メディア報道

【房日】140803=5日から「海の幸」オマージュ展

5日から「海の幸」オマージュ展 2会場で複合展示

館山 青木繁の直筆デッサンも

(房日新聞2014.8.3付)

青木繁「海の幸」オマージュ展が5日から、館山市の渚の駅たてやま渚の博物館、同市コミュニティセンターで開催される。青木に影響を受けた現代画家の作品に加え、青木直筆のデッサンなどが展示される。初日には銀座・永井画廊の永井龍之介氏によるギャラリートークも予定されている。

海の幸を描くのに青木が滞在した同市布良の小谷家の復元、保存、公開を目指すNPO法人青木繁「海の幸」会と市、市教委の主催。

オマージュはフランス語で尊敬の意。青木繁に憧れ、会の活動に賛同した現代作家の作品を集め、一昨年から全国各地でオマージュ展を開催し、保存活動の機運を高めている。今回が7回目。

館山の2会場では、青木に影響を受けた現代画家約50人の約70点が展示される。日本芸術院会員の出品もあり、海の幸に描かれた青木の恋人の表情をモチーフにした作品もある。

第1会場の渚の博物館(会期8月31日まで)では、館山の地図を描いた作品など、青木の直筆デッサン10点、第2会場の館山コミセン(同24日まで)では、館山美術会所属作家の作品も展示される。

5日のギャラリートークは午前11時から。テレビ番組「開運! なんでも鑑定団」にも出演する永井氏が、「美術を身近に」をテーマに語る。

23日午後2時からは、美術評論家で成安造形大学名誉教授の金澤毅氏による「芸術は時代を映す鏡」と題したトークもある。いずれも無料で、会場は渚の博物館企画展示室となっている。

【読売】130922=存在消された謎の岬

存在消された謎の岬

遺跡が伝える戦争の記憶=ちば探検隊=

(読売新聞2013.9.22)‥⇒印刷用PDF

南房総市富浦町多田良にある大房(たいぶさ)岬は、神奈川県の三浦半島側に向かって飛び出した長さ約2キロ、幅約500メートルの岬だ。かつて、この岬は世の中からその存在が消されていたと聞いた。興味を引かれ、その理由を探ってみた。

(羽田和政)

岬の付け根に当たる場所で生まれ育った鈴木勇太郎さん(81)は、花の栽培をしながら、岬の案内人を務めている。ほんの目の前にあるのに、この岬に足を踏み入れたのは13歳の中学生になってから。「私の生まれた昭和7年(1932年)にここに陸軍の要塞ができて、それから戦後まで立入が禁止されていたからなんです」

それでも戦前は規制も幾分緩やかだったが、開戦後は列車から岬が見え始めると、強制的に窓を閉めさせられたという。「当時、確か地図にも岬の輪郭だけしか載っておらず、岬内の道や建物などは白く塗りつぶされて一切記載されていなかった記憶がある」と70年前を振り返る。その地図をぜひ見てみたいと思い、地元の民俗資料館や館山市立博物館を当たったが、結局見つからなかった。

数日後、同博物館の岡田晃司館長(55)から「面白いものが見つかった。地図の代わりになるかも」と連絡があり、見せてもらったのは背景のない観光用の絵はがきだった。「安房名所・館山北条海岸海水浴場」と題した写真はがきで、海岸に遊ぶ水着姿の人々の楽しげな様子が写っている。しかし、写真の角度からいって背景部分に見えるはずの山並みや大房岬はきれいに消されていた。検閲元の「東京湾要塞司令部」による「許可済」の文字が入っている。

房総半島南部の館山市や南房総市周辺は、その立地条件や地形から、幕末以降東京湾要防衛の要だった。今も砲台跡や飛行機を隠した掩体壕(えんたいごう)など多くの戦争遺跡が残る。そうした遺跡の保存や啓発活動を行っているNPO法人「安房文化遺産フォーラム」の愛沢伸雄代表(61)にはがきを分析してもらうことにした。

愛沢さんははがきを見るなり、「軍事施設だったからとしか説明のしようがない」と切り出し、同じ放題だった富津岬部分が消された1938年尾「大日本帝国陸地測量図」を見せてくれた。別の地図では木更津航空隊の基地も白く抜かれ、館山航空隊にいたっては、その存在すらない。「機密性の高い軍事施設は戦争が差し迫ると扱いが微妙になり、やがて人々に知られてはならない場所として地図から消される。そうした事実を踏まえ、戦争の本質を風化させないように努めるのが使命」と話す。

改めて鈴木さんに岬を案内してもらった。今は少年自然の家やキャンプ場として、子供たちが自然を学ぶ絶好の場所になっている。その周囲には1921年のワシントン軍縮条約で廃艦となった装甲巡洋艦「鞍馬」の連装副砲を据えた二つの砲台をはじめ弾薬庫や発電所があり、そこから電気を引いて会場を照らした探照灯が置かれていた探照座など数々の戦争遺跡が残る。日露戦争で連合艦隊が艦砲射撃訓練に使った穴だらけの崖もある。

「古くは信仰上の聖地、その後は軍関係の施設になって、近くにありながら出入りのできなかった謎の場所。神秘の岬です」と鈴木さん。子供や若者を案内する際に必ず言い添える言葉がある。「遺跡はあくまで素材。それを見て触れてどう思い、今後にどう生かすかが大切なのです」

【房日】140912*ウガンダ支援続けて20年

ウガンダ支援続けて20年

安房の高校生ら関係者が交流会 館山

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NPO法人安房文化遺産フォーラム(愛沢伸雄代表)は7日、安房地域の高校生らによるアフリカ東部のウガンダへの支援活動20周年を記念する交流会を、安房西高校で開いた。関係者ら40人が集まり、活動を振り返ったあと、記念としてウガンダに寄贈するブロンズ像が披露された。

支援のきっかけは、当時、旧安房南高の教諭だった愛沢代表が、孤児の救済活動を行うNGOウガンダ意識向上協会の代表、スチュアート・センパラさん(57)に出会ったこと。ウガンダでは、内戦でエイズがまん延し孤児があふれていることを知った。

愛沢代表は、生徒らにボランティア活動を提案し、94年に支援が始まった。その後、安房高JRC部を経て、安房西高JRC部へと受け継がれて、支援バザーや募金などの活動が続けられている。

安房南高時代の資金援助を原資に2000年には、ウガンダの首都カンパラ市に職業訓練施設「安房南洋裁学校」が完成。交流の象徴として同南高の校章が掲げられた。

この日の交流会では、節目に合わせて作成した記念誌を、高校生や活動を支えた同窓芳誼会をはじめとする出席者に配布して、活動を説明。活動に関わった卒業生や支援を受けたウガンダの子どもたちの声も紹介された。

活動紹介の後には、20周年を記念してウガンダに贈られる、元南高の美術教師で彫刻家の船田正廣さん(76)が制作した、制服姿の安房南高の生徒立像が披露された。寄贈にあたり、安房西高JRC部から約5万円、館山信用金庫からふるさと応援ファンドとして10万円の助成もあった。

愛沢代表は「小さなことから始まった生徒たちの思いが、人と人をつないで素晴らしい活動になった。20年続いていることに感謝するとともに、今後も続いてくことを願っています」と思いを語った。

【房日】140716=青木繁《海の幸》フォーラム

青木繁《海の幸》フォーラム

布良で誕生した名画を考える

(房日新聞2014.7.16付)‥⇒印刷用PDFはこちら

明治期の洋画家。青木繁の代表作「海の幸」誕生の聖地として館山市布良に残る小谷家住宅の保存運動に取り組む、「青木繁≪海の幸≫誕生の家と記念碑を保存する会」(嶋田博信会長)が27日、南総文化ホール関係者を迎え、「青木繁≪海の幸≫フォーラム」を開催する。基調講演やパネルディスカッションをとおして、明治の漁村で誕生した名作「海の幸」を考える。

青木繁が布良を訪れて今年で110年を迎える。同会の地道な活動により、その節目の年に小谷家住宅の修復工事も始まり、2年間の改修が終わる平成28年春には一般公開も予定されている。とはいえ、保存費用はまだ目標に達せず、引き続き支援を呼びかけるとともに、青木繁の力を借りて館山の地域ブランドに磨きをかけよう、とフォーラムを企画した。

フォーラムは午後一時半から小ホールで。第1部は、海の幸を所蔵する福岡県久留米市の石橋美術館の森山秀子学芸課長が「青木繁を通してみる文学と美術の交流」をテーマに基調講演。第2部では、小谷家当主の小谷福哲さん、「海の幸」会理事で女子美術大学の吉武研司教授、労働大臣認定カラースキャナー1級技能士で「海の幸」複製画を制作した島田吉廣さn、NPO法人安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん、同事務局長の池田恵美子さんがパネリストとして登壇。「明治の漁村・富崎から≪海の幸≫誕生を探る」をテーマにディスカッションする。参加費無料(資料代300円)で、多くの来場を呼びかけている。

また、このフォーラムに続いて8月5日から、渚の博物館と館山コミュニティセンターで、青木繁「海の幸」オマージュ展が開催される。銀座・京都・福岡・田園調布と並んで館山展として開かれるもので、著名な美術家の作品が一堂に会する。

【朝日】140908=高校生、ウガンダの子ら支援20年

高校生、ウガンダの子ら支援20年

安房地域の3校で活動次々引き継ぐ

(朝日新聞2014.9.8付)

高校生、ウガンダの子ら支援

安房地域の3校で活動次々引き継ぐ

安房地域の高校生が、アフリカ・ウガンダの子どもたちの支援を始めて20年。統廃合や校内事情で3校をリレーした活動を記念する「つどい」が7日、安房西高(館山市)で開かれた。

この日、参加したのは約40人。活動を続けている安房西高2年で青少年赤十字部長の進藤美紅さん(16)は「生まれる前からあったのですね」と驚く。さらに「地球の裏の人とつながる活動を引き継ぎます」。ウガンダ支援を安房南高(同市)で始めた看護師の川名麻紀さん(37)は「小さな力でもやるんだ」という気持ちで始めた。20年も続くなんて」と語り、「安房西の皆さんもそんな気持ちで続けてください」と励ました。

安房西高のバザー売上金約5万円などと共に、しない在住の彫刻家船田正廣さん(76)が制作したブロンズ像「安房南高校生徒像」をウガンダに贈ることになった。最初に支援した安房南高は女子高なので、セーラー服姿の立像。船田さんは「ウガンダで身近な所に置き、みんなに手で触れてもらいたい」と話す。

活動が始まったのは1994年。集会を主催した安房文化遺産フォーラム代表の愛沢伸雄さん(62)は安房南高の教諭で、来日していたウガンダ人スチュワード・センパラさん(57)との出会いがきっかけだった。

センパラさんは内戦中に難民キャンプで働き、後に「ウガンダ意識向上協会」を設立して代表に。子どもの教育や健康管理、食糧供給を手掛けている。安房南高校の生徒が贈り続けた募金などで、同協会は2000年、腫とカンパラに職業訓練校を建てた。校名の「安房南・洋裁学校」に感謝の気持ちが表れている。

安房南高が統合された08年、統合先の安房高(同市)の青少年赤十字部に活動が引き継がれ、そこが活動をやめた昨年、今度は安房西高へと活動が移っている。

(田中洋一)

【あさひふれんど】131101*2人の繁(ワシオトシヒコ)

2人の繁

ワシオトシヒコ

(あさひふれんど2013.11.1付)

館山市図書館創立70周年記念の私の拙い講演を無事に終えたが、当日前までの下調べで、意外な事実がわかった。

館山は、房総半島の南端に位置する常春のような地。戦前には結核療養所もある静養先として、戦後から現在へ至っては主に観光景勝地として、多くの芸術家、文化人たちが移住したり、往来したりしている。そのなかでも私がもっとも話題にしたいのが、二人の「繁」だ。

一人は、いわずとしれた日本の重要文化財「海の幸」を布良の小谷家で描いた明治時代の早逝の洋画家、青木繁。もう一人が、若山繁。本名ではまったくわからないだろうが、雅号的にはなんと、あの〝漂泊の歌人〟若山牧水なのである。

牧水は、青木繁の三つ歳下。旧知の間柄ではないけれど牧水は自身の何番目かの歌集に、青木の作品を挿画として使いたいと第三者を通し、申し出ている。実現しなかったものの、「海の幸」の舞台の布良をぜひ観たいという願望が生じ、1907(明治40)年、複雑な関係の恋人園田小枝子を伴い、訪れている。その折に詠んだ作品三首の白御影石の歌碑一基が、隣接する白浜町の根本海岸の国道沿いに立っている。

は、牧水の代表作だけでなく、私自身の処世の姿勢を方向づける光ともなっている。

それに。この大らかな歌いぶり。

一方の青木も、すでに絵描き仲間たちと布良をめざし、恋人の福田たねも加わっている。二人の「繁」にとっても館山は、まさしく、恋の炎の地だったのだ。

(あさひふれんど千葉 2013,11,1)

【房日寄稿】140722*青木繁《海の幸》フォーラムへのお誘い

青木繁フォーラムへのお誘い

青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会

(房日新聞2014.7.22付)

今年は、画家・青木繁が房州布良を訪問し、《海の幸》を描いてから110年目にあたります。その節目に念願がかない、青木繁《海の幸》誕生の家・小谷家住宅(館山市指定文化財)の修復工事が始まることになりました。小さな漁村のまちづくり活動として10年の取り組みになりますが、この間、多くの皆様にご支援をいただいてきたことを心より御礼申し上げます。

まず、小谷家のご家族におかれましては、私有財産にもかかわらず「地域活性化と日本の美術振興に寄与できるなら、古い我が家をどうぞ使ってください」というご英断をしてくださいました。これから2年間の修復工事が終われば、平成28年春に築120年の母屋がよみがえって一般公開に供することになります。ご家族の住居は物置を増改築した小さな建物に移っていただき、たいへんなご不便をおかけいたします。改めて感謝と敬意を表するとともに、市民の皆様にも深くご理解いただきますようお願い申し上げます。

また、平成22年に発足したNPO法人青木繁「海の幸」会におかれましては、大村智理事長様をはじめ全国の著名な画家や美術関係の皆様が、小谷家住宅の修復基金のために力を尽くしてくださっています。東日本大震災で寄付が困難になりましたが、全国巡回で青木繁「海の幸」オマージュ展を開催し、売上の一部はチャリティ基金と納めてくださっています。オマージュとは尊敬を意味するフランス語だそうですが、青木繁《海の幸》誕生の聖地として小谷家住宅を後世にのこしたいと思ってくださることは、館山市民として本当に有難いことと感謝しております。3年目となる平成26年のオマージュ展は、銀座・京都・福岡・田園調布と並んで、たてやま渚の博物館と館山市コミュニティセンターを会場に館山展が開かれます。ご高名な先生方の作品が一堂に会するばかりでなく、伝統ある館山美術会の皆様が協賛される素晴らしい機会として、多くの皆様にご鑑賞いただけることを嬉しく思っています。

小谷家住宅の保存事業はまだ道半ばでございますが、館山市ふるさと納税(非課税となる寄付制度)や名画の購入を通じて、引き続きご支援を呼びかけているところです。日本を代表する青木繁《海の幸》の力を借りて館山の地域ブランドに磨きをかけて、子どもたちの未来に誇りを手渡せるよう、末永くお力添えいただけますよう重ねてお願い申し上げます。

【東京】140518*青木繁が逗留「小谷家住宅」公開目指し修復へ

名画描いた家残る〜青木繁が逗留「小谷家住宅」 公開目指し修復へ

(東京新聞2014.5.18付)

明治期に夭折した洋画家青木繁が逗留した館山市布良の「小谷家住宅」が、2016年4月の一般公開を目指し、本年度から2年をかけて修復されることになった。代表作「海の幸」が描かれた家の存続を願う関係者の熱意が結実しつつある。

(北浜修)

小谷家住宅は約90平方メートルの平屋で築約120年。小谷家は江戸時代から戦前まで、布良の網元だった。経緯は不明だが、青木は1904(明治37)年夏、知人らと二カ月ほどこの家に滞在。サメを担いで海岸を行く漁師たちを描いた日本洋画史上の傑作「海の幸」を残した。

小谷家住宅は2009年、館山市有形文化財に指定されたが、老朽化で屋根など傷みが激しい。現在の当主小谷福哲(ふくあき)さん(63)と、市民グループ・青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会(館山市)、NPO法人青木繁「海の幸」会(川崎市)の三者が連携し、保存へ動いてきた。

現在、母屋の住宅には先代当主、栄(さかえ)さん(90)夫妻が居住する。計画では、工事に伴い、母屋に隣接する別棟を管理棟として改築し、先代夫妻は転居する。母屋は「青木繁『海の幸』誕生の家・小谷家住宅」として一般公開する。

母屋の修復事業には約2,800万円がかかる。このうち半分の約1,400万円について、館山市の指定文化財保存修理事業補助金や、ふるさと納税を利用した小谷家住宅保存活用支援事業補助金で資金のめどが立ったことから、修復工事に踏み切った。

残りは、三者が今後も地元有志や各地の青木繁ファン、画家らに支援を求めていく。管理棟への改築にも約1,800万円かかるが、NPO法人の支援のほか、小谷家の資金などを充てる。

福哲さんは「青木繁が『海の幸』を描いた家を、次代を担う人々のためにも残して、見せたい。一般公開後は、全国から足を運んでいただければ」と期待する。

住宅から徒歩数分の所には「海の幸」に描かれた海岸を見下ろす高台があり、1962年に建てられた青木繁没後50年の記念碑がある。誕生の家と記念碑と一体で、館山の新たな観光スポットにもなりそうだ。

青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会事務局の池田恵美子さん(53)は「建物の維持や管理、公開など、修復後の運営にも多くの方々の支援をいただきたい」と呼び掛けている。

【あおきしげる】 1882(明治15)年、福岡県久留米市生まれ。東京美術学校(現在の東京芸術大)を卒業した22歳のとき、恋人の福田たねや友人と館山市布良に滞在し、「海の幸」を描く。絵の中に出てくる白く美しい顔の人物はたねがモデルとされる。たねとの間に1男をもうけたが、結婚はしなかった。天才画家と評される一方で、放浪し画壇を批判するなど不遇の時を送る。1911(明治44)年、28歳で病没。

【読売】140520*名画「海の幸」誕生の家「小谷家」修復公開目指す

名画「海の幸」誕生の家「小谷家」修復公開目指す

「青木繁 滞在当時」の状態に

(読売新聞2014.5.20付)

明治の洋画家・青木繁(1882〜1911)が名作「海の幸」(国重要文化財)を描いた家として知られる館山市布良(めら)の同市指定有形文化財「小谷家」が修復されることになった。地元が保存運動に動き、2016年4月の一般公開を目指す。

(羽田和政)

小谷家はマグロはえ縄漁で代々船主を務めるなど集落の指導的役割を果たした家柄。東京美術学校(現・東京芸大)を卒業したばかりの青木が小谷家を訪れたのは1904年(明治37年)7月。母屋に滞在した1か月半の間に描きあげたのが「海の幸」だ。

裸の男たちがサメを背負って砂浜を歩く作品(縦約70センチ、横約182センチ)は小谷家の戸板の大きさとほぼ同じで、絵の下敷きに使ったといわれる。

江戸時代に建てられた母屋は寄せ棟造りの平屋で、床面積は約93平方メートル。明治に2度火事に遭ったが、1890年頃に再建され、青木はこの家で過ごした。1962年には、小谷の近くに青木とのゆかりを紹介する記念碑も建てられた。

保存運動は、地元の「青木繁誕生の家と記念碑を保存する会」に加え、日本美術界有志でつくる「NPO法人 青木繁『海の幸』会」などによって進められた。館山市は2009年、「保存状態のいい明治期の貴重な建造物であることに加え青木繁の名作誕生の場として文化的意義が高い」として文化財に指定した。

さらに市は12年度から、ふるさと納税で「小谷家の保存活用が目的」として寄付行為をした場合、税控除対象にするなどの支援制度を決定。母屋の半解体工事や別棟の建設など全事業費約4600万円のうち、寄付や市の支援などで約2700万円のめどが立ったとして、修復が決まった。残りは、今後も寄付を募るなどして集める予定だ。

小谷家の現当主は小谷福哲(ふくあき)さん(63)で、母屋には先代夫婦が住んでいたが、転居。解体工事が4月末から始まり、傷んでいる場所や増築された部分を改修し、できるだけ青木がいた頃と同じようにする。

小谷さんは「今年は青木が我が家に滞在して110年に当たる。『海の幸』誕生の家が残せることに誇りを感じる。地域の活性化につながることも期待している」と話している。

【房日】140418*「海の幸」小谷家住宅、修復工事へ

「海の幸」描いた小谷家住宅 念願の修復工事着工へ 館山

保存活動で資金ねん出

工期2年 完成後に一般公開

(房日新聞2014.4.18)

近代日本美術史で最も著名な洋画家の一人、青木繁が代表作の「海の幸」を描いた館山市布良の小谷家住宅を当時の姿に復元し、一般公開するための工事がスタートする。小谷家と同住宅の保存活動を展開する2つの市民団体が15日、記者会見で明らかにした。工期は27年12月までで、翌28年4月に公開を始める計画という。

小谷家住宅は明治期に建てられた木造瓦ぶきの平屋。明治37年夏、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業して間もない青木が友人を伴い滞在し、海の幸を描いたことは広く知られている。

「小谷家なくして海の幸の誕生はなかった」として、小谷家の小谷福哲(ふくあき)さん、地元の呼びかけで発足した青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会、日本美術界の有志でつくるNPO法人青木繁「海の幸」会の3者が、保存・公開に向けた活動を展開。平成21年10月に同住宅は市の有形文化財に指定された。

同NPOの積極的な支援をはじめ、館山市が予算化した文化財修理補助金とふるさと納税を活用した支援基金の補助金により、全体事業費4602万円のうち2660万円のめどが立ったとして工事に着手する運びとなった。

記者会見で経緯を説明する小谷福哲さん(右)

工期は2年で、まずは現在も同住宅で生活する先代夫婦の転居先として、隣接する倉庫を増改築。その後、傷みの激しい屋根を解体して修復、昭和40年ごろに建て増した西側の台所や風呂などを撤去して、建築当時の姿に戻すという。

「目標額の半分のめどが立ち、修復工事に着手することになった。多くのみなさんから協力をいただき感謝したい。わが家を青木繁の『海の幸』誕生の家として後世に残せることを光栄に思う」と福哲さん。

保存する会の嶋田博信会長は「念願の工事が始まる。一般公開で全国から大勢の人が訪れ、布良がにぎやかになってくれれば」と、期待を膨らめる。海の幸会の吉岡友次郎事務局長は「まだまだ資金的には苦しいが、修復・公開に向け動き出してうれしい」などと話していた。

【写真説明】

①当時の姿に復元される小谷家住宅=館山

②記者会見で経緯を説明する小谷福哲さん(右)