やウォークイベント開催-などを目指す。
鋸南町の交付額は38万4000円で、住民グループが「子ども百人一首教室」を開く。
文化庁は採択結果を8日に発表。それによると、全国で583件、約30億円の補助金交付を内定した。
【特集】没後100年・青木繁
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60頁にわたる大特集。そのうち、「現在編・第二章:布良…画家の聖地を守る人びと」(P.66~69)では、NPO法人安房文化遺産フォーラムと青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会が取材に協力し、記事に紹介されています。
⇒ 印刷用PDF:芸術新潮
「海の幸」モチーフに新設
房総の神輿が源泉か
青木繁没後100年 京都・東京などで巡回展
(毎日新聞2011.6.29)‥⇒印刷用PDF
貧困と病苦の末に夭折(ようせつ)した洋画家、青木繁(1882〜1911)。その代表作「海の幸」(国重要文化財)が、京都国立近代美術館(京都市左京区)で開催中の「没後100青木繁展 よみがえる神話と芸術」(7月10日まで)に出品されている。未完成ともされ、謎が多い本作には、イメージソースを巡ってさまざまな説がある。没後100年を迎えた今年、ブリヂストン美術館学芸員の貝塚健さんが房総の祭りに注目し、新たな説を提唱した。 【手塚さや香】
3匹のサメをかつぎ、砂浜を2列になって歩く男たち。横長の画面は、原始的なエネルギーを発散する。この絵の成り立ちを巡っては青木繁の死後、多くの研究がなされ、背景がわかってきた。
1904年の7月中旬から8月末まで、当時22歳の青木らは写生のために千葉県館山市の布良(めら)に滞在、その地で「海の幸」を描いたことが判明している。同行したのは同郷の画家、坂本繁二郎、青木の恋人の福田たね、森田恒友。青木はこの旅について友人の梅野満雄にあてた手紙に「……こゝは万葉にある『女良(注・原文のまま)』だ。すぐ近くに安房(あわ)神社といふがある、官幣大社(かんぺいたいしゃ)で、天豊美命(あまのとみのみこと)をまつつたものだ……」とつづっている。
となると「海の幸」に描かれているのは、青木が布良で目撃した光景なのか。実は後のいくつかの証言から、そうではないことが分かった。証言の一つは、同行した坂本のものだ。制作から60年以上を経て、坂本は自分が青木に語った水揚げの光景が「海の幸」制作のきっかけになっていると明かした。写実を重視した坂本は「あの『海の幸』は絵としていかに興味をそそるものとしても、真実ではありません。大量陸揚げの光景は、青木君は全く見ていないはずです」と語っている。他の関係者の証言も、坂本のそれと矛盾しない。
青木は坂本の話だけを源泉に、この絵を描いたのだろうか。これまでに、先行する西洋作品との構図との類似や、当時の広告図案との類似などが指摘されてきた。しかし貝塚さんは、銛(もり)を方にかつぎ長い柄をあずけるようにしてサメを運ぶさまが神輿(みこし)に似ていると指摘する。
注目したのは、青木の書簡にも表れる安房神社だ。「安房神社のもっとも大きな行事である例祭が、『海の幸』の源泉の一つになっているに違いない」。例祭は8月10日に行われており、青木の滞在時期とも一致する。「安房神社や神話に関心を持っていた青木が、この例祭を見に行かなかったとは考えにくい」と貝塚さんは言う。
『海の幸』をよく見ると、男たちの前方から光が当たっていることが分かる。現在の例祭は規模が小さくなっているが、館山市史を調べた貝塚さんは、かつて例祭の中心は相浜(あいはま)のお浜出であり、神輿は夕日に向かって進んでいたことを突き止めた。相浜のすぐ南にある布良から見物に出掛け、南側から神輿の担ぎ手たちを見たとすると、絵と同じに右から左へ二つの隊列は進むのだ。さらに青木が滞在した年の8月10日の館山は、晴天だった可能性が高い。「『海の幸』は祝祭的、とも言われますが、祝祭そのものから影響を受けたものとすれば納得がいきます」
貝塚さんの新説は、青木繁展の図録に収録されている。
「没後100年青木繁展 よみがえる神話と芸術」東京展はブリヂストン美術館(ちゅおうく)で7月17日〜9月4日に開催される。
赤山地下壕跡、10月から見学が有料に
人件費など経費まかなう
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館山市は、同市宮城にある戦争遺跡「館山海軍航空隊赤山地下壕跡(「通称、赤山地下壕」の見学を10月1日から憂慮化する。入場料は一般200円、小・中・高 高校生100円。市内の小中学校などが授業で使用する場合など、減免措置もとられる。
同市では、有料化により年間約260万円の収入を見込んでおる、専属の受け付け事務員の人件費や券売機のリース代、見学者が利用するヘルメットの使い捨てインナーキャップなどの経費をまかなう考え。
これに合わせ、受けつけ窓口となる豊津ホールの玄関を、土足でも上がれるように改修。壕内の見学コースには、停電など非常時の誘導灯も設置することにしている。
赤山地下壕跡は、全長約1.6キロと全国的に見みても大規模な防空壕。昭和19年以降に着工し、未完成のまま終戦を迎えたとみられている。壕内には発電所の跡などが残り、終戦間際に館山海軍航空隊の事務に携わったという体験談や、病院施設があったという証言もある。
同市を代表する戦争遺跡として史跡指定しており、約250メートルの見学コースを整備して、平成16年4月から一般公開。年間1万5000人が足を運び、市外からの学習旅行や観光ツアーなどの見学ポイントの一つにもなっている。
市では昨年度、乗用車用18台分と大型バス2台分の専用駐車場を整備。約120メートルのアプローチ道も整え「雨天時には、ぬかるんで足元が悪い」などと不評だった未舗装部分を解消するなどしている。
(房日新聞2011.6.24付)
安房歴史文化研究会、天野努氏が過去の被害語る
地震・津波の講座にどっと
安房歴史文化研究会の第11回公開講座が28日午後、館山市コミュニティセンターで開かれ、天野努会長(元安房博物館館長)が「歴史からみた地震と津波—安房地域を中心にして」と題して講演した。
天野会長は7世紀から関東大震災に至までの主な大地震・津波被害の模様を、当時の史書、古文書などの史料を示しながら説明。「自分たちの住む地域の自然災害を考える時、歴史という過去が非常に大切。他人任せではなく、住民が行政や専門家とも協力し、地域全体で防災対策を考えなければいけない」と呼びかけた。
当初定員50人とした会場には、約100人が来場。東日本大震災の発生を受け、地震・津波に対する地域住民の関心の高さが浮き彫りになった。
天野氏は869年に東北地方を大津波が襲った「貞観地震」について、当時の被害の参上を記した史書『日本三代実録』の内容が現在の『仙台市史』にも引用されていることを紹介。「今回の大津波は想定外ではない。文献や地層の研究で、過去にこのような地震があったということは早くから分かっていた」と指摘した。
また、房州に大きな津波被害をもたらした「元禄地震」(1903年)については、当時江戸幕府の中枢にいた柳沢吉保の日記『楽只堂年録』に記録された詳細な被害状況を示すとともに、安房の各地に残っている古文書、碑文などを解説。
▽鴨川市前原に慶長の大津波を教訓にした「避難丘」が築かれ、元禄地震の際にこの丘に逃げ込んだ人は助かったという言い伝えがあること▽南房総市和田地区の威徳院には、標高約16メートル地点にまで津波が押し寄せたことを示す碑が残っていること-など、興味深い歴史の痕跡も数々紹介した。
(房日新聞2011.5.31付)
市部瀬の惨劇風化させず〜鋸南現地で祈念碑の除幕式
(房日新聞2011.5.20付)
米軍機が列車を機銃掃射、死者13人、負傷者46人を出した「市部瀬の惨劇」の祈念碑が完成、鋸南町下佐久間の現地でこのほど、除幕式があった。関係者160人が参集し、惨劇を風化させず、後世に伝えていくことを改めて誓った。
事件は1945年(昭和20)の5月8日午前11時50分に起きた。鴨川行の下り列車が現在の勝山ドライブインを過ぎたあたりを通過した際、米軍のP51戦闘機が3機、北の空から飛来し、戦闘の機関車を銃撃した。立ち往生した列車に、2機目の米軍機が機銃掃射。乗客を直接射抜き、死者・傷者合わせて59人が出た。
この惨劇を後世に伝えようと、地元の有志らが「明日の鋸南町を考える会・子どもの未来に平和を実行委員会」(安藤恵美子会長)を組織、昨年同日の同時刻に現地で喧嘩をして犠牲者をしのんだ。
その後、現地に恒久平和を祈念する石碑を建てようと、同会のメンバーが奔走、資金を集めた。現場付近の線路脇に、台座を含めて160センチの黒御影石製の記念碑が建てられた。除幕式には安藤会長ら会員、白石治和町長、事件に遭遇した人たちが集まり、除幕して祈念碑の完成を祝った。
■碑表面
恒久平和祈念の碑
■碑裏面
1945年5月8日 安房勝山駅 午前11:50発 下り列車
市部瀬を通過中 米軍機の機銃掃射を受ける
死者13名 負傷者46名
この惨事を碑に記し 後世に伝える
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⇒2011年5月8日除幕式の模様は、
Blog安房国再発見でレポートを掲載しました。
館山市観光協会が総会、新会長に小金氏
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館山市内235軒の観光施設などでつくる、一般社団法人館山市観光協会の第3回定期総会が12日、同市のいこいの村たてやまで行なわれた。一般社団法人となって初めての役員改選で、新会長に小金晴男氏が就任した。また、これまで2人だった副会長を倍増し4人体制とした。東日本大震災の二次的被害の影響で苦境にあえぐ観光業界の活性化を図るため、一層の体質強化を図った。
同観光協会は、平成21年度に一般社団法人化され、観光産業を中心にした多面的な公益事業の展開と発展を担っている。役員の任期は2年で、前会長の鈴木保氏は、法人化になる前と合わせ2期4年を務めた。今後、鈴木氏は顧問としてサポートにあたる。
副会長には、幅広いジャンルからの人材登用を図った。
過去の大地震・津波を考察
館山で28日 歴史文化研が公開講座
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安房歴史文化研究会(天野努代表)の第11回公開講座が28日午後、館山市コミュニティセンターで行われる。今回は天野努代表が「歴史からみた地震と津波—安房地域を中心にして」と題して発表する。
同会では「東日本大震災の発生を受け、今後の防災の一助となればとの思いもあってテーマを設定した」としている。
事前に明らかになった発表要旨によると、安房地域は関東大震災(1923年)、元禄地震(1703年)で多大な被害を受けたが、このほかにも安政東海地震(1854年)、明応地震(1498年)など東海、東南海で数々の大地震が発生。明応地震では小湊の誕生寺が津波で流失したと伝えられている。
天野氏は、「災害はそれぞれの土地の状況によって左右される場合が多く、今回の大震災もそれを如実に物語っている。私たちは、この地域でこれまでどのような災害が起きているのか、まずもって知っておく必要がある」と指摘。安房地域で起きた過去の地震・津波被害について、改めてさまざまな資料をもとに検討、報告する。
講座は午後2時から4時まで。定員は当日先着50人。参加費200円(資料代)。
(房日新聞2011.5.11)
NHK-FMラジオの番組「まるごと千葉60分」に、5月9日午後6時から、館山市の街おこし活動に取り組む「NPO安房文化遺産フォーラム」の小沢義宣さんや「サイカチの木を守る会」の齊藤陽子さん、語り部の礒部清子さんの3人が出演する。
同市にあるサイカチの木を中心にした街おこしの取り組みを紹介。サイカチの木には、元禄地震の大津波から人を救ったという逸話が残っており、磯部さんが逸話をもとに創作した語りを番組内で披露する。
銀座商店街を巡るウォーク
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NPO安房文化遺産フォーラムは、5月10日午前9時50分から館山市北条の銀座商店街を巡るウォーキング教室「歩いてみよう館山の街を」(館山商店会連合会など後援)を開催する。参加者を募っている。参加費は150円(メンチカツ代)。
300年前の元禄地震の大津波から人を救ったサイカチの木を館山の街活性化に生かすことを目的に活動する「サイカチの木を守る会」に協力し、同NPOが開催して今回で2回目となる。
コースは1.5キロで、松田屋〜ピース製菓〜房洋堂〜秋山陶苑〜丸太鮮魚店〜加藤菓子店〜幸田旅館〜相川肉屋〜銀座商店街振興組合ビル〜秋山呉服店〜セットアップ〜サイカチの木。
サイカチの木の前では、語り部の礒部清子さんの語りを聞く。
集合は、JR館山駅東口で、当日受付となる。