(読売新聞2011.11.19付)
稲村・岡本城跡、国史跡に
文化審答申「八犬伝」の舞台
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国の文化審が18日に議決・答申した国史跡に、戦国大名・里見氏ゆかりの稲村城跡(館山市稲)と岡村城跡(南房総市富浦町豊岡)が選ばれた。指定されれば、県内の国史跡は27、28件目となる。
稲村城は、滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」の舞台のひとつ。16世紀前半、里見氏3代義通が居城とし、4代目義豊が5代義堯(よしたか)に攻め滅ぼされた「天文の内訌」(稲村の変)の舞台となった。
城跡がある丘陵先端の主郭は、東と南の二辺に高さ約3メートルの土塁を持ち、北と西の斜面は、丘陵の障壁とした。主郭は東西2キロ、南北1.5キロに及ぶ。
一方、岡本城は、義堯の孫義頼が16世紀後半に本拠地とした。東京湾を望む丘陵上に造られ、城跡の規模は、東西約600メートル、南北約300メートル。主郭北東に広がる曲輪は、港として機能していたと推定されている。
稲村城跡は、1990年代に、市道建設計画により遺構や防御施設が一部取り壊されることになり、「里見氏稲村城跡を保存する会」(愛沢伸雄・世話人代表)が保存運動を展開した。
現在、NPO安房文化遺産フォーラム理事長を務める愛沢さんは、「遺跡を守ろうという運動が盛り上がらなければ、城跡は壊されていた。多くの市民、地権者、研究者の支援があってようやくここまできたか、という思いです」と話している。
青木繁の故郷・久留米の関東同窓会
「海の幸」誕生の地訪問(千葉県館山市)
(西日本新聞2011.10.13付)
久留米市内にある南筑、久留米商業、明善、久留米、三潴、久留米大付設各高校と久留米高専のOBで構成する関東圏の同窓会「東京高牟礼会」(馬場和人代表幹事)の有志24人は11日、久留米市出身の画家青木繁(1882〜1911)が国の重要文化財」海の幸」を制作した千葉県館山市を訪問した。
一行は「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」の池田恵美子さんから、青木の没後50年を記念して建立された「海の幸」の記念碑や、青木が描いた布良(めら)の海岸(阿由戸の浜)などの説明を受けた。
青木繁が「海の幸」制作時に約一年半滞在した小谷家住宅では、当主の小谷福哲氏や先代当主の栄氏から、滞在時の出来事などを聞いた。
参加者は「青木がこの海を見ながら名作を描いたと思うと感慨深い。館山市の皆さんから今も愛されている。訪れてよかった」と話していた。
「海の幸」絵画に感動 館山
富崎小児童 東京の「青木繁展」を鑑賞
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館山市の市立富崎小学校(川名裕子校長・児童数10人)の子どもたちがこのほど。東京ブリヂストン美術館で開かれた「没後100年・青木繁展」を鑑賞した。地元ゆかりの画家にある青木繁の代表作「海の幸」などを鑑賞した。
日本でも有数の画家として知られる青木繁。富崎には縁が深く、同地区の民家に滞在しながら、布良の漁師を描いたといわれる「海の幸」は代表作となっており、記念碑も建っている。
同行では青木繁について、安房節伝承、アジの開きづくりとともに「3つの『あ』」をキャッチフレーズに、地元のよさ、伝統を活用した総合的な時間「やってんべぇ富崎」のなかで、地域と交流しながら学習。
没後100年にあたる今年は「青木繁プロジェクト」と名付け、学習支援サポーターや地域住民らの協力のもと、フィールドワークで足跡をたどったり作品を通しながら、郷土のよさを学んでいる。
美術館での作品鑑賞はこの一環。児童の活動を知った県内在住者が「子どもたちのために」と、チケットを贈ってくれたことで実現した。
会場では、「海の幸」をはじめ油彩や水彩など約200点の作品を鑑賞。同校玄関には平成17年度の在校生が制作した「海の幸」のレプリカが飾られているが、子どもたちは「本物をみることができてとっても嬉しい」「いろんな絵を描いていたんだね」と、感激していた。
川名校長は「多くの人の協力で、非常によい学習が出来た。これかたも子どもたちのサポートをしていただければ」と感謝していた。
(房日新聞2011.9.14付)
被災地支援続ける亀田の小野沢医師 千倉で講演
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「震災対応、自治体間で差」
大地震への備えを提言
東日本大震災の被災地、宮城県石巻市で医療支援活動を続けている亀田総合病院の小野沢滋・地域医療支援部長が10日、南房総市・千倉公民館で「被災地からの報告〜行政、市民が備えるべきこと」と題して講演した。
小野沢氏は、役所特有の〝前例踏襲主義〟や〝縦割り意識〟の程度の度合いにより、被災自治体間で復旧、復興の取り組みにかなりの差が出ていると指摘。大災害発生時の行政対応のあり方について「意思決定の速さと柔軟さが勝負になる」と提言した。
小野沢氏は千葉県の派遣医師として、3月末に宮城県入り。石巻市、南三陸町、気仙沼市などの医療状況の調査を行った後、在宅患者の対応が遅れていた石巻市で活動を続けている。
講演では、避難所の運営や被災者への食事の提供状況、全国から寄せられる支援物資の取り扱いなどについて、市当局が杓子定規な〝平時の対応〟に固執することで事態がなかなか改善していかない数々のエピソードを紹介。
市町レベルの自治体が備えておくべき点として▽災害救助法に精通する▽ボランティアを有効活用する仕組みをつくる▽権限委譲も含め、災害発生時の意思決定の仕組みの検討▽避難所運営のマニュアル作成▽物流を円滑にする仕組みづくり——を挙げた。
一般市民向けには、長期間にわたって通信、物流がとだえる場合を考えて「家族の集合場所を決めておくこと」「(持病のある人は)最低2週間分の薬の予備を持つこと」などの点をアドバイスした。
また、医療福祉関係者の課題は、大地震と津波被害後に「残った要介護者を7日以内に施設・域外に」収容・搬出することだと指摘。いざという時の態勢を整えておく重要性を強調した。
小野沢氏は、現地で聞いた被災体験で特徴的なものとして「津波から逃げ延びた多くの人が『途中で物を取りに家に帰った人は皆死んでいる』と話す。一度決めたら、迷わずに逃げることが大切だ」とも語った。
講演は、市内の市民グループ「房州舫(もやい)」が開催。10月1日にも「元禄地震と津波」をテーマに青木嘉男・前南房総市教育長の講演を企画している。千倉公民館で午後2時から4時まで。問い合わせは同グループ事務局(0470—44—1780)へ。
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(房日新聞2011.9.13付)
青木繁「海の幸」モチーフは安房神社と布良崎神社の神輿説
館山 フォーラムで2日が力説
(房日2011.9.3付)
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近代洋画家のひとり、青木繁の没後100年を記念した「青木繁《海の幸》フォーラムが、このほど館山市の南総文化ホールで開かれ、市民らが講演や、討論に聞き入った。
有志でつくる青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会が主催した。
講演では、ブリヂストン美術館学芸員の貝塚健氏が、「布良という聖地〜《海の幸》が生まれた場所」と題し、作品の構図や、なぜ布良に行ったのかなどを解説。さらに青木は「海の幸」「山の幸」を制作するつもりだったこと、絵はデッサンして東京で仕上げられたことなどを語った。
海の幸のモチーフについいては、青木が安房神社の古事記歴に人間の根源的な生命観を感じていたこと、明治37年夏に布良に滞在していた青木が、安房神社の例祭を見逃すはずがないこと、神輿の担ぎ手がつくる2列縦隊は、青木の脳裏に強烈に焼きついたであろうことなどから、安房神社神輿説を唱えた。
貝塚氏のあとに登壇したNPO法人青木繁「海の幸」会の吉岡友次郎氏が、青木が滞在した布良の小谷家を、当時の姿に復元し保存していくことの重要性を語り、保存運動への参加を呼びかけた。
このあとの井戸端会議では、布良崎神社神輿世話人の島田吉廣氏が、海の幸のモチーフについて、下絵の状況などから布良崎神社神輿説を力説するなど熱の入った討論が行われた。
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青木繁《海の幸》への想い
館山美術会 顧問 船田正廣
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信州上田生まれの私は、人生の半分以上を安房の地で美術の教鞭をとってきた。私にとって大学の大先輩である青木繁が、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業した明治37年夏、布良という海岸で名画《海の幸》を描いたということは知っていたが、その漁村こそ私の住んでいる館山市内だということは随分長い間気づかなかった。近代西洋画として第一号の重要文化財となった《海の幸》は、私のみならず多くの美術家に影響を与えてきたといっても過言ではない。
素っ裸で隊列を組んで、大きなサメを担いで砂浜を行進するということは、実際に布良の漁師がしていたとは考えにくい。美術学校で、人体美学や美術解剖学を学んだばかりの青年青木繁が、布良の男らしい漁師と荒々しく担ぎゆかれる大魚を見て、人間の労働における身体美、裸で平等に躍動する人体の憧憬に感動したのではないだろうか。この衝撃的な体験と、学校での机上の学問を融合していったとも思われる。男たちの歩く先には大きな夢が満ちているし、目指す先は永遠にあるという確信に満ちた大ロマンを感ずる。
還暦を迎えて県立高校を退職し私立安房西高校の非常勤講師となったとき、私はあらためて《海の幸》とじっくり向き合う時間をもつことができた。私は彫刻家として、彼とはちがうが、彼と同等の衝撃的体験を共有することは出来ないだろうか…と。
そして感じたことは、青木繁は彫刻家以上に彫刻的な絵を描ける画家であるという結論だった。それなら、この絵から必ず彫刻が生まれると確信出来た。なるべく絵画《海の幸》に近い形で、原画と同寸大で彼の感動に迫ってみようと思い、粘土によるレリーフ(浮き彫り)に取りかかった。
1年、2年は制作に行き詰った。その度に、彼の描いた骨組みや筋肉表現に行きつけず頭が下がった。自分の才能も、もういくら頑張ってもこれ以上のものは出て来ないと感じた。3年目に入ったある日、彫塑のヘラを置いた。完成作品の撮影をし、写真の右下に写し込まれた2004.7.31の日付を見たとき、私は身震いがした。青木繁が布良に滞在し《海の幸》を描いた1904年夏から、ちょうど百年目の夏だったのである。私の『刻画・海の幸』はこうして誕生した。その後、この感動に共感してくださった安房西高校の理事長によりブロンズ鋳造され、同校に展示していただいている。
先ごろ布良崎神社神輿世話人である島田吉廣氏は、《海の幸》の構図は神輿の御浜下りから着想したものではないかと自説を披露された。小谷家に隣接している布良崎神社の祭礼は、当時8月1日に行なわれていたという。だったら、7月中旬から布良に滞在していた青木が、漁師たちの神輿が海に入り、また海から上がってくる様子に衝撃を受けたと考えてもおかしくない。さらに10日後には相浜で、安房神社神輿の御浜下りと続く。神話世界を具現化したいと願っていた青木繁にとって、恰好の素材であったに違いない。
8月27日に南総文化ホールで開かれる「青木繁《海の幸》フォーラム」が楽しみである。多くの館山市民、安房の市民にご来場いただき、一緒にこの感動を共有したいと願っている。
青木繁《海の幸》フォーラムへのお誘い
青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会 会長 嶋田博信
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今年は、画家・青木繁の没後100年にあたり、春から福岡の石橋美術館・京都国立近代美術館に続き、現在、東京のブリヂストン美術館で、大回顧展が開催されています。重要文化財の《海の幸》が、明治37年に房州布良村で描かれたことから、美術界において布良は聖地といわれているそうです。『芸術新潮』7月号で60頁にわたる特集やNHK「日曜美術館」をはじめ、多くのメディアで特番が報道される中、28歳で亡くなった青木繁の人生で最も充実した時期として、必ず布良が紹介されています。
青木が布良から親友に宛てた4枚の絵手紙を見ると、この地を絶賛し、あふれるほどの魚の種類が列挙され、その感動が伝わってきます。その当時の布良は、たいへん栄えた漁港として賑わっていましたが、今では水産業の衰退に伴い、深刻なほど少子高齢化が進んでしまいました。このことを憂慮した私たち富崎地区(布良・相浜)の役員は、地域の誇りを子どもたちに伝えることを目的として、平成20年に本会を発足しました。
《海の幸》誕生の家とは、青木が滞在した「小谷家住宅」のことで、館山市有形文化財に指定されていますが、今なお当主が暮らす個人住宅であり、維持修理の負担が困難な状態です。また、《海の幸》記念碑は没後50年に、当時の田村利男市長や嶋田繁市議らが発起人となって、一流画家の皆さんが募金を出し合って建てられたものです。
現在、女子美術大学の名誉理事長・大村智先生を代表として美術関係者の皆様が、「小谷家住宅」の保存を目ざしてNPO法人青木繁「海の幸」会を発足し、修理費の募金活動をすすめられています。先の東日本大震災でも屋根瓦が一部ずれたのですが、支援を受けて緊急修理をすることができました。将来、募金による本格修理が完了したときには、未来の子どもたちにのこす館山遺産、「青木繁《海の幸》記念館(仮称)」として一般公開してもよいと、小谷家当主は考えておられます。
私たちの一番の希望は、小さな漁村の元気を取り戻すことです。富崎地区は、元禄地震や関東大震災で津波被害を受けており、今回の震災も他人事ではありません。日本を代表する画家と芸術作品の力を借りて、集落の絆と支え合う地域力を強めたいと願っています。
このたび、館山市教育委員会の策定により、文化庁の「文化遺産を活かした観光振興と地域活性化事業」に選定され、本会では「青木繁没後100年記念事業」を実施することになりました。第一弾として、8月27日2時より南総文化ホール小ホールにて、「青木繁《海の幸》フォーラム」を開催します。
第一部の美術講演では「布良という聖地〜《海の幸》が生まれた地」と題して、ブリヂストン美術館の貝塚健学芸員と、NPO法人青木繁「海の幸」会の吉岡友次郎事務局長にお話いただきます。第二部の井戸端会議では、青木のひ孫にあたる石橋鉄也さんをお迎えし、地元から小谷福哲さん、山口栄彦さん、島田吉廣さん、鈴木聰明さん、池田恵美子さんらが、青木繁《海の幸》に対する思いをそれぞれ語られます。参加費は500円、前売券は南総文化ホール・宮沢書店・松田屋書店で販売しています。また、翌28日には、青木繁ゆかりの地をめぐるウォーキングも企画しています。多くの皆様にご参加いただれば幸いです。
問合せは、事務局0470-22-8271・090-6479-3498まで。
青木繁≪海の幸≫フォーラム
没後100年記念でブリヂストン美術館学芸員ら招き
(房日新聞2011.8.16付)‥
著名な近代画家の一人、青木繁と、青木が1904年(明治37)に現在の館山市布良に滞在して描いた「海の幸」(重要文化財、石橋美術館蔵)をテーマとした「青木繁≪海の幸≫フォーラム」が27日午後2時から同市の県南総文化ホールで開かれる。
青木の没後100年記念事業として、青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会が企画。青木が布良で何を感じたのか、名画を生んだ漁村の魅力は何かを探る。
フォーラムでは、「布良という聖地〜≪海の幸≫が生まれた場所」と題して、ブリヂストン美術館学芸員の貝塚健氏と、NPO法人青木繁「海の幸」会の吉岡友次郎氏が講演する。
このあと、青木繁のひ孫にあたる石橋鉄也氏、青木が滞在した小谷家の小谷福哲氏ら5人を迎え、討論する。
青木はその後、「わだつみのいろこの宮」などを発表したが評価は振るわず、1907年8月に、父の死で郷里の福岡・久留米にもどり、放浪生活の後、1911年に28歳でこの世を去った。フォーラムに出席する石橋氏は、石橋エータロー氏の長男で、青木のひ孫にあたる。前売券は500円。
保存する会では、フォーラムに合わせ、28日と9月11日、10月9日、22日、11月13日、12月11日に青木繁≪海の幸≫ウォーキングも計画している。問い合わせは同会(0470-22-8271)へ。
ドキュメンタリー番組『映画人たちの8月15日』
放送局=WOWOW
放送日=(前編)2011年8月8日・(後編)8月15日
時間=22:00〜23:00
内容=1945年8月15日。日本の映画人たちは、どこで何をしていたのか。俳優・監督・製作者ら映画人たちが語る、日本敗戦の日。山本嘉次郎監督や女優の高峰秀子らは、映画『アメリカようそろ』の撮影で、7月中旬から館山の木村屋旅館に滞在し、中だったと手記に残している。とくに山本監督は、その数日前から敗戦を知っていたという。当NPO安房文化遺産フォーラムは、本番組の調査に協力。
http://www.wowow.co.jp/pg/detail/075522000/index.php