メディア報道

【房日講演抄録】120921*木村真三「ネットワーク放射能汚染地図」

独協医大准教授:木村真三氏

「ネットワークでつくる放射能汚染地図」から安房を見る

〜市民科学者養成講座〜

房日新聞 2012年9月21日


正しい知識で差別をなくそう
定期的な食品検査が大切

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木村氏は1967年愛媛県生まれ、東日本大震災発生直後、勤務していた労働安全衛生総合研究所に辞表を出し、福島県各地で放射能線量を独自調査。その様子が「NHKのETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」で放送され、大きな反響を呼んだ。現在は獨協医大国際免疫学研究室福島分室で放射能汚染調査などを続ける一方、NPO法人・放射線衛生学研究所(郡山市)の理事長として住民支援活動を行なっている。

今月7日に福島第一原発近くの海域で、海水の汚染レベル調査をした。原発から1キロほど離れた地点から、持っている線量計の値がグーッと上がってくる。これで、原発からの放射能が約1キロの距離を飛ぶということが分かってきた。原発から200メートルまで近づくと、海上で7・5マイクロシーベルトというとてつもない放射線量が計測された。海洋から見た放射能汚染調査はこれまであまりない。採取した水は現在長崎大で分析中だ。

私はこれまで、放射能汚染地図づくりに始まり▽二本松市住民の内部・外部被ばく調査▽昨年4月21日にいわき市が“安全宣言”を出したものの、その後の高濃度のお線画見つかったいわき市志田名・荻地区の調査および支援—など、東日本大震災後にさまざまな活動を行なっている。

福島での住所は不定で、県内各地の一般家庭にホームスティしながら活動、地元の方々と寝食をともにし、その思いや痛みを一緒に味わいながら、どうしたら今の状況が改善できるかを日々考えている。

原発事故で避難者はものすごいメンタルストレスを抱える。特に県外の方をなんとかフォローしたい。国の対応も不十分で、今年3月から新潟県でストレス調査と支援活動を始めた。福島からは現在6500人が新潟に避難。強制避難が3000人ほど、残りは自主的に避難した方々だ。

柏崎市に避難している女の子は、男子生徒の心ない言葉で拒食症になった。ぽっちゃり体型を「身体の中に放射能が入っているのだろう」とからかわれた。体重は20キロ台になり、チアノーゼの症状も。それでも毎日学校に通っている。

また、母と子で避難生活中に母親にがんが見つかった別の事例。原発事故との関連は極めて低いのだが、当人は「あの時、あの野菜を食べたからでは」と気に病んでしまう。隣人からは「放射能が降ってくるから、子どもを静かにさせろ」「福島に帰れ」など、とんでもないことを言われ続けている。

いずれのケースも、構造は部落差別と同じ。正しい知識が欠如しているからこのような問題が起こる。放射線についての正しい学習、教育の普及がなによりも大切だ。原発事故による被害は、直接的な被ばくの影響だけでなく、間接的な影響がとても大きい。チェルノブイリの時もそうだった。

日本人は何事にもまじめに考えてしまう傾向があるので、心が病んでしまう人が多く出る心配がある。メンタルストレス被害のデータをきちんと残すことが重要だ。

「原発立地を推進してきた」という理由で、福島(の人々)に事故の責任をなすりつける論調が一部にある。「貧しい地域」だったために原発を受け入れざるを得なかったという歴史的視点を欠いた、間違った物の見方だ。沖縄の基地問題も根底は同じ。実際にいわき市で、東京の人がそのような発言を公の場でしたのを私は聞いた。この種の「無学、無知」を正す作業も地道に行っていかなければならない。

多くの市民の方々に▽放射線の単位(シーベルトとベクレル)▽放射線の種類と人体影響▽放射能汚染の拡がりについて▽外部被ばくと内部被ばく—について、正しい知識を知ってほしい。

安房地域の空間放射線量は0・05〜06マイクロシーベルトで、事故が起こる前の基準と同レベル。普通に生活していただいて大丈夫だ。

今回の原発事故で大量放出された放射性核種は風や雨、潮の流れなどによって移動する。日本のどこでも汚染の可能性はあり、食べ物は気をつける必要がある。食品・学校給食の検査はどうしても必要だ。

福島第一原発は、大震災後の揺れ戻しがきた場合にどうなるかが心配。危険な場合は自宅など屋内にとどまり、放射性物質が通過するまで外出を避けることだ。

(本稿は、館山商工会館で17日に行われた安房地域母親大会での講演内容を要約、再構成したものです)

【房日】120914*「海の幸」オマージュ展に延べ8250人が入館

渚の博物館「海の幸」オマージュ展

延べ8250人が入館

房日新聞 2012年9月14日


延べ8250人が入館
渚の博物館「海の幸」オマージュ展

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館山市館山のなぎさの博物館で開催された巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」(6月26日〜9月2日)の入館者数がまとまった。開館日数の60日間で、延べ8250人が入館した。1日あたりの平均入館者数は138人だった。

同市や同市教委、NPO青木繁「海の幸」会が共催した展覧会。NPO青木繁「海の幸」会は、青木が同市で宿泊した小谷家の保存と警官の環境整備を目的に活動。明治時代の画家、青木繁(1882〜1911)が代表作「海の幸」を描いた同市と、東京、銀座で開催した。

展示では未公開の8点を含む、青木のデッサン画17点をはじめ、画家56人の作品64点が飾られた。

1日の入館者数が多かった日は、8月の盆の14日が541人、15日が304人。関連イベントもあり、洋画家佐々木豊氏と美術評論家、ワシオ・トシヒコ氏のギャラリートークには60人が、福岡大学人文学部教授、植野健造氏を招いたふるさと講座には71人が参加した。

入館者からは「小谷家はどこにあるか。行ってみたい」などと関心を寄せる声が多く聞かれた。

【房日】120902*平和のための美術展

安房から平和への願い込め

枇杷倶楽部ギャラリー61人で慈善美術展

房日新聞 2012年9月2日


安房地域在住の芸術家が、作品をとおして平和を願う「安房・平和のための美術展」が、南房総市富浦町の枇杷倶楽部ギャラリーで開かれている。今回が8回目。

画家の溝口七生さん、イラストレーターの山口マオさんら安房を拠点に活動し、名の知られた芸術家61人が参加。絵画、陶芸、木彫、版画、いけ花、創作人形など多彩なジャンルの作品が一堂に展示されており、会場にやってきた女性客は「すばらしい作品ばかりですね」と感心しながら見入っていた。

展示会はチャリティーで、隣接する会場には、出品作品が制作したきり絵、色鮮やかなガラスのペンダント、ポストカードなどが手ごろな値段で販売されているほか、本展示の作品も作者の好意で一部が販売されている。

収益は、ウガンダのめぐまれない子どもたちと、東日本大震災の復興支援などに役立てられることになっている。

同美術展では、これまでの戦争で才能ある多くの芸術家の命が失われたことや、いまでも内戦、貧困、飢えに苦しむ国や地域があることから、世界平和と人々の幸せを願い自分たちでできることをと、有志が実行委員会を組織して始まった。

展示は9日までで、大勢の来場を望んでいる。

美術展に関する問い合わせは、事務局の桧山薫さん(090‐7721‐3022)へ。

【房日投稿】120818*青木繁「海の幸」オマージュ展に感動(溝口七生)

読者のコーナー 【鋸南町 溝口七生】

青木繁「海の幸」オマージュ展に感動

房日新聞 2012年8月18日

“渚の駅”たてやま渚の博物館で開催中の『青木繁「海の幸」オマージュ展』を観て、大きな感銘を受けた。

まず、青木繁が布良に滞在した時のもの、初公開のものも含まれた貴重なデッサン作品17点を興味深く観て、改めて青木繁の非凡な才能、芸術感覚の鋭さ・豊かさなどが感じられた。

さらに、『青木繁「海の幸」会』のメンバー有志らの作品群も見応えがあった。その顔ぶれが凄い。現代日本画壇のトップレベルの画家たちの作品がこれだけ一堂に展開される展覧会は稀なことである。

日本芸術院会員の奥谷博、中山忠彦、塗師祥一郎、大津英敏は小作と大作の2点ずつの出品。この4人を始めとして、日展や主要美術団体の審査員や役員や中心会員、美術大学教授たち、入江観、馬越陽子、内山孝、張替眞宏、楢崎重視、齋藤研、吉武研司、安達博文、棚瀬修次、川村良紀、金井訓志、浅野輝一、吹田文明など、美術界で名の知れた人たちの魅力的な作品が並んでいる。

青木繁へのオマージュを直接的に表現している作品もある。地元作家の船田正廣の「海の幸」の模刻作品、福田たねを描き入れた作品、自画像を元にした作品、小谷家や布良を描いた作品など。

作品ジャンルも油彩、水彩、日本画、水墨、版画と変化に富んでいるし、伝統的写実的作品と現代美術的抽象作品と作品傾向の幅も広く、小品が多いのではあるが、安房地域で開催された数多くの展覧会の中でも一、二を争う貴重な、レベルの高い展覧会となっていると思う。

なんども会場に足を運び、じっくり鑑賞し、味わっている。

9月2日まで開催されるとのことで、さまざまな関連資料とともに、ぜひ多くの方々に観て頂きたい展覧会である。

「海の幸」会の会員は500人にもなっているとのこと。私もその一員に加わって今展にも参加しているが、小谷家を復元・保存し、記念館へという運動が、地元の館山市と『青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会・NPO安房文化遺産フォーラム』の活動と連動して大きな盛り上がりを見せてくれることを期待している。

【房日】120817*かにた婦人の村で鎮魂祭

従軍慰安婦よ安らかにかにた婦人の村で鎮魂祭

房日新聞 2012年8月17日


館山市大賀の婦人保護長期収容施設「かにた婦人の村」(天羽道子施設長、入所者71人)で、67回目の終戦記念日となった15日夕方、従軍慰安婦として亡くなった人の「鎮魂祭」が行われた。入所者らが朝鮮民謡の「アリラン」を歌いながら、鎮魂碑へ献花した。

性的な暴力により療養が必要となった女性たちの安らぎと療養の場の必要性を説いた故深津文雄牧師が、1965年に同施設を設立。深津牧師に賛同した天羽施設長が活動をともにし、深津牧師の遺志を受け継ぎ、運営にあたっている。

鎮魂祭は、入所者の1人が、「従軍慰安婦となった娘たちの慰霊塔を建ててください」と切願したのが始まり。初めは1本の木を植えて祈りを捧げ、その後石碑を設立。27年間毎年、終戦の日に行われている。入所者は「性の提供をさせられた娘たちは、足手まといになると放りだされ、荒野をさまよい、凍てつく原野で野良犬の餌食となり土にかえった。同僚の顔が浮かぶ」と語っていたという。

鎮魂祭では、深津牧師が作詞した歌を「きよらのおとめつれさられ、なげきのなみだあともなく」とアコーディオンのメロディーに合わせて合唱。天羽施設長はあいさつで、「67年間の平和を享受してきたが、平和の中に浸ってよいのか、その思いの中荷甘んじでいてよいのかという気持ちを強めてまいりました。このことは日本の戦後処理がなされていないことが1つにある。日本従軍慰安婦に対し、日本がすべきことが、この間、なされないままで引きずられてしまっている」と語りかけた。

献花された花は、東京の在日韓国人から寄付されたニチニチソウなどの苗で、一人ずつ石碑の周りに置いて行き、手を合わせて冥福を祈った。

【房日】120721*青木繁テーマに研究者が講座

青木繁テーマ研究者が講座

房日新聞 2012年7月21日


洋画家。青木繁(1882〜1991)の作品「海の幸」(重要文化財)について学ぶ、館山市中央公民会の第3回ふるさと講座が、あす22日午後1時半から、同市コミュニティセンターで開催される。一般が対象で、定員は150人。参加者を募っている。無料。

同市の渚の駅たてやま渚の博物館で開催の巡回展「青木繁『海の幸』オマージュ展」の関連事業として開催する。講師は福岡大学人文学部教授の植野健造氏。植野氏は「海の幸」を収蔵する石橋美術館学芸員で25年間勤務。昨年は「没後100年 青木繁‐よみがえる神話と芸術展」を企画し、「青木繁《海の幸》」(中央公論美術出版)など、著書も多数。

テーマは「青木繁の生涯と芸術‐《海の幸》を中心に‐」青木は1882年(明治15年)福岡県久留米市に生まれ、画家を志して」上京。1904年(明治37)に東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業すると、友人らとともに訪れた館山市の布良で、代表作となる作品「海の幸」を制作。

講座は海の幸を中心に、青木繁の生涯を紹介する。

問い合わせは、館山市中央公民館(23‐3111)へ。

【房日】120720*小谷家保存する市民団体に助成金

小谷家保存する市民団体に助成金

(房日新聞2012.7.20付)

館山市の青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会にこのほど、日本興亜おもいやり倶楽部から、活動助成金として10万円が贈られた。

青木繁が滞在した同市布良の小谷家住宅前で贈呈式が行われ、保存する会の嶋田博信会長に手渡した。

同クラブは、日本興亜保険グループの役職員有志が会員。社会貢献活動として、毎月の給与から拠出した金額に日本興亜損保が同額を上乗せして贈っている。

【房日】120603*館山で没した林栄之助

館山で没した林栄之助

明治期に印刷業・うちわ産業に影響
関係者が資料提供呼びかけ


明治時代に、尋常小学校などの辞書編纂に携わり、房州うちわ生産や館山の印刷業振興にもかかわったとされる林栄之助。館山で没し、同市安布里の源慶院に墓があるが、栄之助の足跡を明らかにしようと、源慶院の小池宏学住職ら関係者が、資料発掘への協力を呼びかけている。

小池住職や、調査を行っているNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄さんによると、栄之助は美濃岩村藩の江戸深川屋敷にいたとされる林角助の子として生まれた。明治10年(1877)に、妻のち賀とともに、当時の北條町に転居。同24年に他界した。館山へ転居した理由は分かっておらず、生年月日も不明だが、墓石から58歳で亡くなったことがわかっており、天保4年(1833)に出生したらしい。岩村藩最後の藩主、松平能登守の家臣で維新後、東京士族となった。

全国で広く活用された「高等小学読本字引」「尋常小学読本字引」ほか、明治の三筆と称された書家の日下部鳴鶴が題字を書いた「篆書参考 実用新選字典」を編纂。これらは、大学の図書館や国立国会図書館に保管されているという。

さらに栄之助の死後、明治30年に印刷された北海道の地図に、栄之助の名前が印刷されていることから、幕末に陸軍奉公を務めた能登守が管理していた日本地図を、許可をもらって編集し版権を所有して印刷、発行していたのではないかという。

栄之助と交流のあった長尾藩士が、明治16年、栄之助の自宅近くに印刷業を開業し、栄之助の指導を受けていたと見られていること。また丸亀うちわで知られる丸亀藩京極家と岩村藩松平家、さらには家臣の栄之助も交流があったことから、栄之助がうちわ産業の接点となったと推測され、房州うちわの製造技術や、印刷技術の振興につながったとしている。

栄之助編纂の字典や関連資料に心あたりのある人は源慶院(0470-22-2923)へ。

 

(房日新聞2012.6.3付)

【新婦人】120531*初夏の南房総へ平和と歴史を考える

初夏の南房総へ〜平和と歴史を考える

「慰安婦」鎮魂の碑が語るもの

(新婦人しんぶん2012.5.31付)


5月19日、平塚らいてうの会が「らいてう忌2012」として企画した「南房総 館山日帰りの旅-らいてうゆかりの地を訪ね、平和と歴史を考える-」バスツアーに同行しました。

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らいてうと房総

参加者28人を乗せたバスが、東京湾アクアラインを通過し、千葉県に入りました。らいてうの会副会長の折井美耶子さんから「らいてうと房総についてのお話がありました。

「戦前の房総は、湘南よりも東京の人たちに親しまれていた地域。らいてうも1914年の『青鞜』3周年気年号発行のあと奥村博と御宿海岸へ、1921年には新婦人協会(※1)の活動で体調を崩し2人の子どもと竹岡海岸に静養に訪れていました」

館山の北条海岸はらいてうの父定二郎が老後に移り住んだ地でもあります。

(※1)婦人の社会的・政治的権利獲得を目指し、1919年に結成された婦人団体。

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沖縄戦の次は館山だった

館山市の歴史を学ぶ学習会の講師はNPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長の池田恵美子さん。

「1945年、沖縄の南部戦線には10万人の兵士が送り込まれ、さらに、太平洋に突き出した房総半島は沖縄戦後、真っ先に狙われると、安房には本土決戦に備えた7万人の兵士が配備されました」

兵士の食糧確保のため、花畑をつぶして、麦やイモ畑に換えろという「花作り禁止令」が出され、花の球根や種子は焼却されたといいます。

館山湾は世界でも有数のウミホタルの生息地ですが、この“ウミホタル”も軍事利用されていました。ウミホタルを乾燥させて、夜間に敵味方を判別するときや、懐中電灯の代用品として使われていた、と。また、終戦直後の1945年9月3日、アメリカ占領軍本体約3500人が館山に上陸。本土で唯一「直接軍政」が敷かれ、4日間ではあっても、館山を占領支配したことは、ほとんど知られていません。

学習会のあと、一行は海上自衛隊館山基地のすぐ近くにある「赤山(あかやま)地下壕(ごう)」に向かいました。壕といっても、中は広く、迷路のように入り組んでいて、たくさんの部屋にわかれていました。「地下壕というよりも、実戦のための地下要塞です」と、安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん。

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巨大な地下要塞

地下壕建設に関わる資料がほとんど不明のなかで、数少ない証言から、館山海軍航空隊の極秘の航空機開発や、実験施設、野戦病院のような医療施設があったのではと推定されています。

“御真影”(※2)がおかれていた奉安殿や、出入り口付近の大きな部屋は、壁がコンクリートで塗られていましたが、ほとんどは素堀りで、ツルハシの跡がくっきりと残っていました。

赤山壕からほど近い住宅街には「掩体壕(えんたいごう)」と呼ばれる、敵機から戦闘機を隠すための格納庫があり、館山市内だけでも48の戦跡があります。

(※2)天皇・皇后の公式肖像写真

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女性たちが共同で暮らす

戦時下の抵抗拠点の一つとしてつくられた洲ノ埼海軍航空隊「戦闘指揮所」「作戦室」壕は、婦人保護施設「かにた婦人の村」の敷地内にあります。

「かにた婦人の村」は、「社会から見捨てられた女性たちが一生安心して暮らせる婦人保護施設を」とキリスト教の深津文雄牧師が軍の払い下げ地に1965年に設立。特に障害の重い女性が入所する売春防止法(1956年)に基づく「長期婦人保護施設」です。

傷ついた女性たちが、家族として暮らす「かにた婦人の村」にはいまでも80人ほどの女性が暮らしています。

スイカズラの甘い香りが漂う敷地内には、寮のほかに、畑や、牛乳やパンをつくる部屋、協会があり、その一番高い場所に「噫(ああ) 従軍慰安婦」の碑があります。この碑は、村で暮らしていた城田すず子さん(仮名)の「慰安婦」体験の告白を受けて85年前に建てられたもの。

「軍隊がいるところには慰安所がありました。看護婦とみまがう特殊看護婦になると将校相手の慰安婦になるのです。兵卒用の慰安婦は1回の関係で50銭、また1円の切符を持って列をつくっています。・・・なんど兵隊の首をきってしまいたいと思ったかしれません。半狂乱でした。・・・どうか鎮魂の塔を建ててください」(深津牧師への手紙。「戦争遺跡」より)

最初は一本のヒノキの柱でしたが、2度とこういうことが起きないようにと、翌年には石碑が立てられました。

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1日かけて館山の戦争の歴史を学び、東京から近い千葉県の館山に、こんなにもたくさんの戦跡があること、「直接軍政」の場になったことを知り驚きました。「慰安婦」鎮魂の碑からは真の解決へ、歴史の真実をひとりでも多くの人に知ってほしいと感じました。

 

※「かにた婦人の村」「噫 従軍慰安婦」の碑は、NPO法人安房文化遺産フォーラムのスタディツアー参加者のみ見学が許可されている。

問い合わせ TEL 0470-22-8271 HP: http://bunka-isan.awa.jp/

【赤旗】120422*敵船への滑り台〜戦争遺跡を歩く⑧

敵船への滑り台〜戦争遺跡を歩く⑧

水上特攻挺「震洋」基地跡 千葉県館山市

(しんぶん赤旗2012.4.22付)

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東京湾口部に位置する千葉県館山市には、太平洋戦争末期、米軍上陸を想定して海軍特攻部の数多くの基地がつくられました。

東京湾沿いにある小さな漁港・波佐間は、水上特攻挺「震洋(しんよう)」の出撃センターでした。1人乗りの震洋は全長5メートル、重量約1トン。300キログラムの爆薬を積んでモーターボートのように敵の上陸用船舶に突進し、体当たりするためにつくられたものです。

砂浜にはコンクリート製の緩やかな滑り台が海に向かって突き出しています。震洋が海に発進するためのスロープです。南房総の戦争遺跡を調査している「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表は「搭乗員の多くは特攻に志願した18歳前後の若者たちで、波佐間基地には176人が配属されました」と話します。

滑り台から200メートルほど離れた山すその深い藪を分け入ると、防空壕のような穴がいくつも掘られています。ここから海岸まで運ばれ滑り台から発進する予定でした。

「1945年8月13日にやっと6隻が基地に配備され出撃態勢をとったなかで特攻隊員たちは敗戦を迎えました」(愛沢さん)

民家にまぎれてつくられた波佐間の特攻機地のように、南房総では軍事要塞と日常が一体化し、人々は厳しい監視下の生活を余儀なくされました。

その典型例が「花作り禁止令」です。南房総で盛んだった花作りは不要不急とされ、サツマイモや麦畑に変えられました。花の球根や種は焼却され、苗も抜き取られました。

しかし、農民たちはひそかに苗・種を隠し、今日の房総の花作りにつなげていったのです。「この民衆の抵抗も戦争に対する勇気あるたたかいの一つだと思います」(愛沢さん)

(寺田忠生 随時掲載)

 

問い合わせ「安房文化遺産フォーラム」 awabunka@awa.or.jp 0470(22)8271