読者のコーナー 【鋸南町 溝口七生】
青木繁「海の幸」オマージュ展に感動
房日新聞 2012年8月18日
“渚の駅”たてやま渚の博物館で開催中の『青木繁「海の幸」オマージュ展』を観て、大きな感銘を受けた。
まず、青木繁が布良に滞在した時のもの、初公開のものも含まれた貴重なデッサン作品17点を興味深く観て、改めて青木繁の非凡な才能、芸術感覚の鋭さ・豊かさなどが感じられた。
さらに、『青木繁「海の幸」会』のメンバー有志らの作品群も見応えがあった。その顔ぶれが凄い。現代日本画壇のトップレベルの画家たちの作品がこれだけ一堂に展開される展覧会は稀なことである。
日本芸術院会員の奥谷博、中山忠彦、塗師祥一郎、大津英敏は小作と大作の2点ずつの出品。この4人を始めとして、日展や主要美術団体の審査員や役員や中心会員、美術大学教授たち、入江観、馬越陽子、内山孝、張替眞宏、楢崎重視、齋藤研、吉武研司、安達博文、棚瀬修次、川村良紀、金井訓志、浅野輝一、吹田文明など、美術界で名の知れた人たちの魅力的な作品が並んでいる。
青木繁へのオマージュを直接的に表現している作品もある。地元作家の船田正廣の「海の幸」の模刻作品、福田たねを描き入れた作品、自画像を元にした作品、小谷家や布良を描いた作品など。
作品ジャンルも油彩、水彩、日本画、水墨、版画と変化に富んでいるし、伝統的写実的作品と現代美術的抽象作品と作品傾向の幅も広く、小品が多いのではあるが、安房地域で開催された数多くの展覧会の中でも一、二を争う貴重な、レベルの高い展覧会となっていると思う。
なんども会場に足を運び、じっくり鑑賞し、味わっている。
9月2日まで開催されるとのことで、さまざまな関連資料とともに、ぜひ多くの方々に観て頂きたい展覧会である。
「海の幸」会の会員は500人にもなっているとのこと。私もその一員に加わって今展にも参加しているが、小谷家を復元・保存し、記念館へという運動が、地元の館山市と『青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会・NPO安房文化遺産フォーラム』の活動と連動して大きな盛り上がりを見せてくれることを期待している。
従軍慰安婦よ安らかにかにた婦人の村で鎮魂祭
房日新聞 2012年8月17日
館山市大賀の婦人保護長期収容施設「かにた婦人の村」(天羽道子施設長、入所者71人)で、67回目の終戦記念日となった15日夕方、従軍慰安婦として亡くなった人の「鎮魂祭」が行われた。入所者らが朝鮮民謡の「アリラン」を歌いながら、鎮魂碑へ献花した。
性的な暴力により療養が必要となった女性たちの安らぎと療養の場の必要性を説いた故深津文雄牧師が、1965年に同施設を設立。深津牧師に賛同した天羽施設長が活動をともにし、深津牧師の遺志を受け継ぎ、運営にあたっている。
鎮魂祭は、入所者の1人が、「従軍慰安婦となった娘たちの慰霊塔を建ててください」と切願したのが始まり。初めは1本の木を植えて祈りを捧げ、その後石碑を設立。27年間毎年、終戦の日に行われている。入所者は「性の提供をさせられた娘たちは、足手まといになると放りだされ、荒野をさまよい、凍てつく原野で野良犬の餌食となり土にかえった。同僚の顔が浮かぶ」と語っていたという。
鎮魂祭では、深津牧師が作詞した歌を「きよらのおとめつれさられ、なげきのなみだあともなく」とアコーディオンのメロディーに合わせて合唱。天羽施設長はあいさつで、「67年間の平和を享受してきたが、平和の中に浸ってよいのか、その思いの中荷甘んじでいてよいのかという気持ちを強めてまいりました。このことは日本の戦後処理がなされていないことが1つにある。日本従軍慰安婦に対し、日本がすべきことが、この間、なされないままで引きずられてしまっている」と語りかけた。
献花された花は、東京の在日韓国人から寄付されたニチニチソウなどの苗で、一人ずつ石碑の周りに置いて行き、手を合わせて冥福を祈った。
青木繁テーマ研究者が講座
房日新聞 2012年7月21日
洋画家。青木繁(1882〜1991)の作品「海の幸」(重要文化財)について学ぶ、館山市中央公民会の第3回ふるさと講座が、あす22日午後1時半から、同市コミュニティセンターで開催される。一般が対象で、定員は150人。参加者を募っている。無料。
同市の渚の駅たてやま渚の博物館で開催の巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」の関連事業として開催する。講師は福岡大学人文学部教授の植野健造氏。植野氏は「海の幸」を収蔵する石橋美術館学芸員で25年間勤務。昨年は「没後100年 青木繁‐よみがえる神話と芸術展」を企画し、「青木繁《海の幸》」(中央公論美術出版)など、著書も多数。
テーマは「青木繁の生涯と芸術‐《海の幸》を中心に‐」青木は1882年(明治15年)福岡県久留米市に生まれ、画家を志して」上京。1904年(明治37)に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業すると、友人らとともに訪れた館山市の布良で、代表作となる作品「海の幸」を制作。
講座は海の幸を中心に、青木繁の生涯を紹介する。
問い合わせは、館山市中央公民館(23‐3111)へ。
小谷家保存する市民団体に助成金
(房日新聞2012.7.20付)
館山市の青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会にこのほど、日本興亜おもいやり倶楽部から、活動助成金として10万円が贈られた。
青木繁が滞在した同市布良の小谷家住宅前で贈呈式が行われ、保存する会の嶋田博信会長に手渡した。
同クラブは、日本興亜保険グループの役職員有志が会員。社会貢献活動として、毎月の給与から拠出した金額に日本興亜損保が同額を上乗せして贈っている。
館山で没した林栄之助
明治期に印刷業・うちわ産業に影響
関係者が資料提供呼びかけ
明治時代に、尋常小学校などの辞書編纂に携わり、房州うちわ生産や館山の印刷業振興にもかかわったとされる林栄之助。館山で没し、同市安布里の源慶院に墓があるが、栄之助の足跡を明らかにしようと、源慶院の小池宏学住職ら関係者が、資料発掘への協力を呼びかけている。
小池住職や、調査を行っているNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄さんによると、栄之助は美濃岩村藩の江戸深川屋敷にいたとされる林角助の子として生まれた。明治10年(1877)に、妻のち賀とともに、当時の北條町に転居。同24年に他界した。館山へ転居した理由は分かっておらず、生年月日も不明だが、墓石から58歳で亡くなったことがわかっており、天保4年(1833)に出生したらしい。岩村藩最後の藩主、松平能登守の家臣で維新後、東京士族となった。
全国で広く活用された「高等小学読本字引」「尋常小学読本字引」ほか、明治の三筆と称された書家の日下部鳴鶴が題字を書いた「篆書参考 実用新選字典」を編纂。これらは、大学の図書館や国立国会図書館に保管されているという。
さらに栄之助の死後、明治30年に印刷された北海道の地図に、栄之助の名前が印刷されていることから、幕末に陸軍奉公を務めた能登守が管理していた日本地図を、許可をもらって編集し版権を所有して印刷、発行していたのではないかという。
栄之助と交流のあった長尾藩士が、明治16年、栄之助の自宅近くに印刷業を開業し、栄之助の指導を受けていたと見られていること。また丸亀うちわで知られる丸亀藩京極家と岩村藩松平家、さらには家臣の栄之助も交流があったことから、栄之助がうちわ産業の接点となったと推測され、房州うちわの製造技術や、印刷技術の振興につながったとしている。
栄之助編纂の字典や関連資料に心あたりのある人は源慶院(0470-22-2923)へ。
(房日新聞2012.6.3付)
初夏の南房総へ〜平和と歴史を考える
「慰安婦」鎮魂の碑が語るもの
(新婦人しんぶん2012.5.31付)
5月19日、平塚らいてうの会が「らいてう忌2012」として企画した「南房総 館山日帰りの旅-らいてうゆかりの地を訪ね、平和と歴史を考える-」バスツアーに同行しました。
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らいてうと房総
参加者28人を乗せたバスが、東京湾アクアラインを通過し、千葉県に入りました。らいてうの会副会長の折井美耶子さんから「らいてうと房総についてのお話がありました。
「戦前の房総は、湘南よりも東京の人たちに親しまれていた地域。らいてうも1914年の『青鞜』3周年気年号発行のあと奥村博と御宿海岸へ、1921年には新婦人協会(※1)の活動で体調を崩し2人の子どもと竹岡海岸に静養に訪れていました」
館山の北条海岸はらいてうの父定二郎が老後に移り住んだ地でもあります。
(※1)婦人の社会的・政治的権利獲得を目指し、1919年に結成された婦人団体。
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沖縄戦の次は館山だった
館山市の歴史を学ぶ学習会の講師はNPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長の池田恵美子さん。
「1945年、沖縄の南部戦線には10万人の兵士が送り込まれ、さらに、太平洋に突き出した房総半島は沖縄戦後、真っ先に狙われると、安房には本土決戦に備えた7万人の兵士が配備されました」
兵士の食糧確保のため、花畑をつぶして、麦やイモ畑に換えろという「花作り禁止令」が出され、花の球根や種子は焼却されたといいます。
館山湾は世界でも有数のウミホタルの生息地ですが、この“ウミホタル”も軍事利用されていました。ウミホタルを乾燥させて、夜間に敵味方を判別するときや、懐中電灯の代用品として使われていた、と。また、終戦直後の1945年9月3日、アメリカ占領軍本体約3500人が館山に上陸。本土で唯一「直接軍政」が敷かれ、4日間ではあっても、館山を占領支配したことは、ほとんど知られていません。
学習会のあと、一行は海上自衛隊館山基地のすぐ近くにある「赤山(あかやま)地下壕(ごう)」に向かいました。壕といっても、中は広く、迷路のように入り組んでいて、たくさんの部屋にわかれていました。「地下壕というよりも、実戦のための地下要塞です」と、安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん。
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巨大な地下要塞
地下壕建設に関わる資料がほとんど不明のなかで、数少ない証言から、館山海軍航空隊の極秘の航空機開発や、実験施設、野戦病院のような医療施設があったのではと推定されています。
“御真影”(※2)がおかれていた奉安殿や、出入り口付近の大きな部屋は、壁がコンクリートで塗られていましたが、ほとんどは素堀りで、ツルハシの跡がくっきりと残っていました。
赤山壕からほど近い住宅街には「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる、敵機から戦闘機を隠すための格納庫があり、館山市内だけでも48の戦跡があります。
(※2)天皇・皇后の公式肖像写真
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女性たちが共同で暮らす
戦時下の抵抗拠点の一つとしてつくられた洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」「作戦室」壕は、婦人保護施設「かにた婦人の村」の敷地内にあります。
「かにた婦人の村」は、「社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設を」とキリスト教の深津文雄牧師が軍の払い下げ地に1965年に設立。特に障害の重い女性が入所する売春防止法(1956年)に基づく「長期婦人保護施設」です。
傷ついた女性たちが、家族として暮らす「かにた婦人の村」にはいまでも80人ほどの女性が暮らしています。
スイカズラの甘い香りが漂う敷地内には、寮のほかに、畑や、牛乳やパンをつくる部屋、協会があり、その一番高い場所に「噫(ああ) 従軍慰安婦」の碑があります。この碑は、村で暮らしていた城田すず子さん(仮名)の「慰安婦」体験の告白を受けて85年前に建てられたもの。
「軍隊がいるところには慰安所がありました。看護婦とみまがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦になるのです。兵卒用の慰安婦は1回の関係で50銭、また1円の切符を持って列をつくっています。・・・なんど兵隊の首をきってしまいたいと思ったかしれません。半狂乱でした。・・・どうか鎮魂の塔を建ててください」(深津牧師への手紙。「戦争遺跡」より)
最初は一本のヒノキの柱でしたが、2度とこういうことが起きないようにと、翌年には石碑が立てられました。
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1日かけて館山の戦争の歴史を学び、東京から近い千葉県の館山に、こんなにもたくさんの戦跡があること、「直接軍政」の場になったことを知り驚きました。「慰安婦」鎮魂の碑からは真の解決へ、歴史の真実をひとりでも多くの人に知ってほしいと感じました。
※「かにた婦人の村」「噫 従軍慰安婦」の碑は、NPO法人安房文化遺産フォーラムのスタディツアー参加者のみ見学が許可されている。
問い合わせ TEL 0470-22-8271 HP: http://bunka-isan.awa.jp/
敵船への滑り台〜戦争遺跡を歩く⑧
水上特攻挺「震洋」基地跡 千葉県館山市
(しんぶん赤旗2012.4.22付)
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東京湾口部に位置する千葉県館山市には、太平洋戦争末期、米軍上陸を想定して海軍特攻部の数多くの基地がつくられました。
東京湾沿いにある小さな漁港・波佐間は、水上特攻挺「震洋(しんよう)」の出撃センターでした。1人乗りの震洋は全長5メートル、重量約1トン。300キログラムの爆薬を積んでモーターボートのように敵の上陸用船舶に突進し、体当たりするためにつくられたものです。
砂浜にはコンクリート製の緩やかな滑り台が海に向かって突き出しています。震洋が海に発進するためのスロープです。南房総の戦争遺跡を調査している「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表は「搭乗員の多くは特攻に志願した18歳前後の若者たちで、波佐間基地には176人が配属されました」と話します。
滑り台から200メートルほど離れた山すその深い藪を分け入ると、防空壕のような穴がいくつも掘られています。ここから海岸まで運ばれ滑り台から発進する予定でした。
「1945年8月13日にやっと6隻が基地に配備され出撃態勢をとったなかで特攻隊員たちは敗戦を迎えました」(愛沢さん)
民家にまぎれてつくられた波佐間の特攻機地のように、南房総では軍事要塞と日常が一体化し、人々は厳しい監視下の生活を余儀なくされました。
その典型例が「花作り禁止令」です。南房総で盛んだった花作りは不要不急とされ、サツマイモや麦畑に変えられました。花の球根や種は焼却され、苗も抜き取られました。
しかし、農民たちはひそかに苗・種を隠し、今日の房総の花作りにつなげていったのです。「この民衆の抵抗も戦争に対する勇気あるたたかいの一つだと思います」(愛沢さん)
(寺田忠生 随時掲載)
※問い合わせ「安房文化遺産フォーラム」 awabunka@awa.or.jp 0470(22)8271
稲村城跡の国史跡指定を記念
保存会が冊子第5集刊行 館山
17年の活動記録や特別寄稿も収録
(房日新聞2012.4.20付)
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里見氏城跡として先ごろ、国史跡に指定された館山市の稲村城跡の保存運動に取り組んでいる「里見氏稲村城跡を保存する会」(愛沢伸雄代表)は、指定を記念した冊子第5集となる「里見氏稲村城跡をみつめて」を発行した。世話人をはじめとした役員の喜びの声や足かけ17年にわたる活動、さらに里見氏研究に携わってきた学者らの特別寄稿などからA4版152ページに収録。市内の宮沢、松田屋書店で1500円で販売している。
「貴重な史跡である稲村城跡が工業団地への進入路建設で破壊されようとしている。何とか守りたい」。1996年、安房地区高校社会科教育研究会で歴史研究者たちの訴えから同会は産声をあげた。当時、高校の社会科教諭だった愛沢代表が立ち上がり、同志を集めて地道な活動が始まった。
有志を募っての主郭部周辺のたけの伐採や草刈り、フィールドワーク、講演会などが続けられ、しだいに市民の関心も高まっていった。
着工寸前にあった進入路建設は、市議会への反対請願が採択され、ルートは城跡を回避するように変更された。その後も史跡をめぐるウオーキングなど地域づくり視点から活動を展開。会の目的も安房地域全体を視野に入れながら、稲村城跡だけでなく点在する城跡を里見氏城跡群として、国史跡指定を目指す方向へと発展的に軌道修正。2000年からスタートした「里見フォーラム」の開催を契機に指定へ向けた機運も徐々に盛り上がり、昨年11月の国の文化審議会答申に至った。
第5集では、役員らがこうした地道な取り組みを述懐。活動の記録も記載し、14日の記念シンポジウムにも出席した峰岸純夫教授、滝川恒昭・千葉城郭研究会ら研究家が、それぞれの視点から前期里見氏の考察など特別寄稿。愛沢代表は、あとがきの中で「はじめは『文化では飯が食えない』『国史跡など夢物語である』と揶揄された」とふり返りながら、「(指定は)今後の地域史研究や歴史・文化を活かす地域づくりに大きな貢献を果たすものになっていくと確信している」と結んでいる。
講演抄録 享徳の乱と里見義実 東京都立大名誉教授 峰岸純夫氏
大地震が戦乱発生の契機に 義実は美濃里見氏の養子か
(房日新聞:講演抄録2012.4.18付)
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享徳の乱(1455年)というのは、年配の方はあまり知らない、昔は名前がついていなかった15世紀後半の大きな内乱だ。関東の首都鎌倉で、鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を誅殺。これをきっかけにして鎌倉公方陣営と上杉方が関東を二分して相争い、室町幕府は周辺守護に命じて上杉方を支援する。乱は28年間も続いた。応仁の乱(1467-77)は関東の乱が飛び火したもので、これが治まってようやく享徳の乱も終わる。両方合わせて考えなければならないと強調したい。
この大きな内乱の過程で里見義実が安房にやってくる。これをどう考えたらいいか。私が最近考えているのは、享徳の乱と当時起きた大地震との関係だ。地震・災害は武家政権下の諸勢力間の緊張、政治的混乱をしばしば引き起こす。
山梨市の八幡山普賢寺に伝わる『王代記』という年代記は、享徳3年11月3日に奥州で大地震・大津波があり、12月27日には「関東管領の上杉憲忠が殺害される」と、地震と享徳の乱発生を継続的に記載している。
また、同年の12月10には鎌倉で「大地震」があったと『南朝記伝』『鎌倉大日記』などが記録している。
最近の地層調査では、14世紀、15世紀ごろに奥州で2つぐらい大きな地震があったと推定できる地層が確認され、この享徳の地震の痕跡だとの見方がでている。
震災と戦乱のリンクは考えざるを得ない。一番の例は鎌倉時代末期の永仁元年(1293年)の大地震。これは『親玄僧正日記』という一級資料が存在するが、4月12日の地震の後、同22日には執権北条貞時が有力家臣の内管内領平頼綱を誅殺する「平禅門の乱」が起きている。北条氏(北条早雲)の伊豆制圧も明応地震(1498年)と密接な因果関係がある。
享徳の乱の発生と里見義実の安房入部についての関係だが、私は義実が里見氏嫡流の里見家基(刑部小輔、修理亮)の嫡子で、父が結城合戦(1440年)で討ち死にした後に美濃に逃れ、美濃里見氏の養子として成長し、足利成氏の鎌倉公方復帰の中で関東に随従したと類推している。
里見氏一族の拠点は新田荘のほか、西植野(こうずけ)、越後にもある。美濃の里見はけっこう大きな勢力で、承久の乱(1221年)で里見義直という人が手柄を立てて美濃の所領を得た。
美濃は関東と京都をつなぐような位置にある。美濃守護土岐氏の元には、かつて上杉禅秀の乱(1416年)で禅秀について滅亡した新田岩松満純の遺児家純がかくまわれ、後に将軍に召しだされて復権している。このように源氏一門の縁で関東の亡命者がかくまわれ、その再興を援助する役割を土岐氏は果たしている。
義実の出自についての類推は仮説的な掲示というか、細かい研究を重ねているわけではない。歴史研究は「未知なる過去の探索」であり、確実、着実な史料があればいいのだが、ない限りはさまざま状況証拠を積み重ねて追求していくしかない。多くの方々にこの問題について感心を寄せ、前期里見氏の解明をしていただきたい。
(本稿は、館山市内で14日に行われた「里見氏城跡国史跡指定記念シンポジウム」での講演内容を要約、再構成したものです)
里見氏城跡の国指定記念
史跡整備へ市民ら集う
時代背景を研究家が討論
講演やシンポとおして機運を醸成
(房日新聞2012.4.17付)
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戦国大名里見氏が本拠地としていた館山市の稲村城跡と南房総市富浦町の岡本城跡が「里見氏城跡」として国史跡に指定されたのを記念したシンポジウムが14日、館山市のたてやま夕日海岸ホテルで開かれた。里見氏研究に携わってきた大学教授らを講師に迎え、「関東戦国史にみる里見氏」をテーマに討論。会場は立ち見もでるほどの大勢の市民が詰めかけ、それぞれの研究に基づいた講師の話に聞き入っていた。
10代焼く170年にわたって南房総の地に君臨した里見氏は、支配の拠点となる城館を、数回にわたって移動させていたところに特徴がある。稲村城跡はその初期の城跡で、市民グループを中心に1996年からはじまった稲村城跡の保存と史跡化を求める取り組みが契機となり、里見氏城跡群へ目が向けられるようになってきた。以来、17年近くにわたる努力が実を結ぶ形で2つの城跡を指定。今後の取り組みによっては、さらに他の里見氏城跡の追加指定の可能性も拓けてきた。
記念の集いは、史跡の保存運動に取り組んできた「里見氏稲村城跡を保存する会」(愛沢伸雄代表)が指定を記念して企画。戦国史を専門とする峰岸純夫・東京都立大名誉教授、滝川恒昭・千葉城郭研究会、黒田基樹・駿河大学准教授の4氏を招き、講演やシンポジウムなどをとおして整備へ向けた第一歩として市民の関心を高めていこう、と開かれた。
主催者を代表してあいさつに立った愛沢代表は、「長いみちのりだった」と指定までこぎつけた保存運動をふり返りながら、「今後も官民一体となって取り組んでいかなければならない」と市民ぐるみの支援を呼びかけ、集いの意義を述べた。続いて、千葉城郭研究会の遠山成一氏が稲村城跡と岡本城跡についてスライドを交えながら簡単に解説、さっそく講演に入った。
会場では、里見氏が本家から分家筋に“政権交代”した4代義豊の時代の「天文の内乱」(1533〜34年)にも関わった「正木通綱」が記載された棟札も初公開され、滝川氏が詳しく紹介しながら、里見氏と正木氏の関係などを解説。佐藤氏は、里見に関わる文書などをひも解きながら、前期里見氏について考察。峰岸氏は、享徳3年(1454)に発生した奥羽地震と鎌倉地震に端を発して「享徳の乱」が起こり、初代義実の安房入部に至ったのではと類推した。
この後、館山市立博物館担当課長の岡田晃司学芸員がコーディネーターとなり、シンポジウムに移り、4人のシンポジスとが自らの研究をとおして、室町公方と鎌倉公方による二元的国家ではなかったのか、などとして、里見の安房入部にいたった時代背景などを考察していた。