メディア報道

【NHK福岡】110423=青木繁の没後100年

NHK福岡の地域特集

「没後100年〜生と死の絵画」


4月23日(土)総合・九州沖縄地方 午後4:30〜5:13


明治後期、日本画壇にすい星のように現れて駆け抜けた天才画家・青木繁。『海の幸』など日本美術史上に残る名作を次々と描き上げた後放浪生活に入った。そして「骨灰は故郷のケシケシ山に埋めて欲しい…」と言い残して逝った。28年の人生であった。番組では、青木繁の数々の名作を紹介すると同時に、手記や手紙、友人らが青木繁の人や作品について書いた批評、エピソードを取り上げ、折々の青木繁の心の動きを見つめていく。


【出演】石橋美術館学芸課長 森山秀子


※館山でも取材協力をしました。

【房日】110417=館山市民ら商店街を歩いて巡る

身近な歴史に興味津々〜市民ら商店街を歩いて巡る

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NPO安房文化遺産フォーラムは15日、館山市北条の銀座商店街を巡るウォーキング「歩いてみよう館山の街を」を開いた。市民ら17人が参加。書店や和洋菓子店、呉服店、旅館、元禄地震の津波から人を救った言い伝えの残る「サイカチの木」などを訪れた。

サイカチの木は、館山市図書館近くにあり、元禄地震の津波のとき、この木につかまって助かった人がいると伝えられている。サイカチの木の保護、保全を図ることを目的に「サイカチの木を守る会」が設立され、今回、この活動に賛同した同フォーラムがまちおこしの一助になればとウォーキングを計画した。ウォーキングでは、館山市図書館からスタートし、文具店の「松田屋」や和洋菓子店の「房洋堂」、陶磁器店の「秋山陶苑」など12ヶ所を訪ねた。

同フォーラムの小沢義宣さんがツアーガイドとなり、街並みを歩きながら各店舗に立ち寄り、店主が店の歴史などを説明したり、参加者は売られている商品を購入していた。同商店街は、鉄道の開通とともに南町交差点付近の商店、駅前に移転するなどし商店街となった。松田屋も移転した店の1つで、店主の松井悦子さんが、店内に飾られた関東大震災後に、廃材利用で建設された店の写真を紹介。このころは、楽器や書籍、文房具、スポーツ用品など1階で扱っていました」などと話した。参加者からは、「立派な店構えで驚きます。廃材とは全く思えないですね」といった声が聞かれた。

サイカチの木では、同会の森林インストラクターで樹木医の齊藤陽子さんが、「枝を落とした方が、木の勢いが良くなります」など管理や保存について説明したり、語り部の礒部清子さんがサイカチの木にまつわる創作語りを披露した。70代の女性は、「小学生のころ、通学路でいつも見ていた木が、そんな大切なものだとは知らず遊んでいました。なつかしい」と話した。

5月10日午前9時50分から、同様のウォーキングが予定されており、参加者を募っている。問合せは、NPO安房文化遺産フォーラム(0470-22-8271)へ。

【房日】110415医師らが震災支援の会

医師らが震災支援の会

宿泊と医療・介護サービスをセットで

要介護者らの受け入れ模索

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東日本大震災の被災者のうち避難所生活が困難な要介護者、在宅医療患者とその家族を積極的に受け入れようと、安房地域の医療・介護福祉関係者が「安房医療介護福祉連携・東日本大震災支援の会」(略称AWA311-MCW)というグループを立ち上げ、活動を始めた。

南房総市や鴨川市の旅館、ペンションなどに要介護者を受け入れ、必要な医療・介護のサービスはAWA311のメンバーらが協力して提供していこうという構想。

関係者によると、3月下旬に呼びかけたところ、4月5日までに115人が参加を表明。支援の輪が広がっている。

代表幹事には、亀田総合病院の小野沢滋・在宅医療部長が就任。松永医院(南房総市)の松永平太医師、花の谷クリニック(同)の伊藤真美医師らが感じなどに名を連ねている。

小野沢氏は12日現在、宮城県石巻市に入り、被災地の医療活動をサポートしながら患者の後方避難場所のあり方を模索中。現地から「現時点では南房総は唯一、宿泊と医療・介護がリンクしている事がはっきりしている受け入れ先。その意味では非常に貴重だ」とメンバーに報告している。

また、一部の看護師・介護職メンバーらが「全国訪問ボランティアナースの会・キャンナス」の応援依頼を受け、石巻市の避難所で活動している。現地では「日中のボランティアはある程度いるものの、被災者に夜間付き添うケアスタッフがいない。夜間に具合が悪くなり、救急車を呼ぶ事態が増えてきている」(医療関係者)という。

AWA311では今後想定される避難患者受け入れに際し、既に南房総市、鴨川市と協力関係を構築。「近く館山市とも連携して活動していきたい」(関係者)としている。

(房日新聞2011.4.15付)

【房日】110412=大河ドラマ化願い、里見4代義豊を墓参

大河ドラマ化願い

里見4代義豊を墓参、実行委メンバーらが命日に

(房日新聞2011年4月12日 房日新聞)

戦国武将、里見家の第4代当主、義豊の命日である6日、里見氏大河ドラマ化実行委員会の里見香華会長らが、南房総市犬掛の戦場跡にある義豊と父義通の墓を訪れ、花と線香を手向け冥福を祈った。

義豊は、里見義堯と天文3年(1534)に富山地区の犬掛で激しい戦いを繰り広げた末に敗れ、4月6日に自害したとされる。

この日は里見会長ほか実行委員10人が訪れ、墓前で合掌し冥福を祈るとともに、大河ドラマ化実現を祈願した。

このあと、館山市南条の南城城跡の北側にある姫塚でも線香と花を手向けた。姫塚は、義豊の奥方が、義豊の死を知って自害した場所と伝えられている。

【日経】110411*青木繁没後100年回顧展

青木繁没後100年回顧展

「海の幸」に豊かな解釈

(日本経済新聞2011.4.11夕刊文化)

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日本近代を代表する洋画家、青木繁の没後100年を機に39年ぶりの回顧展が開かれている。代表作「海の幸」をめぐる斬新な解釈が現れるなど「早世の転載画家」の新たな側面に光が当たる。

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国の重要文化財に指定されている青木の代表作「海の幸」。日焼けした漁師たちが大魚をぶら下げ、誇らしげに行進する。この絵がしばしば「祝祭的」と評される理由をブリヂストン美術館の貝塚健学芸員は「祝祭そのものを描いたから」と見る。

2列目の男たち、水平に近い角度で担ぐ銛—。「祭りの御輿みたいだ」と感じた貝塚学芸員は展覧会の調査を進める中で、安房郡の布良)現千葉県館山市(にある安房神社の例祭を知った。

漁業で栄えた村が最も活気づく例祭の中心的な行事が8月10日の「お浜出」。日暮れに鳳凰を頂いた輿を浜辺に持ち出すことから「夕日の祭典」と呼ばれた。「青木はお浜出を見たのではないか」と貝塚学芸員は直感する。

1904年7月4日に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した青木はその11日後、恋人の福田たね、親友の坂本繁二郎らを伴って写生旅行に出かけた。約1ヶ月半の布良滞在時に「海の幸」を描いたことはよく知られている。

「イメージ辞書」

貝塚学芸員の推測はこうだ。青木は房総半島の突端部、西側の海に面した布良から北にある浜辺に向かって練り歩く行列を南側から見物した。確かに「海の幸」では、画面左側に向けて歩く男たちが夕焼けを浴びているように見える。

青木は日本の神話や伝説に着想し、19世紀のラファエル前派、世紀末芸術などとの関連も指摘される。あらゆるものを絵画の糧として取り組んだ画家を貝塚氏は「イメージ辞書」と評する。「考えていたイメージの量は同時代の画家と比べても圧倒的。『海の幸』はそれを裏付ける」と話す。

福岡県久留米市の石橋美術館で5月15日まで開催中の「没後100年 青木繁展」(京都、東京に巡回)を訪れると、その「イメージ辞書」ぶりがよく分かる。

出品作約240点(資料は除く)。書きなぐりの素描を含めて440〜450点しか残っていない作品の半数が集められた。愛知県の個人コレクターが所蔵する「帰漁する父子」などの初公開スケッチも並ぶ。「こうした漁村のスケッチや海の絵なども代表作につながったと思う。絶えず手を動かし試行錯誤をしたことがわかる」と石橋美術館の森山秀子学芸課長は説明する。

日露戦争の影響

首都大学東京の長田謙一教授は「海の幸」が描かれた時代に着目する。1903年、青木は白馬会への出品作が絶賛され画壇へのデビューを果たした。たねと恋に落ちるのもこのころだ。翌年2月には日露戦争が勃発。日本中が海戦のニュースにふるえ、熱狂した。早世の天才のイメージが先走り、これまで日露戦争とのかかわりはほとんど指摘されてこなかったが、長田教授は「日露戦争は彼にモチーフを提供した」と言う。「すべてのものが熱によって溶け合わされ、この時、青木は人生の夏を迎えた」

「海の幸」は「悲劇の始まり」だったとも長田教授は見る。「形が生まれてくるさまを描いた青木には、絵が鮮度を保っていることが重要だった」。必然的に、画風は下書きや制作過程の描線が残る粗削りなものになった。それらはアカデミズムには受け入れられず、07年創設の第1回文部省美術展(文展)にも2作品を出品するが落選。「日本の前衛芸術の扉を開き」(長田教授)、失意のどん底でこの世を去るのは4年後のことだった。

(文化部 窪田直子)

【東京】110216=青木繁の下絵発見

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日本絵画史を代表する国の重要文化財「海の幸」などを描きながら、貧困の末に二十八歳で夭逝(ようせい)した画家青木繁の未公開スケッチや和歌、生活ぶりを伝えるメモなど六十点を、愛知県岡崎市の愛好家(62)が所蔵していたことが分かった。青木の作品の多くを所蔵する石橋美術館(福岡県久留米市)が確認した。今春開催する没後百年を回顧する特別展で一部が公開される。

約六十点の内訳は、下絵などが六割、和歌やメモなどが四割。いずれもB5判程度のスケッチブックの用紙に鉛筆などで記されていた。創作活動をしていた一九〇二〜一〇年と重なるが、「海の幸」を制作した〇四年に残したとみられるのが約三割で最も多いという。

「海の幸」誕生につながったとみられる漁師や魚を連想させるスケッチは約十点あり、制作の場となった千葉県館山市布良(めら)で主に描かれた。釣りざおや絵の具を買うための借用書のような書き込み、館山市のある房総半島の地図も確認された。

同じく重文で古事記を題材にした「わだつみのいろこの宮」(〇七年)につながった下絵も二点あった。栃木県芳賀町で描いたとみられるこの下絵の所在が確認されたのは、同美術館によると約四十年ぶりという。

このほか、東京美術学校に通った青木が習作に励んだことをうかがわせる上野動物園のツルを描いた作品も確認。時期は特定されていないが、「京」「大津」などを題材にした直筆の和歌五首もあった。青木は関西での活動の記録がなく、これらの和歌も存在を知られていなかった。青木の動きをたどる貴重な史料となりそうだ。

岡崎市の愛好家は東京の画廊関係者から約二十年前に購入して私蔵してきたが、今年が青木の没後百年にあたることから、同美術館の特別展への協力を申し出たという。

同美術館の森山秀子学芸課長は「青木の作品は油絵、スケッチを含め約四百点しか知られておらず、今回確認した六十点は青木の息づかいを感じさせる第一級の史料。裏表にさまざまなメモもあり、今後精査して作家活動を浮き彫りにしたい」と話している。

特別展は三月二十五日から五月十五日まで同美術館で開催。京都国立近代美術館(京都市=五月二十七日〜七月十日)、ブリヂストン美術館(東京都=七月十七日〜九月四日)でも開催される。

 

(東京新聞2011.2.16付)

【東京】110215=「海の幸」館山の家、存続危機

夕暮れに輝く裸の漁師たちの中で振り向く美女の顔。日本洋画史上の最高傑作といわれる青木繁「海の幸」は一九〇四年、千葉県館山市布良(めら)の網元宅で制作された。この家はほぼ当時のまま現存するが、存続の危機にある。没後百年の今年、抜本的な保存策を訴える声が高まっている。

(後略)

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(東京新聞2011.2.15付)

【房日】110210=旧安房南高木造校舎見学会とシンポ

旧安房南高木造校舎
旧職員有志が専門家ら招き、13日に見学会とシンポ

(房日新聞2011.2.10付)

建築の専門家を招いて、木造校舎の魅力を再認識するため、館山市の旧県立安房南高校職員有志が、13日午後1時から「旧安房南高校『木造校舎』を見つめなおし—見学会とシンポジウム」を同校舎と同市コミュニティセンターで開催する。地域の人の参加を呼びかけている。参加費無料。

同校舎は、県文化財に指定されている貴重な建築物だが、県立安房高校と安房南高校の統合に伴い、校舎として利用されなくなり4年が経過している。

シンポジウムでは、建築家の夏目勝也氏を招いて、「魅力的な校舎をどう使いこなすか」をテーマに意見交換する。夏目氏は、日本建築協会で長年、保存問題に取り組んでいる。

パネリストには、夏目氏のほか、同校卒業生で、劇団貝の火を主催する伊東万里子氏と旧職員の船田正廣氏が加わる。船田氏の校舎の魅力についての解説も予定されている。

シンポジウムの前に見学会があり、実際の様子を見学する。午後1時までに同校玄関へ集合する。シンポジウムは、同市コミュニティセンターへ移動し午後2時半から。

職員有志は、「今年3月までは、安房高校の校舎改修で

倉庫として使用されている状況。今後を考える上でも価値の再認識と同市にある意味を考える機会になれば」と話している。

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