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安房歴史文化研究会2013年(第24回)公開講座 2013年7月27日
明治期館山の殖産興業をみる 〜小原金治の経済人ネットワーク
NPO法人安房文化遺産フォーラム代表 愛沢 伸雄
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明治期、千葉県議や衆議院議員であった小原金治は、安房銀行(千葉銀行の前身)や房総遠洋漁業(株)の設立や経営に関わっていたので、安房の殖産興業をたどるうえで重要な人物である。小原金治の生涯については、資料に乏しく不明な点が多い。最近、館山市南条の生家から自筆の『自叙伝草稿』(以下、「草稿」)の断片が発見された。この「草稿」と富崎の小谷家住宅から発見された水産資料を通じて、明治期の館山の姿を知ることができる。
金治は、1859(安政3)年、豪農であった父桂助母かよの長男として旧南条村で出生。12歳で旧館山藩士であった叔父から初めて読み書きを学ぶ。以来、22歳まで農業の傍ら、地域の漢学の師を訪ね、独学で勉強。21歳のときに大きな転機が訪れる。金銭問題で裁判所に民事訴訟をおこし勝訴した。折しも自由民権の嵐が吹き荒れていた時代、政治を見る眼や法律に強い関心をもち、北条村で何回か開催されていた民権派の演説会に参加した。東京からの弁士小野梓や田口卯吉や、地元の県議小原謹一郎や若手の満井武平らの熱弁を見聞し、政治世界に入る契機になったと思われる。
激動する時代にあって、22歳の金治青年も大きな志をもって上京した。当時、著名な漢学者の岡千仭(鹿門)の塾に通い、夜学の法律学校で学ぶ。しかし、3年後に父が重病になり、やむなく帰郷。その頃、北条村で開催された民権派の演説会では弁士の一人として活動するなかで、1884(明治17)年25歳の金治は南条村会議員に選ばれた。
村議の活動では、住民から無法状態にあった房州白土の採掘と土地問題について相談をうけた。金治は県や国に働きかけるとともに、住民との契約関係をもった会社を立ち上げることにした。安房坑業会社と呼ばれたこの白土会社は、「東洋煙草大王」の異名をもつ岩谷松平が社長になり、地元からは金治自らが取締役となった。最近、源慶院からこの会社と契約を結んだ吉田智道住職の証書が見つかっている。
岩谷は松岡村出身の福原有信とともに東京・銀座で活躍していた経済人で、後に東京選出の衆議院議員になっている。さまざまな商品を扱った全国的な商社の岩谷商会と関わり、金治は初めて実業を学んだと書いている。金治の身近にいた親しい政治家は、館野村出身の県議小原謹一郎である。小原は公共事業的な海運業を訴える正木貞蔵に共鳴し、安房汽船会社を創設した人物である。しかし、運賃競争で破産して大きな負債をかかえ三六歳で亡くなっている。また、盟友になる満井武平を通じて彼の叔父である富崎村長神田吉右衛門とも交流が生まれ、安房の水産業問題も語り合ったであろう。
1890(明治23)年、金治と満井はともに県議に当選した。二人は力を合わせて安房の殖産興業に取り組んでいった。当時、関澤明清や神田らは近代的な水産事業を自ら実践していた。満井は大隈重信の立憲改進党に入ったが、金治は党派の政策にこだわらない政治的立場をとっていた。県議三期目になった35歳の金治は、盟友の満井や角田真平(号竹冷)の仲介で大隈重信と会見。その後に大隈の理念に共鳴して改進党の一員となったのであった。
衆議院の解散後、安房の候補者選定のなかで大隈の側近岡山兼吉らの説得があり、金治は県議を辞して改進党候補者に擁立された。1894(明治27)年、日清戦争勃発の年九月の第四回衆議院議員選挙は改進党の重鎮島田三郎らの応援や安房国改進党の全力をあげた選挙運動によって、自由党の加藤淳造を押さえて見事当選した。日清戦争のなかで注目されることが「草稿」にある。後に東京株式取引所理事長になった同僚議員角田真平の仲介で、金治は勝海舟と会見したという。日清戦争と国政のあり方について懇談し、高い見識に驚いたとの記載がある。
1897(明治30)年までの3年間の議員活動で、安房において重要なものの一つが、神田や満井らの水産業の改革を応援し、関澤明清が館山で取り組んでいる先駆的な遠洋漁業を奨励する法律に関わっている。二つ目には県議時代より正木貞蔵らの公的な海運事業「安房団体」組織し援助してきた。水産業の振興のためには安定的な海運業の振興が重要であったが、常に資金的な課題を抱えていた。金治は殖産興業の資金を調達する金融機関設立が急務であると安房郡長の吉田謹爾とも相談していた、吉田の義父は旧館山藩士で金治の叔父とは仲間であったし、8歳年長の吉田は村議や県議の時代から強い結びつきがあった。金融機関設置する方策では、金治は安房出身である大物大蔵官僚である曽根静夫国債局長に相談したであろう。曽根は日清戦争時に戦時国債を発行し戦費調達を成功させた人物として金融界に大きな影響をもっていた。金治と曽根と吉田の三者の連携のもとで、安房ゆかりの企業人福原有信や浅田正文、川崎財閥の総帥川崎八右衛門らを発起人として、1896(明治29)年、千葉銀行の前身である安房銀行がスタートしたのであった。
謹厳実直で実務派の吉田謹爾は郡長を辞め専務取締役として全てを仕切った。この年に金治は病気になったこともあり議員生活を終えている。しかし、自ら先頭に立って本格的な安房の殖産興業に取り組んでいった。1897(明治30)年、館山の地でモデル的な遠洋漁業事業を実践して企業化のきっかけをつくった関澤が志半ばで急逝した。関澤の実弟鏑木余三男は、その遺志を継いで房総遠洋漁業株式会社創設を呼びかけた。翌年に安房銀行の資金や国からの遠洋漁業奨励金が投入され、北洋のオットセイ・ラッコ猟を主とする本格的な漁業会社が設立され、金治が社長となったのである。
近代的な水産業を模索していた盟友満井の叔父神田吉右衛門は、富崎村長として数多い遭難漁民の救済や鮪延縄船改良の施策をはじめ、鮑組合の収益を教育など公共事業のために使い、人びとに敬愛されていた。また、資生堂の福原有信は帝国生命保険を創設しているが、1894(明治27)年に社長となり、吉田らが呼びかけて遭難者家族救済のための保険事業に関わった。神田も全国でも先駆けて遭難者救助積立金制度や布良同盟保険をつくり、福原の帝国生命保険と連携した取り組みをおこなった。実はこの動きは人びとの貯金制度などのきっかけとなり、不安定な金融業のなかで地域密着型の安房銀行は、強固な経営基盤をつくり地域振興に貢献していったことを忘れてならないであろう。
その後も小原金治は、安房に関わる金融・経済人などさまざまなネットワークを通じて地道に地域の殖産興業に努めていった。金治は吉田謹爾が亡くなった1914(大正3)年、安房銀行を頭取として引き継いでいる。県内の金融界の重鎮として、千葉銀行創設に一石を投じるなか、1939(昭和14)年79歳で没している。
今回の報告は、小原金治の動きを切り口に明治期の安房での殖産興業の一端を紹介した。
東京湾をまるごと博物館に
館山と横須賀NPOがシンポ〜観光とは異なるアプローチを
(房日新聞2013.7.30付) ⇒ 開催概要
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古くから歴史文化を共有する房総半島と三浦半島の文化遺産を活用し、東京湾一帯をまるごと博物館ととらえて広域連携を考えるシンポジウムが23日、館山市中央公民館で開かれた。
同市のNPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄理事長)と、神奈川県横須賀市で戦争遺跡の保存活動を展開するNPO法人アクションおっぱま(昌子住江理事長)が共催。館山、横須賀両市をはじめ都内などから70人が参加した。
シンポジウムでは、はじめに昌子理事長が、貝山地下壕や第三海堡(かいほう)遺構の保存活動などを報告。活動から生まれた「フィールドミュージアム(屋根のない博物館)」構想を説明した。
続いて安房文化遺産フォーラムの池田恵美子事務局長が、館山周辺の戦跡や明治期の画家・青木繁が代表作の「海の幸」を描いた足跡など、歴史や文化をまとめた「館山まるごと博物館」の事例を発表した。
最後に土木・産業遺産の利活用を研究する近畿大学の岡田昌彰教授が、イギリスやフィンランドなどを例に、海外の多様な戦跡の利活用、公開方法などを紹介しながら助言。
愛沢理事長が「地域資源を活用したまちづくりという視点は、物見遊山の観光とは異なるアプローチで、人と人との交流を生み、地域を活性化させる。横須賀と館山の共通点、それぞれの特徴を生かした連携で、東京湾まるごと博物館という構想を前進させたい」と締めくくった。
シンポジウム終了後は、海軍航空隊赤山地下壕跡、青木繁のゆかりの地を巡るフィールドワークも行った。それぞれの文化財の維持管理者らともふれあった参加者は、感激した様子だった。
⇒ ヘリテージまちづくり講座(案内チラシ)
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富崎小会場にイベント
あす子どもと地域を考える
(房日新聞2013.2.22)
「青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会」とNPO法人安房文化遺産フォーラムによるイベント「元気なまちづくり市民講座」があす23日、館山市の富崎小学校体育館を会場に開催される。文化庁補助を受け、地区コミュニティ委員会と県歴史教育者協議会の協力で開くもので、イベントを通して子どもと地域・社会科を考える。
青木繁が愛した「布良という聖地」は、少子高齢化が進み、休校となった富崎小を「芸術家を育てるまちづくり」に生かしたいと考えた両団体が企画した。
講座は正午からのワークショップで開講。ここでは▽青木繁が滞在した明治期の富崎(布良・相浜)を知ろう▽糸を紡いでみよう▽錬金術を体験してみよう▽房州地布縞帳の展示▽ベトナムフェア▽旭市の津波災害報告▽安房南のウガンダ支援交流▽ところてん体験と試食-の各コーナーが設けられ、午後1時30分から同NPO池田恵美子事務局長が実践報告。2時からは「文化遺産を生かした館山まるごと博物館」をテーマにシンポジウムも開かれる。
翌24日には、午後1時30分から2時間ほど、青木繁が滞在した小谷家住宅や布良崎神社などを巡るウオーキングも予定されている。
市民講座は参加費無料、ウオーキングは参加費500円で、多くの来場を呼びかけている。
日中韓 歴史体験キャンプ
学生ら戦跡巡りや討論 南房総・館山
(千葉日報2010.8.11付)
日中韓の高校生や大学生らが戦跡巡りや討論を通じて相互理解を深める「第9回青少年歴史体験キャンプ」(NPO安房文化遺産フォーラムなど主催)が4日から9日まで南房総市や館山市で行われた。
3カ国の約160人の学徒が参加した。従軍慰安婦をしのぶ石碑が立つ婦人保護施設「かにた婦人の村」では、天羽道子施設長の「慰安婦だった方々に日本政府は謝罪をしていない。謝罪は破れてしまった人間尊厳の回復」との訴えに耳を傾けるなど、昼は安房地方の戦跡や日韓、日中交流の史跡を巡り、夜は討論を繰り返した。最終日には言葉や文化の壁を乗り越え、日中韓の間に横たわる数々の問題を正視しながら、平和を求める独自の宣言を作成。国境を超えたきずなを強めていった。
「歴史の教科書は自国に都合よく書くもので、相手の国に行かないと違いが分からない」と中国の銭宇飛君(17)。「日中韓には文化も歴史も、同じものも違うものもたくさんある」と交流の意義を語る。
慰安婦問題に韓国の張ユナさん(13)は「日本の学校で教えず、生徒がほとんど知らない」といら立ちを隠さない。李仁煕君(16)は「日本人にも慰安婦問題を広く知らせようと活動する方々がいて安心した」とし、「韓国は日中に挟まれ危機感がある。日本、中国の友人らと話すことは大事」と未来を見据えた。
「日本の加害ばかりでなく、中韓も他国での加害の歴史がある。一方的に相手を責めるのではなく平和につなげていこうと話し合った」と地元の県立安房高2年、清水絵夢さん(16)、飯沼日沙子さん(16)、加藤一徳君(16)ら。「お互いの溝が討論で少しでも埋まって良かった」と成果をかみしめ、「来年は韓国で開催。ぜひ参加したい」と目を輝かせた。
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愛沢氏に文化財保護功労
稲村城跡保存の功績で
(房日新聞2012.11.23付)
戦国大名の城跡である館山市の「稲村城跡」の保存運動に取り組んでいるNPO法人安房文化遺産フォーラムの愛沢伸雄代表(61)=同市小原=が、県文化財保護協会から文化財保護功労者として表彰された。長年にわたる運動が実を結び、同城跡が今年1月に国史跡にしてされた功績などが評価された。
道路建設計画が具体化し、同城跡が破壊寸前にあった17年前、愛沢氏が代表世話人となって「里見氏稲村城跡を保存する会」を立ち上げ、保存運動を展開。城跡存在の意義や文化的・歴史的価値や重要性を強く訴えてきた。
有志の輪は徐々に広がり、会では定期的な草刈りや展示会、ガイドブックの作成、案内板の製作、現地案内や学習会、冊子の刊行、さらには周辺重要城跡の見学会など、十数年の長きにわたって地道な活動を展開。しだいに市民の理解も深まり、市議会に提出した保存の請願も採択され、道路建設は城跡を迂回する形に変更されるなど、活動は同城跡の国史跡指定への原動力となった。
同市の稲村城跡調査検討委員会委員を歴任。史跡指定を受けて、先ごろ、市教委が発足した「稲村城跡保存・管理計画策定委員会」委員に委嘱され、市民代表として保存・整備計画に取り組んでいる。
愛沢代表は「本来ならば保存する会が団体としてこの栄誉を受けることがふさわしいと思っているが、すでに会は解散しており、その旗振り役であった私が代わって受賞したと受け止めている。これを機に、この地域が持っている多彩な歴史・文化を学びながら、今後も文化財保護の市民活動を地道に続けていきたい」と受賞の喜びを語っていた。
芸術文学散歩に30人
NPO主催 館山の痕跡巡る
(房日新聞2012.10.23)
NPO法人安房文化遺産フォーラム主催の「芸術文学散歩バスツアー」がこのほど行われ、30人が明治時代から昭和にかけて館山を訪れた芸術家や文人墨客の痕跡を巡った。文化庁の補助事業で企画、9月に20人が参加したのに続いて2回目。
ツアーでは青木繁が滞在した小谷家、塩見海岸の中原淳一詩碑、館山総合高校水産校舎では、長崎の平和祈念像制作者北村西望作の旧安房水産高校初代校長の銅像、布良崎神社に残る画家、寺崎武男の奉納画2点などを見学した。同フォーラムによると布良崎神社の奉納画は、最近、寺崎の作品であることが分かり、このツアーで初めて公開された。
寺崎は東京美術学校を卒業。農商務省実業講習生としてイタリアに留学した。日本創作版画協会の設立に関わったが、彫刻家で東京美術学校彫塑科初代教授を務めた長沼守敬を慕って館山に移住。旧制安房中で美術を指導し、安房神社や下立松原神社などに神話の絵画を奉納した。1967年没。
同フォーラムでは、21日に富崎小学校で開かれる「青木繁《海の幸》フェスタ」でこの2点を展示した。
《海の幸》フェスタ富崎地区であす開催
(房日新聞2012.10.20付)
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青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会と、NPO法人安房文化遺産フォーラムが館山市富崎地区コミュニティ委員会との共催で21日、「青木繁《海の幸》フェスタ」を旧富崎小で開催する。富崎コミュニティのつどいとして、文化庁補助事業を活用して企画。参加無料で多くの来場を呼びかけている。
つどいは、午前9時から午後3時まで。青木繁が逗留した小谷家住宅や記念碑などを巡るウォーキングやレク大会、DVD鑑賞、影絵劇とトークショー、布良に関連した語り部、「いっちゃぶし」「安房節」の民謡などが繰り広げられる。
また、小谷家からみつかった明治時代の資料や、富崎の今と昔を撮った写真展、明治の漁村を知る資料などが展示される。
旧安房南高で現代美術展 あすまで 館山
木造校舎活用しビエンナーレ
(房日新聞2012.10.20付)
2年に一度開かれる美術展覧会である「ビエンナーレ」の安房版「第10回『半島の現代美術展』安房ビエンナーレ」の「街バージョン」が19日から、館山市の旧安房南高校木造管理校舎で始まった。旧校舎をそのまま活用、安房在住の芸術家らが思いおもいの作品を展示している。街バージョンはあす21日まで。きょう20日午後1時からは「安房南高校の思い出を語る会」も開かれる。
足かけ20年目となる展示。今回は「半島の海・街・森」がテーマで、「海バージョン」は16日まで、鴨川市民ギャラリーで開かれた。
街バージョンは、県指定有形文化財の管理棟校舎を活用した。校長室は版画家の今井俊さんが「神話的世界」として作品を展示。真魚長明さんは「体育教員控え室」を使い「全国動物解放同盟安房支(青)」の展示をしている。
このほか、イラストレーターの山口マオさん、木彫の船田正廣さんら、総勢20人が旧教室をそのまま活用し、平面から立体まで、さまざまな作品を展示している。
19日は午前10時の開会から、大勢の入場者が訪れ、作品に見入っていた。卒業生もおり「生徒のころは、正面玄関から入ったことなどなかった」と、母校での開催に興味深げだった。
展示は会期中の午前10時から午後4時まで。電気、水道、トイレは使えない。仮設トイレが設置されている。
20日午後1時からは、2階の旧職員室を使い、思い出を語る会が予定されている。
「森バージョン」は、25日から31日まで、富津市亀田の芸術の森で開かれる。
青木繁《海の幸》フェスタにぎわう
多彩な催しで富崎再発見、地区コミュニティとコラボ
(房日新聞2012.10.24付)
青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会による「青木繁《海の幸》フェスタ」が21日、休校中の館山市富崎小で開かれた。地元の富崎地区コミュニティ委員会と共催し、地区在民によるコミュニティのつどいとコラボしたイベントで、レク大会や写真・資料展示、影絵劇、トークショー、語り部などがあり、青木繁が愛した「漁村富崎」を見つめ直した。
この日はグランドゴルフやペタンクなどのレク大会が校庭で行われた後、体育館に会場を移し、テレビドラマ「太陽にほえろ」のボン刑事で活躍した俳優の宮内淳さんが主宰する影絵劇団かしの樹が、神話と友情を描いた「走れメロス」を公演。続いて、20年来の親友という宮内さんと館山市坂田のダイバー成田均さんが、「海からの贈り物」をテーマに対談した。宮内さんは、幸せで豊かな生活を実践するための公益在団法人地球友の会の代表理事。成田さんは、同会の理事という間柄。成田さんは、素潜りの世界記録保持者である故ジャック・マイヨールがイルカから学んだという地球との共生という生き方について語った。
午後からは「新発見!青木繁が滞在した明治の漁村・富崎」を、青木繁が滞在した小谷家の現当主・小谷福哲さんらが解説。今年7月の小谷家住宅見学会で発見され、会場に展示された「近代水産の父」とされる関澤明清の明治23年(1890)の手紙から、小谷家の居間に飾られてきた「日本重要水産動植物之図」3枚が、当時、水産伝習所長であった関澤から、小谷家当主の喜録に、伝習所生が世話になったことを感謝し贈られたものであることなどが説明された。千葉県水産試験場で、長年アワビの増殖・種苗の研究を重ねてきた大場俊夫氏は、関澤明清の書簡は、近代水産業発展のうえで布良が果たした重要な役割をうかがわせるものと新発見資料を高く評価した。
語り部「さくら貝」からは庄司民江さんが「布良星」、館山三中2年生の浜田雅子さんが「タコのうらみ」と、ともに布良に伝わる伝承を熱演。最後は婦人会が、踊り「いっちゃぶし」「安房節」を披露。「漁村の民謡は長寿の秘訣」とみんなで踊って閉会した。
考古学からみた古事記と古代房総
〜景行天皇と倭建命(やまとたけるのみこと)東征伝説を中心にして〜
安房歴史文化研究会会長 天野努氏
(房日新聞 2012年10月3日) ⇒記事PDFはコチラ。
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ヤマトタケル伝説に真実味
史書と古墳がオーバーラップ
今年は古事記が編さんされてちょうど1300年にあたる。奈良や出雲、宮崎などではメモリアルイベントがさかんに行われている。この機会に古事記がこの地域について記述した部分と、それに関係するような最新の考古学発掘調査の結果を紹介し、その関連性の有無について考察してみたい。
古事記の中巻、景行天皇の段には房総に関わる記載がある。
天皇の御世に東国の「淡水門」(あわのみなと)を定め、膳大伴部(かしわでのおおともべ)を定めた。また東国征討のために倭建命(やまとたける)を遣わしたが、「走水の海」(はしりみづのうみ)を渡るときに荒波を鎮めるため、后の弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと)が海中に身を投げた‐というくだりだ。
この倭建命の東国征討の話は日本書紀にも書かれている。日本書紀では天皇が上総・淡を訪れたとの記述もあり、そこに磐鹿六雁(注・・高家神社にまつられる料理の祖神)のエピソードが出てくる。ちなみに「走水の海」は浦賀水道、「淡水門」は館山湾とも考えられている。
また東国征討が実在したと仮定すると、その年代は4世紀ごろと考えられる。
さて、その時代の古墳に目を移すと、東国の3世紀の古墳は前方後円墳が大半を占めていたのに対し、4世紀には大型の前方後円墳が出現する。房総では小櫃川、養老川、村田川隆起に集中する。
三浦半島の逗子市・葉山町の境界で平成11年、長柄・桜山1号墳、2号墳という2つの大型前方後円墳が発見された。標高100-120メートルもある山に築かれ、相模湾や富士山が一望できる。ともに壷型埴輪などが出土している。直下の沖積地の集落遺跡からは銅鏡や銅製の鏃(矢じり)、石釧など大和王権と直結するような出土品もあった。
この古墳は交通の要衝に、海からのランドマークになることを意識してつくられたと考えられている。埋葬者は大和王権とのつながりの深い首長と思われ、この古墳が発見されたことで「ヤマトタケルの伝説」が真実味を帯びてきたと私は考えている。
東京湾をはさんだ木更津市の矢那川沿いに手古塚古墳がある。墳丘長60メートルの前方後円墳。今は海岸が埋め立てられているが、眼下に東京湾、三浦半島が望め、海岸から最も近い場所につくられている。
三角縁神獣鏡や、畿内のものとみられる朱の入った布留式の士師器甕などが出土。籠手や銅・鉄製の鏃なども出た。遺物からみて、この古墳は4世紀前半のものとみられている。埋葬者は畿内と強い関係を持った武人と考えてさしつかえないだろう。
姉崎古墳群(市原市)の釈迦山古墳。これは手古塚と同時期か一段古い前方後円墳だが、畿内のものによく似た高杯や、東海地方の「S字甕」が出土している。このように考古学からみると、古事記、日本書紀に書かれている「東国征討」とオーバーラップするような古墳の分布がみられる。
安房はこれまで大きな古墳がない場所といわれてきたが、2年前に報告書がまとめられた萱野遺跡(館山市)の発掘調査では大型方墳(一辺34.2メートル)あるいは前方後円墳(62メートルぐらい)ではないかと言われている、出現期(3世紀ごろ)としては東日本最大の古墳が見つかった。
この萱野遺跡からは伊豆・新島産の流紋岩を使った石器が多く出土している。当時の海上交通をになっていた集落がこの地に存在し、古墳はその海上ルートを支配していた首長の墓と考えられる。
安房では4世紀の古墳は見つかっていないが、5世紀後半のものとしては恩田原古墳(南房総市久枝)や永野台1号墳(同市石堂)などがある。
(本稿は、館山コミュニティセンターで9月30日に行われた安房歴史文化研究会公開講座の内容を要約、再構成したものです)